第5話 がらがらと
「ごめん。見失った。
隠れるの、すごく上手いみたい」
しばらく表に出ていたキィナが戻ってきて、悔しさを滲ませながら報告する。その言葉はハルトにしか理解できないものだ。当然ハルトに向けて言ったのだが、当人は床に座り込んで一点を見つめたまま、反応しなかった。
キィナは豊かな髪を揺らして首を傾げる。
(大丈夫かな? 大切な物だったのかな?)
「ハルくん、けがはないっ?」
壁際に避難していたミラが、はっと我に返って駆け寄った。ハルトの傍らに膝を付いて具合を確かめると、側の椅子を起こして座らせる。
ハルトは瞬きを何度か繰り返してから、正面にしゃがむミラの顔を、初めて気付いたように見た。
「ミラ姉……。大丈夫だよ」
本当は、体のあちこちがじんわりと痛い。それになにより、胸にぽっかりと穴が空いたみたいで、気持ちも、頭も、からっぽだ。体よりもそちらの方がより大変で、より重傷だった。
弱々しい声に、ミラの眉が曇る。
「大丈夫じゃ、ないわ。
ハルくんも、キィナちゃんも、びしょ濡れじゃない。このままじゃ、風邪を引いちゃう。待ってて。拭くもの取ってくるから」
ミラとしては、目一杯に慌てているつもりだった。しかし見ている人には、ほんわりした動作で立ち上がって、はたはたと食堂を出て行ったようにしか見えなかった。
それを見送って、倒れた卓の天板に隠れていたサビーノも顔を出す。後ろ頭をかいた。
「すっかり酔いがさめちゃったな。
なんだったんだ、あれ?
盗っていったのって、ハルトが大事にしてた、お母さんの形見じゃなかったっけ?」
その言葉に、ハルトの胸がずきりとうずいた。何も重みのなくなった胸の辺りの服を握りしめ、打ち捨てられた革の袋に視線を落とす。
——あれが……アルグの言っていた、魔神の封印を解く鍵だったんだ……。みんなに、迷惑かけた……。
目に入る、食堂の大変な有様。それは否応無く、ハルトに自宅の惨状を連想させた。
沈む気持ちに合わせて、目を伏せる。
「……ごめん。ぼくのせいで……」
サビーノが首を傾げて腕を組む。
(まあ、確かに。あの子の目当てはハルト——というか、ハルトの持ち物だったわけだけども……)
そんな考えが透けて見えて、ハルトをいっそう縮こまらせた。しかし、
「別に、ハル坊は悪くないだろ」
あっさりした言葉。顔を上げる。
『そうだぞ、少年』
そしてそれを引き継いだのは、ばさり、と翼が
ジェーと鳴き、嘴をぱかりと開ける。
『悪いのはみんな、悪巧みをするヤツらさ。横暴なのはあの娘。少年が責任を感じる必要はない』
「アルグ……」
ハルトは群青の眼を見て、彼の存在を忘れていたことを、今、思い出した。
「どこ行ってたの?」
すると赤い鳥は憤慨して、翼をばたつかせた。
『ちゃんと付いて来ていたさ!
それなのに少年が直ぐ扉を閉めるから、閉め出されたのだ! その上、そっちの娘にも放り捨てられるし……』
ヒドいものだ! と文句を言う。
言われてみると、さっき外が騒がしかった——ような気がする。ちょっとよく覚えていない。その時、魔女に振り払われたらしい鳥を、キィナが受け止めていたような——。いま入ってきたキィナは持っていなかったから、そういうことなのだろう。なんというか……それは、哀れだ。「ごめん」と素直に謝る。
ふん、と鼻を鳴らすアルグは未だ不服そうだったものの、気を取り直して冠羽をぴんと立てた。
『そんなことより! 少年が〈鍵〉を持っていたのだな。しかもそれを奪われてしまった! どうしてもっと早く言わなかったのだ!』
ハルトは再度の事実確認に、表情を暗くしてしょんぼりと肩を落とした。上目に鳥を窺う。
「……教えてくれなかった」
『む? そうだったか?』赤い鳥は己の失敗を、首を傾げるだけで流した。
『とにかく、だ! 奪われてしまったからには仕方ない。まだ手はある。
ほら少年。ぐずぐずしている暇はないぞ。早急に封印の在処を突き止めなくては。先回りして、待ち伏せして、鍵を取り返すのだ。
その為に、まず、残された資料から手掛かりを探して——』
「え? ぼく?」
『あたりまえだーー!
またそんなことを言って!
もうほとんど当事者だろうが!』
アルグが飛び上がって、細い足でハルトの頭を蹴った。
ハルトの方がよっぽど、そんなこと言われても、と思う。自宅には案内するし、通訳くらいならわけなく引き受けられる。でも、それ以上は考えていなかった。それ以上、何ができるというのだろう。
こうして目の当たりにしてみて分かる。
目の前で起きている出来事なのに、それはやはり、どこか遠い別の世界で繰り広げられている事のようで——世界が違う。そうとしか思えなかった。
それなのに「当事者」。言葉の響きにぞっとする。
それに、痛い。
ハルトは続けて繰り出される足や翼の攻撃を、腕で庇った。
「ハル坊が変な鳥にいじめられてる」
不意に手が伸びて、乱暴する鳥の背後から、その首根っこを器用に捕まえる。ぎゃっ、とアルグが悲鳴を上げた。
「その鳥は、キィナちゃんに食べられちゃいそうだけど」
呆気にとられた声はサビーノのもの。
伸びた手はキィナのものだ。
さっきの早技があれば、暴れる鳥を捕まえるくらい簡単だろう。前髪に隠れた瞳が怒っているのが、ハルトには分かった。
「うるさい鳥……だよね?
美味しくなさそうだけど、このまま絞めちゃおうか」
呟きを聞き取って、手の中で鳥がいっそう暴れた。赤い羽根が散る。ハルトは慌てて立ち上がって、両者の間を裂くように両手を振った。キィナはその仕草に、小首を傾げてから鳥を手放した。
鳥は羽をばたつかせて飛び、少し離れたところにある椅子の背を止まり木に、息をつく。
サビーノがその様子を目で追ってから、ハルトを振り返った。
「あれ? 鳥に人間の言葉は通じないんじゃなかったっけ」
ハルトはこくんとうなずいた。
「このヒトは——トリは、人間で、魔法使いで、名前は……」アマなんとかいう長い名前だったはずだが、覚えられなかったので短く「アルグ」とだけ言っておく。
「さっきの人たちに捕まって、鳥にされて、探し物があって来たんだって」
聞いた話を思い出しながら、ハルトは懸命に説明した。
ところが、サビーノだけではなく、いつの間にそこにいたのか店主のナラハまで、不可解そうな顔をしている。変わりないのは、言葉が分からず疑問を頭上に浮かべながらも、それぞれの顔を見比べているキィナだけだ。
そしてどういうわけか、アルグまで呆れ顔だった。小さな眼を細めて、やれやれとため息混じりに首を振る。
『少年……前から気になっていたが。君の表現は、表情も言葉も、少々足りないぞ。それでは何も伝わらない。感覚として捉え難いのは理解できるが、普通の人は心を読めないのだから、もう少し言葉を尽くしたまえよ』
「…………」
時々、まともなことを言う鳥だった。鳥なので、真剣に見つめられても、諭される方は真剣に受け取りにくいという欠点がある。ハルトにはそれが心からの助言だと分かる。分かるけれども、それとは別のところでなんとなく腑に落ちないだけだ。
それは、普段から周りの人に思われがちなことではあった。だから頭では分かっているつもりだ。ただ実感は難しくて……なかなか改善までには至らない。
(魔法使いで、アルグ……? なんか引っかかるんだよな。どこかで聞いたような……)
腕を組んで少し考えたサビーノだが、結局、その話題を片手で振り払って話を進めた。
「それで。その魔法使いさんが、ハルトに何の用なんだ?」
「えっと、それは——」
『ああ、その前に』
口を開きかけたハルトを、アルグが翼を広げて遮った。椅子を蹴って飛び上がる。
そして出し抜けに、そのままキィナの頭の上に乗った。もふっと。まるでそこが巣だとでもいうように。それはもうしっかりと腰を下ろす。
その途端。
さっき見たのとよく似た、しかし模様の違う群青色の小さな円が虚空に現れ、次の瞬間には消える。
あまりと言えばあんまりな狼藉に、一拍遅れて驚いたキィナが、激しく頭を振って、手を回して、鳥を振り払った。
「な、なにっ! 気持ち悪いっ!
あっち行って!」
アルグは振り回される腕を、天井すれすれまで舞い上がってなんとか避ける。ハルトの側の椅子に着地して、落ち着き払って言った。
『ひとり置いてきぼりは可哀想だからな。
少年が二人分通訳するのも紛らわしいし、大変だろう』
「あれ? キィナちゃんの言葉、分かる」
音はちょっと変な感じだけど、とサビーノが声を上げる。それを聞いたキィナも、
「あ! わたしも! 分かります!
どうしてだろ……」
一同の視線が、アルグに集まった。
赤い鳥は得意げに胸の羽を膨らませて、嘴の先をついと上げてみせた。
『翻訳の魔法をかけた。
一時的なものだから、自らも進んで勉強するのだぞ』
さっき微妙な反応をされたばかりだったから、そして自分で考えても分からないので、ハルトはアルグの言葉をそのまま変えずに口にした。
(魔法って便利なもんなんだなあ)
そう感心するサビーノが、一方で気味悪そうに眉を歪める。
「ハル坊が流暢に偉そうなこと言ってる」
「わあ! 本当に分かる! ありがとう、トリさんっ。
それに改めてみなさんも。ありがとうございます。ご飯に宿まで。本当に助かっています」
昼間も充分すぎるほど丁寧に礼を尽くしていたのに、ここでもキィナはナラハに向き直って、律儀に腰を折り頭を下げる。ちょうどそこに戻ってきたミラにも、厚手の手ぬぐいを受け取りながら礼。
ハルトもまた、頭に乗せられた手ぬぐいで水気を拭き取りながら、彼らの様子を満足げに見るアルグに顔を向けた。
「魔法、使える?」
『お? まあ、この程度の簡単な魔法なら、多少は。
地上に行った時に、現地の言語も習得してきた。翻訳くらいは朝飯前なのだよ』
ふうんと納得しかけて、ハルトは違和感に気付いた。
——地上?
「大地から来たの?」
『なんだ、知らなかったのか』(私に尋ねられてもなぁ)
ハルトの上げた声に、再び注目が集まった。反対に、ハルトはキィナを見る。相変わらず瞳は暖簾の下に隠されているものの、内心ぎくりと身構えたのが分かった。
サビーノが笑って手の平をぱたぱたする。
「いやいや、ないない。
ハルト君。地上には危険な怪物がうようよしていて、人間はとても住めない土地なのだよ。住んでいたとしたって、文明の発達していない、未開人だって話だ。
そもそも交流が無い。飛空船でも行き来できないから」
それはハルトも知っている。だから事も無げに言われて、少なからず驚いた。
「その言われ方は心外です」
アルグ——というより、さっきのハルトの口調を真似て茶化すサビーノに、キィナがむっとして声を上げた。
「いくら恩人さんでも、聞き捨てにできません。地上にだって、それなりにたくさん人は住んでいますし、習慣は違うみたいですけれど、空の人と同じように暮らして、います……よ……」
唇を尖らせた不本意そうな声は、最後には尻すぼみになって消えてしまう。サビーノがまじまじとキィナの顔を凝視するせいだ。助けを求める眼差し——前髪が、宿屋親子から鳥を経由して、ハルトの上で止まった。
「…………」
ハルトにはアルグの言葉も彼女の言葉も、疑いようなく真実だと受け取れるけれども、サビーノはそうではないので、とても信じられず驚いているだけなのだ。それを、どう言ったものか……。
ハルトが困っているうちに、アルグが訳知り顔に嘴を上下させて言った。
『事実だ。
むしろ、技術水準は地上の方が高いくらいだぞ』
その助け船は、結果として、それをまるまま通訳するハルトの言葉になる。
サビーノはそれでも半信半疑だった。
「え? でも? て、ことは……。
キィナちゃんは本当に、地上から来たってこと? なんで?」(あ、目的があるって言ってたっけ)
「…………」
キィナは顎を引いて、言い淀んだ。
説明すべきか、どこまで言っていいのか、迷っている様子だ。
ハルトはこういう時、口出ししないことにしている。「他人の秘密を勝手に暴かない。その必要がない限り」。なんでも包み隠さず知れてしまう才能を持つ身として、ハルトが心掛けている決まり事の一つだ。
——とはいえ、だ。
巡り合わせ、というのか。世間は意外と狭いのかもしれない。ハルトはそんなことを思いながら、床に視線を逃がして口をつぐんでいた。
(…………うう、仕方ない)
キィナは意を決して息を吸い込む。
「そうです。わたしは地上から来ました。
隠していたわけではないです。ただ、お互いに交流がないのは事実なので、身分は伏せておいた方が面倒がないだろうと、仲間に言われていたもので」
それから——、とキィナは手ぬぐいを握りしめ、申し訳なさそうに、上目に宿屋親子を見た。
「ごめんなさい。理由は『使命があって』とだけ。それ以上は聞かないでください。無関係の方々にお話しするわけにはいかないので……」(巻き込んでしまうかもしれない。ううん。みんな良い人たちだから、きっと心配させちゃう)
ナラハは少々驚いたようだったが、いつものように目尻の下がった柔らかな笑みを浮かべて、うんうんとうなずいた。
「そんなこと、気にしなくていいよ」
「なるほどね。それならいろいろ変わったところも説明がつくなぁ」(というより、そもそも空の人間が地上に行くのは重罪なんだけど、この場合はいいのかなあ……)
『おーい。
いい加減、話を元に戻すぞー』
アルグが大袈裟に翼を広げて注意を引く。他の人には「ジャーー」という鳴き声にしか聞こえない。「話を戻そうって」とハルトが言うと、「そうだった」とサビーノがはっとしてうなずいた。
おほん、と咳払いするように翼の先を嘴に添えてから、アルグは言った。
『少年に何の用かという質問だったな。
初めはたまたま。今は父親であるオルレイン・ザラトールの遺産に用がある』
「——て」
正直、考えても感覚が掴めない以上に、通訳ばかりで面倒になっていたので、ハルトはもうそのままをそのまんま口することにした。
「ちょっと待った」
そうして語るハルトに、サビーノが思わずといった様子で声と掌を上げ、制止を促す。続く言葉を言い掛けて——慌ててアルグに向き直った。
「オルレインって、あの、オルレイン・ザラトール? ハルトの父親? ほんとに?
たしか絵描きって言ってなかったっけ。それにハルトの名字はフロワンスじゃ——」
『…………』(また話が逸れた……)
そんなに動揺することなのだろうか。
こちらに意識を向ける感情の波に気が付いて見れば、一人でぐちゃぐちゃになった食堂の片付けを始めていたナラハまで、手を止めて密やかに様子を窺っている。サビーノと向き合うアルグは、不満そうに押し黙るばかり。彼の内面は読み取れない。
ハルトは、その妙な空気をぐるり見渡してから、とりあえず問われたことに答えた。
「フロワンスは、お母さんの名前」
事情はよく知らないが、両親は正式に結婚していなかったらしい。そして、この島の住民として登録されているハルトの名前は、母方のフロワンスで間違いない。母親と名字が違うとその都度詮索され、説明が面倒くさいという理由らしかった。父親の姓はザラトールで、そちらが本名なのだと言い含められもしたので、幼心に紛らわしいなと思ったものだ。
それより。
「有名な人だった?」
「有名って言うか……」
サビーノは尚も驚きの冷めやらぬまま、ハルトと黙り込む鳥の顔を見比べた。
「オルレイン・ザラトールといえば、泣く子も黙る世界三大悪党の一人だよ」
「——へ?」
思いがけない言葉すぎた。
今日でもう何度目か、ハルトの思考が抜け飛ぶ。
サビーノは、さらに続けた。
「世界を転覆させるために神話を研究していた学者で、己の探求欲を満たすためなら、手段を選ばず国禁でも平気で犯す。奇人変人の類だって聞いてる。
調査と称した不法侵入、強盗はあたりまえ。太古の遺跡あるところに現れては、必ず騒動を起こす。
なにより、あのオッティガルネ全島崩落事件を引き起こした首謀者だって——」
「サビーノさんっ」
ミラが珍しく語気を強めて、これも珍しく
(ハルくんのお父さんのそんな話。本当かも分からないのに、本人に聞かせることですか)
そう、視線だけでたしなめる。
サビーノが諸手を上げて「悪い」と謝っても、ハルトは、
「……——」
もう、何も見えていなかった。
口を半開きに、固まる。
——どういうこと、だろうか……?
初めアルグに「学者」と言われて驚いたけれど、それはわりにすんなりと納得できた。幼い頃からずっと何度も眺めていた父の絵には、どこか観察し、記録するような眼差しがあったから。絵描きでなければ、そんな職業が相応しいのかもしれないと思った。
それが今度は極悪人。
足下がぐらつく気がした。
母に聞いていた印象とまるで違いすぎる。
アルグに聞いた方が近いか……それでも飛び抜けている。
まるで絵の中の人物がこちらを振り返って、額縁を突き破り、外へ飛び出してきたような気分だった。
ばさり、と羽音がする。
いつの間にか椅子に座り込んでいたハルトの膝に、茜色の鳥が留まった。下から首を傾げて顔をのぞき込んでくる。
『少年。私が知るかぎり、彼は悪い人間ではないぞ。噂は噂だ。事件に関わっていたとしても、外側からでは推し量れない、のっぴきならない事情があったに違いない』(この状況を招いた元凶には違いないが)
群青の瞳が目を合わせて、真摯に訴える。続く内心が余計だった。
「げ、元凶……」
「そんな、元凶だなんて……。彼は熱中しだすとちょっと周りが見えなくなるだけで、ハルトくんとは違った意味でぼんやしたところのある、ふつうの学者だったよ」
そして何故だか、ナラハまでが思わずといった声で擁護した。
瞬き二つ。ハルトは振り返る。
「あら。お父さん、知っているの?」
「えっ?」
口にしようとした疑問は、ミラに先を越された。娘の何気ない一言に、ナラハはまともに声を裏返させる。
「ええーっと、あーーそのー……」(し、しくじった……! どうやってごまかそうか。クレアさんに口止めされていたのに……——はっ!)
誰が見ても明らかに動揺している店主は、娘に、鳥に、天井に、あちこちに視線を泳がせ、そしてじっと目を大きくして視線を注ぐハルトに——誤魔化さなくてはいけない相手に、やっと気付いた。ハルトが知りたいと思えば、包み隠すことなんて誰にもできない。それを店主はよく知っていた。
額を押さえ、ナラハは深く深く息を抜く。優しげな下がりがちの眉毛が、困り切って寄せられた。
「知り合い、というか……。彼が二十五年くらい前に初めてこの島を訪れて以来の、友人だよ」
膝の上に腰を落ち着けるアルグが、少し興味を惹かれたのが分かった。真っ先に口を開いたのは、サビーノだ。
「へぇー……。おじさんと天下の大悪党が友達って、想像できないスね」
「だから、違うんだって」
苦笑いで、しかしナラハはきっちり否定する。
「でも変な噂が広まって、そういう風に見る人も大勢いたからね。ハルトくんがそのせいで嫌な想いをしないように、彼のことはいろいろ内緒にしておこう、てクレアさんが言ったんだ。ハルトくんのことだから、隠し通すのはとても難しいけれど、きみが自然と興味を持つまでは、て」
「お母さんが……」
それは本当に難しいことだったろう。
少しでも思い浮かべてしまえば、それを糸口にハルトは気付きかねない。
だからだ。
ハルトは今まで、ナラハたちからは、父に関する話を一言だって聞いたことがなかった。強いて話題にしないようにしていたのだ。母のクレアも、彼らの前では話さないようにしていたのだと、今さら思い至った。それにしても、母は語って聞かせてくれていたのに……——。
そう話すナラハの温かい眼差しが目に入らないほど、それはハルトにとって、なにより衝撃だった。
みんな隠し事をしていた。
ハルトは知っている。
人は当たり前に嘘をつく。見栄を張る。誤魔化す。
今更それに傷ついたりしない。
ただそれを簡単に見抜いてしまえるハルトは、いつの間にか、世の中の真実だけを見て生きてきたような錯覚に陥っていたのだと、気付かされた。
傲慢だ。
今まで見ていた
見慣れたはずのこの場所が、虚像めいて見える。
がらがらと、崩れる。
「ふうん。
でも、神話や魔神の研究をしてたっていうんだから、胡散臭いことに違いはないよな」
「どうしてですか?」
今まで脇で聞いているだけだったキィナが、不思議そうに尋ねた。
「だって魔神なんて実在しないだろ。
なんていうのかな。本当はいない魔神や神話を、それはそれとして伝承のされ方や影響なんかを研究していたのならまだ分かるけど、神話の出来事が実際にあったと妄信して、証明しようとしてたっていうんだから、やっぱりおかしいだろ」
「? いますよ、魔神」
「え?」
「います。空ではそういうことになっているんですか? 地上では、それらしい爪痕が確認できますよ。それに、どこかにあるとされる魔神の封印を、代々続く秘密の部族が、長きに渡って厳重に守っているそうです」
「えええええーーー??」
「ねえ」
そこでミラがやんわりと声をかけた。
「そのお話、今しなくちゃ、いけない?
お片付けしてからにしなぁい?」
ミラが苦笑して視線を投げかけた先は、椅子や卓が倒れたまま放置されている店内。そしてさりげなく、ハルトの肩に手を置く。掌から伝わる、温かさ。労り。
ハルトはその手の持ち主を見上げた。姉のような女性は、優しく微笑みかける。膝の上にも重たい温もりがあって、すっかり退屈したアルグが、羽毛に首を埋めて目を瞑っていた。
ハルトはその背を指先で撫でる。
どちらも、本物だ。
それぞれ顔を見合わせる店内に、反対する者はいなかった。
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