第二章

第3話 影

 『遅かったな、少年。待ちくたびれたぞ』

 夜も更けて、近所の家の灯りがぽつりぽつりと消え、町が静けさに包まれる時刻。

 仕事を終えたハルトが自宅に帰ろうと宿の裏口から通りに出ると、羽ばたきと声が頭の上から降ってきた。

 危なっかしく翼を広げて向かいの家の黒い鉄柵に降り立つ。それは他でもない——他にいたら困る。夜の暗闇にその鮮やかな色合いはくすんでしまっているものの、真っ赤な翼を持つ鳥、自称偉大な魔術師のアルグだ。

 待ち伏せしていたらしい。

 ハルトは目をぱちくりとさせて立ち尽くした。

『その表情かおは驚いているのか?

 諦めて、どこかへ行ったとでも思ったか?

 まさか。貴重な手掛かりだというのに、みすみす手放すわけなかろう』

 と、アルグは勝ち誇って言った。いつかのように胸の羽毛を膨らませて、嘴を反らしてみせる。

「…………」

 遅い——と言われてしまったけれども、これでも今日はいつもより早く終わったのだ。ハルトは小首を傾げて、頭の片隅で思う。昼間、宿の部屋を与えられてからずっと眠っていたらしいキィナが、夜になって起き出してきて、閉店後の片付けを替わってくれたからだった。

 ハルトは徐に鳥に近付き、そっと手を伸ばした。滑らかそうな翼に触れる。想像通り、指先に心地良い感触があった。

『?』

「本物だ……」

『!』

 思わず、呟きが口から漏れる。

 実のところ、少し、疑っていた。

 遅刻してしまったせいもあって、必死で働いている時は考える暇もなかったけれど、一段落して落ち着いてから思い返してみると——あれは、幻だったのでは。と、そう思えてきた。見聞きした事の全てが、ハルトがこれまで過ごしてきた現実と、あまりにかけ離れていたせいだ。

 〈天恵〉とは、未だ原理の解明されていない不思議な力だ。それが、見慣れない鳥や夕暮れ刻の神秘的な雰囲気と相まって誤作動でも起こし、ただの鳥の声をああいう風に聞かせた、幻聴、なのではないか。きっと、そうだ。半ば本気で、思い始めていた。

 不意に、アルグが手の甲をかじった。

「いたっ」

 手を引っ込めると、呆れた眼差しが出迎える。耳聡く、呟きを聞き取ったらしい。ため息を吐く。

『その痛みも夢ではないぞ。

 まったく。せっかく天から授かった才能だというのに。時に目の前の現象を疑うというのも必要かもしれないが、己の感覚まで信じられないのでは。感心せんよ、少年』

「はあ……」

 ——それはそうかもしれないけど……。

 その不可思議な現象である当のトリに指摘されると、どうにも複雑な心境になる。

 アルグは鼻から息を抜いて軽く飛び立ち、ハルトの肩へ腰を下ろした。あしゆびが肩を掴む感触。上手く体勢が保てないのか、羽音をさせてのしかかる。ハルトもその重みに背中を丸めた。

 無理矢理落ち着いたところで、アルグが「ジェー」とひと鳴きし、外側の翼で進行方向を指し示す。

『さあ少年。もう帰るのだろう。

 君の家まで案内してくれたまえ。

 それともまだ協力してくれないか?

 私は確かに得体の知れない鳥かもしれないが、幻ではないぞ』

 始めはそれまで通り自信満々、偉そうに言い放ちながら、最後には探るような群青の眼差しでハルトの顔をのぞき込む。すねたような口調がおかしかった。

 肩に乗る重み。温かさ。

 言葉に合わせた大袈裟な仕草。

 さすがにもう、本物と信じないわけにはいかない。

 ハルトに大したことはできないが、通訳ならよくさせられるし、家に連れて行くのだって難しくはない。人だろうと鳥だろうと、困っているなら助けないと。

 そもそも、だ。

 このトリさんは、ここで拒否しても勝手についてくる。ハルトにはそれが、はっきり、しっかり、分かった。

「行こう」

 アルグを肩に乗せたまま——歩調に合わせて飛ぶ自信がないらしい、ハルトは歩き出した。

「でも、お父さんがいたか、分からないよ」

『それも考慮の上だ。

 遺品くらいあるだろう。見てみる価値はある』

「探すのは、明日から」

『あまり悠長に構えてもいられないが。まあ、仕方ない。この暗さではな。

 それにしても、父親と違って、君は少々覇気に乏しいな』

 なんでもないように肩の上で囁かれた言葉に、ハルトは瞬きする。首を捻ってアルグを見た。

「会ったこと、ある?」

『ん?』(やはり父親の事は気になるか?)

 アルグは目を細めて見つめ返すと、言った。

『少しだけ。一度、短い時間、言葉を交わした程度だから、知り合いとは呼べないが』

 言葉を切って、ハルトからどこか遠くへ目を滑らせる。

『情熱の塊みたいなヤツだった。

 はっきりとものを言うヤツだった。

 そうだな。言われてみると、面差しが君と似ていたかもしれない……』

(私にとっては……意味のある邂逅だったが、あれにとってはどうだったのだろうな)

 その日を想い、懐かしむように。

 こうして触れているから、その胸の内が流れるように伝わる。人となりまではよく知らないのだけどなぁ、と頭を悩ませながら、できる限りを教えてくれようとしている。色褪せてはいるけれども、確かな情景。

「…………」

 父の事を、母もそんな風に言っていた気がする。好きな事の話をする時は、いつも目をきらきらと輝かせて、子供みたいだった、と。

 一方で、母が語る人物像とは違う印象も受けた。母以外の人から父の話を聞くのは初めてで、それはなんだか、不思議な感覚だった。絵の中の人物を、反対側から盗み見ているような気分だ。



 そうして話しているうちに、やがて島の外側——それもそこから先はもう地面が無い、夜の大空へ飛び立つか、地上へ真っ逆さま落ちるしかないという、島の縁へと行き着いた。

 この辺りは縁の直ぐ側まで町が迫っているので、歪な絶壁に沿って落下防止用の丈夫な柵が設けられている。

 島の外は暗い。下を覗き見れば何もない、全てを呑み込む真っ暗闇。それでも夜の空には星の粒が散らばっているから、ハルトはきれいだなと思う。地平線へ目をやってその境を探すのも、ちょっとした楽しみだ。

「——あそこ」

 ハルトがまっすぐ指で示したのは、星空ではなくその手前にある、黒々とした影の塊だった。小さな家の、三角の屋根の形が浮かび上がって見える。

 アルグもまた目を向けて、首を傾げた。

『あれは、離れ小島ではないか?』

 ハルトがうなずくのを確かめてから飛び立ち、ぐるりと一周その敷地を巡る。

 小さな家だった。ただ独立してそこに一軒だけあるから小さく見えるだけで、町中の民家と大きさにそう違いはないだろう。一般の家族が暮らすには充分な、ハルト一人には広すぎる家だ。

 その家は——島の外側にあった。文字通りコードリッカ本島の外、ほんの少し離れて浮かぶ小さな島に建てられている。小振りな家を建てても、その周りには手入れの行き届かない草がのびのびと育つだけの余裕があり、また裏手には、母が生活の足しにと野菜を育てていた花壇と物干しがある。

 とはいえ、それだけといえばそれだけの面積しかない小さな島だった。当然厚みも本島とは比べものにならない、心細いほどの薄さしかない。

 戻ってきたアルグが空中で羽ばたいて、「ジェー?」ともう一度尋ねた。

『離れ小島だぞ?』

「…………」

 言いたいことは分かる。

 普通あんな所に家を建てたりしない。否、しないものらしい。物心付く前からあそこに住んでいるハルトにとっては、初めから当たり前にあったものだから、よく分からないのだけれど。

 コードリッカくらいの大きさの島になれば、本島から分離したような小さな島が周囲に漂っているのは、普通のことだった。ただそれらの島は小さいこともあって、風の影響を受けやすい。揺れる上、一所に留まらないことも多く、悪くすれば強風に吹き飛ばされてどこかへ行ってしまう。そんな所に、日頃利用する建物を置こうなんて考える者がいないのは、当然だった。住居ならばなおさら。アルグが目を疑う気持ちも分かる、というものだ。

「係留してあるから。嵐は、避難するし」

 小島の手前で足を止めて、ハルトは島と島との隙間を指さした。今は暗くてよく見えないが、そこには風に揺れて擦れる、太くて頑丈な鎖があった。向こうへ渡し架けてある橋にしても、ハルトでさえ三歩ほどで渡りきれる長さで、それなりに丈夫に作られている。定期的な点検だって————怠っていない。

 それでも嵐や大風の時は大いに揺れもするので、念のため、金枝亭に避難させてもらっていた。とはいっても、嵐が去った後に家が壊れていたことはあっても、小島がどうこうなっていたことはないのだった。飛翔石を多く含む岩石は、わりと丈夫だ。

 問題があるとすれば、水汲みが少々面倒なことくらいだと、ハルトは思っている。

「嵐の度に避難しなければならない時点で、住居としてどうかと思うが……。

 物好きなのだな」

 橋の手摺りに降りたアルグに呆れ声で言われて、ハルトは首を傾げた。

 そう言われてみると——、

 どうしてここに住んでいるのだろうか?

 家を決めたのは母だろう。あえて聞いてみたことはなかった。恐らくちょうど空き家だったとか、家賃が格安だったとか、そんなところだろうとは思う。けれども、探せば他にも良い条件の家はあったはず……。

 ——もしかして、本当に、お父さんが住んでいたのかな。お母さんはそれを知っていて、ここを選んで——ここを目指して移り住んだ……?

 そう思ったら、いつも通りの慣れ親しんだ我が家が、急によそよそしく見えた。形は変わらないのに、長く過ごした時間がすれ違っていたような、据わりの悪さを覚える。

「…………」

 ハルトは頭を振って、さっさと橋を渡った。

 玄関の扉に手をかけ、いつものように誰もいない空間に声をかけながら戸を開く。

「?」

 一歩踏み込んだところで、違和感に気付いた。

 雨戸を閉め切った室内は暗闇に沈んでよく見えない。直ぐ脇の棚に置いてある角灯に明かりを灯して掲げ見る。

「————」

 ハルトは息を呑んだまま、動けなくなった。

『どうした——これは、ひどいな』

 開け放した扉の隙間からすーっと中へ入って、アルグが部屋の中央にある食卓の上へ留まった。そこ以外に、留まりやすい場所が無かったとも言える。

 室内は、めちゃくちゃに荒らされていた。

 ——え? え? え? なにこれ……?

 椅子が倒れている。床は足の踏み場もない有様だ。今朝はなんともなかった。片付けはあんまり得意ではないものの、ちゃんと片付けてから出掛けた。そもそも、物が少ないのだ。それが、こんなにたくさん、どこにあったのかと、ただただ驚く。全ての棚や引き出しが開け放たれ、床に丸ごとひっくり返してぶちまけたみたいになっていた。みたいではなく、そのまんまだった。

 ——なに、これ?

 なんで、こんなことになって? どうして?

 きっと他の部屋もおんなじだ。泥棒だってこんなことはしない。なら、いったい、誰が——。

『先を越されてしまったな。

 やはりこの島で間違いなかったようだ』

 ハルトは、アルグを見た。

 そうか、と思う。

 それから手に持ったままの明かりで周りを照らして、改めて惨状を見回す。

 これは、アルグが言っていた悪い人の仕業なのだ。どうにかしてこの場所を突き止めて、目当ての品を探していった。何かの手掛かりになる資料とか、よく分からない〈鍵〉とかいうものを。

 それは、見付かったのだろうか。

 そこら中に散乱する物は、衣類や日用品ばかりに見える。調理器具。普段使いの皿や湯飲み。服。割れた花瓶。自分で彫った木の人形。紙の束。

 それから——花の模様のお皿。母が気に入って、大事にしていた。割れている。

 ひだ飾りのある膝掛け。これも母の物。寒い日に、手仕事をするとき使っていた。

 壁に掛けられた絵。父の絵。引き裂かれて傾いている。他にも、たくさんの絵がばらばらに舞い散らばる。あれらは、母と一緒に、季節ごと選んで掛け替えていた。小さい頃から、広げて眺めて——。

 そんなものばかりが目に付く。

 それらは引っ張り出されただけではなく、苛立ちに任せてわざと壊したようにも見受けられた。

 もやもやする。

 胸の底に、重たい石のようなものが沈んでいく心地がした。

『それにしてもやり過ぎだ。

 何がどうなって手掛かりになるとも知れないのに。貴重な資料まで損なわれていたら、どうしてくれる』

「——しりょう……?」

 その掠れた声が自分のものだと気付くのに、数秒かかった。ハルトは顔を上げて赤い鳥を見る。群青の瞳と目が合うと、鳥は首を傾げた。

『気に障ったか?』

 首を勢いよく横に振る。

 少し労りに欠ける言葉。普通ならそれは、内に止めておく本音なのかもしれない。しかしハルトには同じことだ。どうせ聞こえる。だからそれを口にしたところで、明け透けな人柄を良く思うことはあっても、悪く思う理由にはならない。

 ハルトが気になったのは、

 「資料」という単語。

 ハルトはしゃがむと明かりを床に置いて、絵を一枚手に取った。どこかの風景が描かれているその絵は、空の青と萌える緑の対比がとてもきれいで、気に入っていた。踏みつけた靴跡がある。

 漠然と思う。

 ここに散らばっているのは、資料じゃない。

 食器も、服も、道具も、絵も、手帳も、ぜんぶぜんぶぜんぶ。「資料」なんて冷たいモノではなくて、ハルトにとって、その一つ一つが、些細な思い出。記憶の欠片。それらが集まって作り上げられるこの場所が、何かとても尊いもので、大切な生活そのもの。

 それを踏みにじられて、汚された気がした。

 無性に、悲しい。

 どうして……と思う。

 理由は分かっているのに、どんなに説明されても、きっと分かりそうになかった。

(——しかし、いつ荒らされたのか。

 魔法の痕跡は昼間のもののようだが。

 いずれにしろ——)

『少年。ここは見張られている可能性がある。離れた方がいいかもしれない』

 警戒の色の濃いその声に、ハルトははっとして顔を上げた。

 確かにその通りだ。そう思うと、気味が悪かった。

 ハルトは手近に落ちていた鞄を拾って、着替えや下着など、目に付いた必要そうな品を詰め込んだ。ちょっと頭があんまり働いていなくて、変な物も混じっているかもしれない。ともかく支度を済ませると、急いで戸口へ向かう。そこで一度振り返る間に、アルグがするりと先に出る。

 悲しい光景があった。

 振り切って、扉を閉める。

 鞄の紐をぎゅっと握り、足を動かす。

 さっきまではなんでもなかった夜の闇が、重さを持ったように澱んで見えた。視界の端で、木陰が不気味に蠢く。

 ハルトはやや下向きに視線を定め、足早に町を行き過ぎた。

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