第6話 絵画の裏側
神話のおさらい。
むかーし、むかし。
太古の世界は地上にあった。
万物の
ところが。
豊かな大地は邪悪なモノのまた、例外なく産み落とした。
魔神・ムルガンだ。
山のように大きく、醜悪な姿をした凶暴な魔神は、豊かな大地に〈死〉をまき散らした。魔神の血も、肉も、吐息も、命あるもの全てを死に至らしめる、毒をはらんでいた。
森は枯れ果て、海は腐り、土は汚され、草一本の実りも宿さぬ大地となった。多くの生き物が死に絶えた。
滅びゆく世界で、残された人間は神に救いを求め、祈りを捧げた。
すると神は奇跡を起こした。
未だ汚れなき天空を一筋の光が渡って、白く輝く鳥の姿に化身したティー=リーが、人間の前に降臨した。
ティー=リーはその御力で、島や山を汚れの届かぬ空へと運んだ。
そして人間に、聖なる武器を授けた。
人間の戦士は金に光る神器を手に、ムルガンに立ち向かい、三日三晩の死闘の末、その大いなる命を以て討ち果たした。
しかしムルガンは、五体をばらばらに切り刻まれようと、死ななかった。
横たわる巨大な体から流れる毒によって、大地は覆い尽くされた。その毒気は、生き物が逃れた空へものびようとした。
人間は再び祈った。
ティー=リーは今一度その御力を示され、魔神を大地の奥深くに固く封印した。
こうして世界に静けさと穏やかさが戻った。しかし汚れた大地に、もはや生き物は住めなかった。生命は空に浮かぶ島にのみ残された。数を減らした人間は、それまで培った技を失い、空の島に一から新たな都を造り始めた。
それらを見届けると、ティー=リーは再び生命の大河へと身を隠した。
——これが、ハルトが母クレアに教わった、神話だ。
ハルトは食堂の片付けに手を動かしながら、ぼんやりと考えた。
神話では、太古の出来事と飛翔石の由来をこうして語り継いでいる。
けれども、実際は違う。
浮島は初めから空にあったし、大地に人間はいない。それは草一本生えない不毛の土地だからではなく、恐ろしい怪物の闊歩する、険しい自然環境の危険な土地だからだ。
輝く白い鳥の姿の神様はとりあえず置いておくとしても、魔神は実在しない。言うことを聞かない子供を脅かす、架空の化け物だ。
だから神話とはつまり、大昔の人が世界の在り方にその時代なりの説明をつけた物語で、あるいは、大昔にあった出来事の教訓を、隠喩を用いて後世に伝えようとした物語だとされている。
そしてその常識も、本当ではないらしい。
ややこしいな、と思う。
アルグやキィナの話を信じるなら——残念ながら、ハルトには彼らの本気がはっきりと分かるのだが、〈魔神〉は存在する。比喩的な意味ではなく、神話に登場した恐ろしい化け物が実在する。それも空に、封印されている。
地上にも人は住んでいて、村や町を作り、交易し、独自に発展した文化を持って暮らしている。
つまり、
神話も常識も、どこか間違っている。
ややこしい、と思う。
なんでなんだろう、と思う。
それにはたぶん理由があって。
世界にはきっと秘め事がある。
ハルトは何も確かなことを導いていないその答えに、妙に納得した。
魔女の呼び出した怪物によって荒らされた食堂は、倒れた椅子や卓を起こして整理すると、壊れた物がそれなりの数になった。壁や床に目立った損傷がないのが救いだ。明日親方に見てもらい、直せる物は修繕してもらうことになった。
脇に積み上げられた傷ついた家具の山。
それらを横目に、木くずを掃く手をのろく止め、ハルトは箒に寄りかかるように下を向く。ため息が出た。
くたくただった。母のこと、父のこと、形見のこと——今日はいろいろあり過ぎた。頭の中があの家やこの食堂のようにとっちらかって、ごちゃごちゃで、正直、ねむりたい。今すぐ寝台に倒れ込んで、毛布にくるまってしまいたい。
しかしアルグには通訳が必要なのだった。
アルグは鳥なので掃除ができないのをいいことに、さっきから、この場にいる人たちに状況を理解させようと奮闘している。ハルトは少々難解なその話を、逐一伝えなければならないのだ。
一通り片付けが済んで、ミラが入れてくれたお茶を受け取りながら、サビーノは不審さを隠しもしない眼差しを赤い鳥に向けた。
「……つまり、この島には神話の魔神が封印されてて、それを悪い奴らが復活させようとしている、て言いたいわけだ。こいつは。
それが本当なら、確かにやばいのかもしれないけど……」
アルグの言葉を代わりにしゃべるのは、かなりくったりしたハルトだ。そのハルトがアルグの話に疑問も否定も差し挟まないので、サビーノは信じられないのに疑いきれないでいるらしい。
アルグはその心境を分かっていて気付かないふりをして、椅子の背に留まり直すと言った。
『私としても、ヤツらが魔神を解き放って何を企んでいるのかまでは知らないが。世界が危険に晒されることに違いはない』
「トリさんはそれを食い止めようとしてるの?」
卓に両手をついて、身を乗り出すように加わったのはキィナだ。少女は前髪の下で真剣な目をしていた。
(この人たちに出会ったのは、偶然じゃなかった。きっと、お導きだったんだ……)
前髪を揺らして顔を上げる。隙間からのぞく濃い黄色の瞳が、強い決意を表明する。
「それなら、わたしも手伝う!
だってわたし、その為に来た!」
その熱は、己を鼓舞するため。強いて気持ちを奮い立たせなければ——一歩も踏み出せない。
意気込むキィナを、アルグは首を傾げてのぞき見た。
キィナは言う。彼女がはるばる空にまで来た目的、その使命。それは、キィナの生まれた部族の巫女に、託宣があったのが切っ掛けだった。
「空で不穏な影が蠢いている。
放っておけば破滅が蘇り、世界は空も地もなく再び死に包まれる」
そのお告げに従い、最悪の状況を回避するために、部族の戦士として育てられたキィナが空へ遣わされた。
「ま、まじか……」
キィナの話を受けて、サビーノの声にも真剣みが滲む。事の真偽よりも、そうと信じて動き無茶をする人間が実際にいる、という事実を重要視した判断だった。
「それならこんなのんびり片付けとかしてたらダメなんじゃないか? 封印を解く〈鍵〉ていうのは、悪者の手に渡っちゃったんだろう。今頃、もう……」
『いや、まだ大丈夫。
実はさっき、魔女の子に印を付けておいた。魔法で居場所が追える。
どうやらまだ町を出ていないようだぞ。港に近い宿にいて、しばらく動いていない。この印を辿って、我々も魔神の遺跡まで案内してもらおうじゃないか——……ああ、いや、ダメだな。反応が消えた。気付かれてしまったな』
「おいおい」
(まあこれは折り込み済み。「やはり」というよりは「さすが」と言うべきだな)
と、これは通訳しない。ハルトは口を開きかけて閉じる。言っているのか、思っているのか。普通でも判断できない時がある。アルグは口から出る声がそもそも鳴き声なので、余計に分かりにくい。
『あ、案ずるなっ。
消えるまでには時間があった。さっきの様子からすると、既に場所は分かっているはず。それなのに直ぐに遺跡へ向かわないのには、それなりの理由がある。恐らく、朝になるのを待って行動するつもりなのだろう。
それまでに、こちらも遺跡の在処を見つけて待ち伏せし、〈鍵〉を取り戻せばいいのだよ。否、取り戻さなければならない!』
胸を張って言うわりに、内容はほとんど推測と見込みで「何も分かっていない」だ。意気込みだけは立派なものの、そうして必死に取り繕う言い草は、ちょっと抜けて見える。見た目が羽をわさわさする鳥だから、より際立っていた。
(うわぁ、大丈夫かなあ、こいつ)
しかしそれはそう見せているだけで、アルグの心中は、とても冷静だった。この状況を分析し、それなりに危惧してもいる。その上で、内奥にある自信は少しも崩れない。
その自信はいったいどこから来るのだろう。
ハルトは不思議だった。見た目にまんまと乗せられてしまうサビーノの気持ちも、分からなくはない。
「それで、遺跡はどこにあるんですか?」
「太古の遺跡って言われてるものなら、この島にいくつかあるな。その中のどれかなのか?」
腕を組んで首をひねるサビーノの後ろを、掃除をしながら他人事のように聞いていたナラハが横切った。壁にある大きな額縁を外すと、
「よいしょ」
それを話をする卓の上に置いた。
その絵は、それで卓が埋まってしまうほどに大きかった。コードリッカを港から見上げた構図の風景画。優しい色合いと筆使い。夏なのか空の青が鮮やか。店の食堂に長年飾られていて、そこで日々働くハルトにとって、目に付かないくらいすっかり背景に溶け込んでいたもの。つまり、普通の絵。この騒動で痛んだ様子もない。
「おじさん、何してるんです?」
「何か特別な遺跡の場所が知りたいんだろう。それならたぶん——」
ナラハは大きな絵に苦労しながら、今度はそれをひっくり返した。
「ここにあるよ」
額縁だと思っていたものは、後から付けた簡単な木の枠にすぎなかった。裏から見るとむき出しになった土台の板に、画布が固定されているのが分かる。そこに、絵なのか模様なのか分からないものが、直接描かれていた。いくつかの小さな絵の間に、文字のようなものも見える。
『む?』
「らくがき?」
サビーノの感想に少し笑ってから、ナラハは言った。
「これはオルレインが描いて、残していったものだよ」
「えっ……?」
「もちろん表側もね。
いろいろ世話になった礼がしたいと言うから、その時描いていたこの絵をもらったんだ。
そうしたら、イタズラを思いついた子供みたいににこにこしながら、これを書き足していた。『もし、世界の秘密を本当に知りたいと願う者が現れたら、見せてやってくれ』と言って。そう言う彼は存外まじめな目をしていてね。何か大事なものなんだろうと思って、今まで見せたことなかったのだけど」
ぱちっ、と目が覚めたような気分だった。
箒を置いて、ハルトは絵に歩み寄る。そこにあるのは裏面の不思議な図形で、表側は見えない。でも、壁にあったあの絵は覚えている。
——これ、お父さんの絵だったんだ……。
『世界の秘密、ね。彼らしい表現だ』
「なんだ。ハル坊、知らなかったのか」
「知らなかった」
視線を注いだまま返事をする。
「お父さんの絵、いっぱい見てたんじゃなかったっけ。書き味とか癖で、気付きそうなもんだけど」
「オルレインは画家じゃないから、画風はけっこう気まぐれなんだよ。なにより署名をしなかったからね。無理もない」
「…………」
——父の絵を見るのが、好きだった。
どこかの町を描いた風景画。雄大な空気を感じる大自然。民族衣装を身につけた人々。見たこともない動物、植物。そして——奇妙な遺跡。
そこには、ハルトの知らない世界があった。
鮮やかな絵の具で描かれたものもあれば、線だけの素朴なものもある。画帳をめくり、ただ眺めた。そうしているのが楽しかった。世界を巡り、目にしたものを気の向くままに描いた、そんな絵が好きだった。
でも考えてみれば、ハルトは父の絵はたくさん見てきたけれども、他の人の絵というのは、あんまり見たことがなかったかもしれない。だから作風と言われても、よく分からないのだ。
それに、思いも寄らなかった。ここに父の絵があるなんて。父がこの島に住んでいたとは、この宿と縁があったとは、知らなかったから。目に留まるたび、好きな感じの絵だな、とそれくらいにしか思わなかった。
——ここにもあった、思い掛けないこと。
毎日見ていたはずなのに……。
「……もう二十年——二十五年以上前になるのかな。オルレインがこの宿に初めて泊まったのは」
囁くように、ナラハは言った。ハルトは目を上げて、そちらを見遣る。
(もう、話してもいいんだよね。やっと聞かせてあげられる)
細く息を抜く。安堵に似た問いかけは、ここにはいない誰かへのもの。ナラハは細い瞳で優しく微笑んで、落ち着いた声でハルトに語りかける。
「コードリッカに古い遺跡があるのは有名だから。それを調査したいと言って、彼はやって来たんだ。
その頃はまだ父が宿の切り盛りをしていてね。僕はその手伝いだった。お互いおしゃべりが得意な方ではなかったけれど、年が近かったから、なんとなく話をして——。
しばらく滞在するうちに、彼が『ここの遺跡は興味深い。もっと腰を据えて研究したい』と言い出して、町外れにあったあの小島に家を建てて住み着いたんだ。
またしばらくすると、今度はふらりとどこかに旅立っていった。それからはちょくちょく戻ってきては、遺跡に通っていたよ。
そのうち悪い噂も聞くようになったけれど。僕たちは彼の人柄をよく知っていたから。さすがに事故で死んだと聞いた時は驚いたよ。でもその直ぐ後に、クレアさんが小さいきみを連れて現れた時は、もっと驚かされたな」
——そうだったんだ……。
懐かしく語られるその話を、ハルトはさっきよりもずっと、落ち着いて聞けた。ナラハの語り口はどこまでも親しげだった。古い友人の思い出を話すそれだった。
ハルトは、父の事はよく知らない。
今まで、知りたいとも思わなかった。名前を聞くことさえ稀だったから、そう思う場面も無かったのだと思う。ハルトにとって、父の遺した絵や手記が父親そのもので、それで充分満足だった。
馴染んだ重みを探して、胸の辺りをぎゅっと握り締める。あるはずのものがそこにはない。ふわふわして、なんだか落ち着かなかった。
「…………」
裏にして置かれた絵が目に入った。
不思議な図形。
これも、父が書いたもの。
何か伝えたい意味のある言葉。
——何が……書かれているんだろう。
ハルトはその絵の上に透明な視線を注ぎ、さまよわせた。
「でも僕は、この絵が何を示しているのかまでは知らないんだ。何かの地図だとは言っていたけれど。トリさんが求めているものかは分からない」
『確かに、まるで別のものの可能性はある。
残っている資料を見ると、オルレイン・ザラトールは、魔神の研究ばかりしていたわけではないからな。むしろそれは枝葉で、興味の中心は太古の真実。神話や歴史に語られる以上の出来事を知り、その証拠を見付けることだったようだ。
ともあれ、コードリッカに関する記録は、魔神とその封印を中心に書かれていた。無関係とは考えにくい。解く価値はあるさ。
——て、少年んん。通訳、つうやく〜〜』
「——あ。
無関係じゃないから、平気だって」
「それなら良かった。
他にもクレアさんから預かっている資料があるから、取ってこよう。何かの役に立つかもしれない」
小島の家に置いておくと、ハルトに見つかる可能性が高いから、コードリッカや父親の研究に直結しそうなものは全部、ナラハに預けて隠してあったらしい。
にこりと笑って、ナラハは食堂を後にした。
「でもさ。魔神が封印されていそうな、そんな怪しい遺跡があれば、とっくに見つかってるんじゃないかな。遺跡はいちおう、歴史家が調べてるはずだし」
『彼ほど熱心な者はいないが。
今はまだ、見えていないのかもしれない』
「?」
アルグの言葉をそのまま口にしながら、ハルトはサビーノと同じように怪訝に首を傾げた。
暗号に群青の眼差しを注ぐ鳥は、人間のときの癖か、翼の先端を嘴の下に添え、思考に没頭し始める。サビーノが問い返しても、既に聞こえていない——はっきりと、無視している。もごもごと呟く言葉は、鳴き声にもならなかった。
(これは、古代の文字だな。詩歌めいた意味深な言葉……。
こっちは目印か、何かの符帳か……。資料で似たようなのを見た覚えが……)
それはハルトにも見覚えがあった。父は覚え書きの類を、意味を付与した簡単な図形にするのが好きなようだった。まるで遊んでいるように、様々なものを簡略化した記号にして表すのも好きだったようだ。それらの印は可愛らしくもあって、ハルトも真似して書いてみたり、木彫りの飾りにしてみたりしたものだ。
だから、指摘されてみれば…………。
『——これなら、なんとか解読できそうだぞ』
「ほんとに?」
おや? とアルグがハルトに首を回す。それからえへんと胸を張ってみせる。
『もちろん。
伊達に最も偉大な魔術師を名乗ってはいないのだよ。オルレインの研究記録は、手に入る限り全てに目を通してある。その私に、分からないはずがない!』
「もしかして、わかった?」
ハルトとアルグのやり取りを見て、キィナが控え目に卓に手をつき様子を窺う。アルグはそちらに向き直り、嘴をそらした。
『まだ正確な位置を特定できたわけではないが。恐らく、山の上の方にある遺跡に入り口がある。
だから奴らは動かなかったのだな。ここの山道はなかなかに険しい。慣れない者が暗いうちに登るのは無理だ』
「まだだけど、なんとかなるって」
「そうなんだ。すごい」
「カタコトに戻ってる……」
アルグは少し考えてから、嘴を上下に振ってうなずいた。
『よし! では明るくなったら直ぐ出発だ! 奴らより先に到着したいものだが、こればかりは運だな。急げるだけ急ぐぞ。
私はそれまでに解読しておく。少年とキィナ嬢は諸々の準備を済ませておいてくれ。それから充分に休息をとっておくように! 分かったな!』
「朝になったら出発。
準備と休息……だって」
「分かった」
キィナは両手の拳を握りしめると、髪を揺らして固くうなずいた。声もいくらか緊張して重々しい。
アルグの言葉を告げ、
「……」
ハルトもまた、こくんと小さくうなずいた。
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