第五章 霞の中で
第35話
夜になってヴァイオレットが部屋へ戻っても、そこにアルグの姿は無かった。
正面の窓の、薄手の白い遮幕が揺れている。自由に出入りできるように、窓はずっと開けてあった。帰ってきてほしいと思ったわけではない。もう閉めてしまおうかと、ヴァイオレットは窓枠に手を掛ける。そこでふと、外の景色が目に入った。
裏庭が見える。
正面にあるのは黒い影になって揺れる雑木林。左手には小舟を浮かべて遊べそうな大きな池。そのほとりには、丸いお椀型の屋根を乗せた東屋。
月が明るい夜だった。
けれどもヴァイオレットの心を映すような曇り空だった。風に流された薄雲が、入れ替わり立ち替わりやってきて、月を覆い隠してしまう。ぼんやりと照らされた周囲の雲が、妖しい陰影を作り出す。裏庭にもその雲は漂っていて、所々が煙って見えた。
そんな景色を眺めるうち、ヴァイオレットは違和感を覚えた。微かな引っかかりだ。目の前にある裏庭の景色と、記憶にある景色とが違っている気がした。
また風が通り抜けて樹木をざわめかせ、庭に広がる霞を吹き動かす。
そして、気付いた。
東屋だ。
屋根の形が記憶にあるものと——ザラトールの絵と違っている。夜の絵にあった東屋は多角形の屋根を乗せていた。現実にあるあれは滑らかなお椀型だ。天辺には丸みのある出っ張りまである。
建て替えたのだろうか。
二十年前の絵だから、それだけにも思える。しかし何故だか気になった。
——それも言い訳かもしれない。
もう遅いのに、眠る気になれないから。
布団に入ってもきっと眠れないから。
ヴァイオレットは夜の裏庭へと足を向けた。
外へ出ると、夜の空気は湿気ていて、ひやりとした。時折肌を撫でる風が、少し冷たい。
裏庭は屋敷に近い手前側が整えられた花壇になっていて、その向こう側は広い芝生だった。右手側から雑木林に向かい、さらにその奥へと消える小路が、月明かりしかない庭にうっすらと見える。その小路から外れた場所に、東屋はあった。
ヴァイオレットは少し躊躇ってから芝生を踏み、近付いた。
湿った草の感触。音。匂い。
静かに響く足音に耳を澄ませるように歩を進めて、東屋の前で足を止める。
ちょうど雲が流れて月明かりが差し込み、夜闇に浮かぶ石の白さを際立たせた。
見上げる屋根は、やはり丸い。美しく捻れた四本の柱によって支えられている。
他の造りも、絵とは——以前のものとは違うようだ。壁らしい壁はなく、柱と柱の間の二カ所にだけ、枠というのか背もたれというのか、半分くらいまでの高さの壁のようなものがあった。向こうが透けて見える、細かな模様の彫刻が施されている。それ以外の箇所は、三段の石段が向かい合わせになってあった。手前から上ると、向こう側に池が見通せた。
ヴァイオレットは中央にある円卓を避けて奥へ行き、さざ波を立てる池を見渡した。昼間で陽気が良ければ、ここでお茶をするのも悪くない風情だ。造り付けになった石の長椅子にそっと腰を下ろす。
「…………」
夕食を終えてこんな時間になるまで粘ってみたけれど、ただ当て所なくさまよっただけで、なんの収穫もなかった。そもそも自分に見付けようという気があるのか、疑わしい。身が入らないまま、漠然と作業をしていただけの気がする。
ただ……疲れた。
胸に空洞ができたみたいで虚しい。
不確かで、惑う。
ヴァイオレットは景色から体を背けて、膝を抱えた。小さくなって、顔を伏せる。
「……ギイド様に、会いたいな……」
呟いてみる。
それがいま心にある気持ち。
一日中、ギイドのことを考えていた。今日だけではなくて、近頃はずっとそうだったような気がする。何を見ても何を聞いても、ギイドならばどう思うか、どうするのか、そんなことばかり考えてしまう。
そんなだから、依存とか言われてしまうのだろうか。
でもヴァイオレットにとって、ギイドは大事な人だ。とても、大事な人。純粋に憧れる生き方の指針で、手本なのだ。
今も、初めて出会った時のことは、はっきりと覚えている。目を瞑れば、あの日の夕焼けがまざまざと蘇る。ギイドの声も、その言葉も、耳の奥にある。
あの時は——ついて行きたい。この人について行こう。ただそれだけを思った。……そうだ。「側にいたい」でも「役に立ちたい」でもない。「ついて行きたい」とだけ、強く思った。それだけだった。
目を開けて、膝を抱える腕の上にほんの少し顔を出す。そうしてヴァイオレットは夜の闇を見るともなく見据えた。
衝動でしか、なかったのかもしれない。
ギイドの強さがまぶしくて。
考えなしに飛び込んだ。
あの日から、一年。
孤高の人なのかと思えば、ギイドには根城にたくさんの仲間がいた。そこで知った彼の望みは大それているにも程があるもので、信じ難かった。でもギイドならば納得できた。この人ならそれくらいの事は平然と考え、やってしまいそうだと思えた。
そんな人について行くと決めたからには、ヴァイオレットも何かしなくてはいけない。ギイドの望みのために、全霊をもって尽くすのはあたりまえだと思った。この人の横にいて、恥ずかしくない人間にならなくてはと、そう思った……。
その為に、ヴァイオレットは頑張っていたはずだ。
それが、いつからだろう。
こんなに苦しくなったのは。こんな風に情けない気持ちで胸を潰し、不安で、怖くて、たまらなくなったのは。
眉に力が入る。また膝の内に顔を沈めた。
ずっと続いてほしかった。ギイドの側は居心地が良くて、ずっとそこにいたいけれど、いつまで続けられるか分からなくて。でもいつかは終わる。それだけははっきりしていて——。
そのことに、怯えていた。
側にいられないのが怖くて、焦って。役に立てばいられるのだと思った。側にいる為に役に立とうと必死になった。
そんなの変だ。そんなの間違ってる。いつの間にか、気持ちが歪んでしまっていた。
ヴァイオレットはギイドのように強くなりたかっただけのはずなのに。憧れただけだったはずなのに。その強さに、ただ縋っただけだったのだろうか……。
「……ああ、そっか」
気付く。
何かがきれいにはまったみたいな感覚だった。
答えは直ぐそこにあった。
「わたしは少しも変われてないんだ」
ギイドに嫌われるのが怖かった。
目障りになって、捨てられてしまうのが、とても。
だから必死になって顔色を窺って、調子を合わせていた。だから一緒にいても心の奥では辛くて、不安でしかたなかった。意識してのことではない。でも、今ならそれがはっきりと分かる。
それは、あの人が嫌悪していた弱さ----そのものだ。
顔を上げ、天井を仰ぎ見る。そこには暗闇があるだけ。ヴァイオレットが敬愛する、影。
「わたし…………弱い」
ギイドはどこまでも自由で、他人の顔色を窺ったりしない。そんな風に、強くなりたかった。でも、ヴァイオレットには無理だった。ヴァイオレットはギイドのようにはなれない。
視界が滲んだ。
きっと、雨のせいだ。今にも降り出しそうなくらい雲が多くて、湿気ていたから。濃い雨雲がここまで漂ってきて、視界を覆っているのだ。
ヴァイオレットは唇を堅く結ぶ。
では、どうすればいいのか。
ついて行きたいと思う。
役に立ちたいと思う。
ギイドのためならなんでもできる。
確固としてそう思う。
魔神の鍵を見付けて持って行けば、また側にはいられるかもしれない。でも、それでいいのだろうか。また不安を募らせる毎日を送るだけではないだろうか。それでいいとは、もう言えそうにない。
分かっているのだ。
これは気持ちの問題。
そんな不安はヴァイオレットの中にしかないものだから、そんなものは吹っ切ってしまうしかない。
側にいたいなら、いればいい。
ギイドに嫌われても、必要とされなくても、鬱陶しがられても、何があっても——。追いかけていって、図々しく居座ればいいのだ。役に立つとか立たないとか、そんな考えが間違いだった。ギイドのために何かができる自分でいたいなら、そうあろうとすればいいだけのこと。結果が伴わなくても。そうしたいのは自分だから。そこにはギイドの意向さえ関係ない。
ヌーやチャボやハッカは、そうしているではないか。
嫌な顔をさせながら、そうやって自分勝手にギイドに付き纏っている。
そうできないのが、ヴァイオレットの弱さだ。
弱いから、自分の気持ちにも向き合えなかった。目を逸らして逃げた。
それに気付いたからといって、直ぐに気持ちを切り替えられるのなら、行動に移せるのなら、そもそも悩まない。
弱い。
どうしようもなく、弱い。
目を閉じたら、雫が頬を滑り落ちた。
それを呼び水に、ぽろぽろと溢れ出す。
ずっと堪えていた、本音。——涙。
止まらない。
「もう、止めちゃおうか……」
もう頑張らないで、諦めて、ギイドにも魔神にも関係ない所で、普通の暮らしをしようか。そうすれば、始めはつらいかもしれないけれど、いつしか慣れて気にならなくなる。忘れてしまえる。これ以上悩まなくても、苦しまなくてもいい。
でも……——。
ヴァイオレットはそっと目を開いた。天井の暗闇を見る。
もしも、
あのとき出会ったのがギイドでなかったら、変わっていただろうか。もしも出会ったのが、例えばアルグだったなら——。……うん。人間の姿が前提だけれど、彼なら確かに違っただろうと思える。アルグならもっと正しく、嘆く若者を導いてくれただろう。ヴァイオレットは今もまだ学校にいて、なかなか実らない努力を誠実に続けていたに違いない。
それはつまり——誰でも良かった、ということか。
ギイドでなくても、一番弱っている時に目の前に現れてくれた人物なら、ヴァイオレットは今のように縋ったのだろうか。
そうかもしれない。分からない。そうだとしても、そんな「もしも」に意味はない。あの日ヴァイオレットが出会ったのはギイドで、今ある現実は変わらない。
「…………」
ヴァイオレットは湿る頬を手の平で拭った。小さく鼻をすする。暗い中、ふと目を上げると向かいの柱が目に付いた。霞む視界に目を擦って、もう一度見る。
柱の中腹には、備え付けの小さな燭台があって、むき出しの皿の上には短くなった蝋燭が残されていた。目で追うと、それは四本の柱全てに取り付けられている。
真っ暗闇でメソメソしているなんて、惨めすぎる。
ヴァイオレットは座っていた台の上に立ち上がって、蝋燭の一つに両手をかざした。目を閉じて、鼻から一つ深呼吸。瞼を持ち上げ、ちろりと伸びた芯を見つめる。橙色の小さな火が灯る様を頭に思い浮かべ、それだけで火が点きそうなくらい熱く視線を注ぐ。
すると、
菫色の小さな魔法陣が儚く現れて、想像した通りの火がぽっと灯った。
胸を撫で下ろす。息を抜いたら小さな火が大きく揺れて、危うく消してしまうところだった。
慌てて体を離してから気付いた。
この程度で安堵していてどうするのか。
ヴァイオレットは眉を少しばかりしかめて、今度は残り三つの燭台に向き直った。
その一つ一つを順に視界に収めて、右手をかざす。気持ちを整えてから、その手を緩やかに払った。虚空に浮かぶ魔法陣。右から順番にぽつぽつぽつと、蝋燭は頭に控えめな火を揺らした。
それも思い描いたとおりの出来だった。
ヴァイオレットは今度こそ安堵して肩から力を抜く。そして透かし彫りに半分腰を落ち着け、いくらか明るくなった東屋を見渡した。
風に揺れる蝋燭の火が、不規則な影を作り出す。
東屋なんて普通昼間に憩う場所だろうけれど、これはこれで趣があった。中央にある円卓の上板にも透かし彫りがしてあって、床に妖しげな影を形作っている。さっきまでは何も見えなかった天井も、四方から照らされてお椀の中身が明らかになった。
なんと、魚だ。そこには魚がいた。絵ではなく、天井の石に直接彫り込まれている。四匹の魚が体を優美にくねらせて、真ん中に向かって口と尾ひれを付き合わせている図だ。凹凸にできる影が揺れるものだから、まるで生きているみたいに見えた。
中央には花を象ったような丸い模様。
それがどうしてか不自然に見えた。
ヴァイオレットは腰を上げ、少し躊躇ってから円卓に足を乗せた。これも造り付けで台座と一体になっているから、倒れる心配はない。そうして真下に行って目を凝らす。
何が不自然なのか、はっきりとは分からない。しかし他の石とは微妙に異なる気がした。
手を伸ばして触れてみる。背伸びをすればなんとか届いた。
冗談半分押してみたら——天井の中に模様が沈んだ。
予想外の手応えに驚く。
さらにカコッと音がして、屋根の上からも何かが開くような音が聞こえた。
「…………」
なるほど、こんな所にまで妙な仕掛けが隠されていたらしい。
ヴァイオレットはどきどきする心臓を手の平で押さえて、外に目を向けた。天井の裏は当然屋根で、音はそちらからした。屋根の上を確かめるには空を飛ぶか——よじ登るかしかない。
ヴァイオレットは半分までの壁——透かし彫りに恐る恐る足を掛け、屋根の縁をぎこちなく掴んだ。危なっかしく向きを反転させ、腕に目一杯の力を込めて、やっとこさ体を持ち上げる。ぶらぶらする足。上体を乗せて支えるだけでやっとだった。……ちょっと登れそうにない。仕方なく、そのまま顔を上げて目を凝らした。
屋根の真ん中にあった出っ張りが、蕾が花開くように割れている。月の光が射し込むその中には、透明な石が、まるで守られているかのように入っていた。掌にちょうど乗せられるくらいの大きさ。楕円の石の周りには金の縁取りが——なんて、細々確認するまでもなく、それは魔神の鍵に見えた。
「ここで出るのぉ……」
ヴァイオレットは全身から力が抜けて、転げ落ちるかと思った。改めて腕に力を込めて体を引き寄せる。
雲間の光を透かすその硝子は、幻想的な美しさがあるけれど、やっと当てのない努力が報われたけれど——ヴァイオレットは素直に喜べなかった。複雑すぎる心境だ。
『いらないのなら、私が貰おう』
その時、
翼が空を打ち鳴らし、真っ赤な鳥が飛来した。
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