第4話 魔神の鍵
既に閉店した金枝亭の食堂は、照明を落とされて薄暗かった。掃除のため卓の上に椅子の乗せられた店内の片隅で、残された橙の光に照らされ、サビーノが己の腕を枕に幸せそうな寝息を立てる。
その肩を軽く揺すって、ミラが声をかけた。
「サビーノさん。もう、起きて。
寝るなら、自分の部屋へ行ってくださいな」
「ぅにゅむむ……。
ミラちゃんも一緒ならそうするぅ……」
「そんなことばっかり。
からかわないでください」
へへへへ、と緩んだ笑みを浮かべて、サビーノは肩にある手を取り、頬ずりしようとする。ミラは困りきって、やんわりと酔っ払いの手を解いた。
そんなやり取りを聞きながら、鈴を鳴らし、ハルトは店の扉を開けた。相手は誰であれいつもと変わらない景色に、強ばった心が少しばかりほぐれるようだ。そっと息を抜く。
直ぐに気付いたミラが振り返って、瞬きした。
「あらハルくん。どうしたの? 忘れ物?」
ハルトは閉まる戸口を背に、首を横に振った。
何と言っていいのか分からなかった。ハルトにだってまだ整理しきれていないのに、何が言えるだろう。途方に暮れて、ただ今あった事実だけを小さく口にする。
「家が、めちゃくちゃで……」
ミラは正面から向き直って、また瞬きした。その短い言葉だけで、面倒見の良い姉として幼少期より長く付き合いのある彼女は、大体の状況を察した。
「まあ、大変。
どろぼうかしら。
恐かったでしょう。大丈夫?」
無事を確かめるように、ハルトの両肩から腕を優しく撫でる。そしてその手を引いて、サビーノと同じ卓の椅子に座らせた。ミラ自身は頻りに手を動かしながら、店内をうろうろきょろきょろする。
「とりあえず、座って。落ち着きましょう。
お茶を入れて……ああ、違うわ。こういう時は、警備隊に通報するのかしら。ううん。とにかく、まず、お父さんを呼んでくるわね」
ハルトは自分よりも狼狽えて、一人あわあわとするミラを目で追った。
泥棒、ではないような気がする。しかし家から何か盗っていったのだと考えると、そう言えるのだろうか。ただ警備隊は違うかな、と思う。分からない。
他に頼れる所も無くて、何はともあれここに戻って来てしまっただけだ。ハルトにだって考えがあるわけではなかった。どうしていいのか、さっぱり分からない。
ハルトは無意識に、胸に下げた袋を確かめるように、服の上から指先で撫でた。
ミラが一つうなずいて、珍しく早足に厨房へ向かう。
その時、
——キィ……。
と、扉が開いた。
「?」
鈴が鳴る。目を向けると、薄く開いた扉から入ってきたのは、ハルトよりは少し上、ミラよりは下くらいの年齢の、女の子だった。
夜の闇に溶ける黒く沈んだ色のワンピース。顔を上げるのに合わせて、黒く長い髪が揺れる。真っ先に目を引くのは、鍔の広い、三角に尖った先端が折れて下がる帽子。そして左の頬に描かれた、まるで泣いているかのような、一雫の青い水滴。
少女は似合わない——わけではないが、年齢には不相応な化粧をしていた。目元を桃色に飾られた印象的な菫の瞳で、店の中をゆるり見渡す。ハルトは小さく息を呑んだ。
(綺麗な子。でも、こんな時間に一人で? お客さんかしら)
「ごめんなさい。もう、終わりなの。
それとも、宿の方にご用かしら?」
厨房へ行きかけていたミラが振り返って、丁寧に——それでも普段よりはいくらか余所に気を取られながら対応する。少女は声をかけたミラにちらとだけ視線をやり、直ぐにそれをハルトに据えた。
「いいえ。私は客じゃない」
さくらんぼ色に艶めく真っ赤な紅をさした唇で、静かに言う。
——あれ、この
花のような声。まっすぐ見据える菫の瞳。
見覚えがあった。
どこで見たのだったか。
あまりにじっと見つめられ——というより睨まれるので、居心地が悪く上手く考えられない。目を逸らしたいのに、彼女の真剣さがそれを許さなくて、ハルトは息を詰めて固まるより他なかった。
——そうだ。化粧と帽子は無かったけれど、今朝、広場で、具合の悪い男の人と一緒にいた……。
「あなた」
ゆるりと腰に手を当てて、少女は言う。
「どこに隠したの?」
「…………?」
なにが、だろうか?
ハルトは咄嗟に反応できなかった。
藪から棒に言われても困る。なんのことか分からない。そもそも初対面と言っていいはずだ。それなのに扉を開けた瞬間から、彼女の目的はハルトだった。
(あの家には無かった。
ならこの子が持っているか、隠したか。
もしかしたら何も知らないのかも。
どちらでもかまわない。
魔神の封印を解く鍵……。早く見つけて、ギイド様にお届けしなくちゃ……)
問えば、その質問の意図を少なからず思い浮かべるものだ。ハルトはそれまでの不安もあって、自然と、少女の足りない言葉を、心を覗いて補ってしまった。
僅かに、目を見開く。
「〈鍵〉を、探して……。
きみが、家を……」
そして、思わずつぶやいていた。
少女の目がすっと細くなる。
「やっぱり。多少の事情は心得ているのね。
そう、〈魔神の鍵〉よ。
持っているのなら、今、直ぐ、出しなさい。
痛い想いをしたくはないでしょう。あの家のように」
言って、赤い唇の端を上げ笑ってみせる。その声には、すごみがあった。張り詰めたような必死さが滲む。余裕ぶって振る舞っていても、叶わないなら強引に押し通すという強い意志が、ひしひしと感じられる。
その心中にあるのは、(ギイド様の御為ならば……)という、今朝と同じ一途な想い。
彼女はその想いだけで、ハルトの家をあそこまで荒らしたのだ。きっとここでも同じことができる。言葉通り、物に限らず人にだって。恐らく、〈鍵〉を欲しがっているのはこの子ではないのだろうと、ハルトは思った。けれどあの黒い男が求める限り、求めるままに、彼女はなんでもする。この子は——危ない。ハルトは急に背筋が寒くなった。
慌てて首を左右に振る。
「し、知らない。持ってない。分からない」
「そう……?」黒衣の少女は小首を傾げて、ハルトを値踏みするように見た。
(とぼけるつもりね。なら……)
とぼけるもなにも、ハルトは何も知らない。変な鳥に余計な話を吹き込まれただけだ。そのせいで彼女が、アルグの言っていた「悪い人たち」だろうと分かる。〈魔神の鍵〉が何を意味するのかも知っている。けれどもそれがどんなものなのかとか、どこにあるのかとかは、本当に知らないのだ。
ハルトは焦った。心臓が強く速くなる。だというのに、少しも分かってもらえた様子がない。千切れるかと思うほど、さらに激しく首を横に振ってみせた。
彼女が次に取る行動が分かるのだ。
少女は無造作に、掌を下に向けて前に差し出した。それだけで、ハルトはびくっと肩を震わせる。
床の上、ほとんど暗がりになってわだかまる影の中から、水面に顔を出すように、何かが浮き上がった。ゆっくりと伸びて姿を現す、それは杖だ。表面に星屑を散りばめたような黒色の柄。その三日月のような弧を描く先端の内側に、多角形に美しく切り揃えられた水晶が付いている。
少女は手元までせり上がったそれを掴み取ると、躊躇なく先端をハルトに向けた。
目の前で起きた現象に目を奪われていたハルトは、もう一度椅子の上で身を硬くして跳ねさせた。瞬きもできずにごくりと喉を鳴らす。
空いた手で、少女は己の肩に掛かる黒髪を、優雅に背に流した。
「私は魔女、ヴァイオレット。
もう一度だけ聞いてあげる。
私の探している物は、どこにあるの?」
——恐い。
ハルトだって、知っているならもう教えている。あるいは、知っていたら他にもっと手立てがあったのかもしれない。そんな切羽詰まった一心で、ハルトは魔女と名乗った少女が思い浮かべる〈それ〉を『見た』。
「えっ……」
目を見開く。
〈魔神の鍵〉とは、透明な楕円の石だった。
淡く色づいた宝石のようにも見えるけれど、普通の人には価値の無い、ただのガラス玉。それが細かな金の細工が施された縁にはめ込まれている。
ちょうど——、
ハルトの胸にある袋の中の飾りのように。
思わず、ハルトはそれを見下ろして、指先で触れていた。
——これが、鍵……?
あからさまなその仕草に、少女が気付かないはずがなかった。
真っ赤な唇を吊り上げて、
魔女は、笑った。
「そう……持っているのね」
それは、底冷えのする笑みだった。
ハルトはほとんど反射で、自衛本能で、胸にある石を服の上から握り、僅かに身を引いてしまった。
「あ……」
その行動は、拒絶に見えたことだろう。
魔女の目が冷酷に細まる。
「そのつもりなら、かまわないわ。
いらっしゃい、おまえたち」
杖をとん、と木製の床に静かに落とす。
すると、
菫色の光を放つ、複雑な模様の円が瞬時に床に描かれた。
そしてわき出る。
正面と左右の影の中から。手が、腕が、頭が。まるで地中深くから這い出るように。異形の姿が——。
それは体格のがっしりした、ハルトよりも遥かに背の高い、大男のような風体だった。しかし到底、人間には見えない。ずた袋に同じ袋で手足を付けたような、太いばかりで緩い間接。頭があるべき箇所はただ大きく盛り上がり、そこに大きな一つ目がまるで筆で落書きしたように描かれている。暗い灰色の体にも同じ筆の模様が走る。目の下にある口ばかりが、歪に並ぶ歯や赤い舌が生々しく、不気味だった。
ハルトはそそり立つ巨体を見上げ、声を失いぽかんと口を半開きにする。
正面に真っ先に這い出た一体が、太い腕と大きな拳を振り上げて、手近にあった卓を叩き割った。
「ぼああぁぁぁあ!」
「わっ!」
「キャーー!」
「なんだなんだ?」
崩れる椅子。厚い合板が胸を逆撫でする音を響かせる。異形の怪物が両腕を振り上げ、びりびりする声で吠えた。
ミラが堪らず悲鳴を上げる。ハルトはあまりのことに後ずさろうとして、椅子ごとひっくり返った。場違いな寝ぼけ声は、さっきまですやすやと寝息を立てていたサビーノだ。
見た目は大きいだけで、それほどおどろおどろしくはない。しかしその怪力は充分以上に脅威だった。その目が——というより巨体そのものが、主である魔女の命令に従って、ハルトに狙いを定める。
座り込む視界いっぱいに、腕を伸ばして迫る怪物。
ハルトはぎゅっと目を閉じた。
「やあ!」
ばきッ!
どがしゃあ!
予想した痛みや掴み上げられる感覚は訪れず、代わりに閉じた暗闇に物騒な音が響き渡った。再び上げられたミラの悲鳴や、驚いたサビーノの声も気になって、ハルトは恐る恐る瞼を持ち上げる。
そこには、立ちはだかる少女の後ろ姿があった。
キィナだ。
彼女が前髪の奥にある目線を投げかける先には、机や椅子を薙ぎ倒して埋もれる怪物の姿がある。
(なんだろう、あれ。これ、どういう状況?
よく分かんないけど、ご飯くれた恩人さんが危ないなら、助けないとだよね)
怪物が起き上がろうともがく。別の二体もキィナの存在は無視できないと判断したのか、それとも命令か、吠えて細身の少女に襲いかかった。
油断なく周囲に視線を走らせ、
キィナはすばやく左手を振るった。
そこから飛び出した二本の小刀が、埋もれる怪物の頭部を貫く。続いて後ろから横薙ぎに迫る彼女の胴体ほどもあろうかという太い腕を、身を低くしてまるで踊るようにかわす。
そして一閃。
いつの間に、どこから取り出したのか。右手にした包丁よりも長い刃物が、怪物の胴を切り裂く。ハルトには一度振るったようにしか見えなかったのに、切り口はバッテンになっていた。
さらにもう一体。
背後から来た怪物の肩から首——頭の間に、振り向き様、浮き上がった足蹴りをなんと両足分あびせる。軽い体重にもかかわらず、そうして巨体を床に沈めると、手にした刃で止めを刺す。
怪物たちは切り裂かれた作り物のような傷口から、血ではなく、黒い霧のようなものを拡散させて動かなくなった。ほどなく縮んで、後には人形が残る。
「なっ、なっ、なっ……!」
目にも留まらぬ早業だった。
ハルトを始め、ミラも、娘と手を取り合って壁際にいる店主のナラハも、机や椅子が倒れるのに巻き込まれてそこに身を隠すサビーノも、何も言えない。
一人棒立ちになった魔女ヴァイオレットでさえ、口をぱくぱく目をぱちくりさせていた。
立ち上がったキィナが再びハルトとヴァイオレットの間に立って、右手に持った刃の切っ先を、鋭く魔女に向ける。
魔女は一度びくりと肩を震わせたものの、気を取り直して「ふん」と鼻を鳴らし、余裕の笑みを浮かべてみせた。——精一杯の強がりだ。ハルトには分かる。こんな事態はまるで想定していなかった。動揺して、焦りを感じている。
一方で。
もう一人の少女の後ろに座り込んでいるハルトには、見えていた。下げた方の左手に握られた刃。その切っ先が、微かに震えている。その、心も……。
「恩義ある方々に危害を加える不届き者め!
これ以上蛮行を続けるならば、わたしが相手になる。かかってこい!」
息を吸った時には腹を据え、声を発した時には力が籠もる。それは勇ましい宣言だった。その気勢に気圧されて、魔女はぐっと顎を引き奥歯を噛みしめる。そして睨む。忌々しく。綺麗に整えられた目元を歪めて。
「なに言ってるか分かんないのよ、イモ娘!」
「!」
固く握った杖を、大きく振るう。
菫色の円が空中に現れ、それと同時に、キィナの軽い体が横手に吹き飛ばされていた。盛大に椅子を卓を巻き込む。
驚いている暇もなかった。
見ていたハルトもまた、何かに押されたように後ろに飛ばされる。ばしゃん! と間近に聞いた音で、濡れた服の感触で、飛来したそれが水なのだと分かった。
再び床に倒れ、胸を強かに打ったこともあって息が詰まった。苦しい。せき込む。起き上がれない。
その首から、するりと、何かが抜けた。
細い革の紐。その先に付いた茶色の袋。
いつも首から下げていた、大事な守り袋。
それが宙に浮かんで、行ってしまう。
「——ッ!」
咄嗟に手を伸ばした。
息はまだ苦しく、体に力が入らない。
手は虚しく
変わらずふわふわと漂い進む袋。
無理に起きようとした反動で体勢を崩して、今度はうずくまるように転がった。
袋を手元に呼び寄せた魔女が、中から桜色の石を取り出して、ほくそ笑む。
(やった。見つけた。手に入れた!
これでギイド様も喜んでくださるかもしれない)
苦しさも忘れて床から顔を上げるハルトには、桜色の石を掲げて真っ赤な唇に笑みを乗せる魔女の横顔を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。その頬にある印は涙の形なのに、唇だけ笑っているのが、何故だかひどく歪に感じられた。
そうしてちらりと、床に伏すハルトに視線を寄越す。
「必死ね。でもごめんなさい。
これは私がもらっていくわ。さよなら」
魔女は長い髪を翻し、未練なく戸口へ向かった。魔法で触れずに扉を開く。悠然と出て行く。行ってしまう——。
そう思ったら、体が動いた。
「待って! 違う! それは……!」
けれども足に力が入らなかった。
立ち上がるのもままならずに、今度もまた無様に転ぶ。叫ぶ声さえか細く掠れて届かない。気持ちばかりが急いて、何もできない。
見つめるうち、扉は音もなく閉じた。
「待て!」
そんなハルトの横を、疾風が駆け抜ける。
漸く椅子の山から抜け出したキィナだ。
外からも物音が聞こえた。
「きゃっ! なにっ? 鳥?!」
ギャーギャーとうるさい鳥の鳴き声に混じって、バッサバッサという羽音。
キィナが勢いよく外へ飛び出した瞬間。
「気持ち悪い!」
鳥が短い悲鳴を上げ、出たばかりのキィナにぶつかった。思わず受け止める。今度こそ、誰かが表を走り去った。
——行ってしまった……。
頭が真っ白になる。
思考というものが、全部、抜け落ちてしまったみたいに。声が、物音が、ハルトの頭上を素通りする。いったい、なにが、起きたのか。何も考えられない。
——何も、分からなかった。
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