第37話

 「花火?」

 突然響き渡った破裂音に、ピエルタが弾かれたように後ろを向き、夜空に散る色とりどりの火花を目にして首を傾げた。間を置いて打ち上げられる、華やかながら場違いに暢気な花火。

 しかしヴァイオレットは別のものに目を奪われていた。

 屋敷が燃えている。

 屋根に近い窓から踊る炎が見えていた。あきらかに尋常ではない火が夜の闇に赤々と浮かび上がり、徐々に隣の窓をも染めていく。

「ち、ちょっと、ピエルタ。やり過ぎよっ」

 火事としか思えない光景に、ヴァイオレットは戸惑いつつピエルタに目を移した。ヴァイオレットを脅かすつもりの魔法が、暴発したのかと思った。

 ところが振り返ったピエルタは、まともに狼狽えて薄茶の瞳を揺らした。

「あ、あたしじゃないわよっ!」

 珍しく声を震わせ叫ぶ。二つに結んだ髪を大きく振り回して、ピエルタはネイギの下へ走った。ヴァイオレットはその背中を呆然と見る。

 他の原因が想像できなくてそうと思っただけだから、彼女の態度を見れば納得できた。ではいったい何が起きているのか。

 燃える屋敷に目を戻したヴァイオレットは、その耳に、ぼーんぼーんと規則正しく打つ低い音色を聞いた。どこか遠くから微かに響いてくるそれは、柱時計が日付の変わり目を報せる音だ。

 まさか……と思う。

 しかし頭に浮かんだ可能性を、ゆっくりと考えている場合ではなかった。

 見る間にも、炎は勢いを増して広がろうとしている。

 まずは消火だ。

 全身を駆ける鋭い痛みに顔をしかめながらも、ヴァイオレットはなんとか立ち上がって屋敷の近くへ走った。

 花火の方は既に止んだようだ。

 火を消すなら、水。

 ヴァイオレットは体の前で両手を上向きに広げて、集中する。手の上にお盆を乗せているような感覚。その中に、水を汲む。虚空から落ちて溜まる水。

「…………」

 目を閉じて待っても、何も起こらなかった。

 ……もどかしい。以前のように魔法が使えていたら、水を生み出すくらい簡単なのに。

 ヴァイオレットは瞼を上げると今度は池を振り返った。生み出せないのなら、既にある水を使うしかない。裏庭の池には水が豊富にあって、さらにどこからか新しい水が流れ込んでいる。少し汚そうだし、魚は可哀想だけれど、そんなことも言っていられない。

 手を伸ばす。

 そうしていると、屋敷から人が出てきた。住み込んでいる下働きの人たちだろう。火から逃れて次々と裏庭に溢れ出す。彼らは安全な中程まで来ると、不安な眼差しで屋敷を見上げた。

 その中にはノギアムの姿もあった。逃げる人々に声を掛け、誘導しているようだ。屋敷を振り返ったノギアムが、忌々しく呟く。

「ここまでやるか、あのバカ親父……ッ!」

 その声はヴァイオレットにも聞こえた。

 やはりそういうことなのだろうか。これは、ロジアムの仕業なのだろうか。

 頬に炎の熱を感じながら、考える。

 ロジアムが出したお題は、先ほど時間切れになってしまった。それに誰も正解を出せなかった。見付けられなければ永遠に失われてしまうと、ロジアムは言っていたのだ。それはつまり、正解の何かごと屋敷を——全てを、灰にしてしまうということだったのか。博物館にするくらいなら、全て燃やしてしまった方が良いと、それほどに思い詰めて……。

 ヴァイオレットはそこで気付いた。

「——ロジアムさんは……?」

 逃げ出した人たちを見渡してみても、そこに老紳士の顔はなかった。みんなで助け合いながら避難していたようだから、ここにいるのは全員のはずだ。

「ロジアムさんは、どこ?」

 体の芯に冷気が走る心地がした。

 ロジアムは今朝からいなかった。屋敷のどこかに隠れているのではないとか思われていた。この火事を起こしたのが彼だとすれば、逃げ遅れるはずがない。逃げる気が、あるのなら——。

「君たち、魔法使いだろう! あの火をなんとかできないか!」

 ノギアムの大声に、ヴァイオレットは我に返った。

 声を掛けられたのはネイギとピエルタだ。二人は顔を見合わせた。

 彼らもぼんやりと眺めていたわけではなかった。むしろ、ヴァイオレットよりもずっと確実に働いていた。

 揃って虚空から大量の水を生み出して、それを屋根の上からこぼしかけ、また飛沫にして壁に吹き付けてもいた。それで一時は炎が弱まっても、直ぐに元通りになってしまうのだ。火の勢いの方が遥かに強かった。

 炎は既に屋敷の一角を赤く染めている。開け放たれた窓から、まるで意志を持っているかのような炎が腕を伸ばしていた。

 朱色の強い光を眼鏡に映し込むネイギが、曇らせた表情を隠すように、その位置を指先で直した。

 目配せされたピエルタが、空中で渦を巻く水を操って、細長い水流を形作り、今度は窓から屋敷の中へ入れようと試みる。うねる水流は、一部が壁に阻まれた。中に入った分も、ここからでは様子が分からないために上手く操作できず、僅かな火を消しただけでほぐれてしまう。

「外からでは対処できません」

「ああもうッ! こんなの専門家でないとムリよ!」

 ピエルタが地団駄を踏む。消防団に報せに行った人たちもいるけれど、駆けつけるのにはまだ時間が掛かるだろう。ノギアムが呻いて難しい顔をする。

『少しいない内に、大変なことになったな』

 望んだ羽音に顔を上げたヴァイオレットは、ここまで火の粉が飛んできたのかと思った。真っ赤な翼を広げた鳥が舞い降りる。ピエルタに吹き飛ばされて、やっと戻ってきたところらしい。

「アルグ!」

 ヴァイオレットは腕を伸ばして迎えた。

「どうにかして。

 みんな燃えちゃう。

 あなたならできるでしょう」

 ヴァイオレットは知っている。空を埋め尽くす金の槍が扱えるなら、火事を止めるくらいわけないはずだ。

 そのはずなのに、腕の中にいるトリは群青の眼を細めて、嘴の奥で唸った。いつもなら偉そうにぴんと反り立っている冠羽が、へたっている。まさか眠たいわけではないだろう。

『誠に遺憾きわまりないが……無理なのだ、お嬢さん。元の状態ならいざ知らず、今の私には彼らと同じようなことしかできない』

「そんな……」

 膝から力が抜けて、ヴァイオレットは地面に座り込んだ。

 ——それなら、わたしの体を使ってもいいから……!

 とは、言えなかった。唇を引き結んで黙り込む。

『それを軽々しく口にしない君は、正しい』

 膝を突くと同時に手放していたアルグが、前の芝生に腰を下ろして、うつむくヴァイオレットの瞳をのぞき込む。

『あれはよほど気持ちが動揺していて隙があるか、心を許し合っている相手でなければ成立しない魔法だ。それに、互いの精神と肉体にかなりの負担を掛ける。何度もやるものではないのだよ。私だって、相手が魔神でなければ使わなかったさ』

「でも……っ」

 ヴァイオレットは燃え盛る屋敷を振り仰いだ。

 何もしないでいるうちに、半分以上が炎に包まれていた。ここにいても、肌を焼く熱を感じる。あれではきっと、中は火の海だ。

 赤々と燃える炎。

 どうにもできないのだろうか。

 燃えてしまう。

 みんな燃えてしまうのに。

 山ほどのガラクタも、貴重な書物も、ザラトールの絵も、太古の遺跡も——。

 屋敷にあるものは、ぜんぶ。

 ギイドに見せたい物がいくつもあった。あの無表情をきっと動かしてくれた。ヴァイオレットにとっても価値のある物がたくさん……。

 それなのに、

 みんな焼けて、失われてしまう。

 ——そんなのダメ……。

 目の前が赤く塗りつぶされるみたいに、視界が滲んだ。

「——ロジアムさん……っ」

 地面に拳を突いてうつむく。ぱたぱたと涙が落ちた。

 こんな時に、自分は泣くことしかできない。魔法で水は出せないくせに、目からはこんなにも溢れ出す。

 消えてほしい。

 あの火を消したい。

 どうしたらいい。

 ここは大切な場所なのだ。

 ヴァイオレットはただ涙をこぼす。この手の甲に落ちる雫が、ぜんぶ雨だったら良かった。そうしたら、あんな火事なんて直ぐに治まる——そうだ、雨が降ればいいんだ。雨が、降れば……。

 お願い。

 降って……!

 知らず祈りながら、顔を上げた。

『でかしたぞ、ヴァイオレット!』

「わあっ! なにっ? なに??」

 急にのし掛かられて、ヴァイオレットは背筋を伸ばした。慌てて背後に首を巡らせる。あたりまえにそれはアルグで、赤い羽が目の端に見えた。

 アルグは前に回って地面に降りる。

 こんな時に悪ふざけが過ぎる。

 向き直る正面には、変わらず燃える屋敷があった。同時に、ヴァイオレットの濡れた頬に水滴が当たった。

「?」

 目を細める。

 涙ではない。それは目よりももっと高い位置から降ってきた。見上げると、夜の空を一面に雲が覆い尽くし、見え隠れしていた月はもうどこにあるのか分からない。その雲から次々と、水滴が滴り落ちているのだった。

 ——雨? 本当に降った……。

 信じられない気分だ。

 裏庭の雲も、霧雨のように濃く漂っている。その向こうに霞む屋敷があった。奇跡のような雨を受け、屋敷を今にも呑み込もうとしていた炎が、勢いを弱めている。このまま静まってくれそうなくらいに。

「あなたがやったの?」

『私ではないな』

 尋ねたら、跳ねて振り返ったトリにどうしてか笑われた。相手は鳥なので表情の変化に乏しいのだが、鳴き声が堪えきれない笑みを含んでいるのは分かった。

 ヴァイオレットは湿る髪を後ろに払って、首を傾げる。トリが羽毛を膨らませて、首を縮めた。

『まったく無意識とは恐れ入る。

 この雨は、君だぞ』

「うそ」

『信用ないな。

 魔力の波長を見た。雲もやや紫だな』

「…………」

 そんなはずない、と思う。

 ヴァイオレットはあらためて屋敷に目を向けた。視界が煙って見にくいけれど、ぱらぱらと降り注ぐ雨に打たれるにつれて、火が弱まっているのは確かだった。徐々に赤い熱が消えていく。集まった人々もそれを見て、控えめに喜びの声を上げた。

 それにしても、あれだけの火事がこの程度の雨で、こうも速やかに治まるものだろうか。

「やっぱり、あなたよね。

 だってふつうの雨とちがう感じだもの」

『どこまで疑う……』

 トリが翼で小振りな頭を抱えた。

 それから真面目そうな目をして、向き直った。

『この雨は私には降らせられない。

 見ろ。みんな喜んではいるが、座り込んだままで億劫そうだろう。あっちの二人組なんて、まともに具合が悪そうだぞ』

 言われてみればその通りだった。

 裏庭に集まった人々は、雨に濡れるのに避けようという気が起きないみたいに、少しも動こうとしなかった。ピエルタまで膝を抱えてしゃがみ込む。

『この雨には気持ちを静めるというか、気怠くするというか。ざっくり言えば、触れたもののやる気を無くす効果があるようだ。

 つまりだな。この雨は君の涙だよ、ヴァイオレット』

 二回、瞬きする。

 身も蓋もないし、なんと言っていいか分からない。名前を呼ばれたのにも驚きだった。

『良かったじゃないか。

 正しい魔法、少しはものになったな』

「…………」

 小さな眼を細めて首を傾げるトリは、微笑んでいるように見えた。もしかして、褒めてくれているのだろうか……。

 まだ、半信半疑だ。だって、ヴァイオレットは魔法がヘタクソなのだ。これもなにかの間違いだと思う。でも……そんな風に言われると——もっと、泣けてきてしまうではないか。

 潤む瞳を見られたくなくて、ヴァイオレットはうつむいた。雨はしとしとと降り続いているから、それが顔に掛かったのだ。そう思う。

 とにかくも、火は消えた。

 それでいい。——いや、まだよくなかった。

 火が消えたのなら、今度は屋敷の中の状態を確かめなくてはならない。時間にすれば長くはないけれど、炎は全体に広がっていた。熱だけでも相当だったはず。無事な物はあるだろうか。建物は平気だろうか。ロジアムは……どこにいるだろう。

 他の人が動けないようなので、ヴァイオレットは肩口で涙を拭いて立ち上がった。湿気た芝に何度も転がり、その上雨まで降られたので、スカートが足に絡まるようで少し気持ち悪い。あちこちに泥や草がへばりついていた。

 歩を躊躇っているうちに、その前をアルグが滑るように飛んだ。一足先に屋敷の様子を見に行ってくれるのかと思えば、赤い鳥が向かった先はネイギのところだ。ネイギの手にある——魔神の鍵だ。

 どさくさに紛れて彼が確保していたらしい。

 もう少しで捉える——というところで、気付かれてしまった。

 ネイギがさっと手を持ち上げる。アルグの嘴は体の横を掠めただけ。トリが旋回しながら短く鳴く。それを目で追って、ネイギは振り返った。

「まだ狙いますか。

 油断なりませんね」

 手の中で鍵を転がしながら、気怠そうに言う。

 そんなやり取りを尻目に、ヴァイオレットは上の空だった。彼らでも屋敷でもない所から、物騒な物音が聞こえたような気がしたからだ。目を向けると、正面の門がある方から建物の横を抜けて、ひと固まりの騒がしい影がやって来た。

「こっちか?」「急ぐ急ぐ」

「うわっ。濡れてるっ。ここだけ雨だあ」

「いっぱいいるぞ。どいつだ」

「あの子とあいつ」「女子供はダメだ!」「ならあっち」「よし来た!」

 大中小の人影が雲の中から姿を現した。先頭を走り来る小さな影が、真っ直ぐネイギを指さす。ネイギは後ろを向いていて気付かなかった。気配に振り返ったときにはもう遅い。頭一つ分は背の高い大きな影・ヌーが突進する。無造作な体当たり。ネイギはまともにぶつかって、たまらず倒れ込んだ——吹っ飛ばされた、という表現の方が正しいかもしれない。雨水を溜めた芝が飛沫を立てる。

 そんなネイギの手から、何かが飛んだ。

 弧を描いて落ちる、それは透明なガラス玉。

 アルグが空から急降下する。空中で受け止めようとするも、勢い余って翼で弾いてしまった。その先には小さな影・ハッカ。両手を出して、軌道を変えて落ちるそれを受ける。手の中には入った。しかし生憎の霧雨だった。水気を帯びたガラスと手が滑る。再び宙に投げ出されたガラス玉。中くらいの影・チャボがなんとか手を伸ばしたが、今度は狙いを誤って足に当たり、蹴飛ばしてしまった。

 落ちる——鍵。

 一同大口を開けて見守る中、

 ぱりん、と軽い音がした。

「「「あ……」」」

 悪いことに、そこには庭石があった。

 火の消えた屋敷よりも魔神の鍵を優先するべきか……。ヴァイオレットは瞬時に迷いを振り切って、小走りに駆け寄り屈む。

 魔神の鍵は石にぶつかって粉々に砕けていた。草の間にきらきらした粒が見える。指先で摘める欠片は二・三粒だけ。金の縁取りが残っているのが、いっそ虚しい。

 ヴァイオレットはその欠片の一つを手に取った。これが無いと、いくつかの魔神の封印は解けなくなってしまうはずだ。もう誰も、魔神を完全には復活させられなくなったことになる。それはギイドの計画も変更を余儀なくされたということか——。

「バッカ! おまえなにやってんだ!」

「お、おれのせいじゃないやいっ」

「どうするの、コレ」

「ギイド様に怒られちゃうわね」

 驚くほど冷静に、ヴァイオレットはその一言を口にしていた。

 上からのぞき込む三人が、顔を見合わせたのが分かる。

「大丈夫だ!」大きくうなずくのはヌー。

「そうそう。黙ってればバレない!」手を広げて取り成すチャボ。

「あら、それはダメ」ヴァイオレットが見上げて言えば、

「アレかアレのせいにしよう」ハッカが地面に伏したままのネイギと、鍵を壊した庭石の上に着地するアルグを、淡々と指さす。

 とてもまずい事態なのは分かっている。それでもヴァイオレットは、なぜだかとても穏やかな心持ちになれた。気が抜ける。

「……そうね。みんなで、怒られに行きましょうね」

 三人と一羽が、きょとんとしてヴァイオレットの顔を見つめた。それから顔を見合わせにやにやしながら小突き合うものだから、ヴァイオレットの方がなんだか分からなくて、首を傾げてしまった。

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