第三章

第7話 太古の遺跡

 東の空が白み始めると直ぐに出発した。今はもう空全体が淡く優しい桃色から、いつもより少し薄い青色に移り変わっている。それでも深い山の中までは未だ太陽の恩恵は届かず、夜の気配がそこかしこに残っていた。

 ハルトは乱れた呼吸で汗を拭い、重たい足を懸命に動かして、急な登り坂の先を見上げた。そこには、キィナの背中がある。平らな地面よりもむしろ進みやすいと言わんばかりに、でこぼこした急斜面をすいすいと登っていく。思わずため息が出る、鮮やかな身のこなし。ハルトはぼんやり眺めてしまっている自分に気がついた。

 頭を振って、足を前に出す。

 キィナはすごい。

 ハルトは心からそう思う。

 彼女は本当は、人一倍、臆病なのだ。


 キィナは地上にある険しい山の麓の、密林の奥に集落を構える部族で生まれた。生まれながらの資質もあって、幼い頃から戦士として育てられ、ずっと鍛錬を続けてきた。

 それなのに、キィナは戦いが怖くて堪らない。

 訓練では良い成果が出せる。同年代では誰よりも抜きん出ているくらいに。大人に交じっても遜色ないくらいに。

 けれども実戦では、技が鈍る。ほんの僅か、身がすくむ。——ほんの僅か。それが命取り。キィナは身に染みて、目に見えて、それを知っていた。

 だから、お告げがあったとき、自分が選ばれるだなんて考えもしなかった。部族の誰もがキィナの実力を認めながら、その性格もまた心得ていたから。それがどうしてか、名指しされてしまった。

 本音を言えば、行きたくなんてなかった。

 自分でも本当に情けないと思う。

 でも、大地の何処かならともかく、ぜんぜん知らない、情報も少ない空の島。何があるのか、どうなっているのかもまるで分からない。そんな場所に、たった一人で行かなければならないなんて……。イヤでイヤで、仕方なかった。

 しかし、選ばれてしまったのだ。

 選ばれてしまったからには、しっかり、やり遂げなくちゃならない。とも思う。それは責任というより----信頼。そう、信頼に応えるために。キィナは成し遂げなければならないのだ。必ず。絶対。

 ……でもでも、わたしにできるかな……——。

 使命だから。

 その一言にたくさんの想いをせめぎ合わせて、キィナはここにいる。


 今だって、キィナはこの先に待ち受ける謎の遺跡や、魔神や、魔法使いという脅威を、頭に過ぎらせては立ち止まりそうになっている。というか実際、足を止めて振り返る。それはもちろん遅れるハルトを待ってくれているからなのだが、半分くらいはそういう気持ちをなだめるためだったりもした。

 そんな風なのに、

「わたし、がんばるから。

 絶対、食い止めよ。

 それでハルトの大事な物も、取り返そうね」

 そう言って、出掛ける前、ハルトの手を取って励ましてくれた。両手を握るその手に、必要以上の力が籠もっていた。職人のようにしっかりした手の平。硬い声。キィナの暖簾に隠れた目が、ハルトではないどこか一点を見据えていた。

 キィナは逃げ出したいくらい怖くても、そうやって、真っ直ぐ、立ち向かっていく。

 だからハルトはすごいと思う。



 『やはりこの島はとても豊かだな。

 山には豊富な水瓶があり、土も肥沃で作物がよく育つ。これほどの森を有する島は、なかなかに珍しい』

 赤い翼が朝の光の射し込む濃緑の森を渡って、ハルトのやや前方にある岩にするりと留まった。ハルトは息を整えるために足を止めて、その合間に、群青色の小さな瞳をちらと見た。ふと、疑問がわき上がる。

「なんでア——」

 ——アルグは、そんなに一所懸命なの?

 言い掛けて、止めた。

 どうしてなんだろうか?

 どうしてこんな鳥の姿にされてまで、独りきりで、この件に関わっているのだろう。何の為に、何がしたくてこうしているのだろう。

 キィナの理由は分かった。彼女は彼女なりの事情があって、世界の為よりむしろ自分の為に戦っているのだと思う。

 では、アルグは?

 魔神が復活して、世界が滅びたら大変だから? それも半分くらいは理由のうちなのだろうと思う。けれどハルトはなんとなく、それだけではない気がした。

 聞けば分かる。答えてくれなくても。でもそれは、ずるい。

『ん?』

 アルグが小さな頭を傾けて、ハルトを見つめ返していた。少しだけのつもりが、凝視していたらしい。ハルトは一度開いた口を閉じて、ふるふると首を横に振る。それからまた、地面に視線を定めて歩き始める。頭の横を、アルグが不思議そうに付いてくるのを感じながら、別の言葉を探して代わりに言った。

「なんであの人たち」

 思い浮かんだのは港にいた魔女の子と、長椅子に腰掛けていた黒い服の男の姿。その、眼差し。

「蘇らせたいのかな」

『さてな。力を手中にして悪事でも働こうというのか。それともどこぞの覇権でも握ろうというのか。どうせろくな事ではないさ。

 できるかどうかは別の話だが』

 呆れているような、忌々しいような。アルグとしては、なんとも複雑な心持ちのようだ。翼を鳴らして次の岩に着地する。大分飛ぶのに慣れたらしかった。

『ともあれ。まずは穏便に、話し合いで解決しようじゃないか。思い違いや行き違いが無いとも限らない。案外、説得すれば聞いてくれるかもしれないぞ』

「はなしあい……」

 どの程度本気なのか、離れているので今のハルトには推し量れない。ハルトの方も、呟きながら既に別のことに想いを馳せていた。

 時間が経って落ち着いてくれば、ハルトにだって、父が悪党や悪い状況を作った元凶などと言われてしまう理由も、なんとなく理解できる。

 父が研究するまで、神話で語られるような古い時代は、歴史学者にもほとんど顧みられてこなかったそうだ。神話はお伽話で、魔神は架空の存在だった。

 それを、オルレイン・ザラトールは本当にあった事、実在するものとして、学術的に証明してしまった。——細かく言えば、まだその一歩手前だったらしい。アルグが口うるさく注釈していたのを思い出す。

 魔神は本当にいるのなら、絶大な力を持つ化物だ。もし現世に復活すれば、世界が大変なことになる。それはハルトにも容易に想像できる。

 だから、悪い事を考える人たちが、それに興味を持つのも当然だった。その強大な力を手に入れて利用しよう。そう考える人たちがたくさん現れて、オルレインの死後、まるで宝探しのような争奪戦が始まったらしい。とはいえ、それはあたりまえに簡単な事ではなく、一向に成果が上がらないので今は下火なのだとか。

 それでも、世の中に不穏の種を遺したのは事実で。そういう意味で元凶、悪党などと呼ばれてしまう。

「…………」

 なんだかなぁ、とハルトは思う。

 ハルトには死んだ人の気持ちは分からない。だから母やおじさんの語った人柄信じて、いろいろと想像を巡らせてみるだけだ。

 父にしてみれば、それは純粋な探求心だったのではないだろうか。ただ知りたかっただけ。

 ——それなのに……。

 胸の辺りが、もやもやする。

 気持ちが悪くて、ハルトは服を握りしめ、山の上方に目を向けた。

「……魔神て、本当にいるのかな」

 誰に聞かせるつもりでもなかった囁き。アルグが重たそうに体を持ち上げ、羽ばたきながら律儀に返事をした。

『どうだろう? 実物はまだ誰も見ていないから、確かだとは言い切れない』

「そっか……」

 いつの間にか、前を行くキィナとずいぶん距離が開いてしまっていた。キィナが坂の上で足を止め、跳ねるように手を振って急かしている。

 ハルトは片手を上げて返事をして、慌てて歩を速めた。曖昧なもやもやは、それでどこかへ行ってしまった。




     ▽ ▽ ▽ 


 それからさらに山を登って。

 体力に特別自信のあるわけではないハルトが、密林育ちのキィナの歩調に引きずられてすっかりくたびれきった頃。やっと暗号の地図が指し示す場所まで辿り着いた。

 そこは正規の登山道から外れた道無き道の先にあり、鬱蒼と茂る草木にひっそりと隠されていた。たぶん、言われなければ気に留めず、通り過ぎてしまっただろう。

「……——」

 ——想像と違う。

 ハルトは膝に手を付いて、頬を流れる汗を拭い息を整える。それから身軽に丈の長い草地に分け入るキィナや、飛び回るアルグの背を追って、朽ち果てた遺跡に目を向けた。

 ——はぁ……、と内心息が抜ける。

 魔神が封印されている場所だというから、もっと「ばーーん」となって「ででーーん」としているモノなのかと思っていた。具体的には、巨大な石を見上げる程たくさん積み上げ、そこに魔法的な装飾を施して、全体に蔦や苔が絡みついているような、そんな立派な神殿を思い浮かべていた。

 というのも、そこまですごいものではないものの、山のもっとずっと下の方には、人が住んでいた家のような石造りの遺構や石畳の痕跡がはっきりと分かる遺跡群があるからだ。そこは観光の名所というか、気軽に立ち入れる公園のようになっている。

 ここは違う。

 言葉を探すのが難しい。

 けれどもそんな有様が、ハルトをがっかりさせたかと言えば、そうではなかった。ハルトはそれらを見回しながら、そっと足を踏み入れる。

 昔は——大昔は、何か建物があったのかもしれない。その名残のような大振りの石が、雑然と転がっている。それもその量からすると、大きな建物ではなさそうだった。

 一つ一つに目を留める。

 人が訪れないせいで気ままに繁栄した植物の間に、こちらを威圧するような厳めしい顔付きの、不思議な生き物を象った彫像を見付けた。高い背丈の草に隠れて、倒れて壊れたのがもう一体。あちらでは、木立に紛れるようにして、円筒形の柱が何本も、規則正しく等間隔に並んでいる。それからその手前には、何かの儀式でも行ったような、四角い石の祭壇。

 ここには、手軽に行ける観光地とは違う、絵の中でしか見たことのなかった景色、そのものがあった。

 ハルトはアルグが腰を落ち着けた祭壇に手を付き、まじまじと見つめる。石の側面に、彫刻がなされていた。円柱にも恐い顔の彫像にもある。長い年月で風化して、模様が曖昧になってしまっている。そのぼやけた溝を、指先でなぞる。

 ——どんな図だったんだろう。難しくて、細かくて、きれいそう……。

『誰もいないようだな』

「変わったものは何も見えないよ」

 アルグのつぶやき。

 中心に立って、ぐるり周囲を見渡していたキィナもまた声を上げる。

 ——そうだった。

 ここに来た目的を思い出す。ちょっとばつが悪い。一呼吸置いてから、ハルトはアルグを見上げた。

「魔神がいる?」

 アルグは嫌そうな眼差しを返す。

『私に聞かれてもな。オルレイン曰く、ここにあるのは「世界の秘密」。

 そもそも、魔神の一部そのものが、こんな野晒しの場所にあるとは考えにくいぞ。ここだとすれば、例えば封印されている場所に続く入り口のようなものとか——』

「あれ?」

 奥にある円筒形の柱に目を留め——ここに来てもまだ分厚い前髪で目を覆っていて、非常にうっとうしそうなのだが、キィナが再び声を上げた。軽やかに手前の石を飛び越え、近付く。下から上まで、じっくりと顔を向けた。

「この柱、ちょっと変」

「「なにが?」」

 通訳するまでもなく、ハルトとアルグの言葉がぴたり重なった。

 キィナが見ているのは、何本も立ち並ぶ柱のうちの一本。用途は不明。元から柱だけで立っていたようだ。表面の彫り模様がそれぞれ少しずつ違う。だからといってその一本だけが他の柱と格別違うとも、ハルトには見受けられなかった。

 他の柱も丁寧に見て確かめてから、キィナは初めの一本と、その隣のもう一本を躊躇いがちに指さした。

「これとこれ。

 なんていうのかな。力の波みたいなものが、すこーしだけ見えるの。ほんとうに微かで、目を凝らさないと分からないくらい」

 そして、ハルトたちを振り返る。揺れる前髪の隙間にある黄色い瞳が、瞬きする。

「あ、だれか来る」

『! 隠れろ!』

 アルグの行動は素早かった。

 祭壇から飛び立つが早いか、大きな翼でハルトとキィナの頭を小脇にするように滑空し、手頃な岩と茂みの陰に強引に押し込む。力強いわけではないのだが、勢いとわさわさする羽に抵抗する暇もなかった。

 ハルトは草の地面にまともに転がった。崩れて小さくなった石が隠れていて、けっこう痛い。翼を避けつつ口を開く。

「どうして——」

『シッ!』

(見つかったら逃げられる! それくらい察しろ!)

 疑問は翼で口元を叩かれて止められる。声に出さない叱責に、ハルトもまた無言のままこくこく返事をする。

 考えるまでもなかった。こんな所までわざわざやって来るのは、野生動物でなければ〈鍵〉を奪ったあの魔法使いたちくらいだ。

 ハルトは背中を丸めて、自分の両手で口を塞いだ。いよいよ、で息が詰まる。鼓動を意識する。体を小さく縮めたまま、石の隙間から向こう側をのぞき見た。

 しばらくして——森の奥から現れたのは二人の人間。先を行く一人は、高いとんがり帽子に長い黒髪の女の子。昨夜宿を襲った魔女、ヴァイオレットに間違いない。

 もう一人は、黒い外套を着込んだ痩身の男。日差しを嫌うかのように、ここでもすっぽりと頭巾を被っている。その出で立ちは、森の中にあって、まるで影。ハルトには見覚えのある、港の広場にいたあの男だ。

(二人か……)

 緊張漂うアルグの「声」。間を挟んで茂みを睨むキィナが、前髪の下で少しばかり眉をしかめて、目を擦る。

 ヴァイオレットが遺跡に気付いて、それぞれを見渡した。

「ギイド様。ここがそうなのですね。

 結局なにもありませんでしたね」

 あちこちに向けられる視線は、遺跡への興味ではなく敵を警戒してのものだった。目尻に桃色を差した眼差しが、一瞬、ハルトたちのいる茂みを通過して、ぎくりとさせられる。何事もなく、魔女は主を振り返った。

「入り口はどこにあるのですか」

 問われた黒い男——ギイドは、少女どころか遺跡にさえ少しも目を留めなかった。変わらぬ歩みで草をかき分け先へ進み、少女も祭壇も素通りすると、キィナが見付けたあの円柱の前に立つ。

 その背を追って、ヴァイオレットが駆け寄る。

 男は懐から何かを取り出した。手元がちらと見える。楕円の透明な石。魔人の鍵。お母さんの形見。それが二つ。

 ——ふたつ?

 手の中にある飾りは、ハルトが見慣れた桜色と、初めて目にする瑞々しい若草色の、何故だか二つあった。

「扉もそれで開くのですね」

「まあ——待て」

「あ」

 気付いても、遅かった。

 視界の端で、影が蠢く。

 風で木や草が揺れたのではない。それは石や自分たちの影。

 キィナがさっと地を蹴り、アルグが羽音をさせて舞い上がる。

 咄嗟に振り返ってしまった。

 ハルトだけが取り残される。

「!」

 目の前にあったのは、真っ黒い紙のような、薄っぺらな鋭い手。それがハルトのうずくまる暗がりの地面から、天に向かって生えていた。

「わっ! わわわわ……」

 そして気付くと、ハルトの足は地面から離れていた。猫の仔のように首根っこを摘み上げられている感触がある。これはさすがに目に見えて慌てる。慌てているように見えるはずだ。ハルトが手足をじたじたと動かすうちにも視界はどんどん高くなり、近くにある木のよく茂る葉と同じくらいになっていた。アルグの赤い翼が目の前を横切る。

「あ! あなたたち!」(やっぱりギイド様の仰った通りだった!)

 見れば——そして後悔する。血が下がる高さ。足下に、飛び退いたキィナがびっくりした顔で見上げているのが見える。騒ぎに振り返ったヴァイオレットが、声を上げているのも見えた。

 そして、ゆらりと動く「影」。外套の裾をひらめかせて、ギイドが振り返る。心底どうでもいいものを見る冷めた目で、宙にいるハルトをちらとだけ見遣って、空いた指先を軽く跳ねさせる。

 すると影でできた「手」は、ぽいっとぞんざいにハルトを投げ捨てた。

「ッ!」

 ——落ちる!

 心構えもできなかった。

 勢い地面を転がって、ハルトは祭壇の近くで止まる。強かに全身を打った。うめき声が出る。とても直ぐには起き上がれない。イタい……。

 キィナがすばやく駆け寄って、手を貸してくれる。アルグがもったいつけて、わざわざ真っ直ぐ上空から、祭壇に降り立つのが目に入った。

『やっと見付けたぞ! 影の魔術師、サウザング・ギイド!

 さんざん手間を掛けさせてくれたな! 私をここまで出し抜くとは。天晴れとしか言いようがない隠密力、情報収集力。無名なのが不思議なくらいの使い手だ。が、それもここまで! 今日こそ観念してもらおう!

 さあ、〈鍵〉を渡せ!』

 わさわさっ、と翼を広げて啖呵を切る。

 なんだか、悪者みたいな口上だった。

 ハルトは祭壇に手を付いてなんとか体を支え、そこからほんの少し顔をのぞかせて、ぴんと冠羽をそびやかせて胸を張る鳥に、そんな感想を抱く。それから怖ず怖ずと、その先にいる魔法使いの二人組に視線をのばした。

 相変わらず、頬に目立つ涙の印を描いているヴァイオレット。主を庇うように少し前に立つ姿は、些か緊張しているようだ。

 そして、その隣の男。

 年齢はいくつくらいなのだろう。近くで見ると、ギイドの痩せて血色の悪い顔は、不思議と若くも年老いても見えた。整って上品な衣服と、頭巾の隙間から流れる黒く長い髪がちぐはぐに見えて、正体を掴ませない不思議な印象を与えている。

 不意に、目の端にいるアルグが鳥独特の動きでぴょんと跳ね、体の向きを変えた。

「ぶっ」

 その赤い翼でもって、ハルトの顔を叩く。痛くはない。ただ羽毛がわさっとしている。アルグはそのまま、顔を押さえるハルトを乱暴に扇ぎ始めた。

『少年! 通訳!』

「……必要なんだ」

 ついつい忘れてしまう。

 やはりというかあたりまえというか。偉そうな口を利いていても、普通の人には——魔法使いにだって、アルグの言葉はギャーギャー喚く鳥の鳴き声にしか聞こえない。『もうこのやり取りもいちいち鬱陶しいぞ』と、世話をかけている当人に呆れられてしまう。

 とはいえ。

 ハルトはぷんぷんする鳥と向こうで静観している二人組を順に見て、表情を曇らせた。

「ぼくが言うの?」

『話しかけたくらいで取って食われたりしない。はずだ。さあ、胸を張って!』

「…………」

 ハルトは難しい顔で口を結ぶ。

 アルグが言うように、彼らに話しかけるのだって充分嫌ではあるけれども。躊躇われる理由の大半は、むしろその内容というか——。

「……っく、く」

 ハルトが逡巡しているうちに、喉の奥を詰まらせるみたいな低い笑いが、微かに届いた。

(下らない)

 目を上げる。ギイドが口の端に浅い笑みを浮かべていた。

「アマランジル・アルグカヌク。

 こんな所でお目にかかれるとは、光栄だな」

 頭巾の下で顔を上げる。うずくまる影を凝り固めたような黒々とした瞳は、言葉とは裏腹に、少しも笑っていなかった。その声さえただただ陰鬱で、重々しいというより寒々しい。

 その人が口を開くだけで、空気が変わる。

 そんな気がして、ハルトは思わず凍える体を小さくする。

 アルグが怪訝に首を傾げた。

「——不思議か?

 もちろん、こうして顔を合わせるのは初めてだが。オレは貴殿の魔力の波長に覚えがあってね。直ぐに分かったのさ」

「まさか本当に、鳥にされているだなんて。

 すっかり油断させられましたわ」

 横にいるヴァイオレットも、警戒の色濃く菫色の瞳を険しくしてアルグを睨む。

 ——あれ?

 今度はハルトが首を傾げて、傍らのアルグを見た。

「呪い、この人たちじゃない?」

 アルグの背中が、ぎくりと細まる。

 ヴァイオレットが杖を持たない方の手を己の腰に当て、黒髪を揺らしてハルトに目を向けた。

「何を言っているの?

 そんなはずないでしょう。できれば関わりたくもないのに」(わたしたちでは捕まえるのだってきっと無理)

 内心のため息。そんな心持ちは表に出さず、魔女ははっきりと告げた。

「鳥の姿にしたのは魔法院よ。

 かつて賢者と称えられた偉大な魔法使いも、そうなってしまっては形無しね」

 ハルトは瞬きする。

 おや? と思う。また騙された?

 あの時、アルグはなんと言って説明したのだったか。夕暮れの会話を思い返す。嘘は吐いていなかった気がする。でも言われてみれば、「悪者たちが」とは言わなかったかもしれない。話の流れで、ハルトがそう思い込んだだけだ。

 あれが、初対面だった。確かにハルトは自分の才能について教えた。それだけで、アルグはまんまと対応してみせた、ということだ。母と同じように、雄弁に語ることでそれ以上深く探られないよう壁を作って、誤魔化した。

 単純に、すごいと思う。

 けど、なんで?

 疑問が残る。

 ハルトがアルグに向き直って口を開くより先に、その鳥が「ジェーー」と一声鳴いた。

『そんなことはどうでもいいッ!』

 翼を大きく広げて振り払う。ハルトを鮮やかに騙してみせた同じ鳥とは思えない、慌てっぷりだった。無理に話題を修正する。

『少年! 通訳だ!

 おまえたち! どうせ魔神の強大な力を手に入れ、その力でもって私腹を肥やそうなどと企んでいるのだろうが、そんなことは不可能だ! 魔神を甘く見るな! ヤツの力はそんなものではない!

 大人しく諦めて、その〈鍵〉を私に渡すのだ!』

「——て、言ってる」

 ハルトは渋々、アルグが言うのを聞きながら、言葉をそのままに、その語気や身振りまでできるだけ真似て言ってみる。

 アルグの剣幕は本物なものの、それが伝わるだろうか。かなりなところ凄みに欠けるその様に、ヴァイオレットが不憫な眼差しを寄越すのが、なんだか悲しい。ギイドの変わらぬ冷ややかさがいっそう責め立てるようで、——それが見た目の滑稽さのせいではないと分かっていても、ハルトは居たたまれなくて、また祭壇に隠れるように引っ込んだ。

(下らない)

 ギイドは鼻先であざ笑う。

 ハルトに僅か視線を投げかけてから、言った。

「どうやってそそのかしたのか知らないが。魔神を復活させたがっているのは、そっちも同じだろう」

『…………』

 鳥の見た目ではその変化は読み取りづらい。ハルトにはアルグが顔をしかめたのが分かった。

 ハルトは透明な瞳をぱちくりとして、その言葉を聞き、アルグに視線を滑らせた。ギイドの傍らにいる魔女が、呆れに眉を寄せる。

「あなた、ザラトールの息子のくせに、なんにも知らないのね。

 いいわ、教えて上げる。

 そこにいる鳥もね、あなたのお父さんと同じ、世界三大悪党の一人なのよ」

 ハルトはさらに、目をぱちくりとさせた。

「ただの学者と並べるのもどうかと思うわ。

 表立ってやった事は大したことないのだけど、その危険性も質の悪さも遥かに上。

 そう……有名なところでは、現存する神器を全て壊したってことかしら。それから三大悪党と呼ばれる切っ掛けになった、要人の暗殺未遂。大観衆の面前でやってのけて、逃げおおせたっていうのだから、すごいはすごいのかもしれないけれど」

 ハルトはアルグの後ろ姿を盗み見た。

 アルグは微動だにせず、何も言わない。

 ヴァイオレットは優雅に腕を組むと、付け加えた。

「アマランジル・アルグカヌクは、史上最高の魔法使いに違いはない。でもそれが好き勝手に力を使って、野放しにされているなら、ただの化物よ」

 彼女に悪意はなかった。だから話す言葉は感情の乗らない単調なもの。ただの親切心で、自分の知識を教えてくれているだけ。しかし艶めく紅い唇から発せられた最後の言葉は、ハルトの胸に、ずしりと響いた。それだけその表現が、彼女にとって偽りのない真実だと告げていた。

 ハルトは大人しく座っている鳥の背を見つめる。

 それに気付いていながら、アルグはしれっと嘴を開いた。

『未遂だ。

 魔法使いは死にかけてなんぼ。

 ナマケモノどもに活を入れてやっただけのこと。それを大騒ぎする方がどうかしている』

 認めた。

 全面的に認めた上、開き直って、悪びれない。

 見事というか潔いというか……。ハルトは通訳したものか迷って、思わずヴァイオレットを見る。魔女が当然そうするものとうなずいて視線を返すので、ハルトは仕方なくそれを口にした。

『私としたことが、なかなか尻尾を掴ませないキミらを追うのに夢中になりすぎて、不覚にもこちらの方が魔法院の追っ手に捕まってしまったのだ。

 連中、世界に危機が迫っているとせっかく教えてやったのに、まるで聞く耳を持たない。だからさっさと逃げ出してきた』

「けっこう悪いヒト?」

 さっきまで横で黙って話を聞いていたキィナが、首を傾げてハルトを見る。ハルトは顔を見合わせて、少し考えてから——やっぱり首を傾げて肩をすくめた。

 その様子を肩越しに窺っていたアルグが、「グェッ」と短く声を上げる。

『少年にそんな反応をされると、けっこう傷つく……』

 嘴の中でもごもご言う、独り言。しょんぼりと肩を落としてみせる。どうやら、本音のようだった。

(下らない)

「少し黙れ、ヴァイオレット」

「! 申し訳ありませんっ」

 それまでの平静な声音を、煩わしそうにほんの僅か苛立たせる。傍らの少女を見もせず発せられたその一言に、ヴァイオレットは息を吸い、慌てて——怯えるように身を引いた。

 黒々とした眼を開いて、ギイドは言う。

「利益、と言ったか。

 そんなものに興味はない」

 それだけで、

 ハルトはぞくっと身を震わせた。

「魔神の力を利用する、という意味では、確かに貴殿の言う通りなんだろう。だが、その力も、オレにとっては意味を持たない」

 細い顎を少しばかり上げる。それ以上身じろぎもせず、一点を睨むように見据え、ギイドは言った。

「オレが欲しているのは、ただ、一つ。

 破滅、のみ」

 平坦な声。暗い、声。

 一つ一つを握り締めるかのように、ゆっくりと言葉にする。

 ハルトは透明な瞳に黒い姿を映し、目が離せなくなる。祭壇についた手が震えていた。

 見ていない。

 彼は誰一人、見ていないのだ。

 それは、あの港の広場にいた時から、同じだった。黒々として、光を全て飲み込むような、底の知れない瞳。行き過ぎる雑踏を見据えるその眼差しが物語っていたのは、

 嫌悪だ。

 目に映る、世界の全てに対する、嫌悪。胸を灼く不快感。

 それが、ハルトを釘付けにした。

 彼の見ている世界が、ハルトには見える。

(世界は醜く、汚らわしい)

「いずれ出なければならないのなら、その前に、こんな世界、全部、壊してしまえばいい」

 それは暗い淵の底から響いて聞こえた。

 真っ暗だ。色のない、灰色の世界。

 価値あるものも、価値なきものも、全ては平等。何にも意味は無い。

 どうでもいい。どうなってもかまわない。

 ぜんぶ——。

 目眩に襲われる。

 ハルトは現実を確かめるように、祭壇の石を握りしめた。胸が気持ち悪い。真っ暗闇の中、滔々と溢れ出る、透きとおる影色の出水に足下を絡め取られる。そんな幻覚を見る。

 呼吸が、苦しい。

 この人にとって、魔神は道具でしかない。世界を壊してしまえる、道具。彼の望みを、幼子のような乱暴な理屈を、本気で実現するための。

 ギイドが風になびいた外套の裾を払って、ゆるく腕を組む。

 ハルトはびくりとして、尻餅をついた。視界の広がりを感じて、我に返る。きょろと周りを見渡した。ここは鬱蒼とした森だ。アルグやキィナ、それにヴァイオレットがいる。急に血の気が戻って、温もりが全身を巡るみたいだった。静かに長く息を抜く。

 みんな、よくギイドの言葉を普通に聞いていられる、と思ったら、そうでもないらしい。ヴァイオレットはもう慣れっこになっているので平気そうだが、アルグやキィナははっきりと顔をしかめていた。

 陰気なだけの感情の薄い声に戻って、ギイドは締めくくる。

「オレにはさっぱり理解できないが。外に出たがっているモノを、出してやろうというだけだ」

「……説得、無理そう」

 つぶやくキィナは身構えて、いつの間にか両手に刃を抜き放っている。分厚い前髪に隠れた黄色の瞳の、さらに奥に揺れているのは、怯え。得体の知れないものと対したときのソレだった。

 その動きに合わせて、ヴァイオレットも杖を片手に前に出る。それを、ギイドは何気なく上げた手で制した。

「せっかくここまで来たんだ。

 太古の技術とやら、見せてやろう」

 再び取り出した楕円の〈鍵〉が手の中にある。桜と若草、そのどちらもが内側から淡い光を放ち明滅していた。誰の動きも気に留めず、ギイドは丈の長い外套をひらめかせて、円筒形の柱の群に向き直る。

「——開け」

 低く、静かに言う。

 すると、鍵から放たれる光に呼応して、先程キィナが指さした柱の二本が輝き始めた。地面に近い根本から、天に向かって。柱に刻まれた模様をなぞり、白い光が立ち上っていく。

 それが天辺まで辿り着くと、

 ぱっと光が弾けて、

 柱の間に大きな扉が現れていた。

「……!」

 ハルトは地面に座り込んだまま、口を半開きにそれを見上げる。

 その扉は、柱などと同じ、真っ白な石で造られているように見えた。しかし、まるでここには存在しないものであるかのように、向こう側の木々が透けて見えている。あたりまえなのかもしれない。だってさっきまでは、そこになかったのだから。ハルトは我知らず祭壇に手を付いて、扉を観察していた。

 両開きの扉。その全面を覆うのは見事な彫刻。風雨に晒された他のものとは違ってどこにも古びた様子がなく、鮮明な模様が離れていても見て取れた。背景や周囲の状況はまったく別だったけれども、ハルトはそれに似た模様——いや、たぶん扉自体に見覚えがあった。父が描いた絵の中だ。

『これが、封印の在処に続く、入り口……』

 ギイドが痩せて骨張った手を伸ばし、指先で扉に触れる。がこん、と重々しい音がして、それだけで扉は内側に開いた。

 その先は、綺麗に整えられた石の廊下。窓のようなものはなく、等間隔に並んだ柱ごとに、揺らぎのない真っ白な光の照明が備え付けられているらしい。手前の数本だけ順に灯されるのが見えた。

「ふあ、なにこれ……」

 キィナまで思わず声を上げる。

 扉は古びた円柱以外は何もない空間に立っている。それはさっき近くまで行って、見て、柱をぐるりと回ったのだから確かだ。そこに建物なんて無い。それなのに扉の中には広い奥行きを感じさせる景色がある。

 ハルトも己の目を擦って改めて見た。祭壇にもたれるように腰を浮かす。体を支えるその石の台が、ぐらりと動いた気がした。

「?」

 気のせいだろうか。下を向く。

 重たい石の固まりであるはずの祭壇は、気のせいなどではなく、確かに動いていた。まるでハルトの重みを嫌がっているかのように、ぐらぐら揺れて振り落とす。

 しかも動いているのは祭壇だけではなかった。

 それまで静かに周りに転がっていたはずの、何かの残骸のようだった石までが、命を持ったように身動ぎ始める。

 そして大きく動いたかと思うと、

 そのまま宙に浮き上がった。

「わっ」

 目の前で勢いよく飛び上がった石に、ハルトは頭をかばってうずくまる。上に乗っていたアルグの悲鳴と羽音が聞こえる。

 祭壇だと思っていた石は、上下左右から煙のような光を立ち上らせ、それをくゆらせてどこかへ延ばしていた。その先は、四方にある別の石。一つ一つが同じ光の帯を延ばし、それぞれを繋げていく。

「知っているかもしれないが」

 ギイドが開く扉に手をかけたまま振り返り、なんでもないように言った。

「魔神の封印は、太古の兵士に守られているそうだ。鍵の持ち主が中にいる間、敵を寄せ付けないために」

 細長い人差し指が、ハルトたちを指さす。そして口の端だけで笑ってみせる。別に何が楽しいわけでもないと分かるハルトにとっては、皮肉にもならない気味の悪い笑みだ。

「魔神の復活に立ち会いたいなら、守護者の相手をしてから、また追って来い」

 黒い裾を揺らし、扉の中へ消える。

 ヴァイオレットが後ろを気にしながらも、その背を追った。

 ゆっくりと閉まる扉。

 ハルトには、その瞬間を確認する余裕は、もはやなかった。

 朽ちた遺跡の一部。瓦礫でしかなかったはずの石が、宙に浮き、光の帯でつながって、まるで磁石で引き合わされたように組み上げられる。祭壇だったものを胸部に。苔が付き歪だった断面まで滑らかに整え。周囲にあった石を腕や足、頭にして。それらはハルトとキィナの目の前で、巨大な石像を形作った。

 身長は数倍以上ある。腕の太さだけでハルトをゆうに越える。総重量は想像するだに恐ろしい。それはまさに、兵士と呼ぶのにふさわしい威容だった。

「————」

 開いた口が塞がらない。

 さっきより、ぽかんと大きく開いていることだろう。こればかりは、さすがのハルトも表情に出さないわけにはいかなかった。

 ものすごく驚いている。

 圧倒される。

 石の巨像は大きな両腕も地面について自重を支える。兜を被ったような形の頭をぐるりと一回転させると、目玉にあたる位置に赤い光を点して一度強く光らせた。

 その物言わぬ視線が、炎のような揺らぎを纏って、足下を----呆気にとられるハルトとキィナを見下ろした。

 ハルトはごくりと喉を鳴らした。

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