第36話

 ヴァイオレットは瞬きしてそれを見上げた。

 真っ赤な鳥が悠々と翼を広げて降り立ち、花開いた鍵にその足を掛けて、静かにこちらを見据える。月明かりに照らされて、神秘な現象とさえ思わされる。ただし、正体を知らなければ、だ。

「……ヘンタイとり?

 どこへ行ってたの」

『またそんなヒドい呼び方を……』

 せっかく格好つけて登場したのに、がくっと肩を——嘴を落としたのでは台無しだ。アルグは嘴の中でぼやきかけたものの、直ぐに頭を上げ——始めよりもさらに上げて、気を取り直した。

『どこでもいいだろう。

 それより、今までご苦労だったな。これは私が貰っていく』

 おかしな態度だった。他人行儀というか、いつになく尊大で、声まで固く重々しい。

 ヴァイオレットは怪訝に眉を寄せた。

「どうしたの? 怒ってるの? それならむしろ、わたしの方ではない?」

『怒っているも何もない。忘れているようだが、私と君は仲間ではないし、友達でもない。

 ギイドは私の敵だぞ』

「……っ」

 そうだった、と思う。

 始めはきちんと警戒していた。それがいつの間にかこのトリの調子に乗せられて、馴れ合ってしまっていた。油断ならない奴だと、分かっていたはずなのに。

「……わたしたちを利用していただけだと言いたいの?」

 気持ちが上手く立て直せなかった。ヴァイオレットはとにかくも頭に浮かぶ言葉を口にする。声が弱い。うつむいてしまいそうな眼差しを、強いて上げる。

『そうだな。お嬢さんは少々頼りなかったから、どこまで使えるか心配だったが。思ったより上首尾で助かった』

「鍵が見付かったから掌を返すのね。

 黙って見過ごすと思う?」

 不可解そうに、赤い鳥は首を傾げた。

『違うのか? これ以上ギイドと関わるのは止めるのだろう。それなら、これはもうお嬢さんには必要ない物のはずだ。私が貰っても構わないだろう』

「それは……っ」

 虚を突かれて、まともに狼狽えた。何を言うつもりか、咄嗟に口を開いたその瞬間。

 目の前で光が弾けた。

 目が眩んで、顔を背ける。何が起きたのか。ヴァイオレットは屋根から滑り落ちないようにするので精一杯だった。

 トリの鋭い鳴き声と羽ばたきが聞こえる。

 細めた眼に見えたのは、何事かによって体勢を崩したアルグが、慌てて翼を広げたところ。その足が透明な石を蹴る。石が外れて、屋根の頭頂から転がり落ちた。

「!」

 ——割れちゃう!

 考えるより先に手を伸ばす。

 金の縁に指先が掠めただけ。

 ヴァイオレットは体を支えきれずに、落下した。

 背中を打つ。痛い……より苦しい。咳をしているうちに、さらに何かがお腹を直撃した。出し抜けな衝撃に息が詰まる。今度こそ、痛い……。

 お腹をさすりつつのろのろと瞼を持ち上げて、落ちてきた物を確認する。魔神の鍵が体の脇にあった。水色のガラス玉は傷一つ無く無事だ。ヴァイオレットはまじまじと見つめてしまった。

「あらまあ、すっごく痛そう」

 嬉々とした声に慌てて起き上がろうとするも、細長い物を肩に押しつけられて乱暴に地面に戻された。

「まだ寝てていいのよ」

 肩にあるのは杖だ。華美な装飾の白い杖。

 打ち付けられた反動で手元が弛み、鍵が滑り落ちてしまった。あっと思い手を伸ばす間もなく、杖の持ち主が屈んで拾い上げた。

「今度は本物よね」

 その動作を追って見上げる。どうしてこんな時間にこんな所へ突然現れるのか。杖を離さず、片手で鍵を持って確かめる人物は、ピエルタだ。

「見付けてくれてありがとうね、マリー」

 薄茶の眼差しをヴァイオレットに向け、可愛らしく笑ってみせる。その隙をついて杖を払い除け、無理矢理に体を起こして手を伸ばした。

「ダメ!」

 ピエルタは口元に笑みを浮かべたまま、踊るように身を翻してその手をかわす。そして屋敷の方へ行ってしまった。ヴァイオレットは湿る芝の上に四つ這いになって、その背を見送る。

 ——いつかの逆だ。

 妙に冷静な頭がそんなことを思う。

 裏庭はいつの間にか魔法で出された明かりによって照らされていた。何カ所かに据えられた淡黄色の光では、漂う雲に色を添えるだけで、夜の闇を払うまでには至らない。それでも、少し離れて立つ人物が誰かは分かった。ネイギが腕を組んで、お決まりに眼鏡の位置を修正する。そこへピエルタが弾む足取りで鍵を持っていった。

「どうぞ、ネイギさん」

 歩調と同じく、弾む甘えた声音。

 ネイギは受け取ると、それを指で挟み持ち、明かりに透かして入念に調べた。

「貴方がたが取り合うのなら、これが本物なのでしょう。

 しかし良くないですよ。仲間割れは」

 目を上げて笑う。ここでも外行きの、行儀の良い笑顔だった。

「…………」

 ヴァイオレットは膝を突き、手をついて立ち上がる。そこにアルグがやってきて、肩に留まろうとしたので身を捻って避けた。当ての外れた赤い鳥はばさばさと翼を動かして、横にある東屋の彫刻の上になんとか着地。一つ跳ねて向き直る。

「アマランジル・アルグカヌク。

 やはりいましたね」

 横目にそれを見遣って、ネイギが言った。

「事前に情報を得ていたのです。

 それによると、赤い鳥の横には、長い黒髪の女の子がいたそうですよ。マリーさん、ちょうど貴女のような。

 まさかとは思いましたが、ここはアルグカヌクの知り合いの住まいでもありますからね。狡賢い師匠の尻尾を掴むなら、弟子を追えばいい。見張っていて正解でした」

 得意げに笑みを深くするその手には、魔神の鍵を持ったままだった。

 ヴァイオレットは言葉を探して逡巡する。そのうちに、

「ネイギさん。あんなに可愛いトリさんが、本当に噂の大賢者なんですか?

 信じられなーい」

 ピエルタが言って、カラスほどの大きさの鳥を、腰を屈めるようにして観察する。

「ええ、間違いありません。呪いで鳥になるところをこの目で見ましたから」

「すっごいですね! おっかしー!」

 手の平で口元を隠し、声を上げて笑う。

「でも変な鳥だし、美丈夫を想像して損しちゃいました」

「鳥でなくても、かなりのご高齢ですよ」

「あら、そうでした」

 ぺろりと舌を出す。一人で楽しそうなピエルタは、本当に鳥がさえずっているようだった。今度は指先を顎に、あさってに視線を投げかける。

「てことは、マリーはそのトリさんの弟子なのね? すごいじゃない! トリでも有名な賢者だものね! トリに何ができるか知らないけど!」

 ぽんと手を打ってまではしゃいでみせる。

 嘴を開け愕然とするアルグに、ヴァイオレットはまた先を越されてしまった。

『よ、よくもまあ、言いたい放題言ってくれるものだ。この間から、私の扱い酷すぎではないかっ? お望みとあらば、この大賢者サマの力、見せつけてくれる!

 魔神の鍵を渡すのなら、今のうちだぞ!』

 トリが鋭くもけたたましい声を張り上げ、片方の翼で魔法院の二人組を指し示す。それからくるりとヴァイオレットの方へ首を巡らせた。

『というわけだから、通訳してくれお嬢さん!』

「あはっ! なんか騒いでるけど、なに言ってるか分っかんなーい!」

 と、ピエルタはどこまでも楽しげだ。それがどうにも我慢ならないらしい。いつもとはトリの必死さが違う。しかしヴァイオレットは、きっぱりはっきり首を横に振り、断った。

「イヤ……」

 ——これも、いつかの焼き直しだ。

 でもヴァイオレットは、コードリッカの少年ではない。

 言いたいことは、自分にも、ある。

「わたしは……」

 言葉にしようとしたら、涙が溢れた。

 想いが先に滴となってしまったみたいに、次々と流れて声にならない。さっきので堰が切れてしまったのかもしれなかった。こらえられない。ぼろぼろと泣けてきた。

「お、おいっ。泣くほどイヤなのか?」

 珍しくまともに狼狽えるアルグに、また首を振る。向こうではネイギが不可解そうな顔をしているし、ピエルタが腕を組んで鼻で笑っている。ヴァイオレットは指先で涙を拭いながら、うつむいた。

 悲しいからではない。

 怒りもない。

 ただ、情けない。

 自分が本当に情けない。

 こんなにも明らかなのに……。それを口にできないなんて。拭えない不安が邪魔をする。また誤魔化してしまいたくなる。でも……——みんな勝手に、決めないでほしい。

 ヴァイオレットは震える唇を噛みしめ、目を上げると力を込めて言った。

「わたし、こんな変態で、意地悪で、屁理屈こねるトリなんかの弟子じゃない。仲間なんかじゃない」

「?」

 ネイギはさらに分からないと言うように、首を傾げて眉を寄せた。今は彼の手にある鍵さえ、どうでもよく思えた。

『この世で最も偉大な魔術師をつかまえて、その言い草はないだろう……』

 通じないのに、向こうの二人組を気にしつつ取り繕おうとするトリに、ヴァイオレットはもっと強く首を横に振る。

 聞き流せないくらいイヤなのだ。アルグでは、ダメなのだ。

「あなたじゃない。

 わたしにとって最も偉大はギイド様。

 わたしは——ギイド様の手下なの」

 こんな簡単な事なのに、口に出すのにはものすごく気持ちが必要だった。浮き島の端から飛び降りるくらいに。生涯の誓いを捧げるくらいに。

 ヴァイオレットは弱いから。

 自分の気持ちを認めるのにも、突き進むのにも、それくらいの覚悟が必要だった。

 流れる涙をそのままに、結んだ髪を解いて顔を上げる。自分が何者なのか、間違えないように宣言する。

「わたしはサウザング・ギイドの配下。魔女ヴァイオレット。

 その鍵はギイド様の物だから、あなたたちには渡せない」

「だれそれ?」ピエルタが計算した角度で首を傾げる。

「僕も初めて聞く名前です」首を傾げたまま、ネイギが頭を巡らせ考える。

『あれだけの事を仕出かしておいて、未だ無名なのだから、それはそれですごいな』

「…………」

 アルグまでがそんなことを言う。皮肉ではなく本気で感心しているようだ。無名なのは良い事だと思う。ヴァイオレットは素知らぬ顔でやり過ごした。

 ネイギが腰に片手を当てて、気を取り直す。

「知らない人物ですが、貴女がアルグカヌクと関わりないのは理解しました。

 ならば聞きますが、我々に刃向かって良いのですか? ここで我々を敵に回すということは、魔法院に楯突くことを意味しますよ。それは貴女の今後を左右するのではないですか」

 ヴァイオレットは眼鏡を掛けたキツネ顔を見る。

「聞きましたよ。貴女は学校を自ら放棄したそうですね。今なら戻れるように口を利いてあげられないこともない。我々に協力してくれたことにしましょう。鍵を見付けたのは貴女ですからね。ついでにそのトリを差し出していただければ完璧ですが」

 子供を懐柔するような笑顔を見せて言う。その表情をただ眺めた。

 アルグにはいろいろと手伝ってもらったし、ロジアムを紹介してもらったけれど、貸し借りで言ったらヴァイオレットは返される側だった気がする。それ以前に、この失礼なトリがどうなろうと、はっきり言ってどうでもいい。

 夜のように静かに澄み渡り、冷めた頭が思考する。

 ネイギは勘違いしているようだ。

 ヴァイオレットは学校に戻りたいとは少しも思っていない。ギイドと共にあるなら、ヴァイオレットが相手にしなくてはいけないのは、もうそんな次元ではない。

「……魔法院がなんだって言うの?」

「はい?」

 風に乗せた声は呟きのように小さくて、彼らにはほとんど聞こえなかったようだ。

 菫色の瞳を上げる。真っ直ぐに、ここではない一点を見据える。気負わず、ゆっくりと、一つ一つ言葉にする。

「魔法院なんて恐くないわ。

 魔神も恐くない。

 一番に恐ろしいのはギイド様だもの。

 あの方のためなら、わたしは——」

 以前のように、強気な微笑みを唇に乗せる。でもそれは、きっと相応しくない。ほんの一瞬でそれを収め、ヴァイオレットは最大限の誠意をもって言い切った。

「世界にだって喧嘩を売ってやるわ」

 ギイドの願いは世界の破滅。

 だから、それであたりまえ。

 そうでなければ、いけなかった。

 ヴァイオレットはコードリッカのようにたくさんの人が巻き添えになって被害を受けるような事態になれば、また胸を痛めるのだろう。悲しむのだろう。だって誰かの不幸を願うわけではない。どんな理由や信念があっても、正当化できることではないから。それをヴァイオレットはギイドのように割り切れない。そんな風には強くなれなかった。

 でも、もう目を逸らしたりしない。

 きちんと正面から向き合っていく。

 それでも、ギイドについて行きたいから。

 そんな忠義や献身も、あの方にとっては煩わしいもので、嫌悪するものだと知っている。なら始めから、悩んでも一緒だった。ヴァイオレットは難しく考えすぎていたのだ。

 勝手にしろと言うのはあの人だから、勝手にすることに決めた。

 勝手について行くと、決めた。

 それで依存とか言われてしまっても、自分ではよく分からないからもう知らない。

 ただ素直に、一途に……。

 己の気持ちを貫けばいい。

 ヴァイオレットは己の足下にある影から、三日月の弧を描く杖を素早く取り出した。

 その柄をキツく握りしめる。実はさっきからずっと足が震えていた。あんな口上はったりに決まっている。決心したって恐いものは恐い。ギイドのことにしてもそう。これから相手にしなくてはいけないのはピエルタだし、優秀だというネイギだし——。

 でも——これが自分なのだと思う。

 いつも背伸びしている。そこに見合うようにはったり利かせて強がって、立ち向かう。心の底ではいつだって、不安で怯えているのに。

 それでいいのかもしれない。

 ヴァイオレットは空いた手の平で、最後に流れた涙を拭った。その左頬に、水色の雫が浮かび上がる。以前は決別を表す印だった。もう二度と泣かない証だった。今度は新たな決意と共に、己の象徴として頬に刻む。

「なるほど。

 では危険なお尋ね者を匿っていた咎で連行しますか。エトルワトル」

「はあい」

「お願いします」

「お安いご用です」

 そんなやり取りを待つ義理はない。ピエルタの返事が終わらないうちに、ヴァイオレットは土を踏みしめ、祈るような気持ちで杖を振るった。

 菫色の鮮やかな魔法陣が、雲を染めて現れる。

 二人が身構えた。

 しかし、

 起こったのは彼らに向かって吹き付ける、涼風だけだった。正面から受けても、服をなびかせ前髪を散らすくらいのものでしかない。

 杖を突き出したまま、ヴァイオレットは血の気が引いた。

 予定では、先の尖った氷の礫がいくつも現れて、彼らを襲うはずだった。刺さったところで致命傷にならない大きさ。二人とも魔法使いだから、それはたぶん防がれる。まずは先手を取って、呼吸をずらそうという考えだった。

 それなのに、ふわっとした風だけ。

 勢いで杖は取り出せたものの、まだ思うようではないのか。

 ピエルタが腹を抱えて笑った。

「なにそれ! あんた前よりヘタっぴになったんじゃないの!」

 返す言葉もない。ネイギの戸惑い顔がいっそう胸に突き刺さる。

 ピエルタがくるり杖を回して持ち直した。満面の笑み。遊んでいるかのように振りかざす。

「次はあたしの番ね」

「ッ!」

『だから、私を忘れてもらっては困る!』

 不満の色濃く滲んだ鳴き声がして、ヴァイオレットの杖に重みが増した。アルグが大きな弧を描く杖の先を、横からあしゆびで器用に掴んでいた。間を置かず、群青が光る。

「きゃあ!」

「これはッ!」

 今度こそ猛烈な風が吹き荒れ、二人を襲った。

 裏庭に漂う雲をかき消す勢いで、ネイギとピエルタの周りにだけ、風の激流が縦横に暴れ狂う。あの中では息もできないだろう。

 その余波を顔に受けて目を細めるヴァイオレットは、ネイギの手に魔神の鍵を見付けた。飛んでいってしまいそうな眼鏡が災いして、鍵が疎かになっている。

 これなら、奪えるかも……。

 ヴァイオレットは手を伸ばした。気を引き締めて、指先を招き入れる。

 ネイギの手からするりと鍵が抜けた。

 次の瞬間、風に煽られて吹っ飛んだ。

「あ」

『惜しいぞ、お嬢さん』

 アルグが片方の翼を広げて風を操作する。鳥だから風。単純だけれど扱いやすい素材はある。突風は飛んでしまった鍵を巻き込み集まって、一筋の流れを作った。その内に取り込んだ鍵を、こちらへと運んでくれる。

 このトリは味方と考えていいのだろうか。ヴァイオレットは横目に様子を窺う。助けてくれているのか、自分の都合なのか、判然としない。

「させないんだから!」

 風が集まったことでいくらか自由になったのだろう。ピエルタが杖を突き出す。赤い玉をはめ込んだ先端に、それより暗い色の赤い魔法陣が描かれる。

 渦巻く炎が拳大の球体になって、アルグめがけて飛んできた。アルグ——ということは、止まり木にされた杖を持っているヴァイオレットの方へ、だ。

 あの炎の玉は当たると飛び散る。

 ヴァイオレットは慌てて屈んで避けた。杖を振り回してしまったので、アルグが悲鳴と共にどこかへ吹っ飛ばされる。炎の玉は脇をすり抜け後方へ。それを追って振り返ったヴァイオレットは、頭の片隅で考える。後ろには、林がある。炎の玉が木に当たって弾ければ、大変な火事になるのではないか——。

 避けてしまってから思い至っても遅い。そういうところ、ピエルタも考えなしだ。見ている先で、炎の玉が裏庭に広がる雑木林へと速やかに飛んでいく。

 一方で、ヴァイオレットの目は魔神の鍵を捉えた。

 アルグの制御を失ってほぐれる風の渦に乗り、ふわりと地面に落とされる。それはヴァイオレットを挟んで炎の玉とは反対側。

 一瞬、迷った。

 迷いつつも、二・三歩の位置にある鍵に手を伸ばした。まずは鍵。炎はその後。

 走る勢いのまま拾い上げる。

 あと少しのところで指先が弾かれた。

 魔神の鍵を中心にして、透明な半円状の結界が現れていた。これには見覚えがある。中の物を保護しながら、術者の手元に引き寄せる効果のある魔法。結界の横から光の帯が延びて、その先はネイギの手の上にある同じ色をした透明な球体に繋がっていた。

 強風で乱れたはずの黒髪はいつの間にか整って、ネイギは余裕の表情で眼鏡の位置を直している。

 えっと……そうだ!

 たたらを踏んで立ち止まったヴァイオレットは、杖を地面に滑らせるように振り抜いた。引き寄せられる寸前、帯が断ち切れる。

 魔法なのに物理的に対処できてしまうのだから、教科書魔法はやはり欠陥アリなのかもしれない。しかしそれで結界が消えるわけでもないのだった。こちらは魔法で破る必要がある。やり方は——実はよく分からない。頭の片隅には習った記憶があるけれど、曖昧すぎて役に立ちそうにないし、ゆっくり思い出す時間もなかった。

 向こうからは、ピエルタとアルグの争う物音が聞こえていた。

 とにかくもどうにかしないと。ヴァイオレットは「壊れて……」と念じつつ、杖を振りかぶって、尖った石突きを結界に突き刺した。

 硬い感触があって跳ね返される。

「……ッ!」

 半歩足を引きつつ肩越しに振り返ると、林に火の手は上がっていなかった。アルグがなんとかしてくれたのかもしれない。そのトリは、ピエルタの放つ派手にキラめく魔法の弾を、いつかのように縦横に飛び回って避けていた。乱暴な羽ばたきと喚き声がする。

『飛びながらっ! 魔法っ! まだ、むず……っ!』

「エトルワトル! 当てられないのなら遠ざけて!」

「りょうかいですっ!」

 ネイギもヴァイオレットよりアルグを警戒しているようだった。こちらは鍵に手の届く位置にいるにもかかわらず、完全に余所見をしている。自分の結界がこんな素人同然の子供に破られるはずないと、高を括っているらしい。

 それも当然かもしれない。

 ヴァイオレットは焦る気持ちを呼吸でなだめて、鍵に向き直った。結界だけに集中する。

 ——もう一回。

 ひび割れて砕け散る。その様だけを想像して、高く上げた杖を振り下ろす。

 菫の魔法陣と一緒に、透明な結界が軽い音をさせて壊れた。

 できた!

「おや、なかなか」

「なかなかじゃ意味ないですよ!」

 迫る声に顔を上げる。

 ピエルタが直ぐ側にいた。

 鍵を跨いで大股に、最後の一歩を詰める。杖の赤い玉がお腹に押しつけられた。走る勢いの乗った一打は、それだけでもけっこう痛かった。

 その上、

 バチッ!

 稲妻が走った。

 視界が白くなる。

 全身を駆け抜けた衝撃に足の力が抜けて、ヴァイオレットは地面に倒れた。頬の下に湿った草の感触がある。直ぐ起き上がろうとしても、雷撃に痺れて指先さえ動かない。目にはただ、ピエルタの靴が見えた。

「手加減してあげたわ。

 その方が痛いでしょ」

 ピエルタは派手な魔法が好きだ。今のだって、起点を中心に広がる稲妻が、美しい軌跡を描く。本当なら一撃で意識を刈り取れる魔法だ。

 目の前にある靴が軽やかに反転したかと思うと、背中に重みがのしかかった。肺が潰れる。ピエルタが座ったらしかった。

「弱いくせに、しゃしゃり出ないでよね。服が汚れちゃうでしょう。

 トリも名前ほど手応えないし」

 呆れた軽口の裏には、確かな苛立ちが潜んでいた。以前から、理由の分からないままに向けられる感情と、同じもの。ピエルタはヴァイオレットが目障りで仕方ないらしい。しかしそんなことはもう、ヴァイオレットには露ほども気にならなかった。

 ——アルグは負けたのだろうか。

 視界が狭くて、状況が分からない。視線をずらすと、そこにはまだ鍵が落ちていた。わざと拾わずに見せびらかしているのだろう。

 やっと動くようになってきた手で、感覚を確かめるように芝を握る。

 ピエルタは優位に立って油断している。ネイギはあまり参加する気がないようだ。どうすればあの鍵を手にできるだろうか。手を伸ばしても届かない。引き寄せようとしても止められる。ならピエルタをどかしてから——。

 ギイドならどうする——と考えかけて、ダメだと思った。そもそも組み伏せられている姿が思い浮かばない。せめてツギハギ人形が使えればよかったけれど、コードリッカで大量消費してから補充するのをすっかり忘れていた。

 ああ、そうだ。

 思い付く。

 今は夜。視界の中に、たくさんあるもの。

 ——影。

 ヴァイオレットは息を止めた。

 そうして力を抜き、地面に身を任せるようにして体を沈める。

「ええっ?」

 ピエルタが為す術なく尻餅をついた。お尻の下にあった体が、不意に消えてしまったように感じられただろう。

 ヴァイオレットが潜ったのは、地面ではなく影だ。ヴァイオレットにとって「影」は一番に慕うもの。この一年ずっとギイドの真似ばかりしていたから、魔法が前のように使えなくても、よく馴染んだ感覚でもあった。

 全てが白黒になる影の世界。

 上下左右はあるものの、この中ではいろいろな感覚が曖昧になる。ヴァイオレットはギイドほど影に馴染めないから、呼吸がし辛いのが難点だった。今はそれ以上に、長くは留まれそうにない。

 水の中を泳ぐようにして姿勢を正し、両足で立つ。移動するだけの時はなく、ヴァイオレットは薄幕を払い除けるように一歩を踏み出し、実在の世界に戻った。

 それはピエルタの背後だった。

 そっと杖を構える。氷結の魔法で、まず足止めをして——。

「なまいき。甘いのよ」

「!」

 足下に、臙脂の魔法陣があった。

 土を吹き上げ爆発する。

 ヴァイオレットは仰向けにひっくり返った。

 とはいえ、それだけの威力。跳ねた石が肌を裂いて血が滲む。杖を突いて起き上がろうとしたら、そこにまたキラめく魔法の衝撃。地面を転がされる。上下が分からなくなる。

 手から放れた杖を、ピエルタが雑に蹴り飛ばした。

「ホント、鬱陶しい。

 頑張ればどうにかなるなんて、子供の幻想よ。さっさと諦めたら」

 恐らく、ヴァイオレットがどこから現れるか分からなかったから、ピエルタは周囲にたくさんの罠を仕掛けて待ち構えたのだろう。

 全身が重く、あちこちに脈を打つ痛みがある。ヴァイオレットは腕を支えにのろのろと体を持ち上げた。乱れた黒髪が肩を流れる。

 ピエルタが両足を広げて立ち塞がっていた。黒子のある目を細めて、口元を吊り上げる。

「ちがうわね。あたしが諦めさせてあげる。

 止めよ」

 赤い玉を天に向け高々と振り上げる。

 ヴァイオレットはそれを見上げ、次の一手に頭を働かせた。

 臙脂色に染まる雲。

 破裂音がした。

 空が閃き、

 屋敷から火の手が上がった。

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