第33話
ひどい気分だった。
無闇に腹が立つ。
こんなのは八つ当たりだ。
ヴァイオレットは彼らから二つ三つ部屋を離れて足を止めると、そこにあった机に手をついて、長く息を抜いた。
顔を上げ、壁と天井の境になるあたりを見つめる。初めから無いに等しかったやる気がさらにしぼんで、体を動かすことさえ億劫だった。まだ見ていない部屋はたくさんある。そう思っても、気持ちが動いてくれない。
「…………」
体を反転させて、机に半分座るように寄り掛かる。
ここも物でいっぱいの部屋だ。
正面の床に立て掛けてある絵が目に入った。
鳥の絵だった。
翼を広げる真っ白な鳥は恐らくティー=リーで、ああこれもザラトールの絵に違いない、と思った。
ヴァイオレットはその絵をぼんやりしたまま眺める。
さすがに、ロジアムに聞いていなければ分からなかったかもしれない。
優美な白い鳥を七色の色彩で描いたその絵は、他の風景画とは違って、ザラトールの頭の中にある印象をそのまま画布の上に表現したような、独特の筆致だった。
絵の中で、鳥の姿をした神様が、光を放っているようだ。
空を飛んでいるのか。小振りな頭の天辺から尾羽の先までが一筋に流れて、まるで水の中を心地よく泳いでいるみたいに見えた。
こうして何枚かの絵をじっくり眺めると、これらを描いた人物の人柄を、感じられるような気がしてくる。オルレインという人はきっと、温かく、大らかで、優しい人だ。世界と向き合い見定めようとする、細やかな眼差しを持っている。やはり、世界三大悪党などと呼ばれてしまうことの方が、間違いなのだろう。
その清らかな色彩に、心が安まる。
張り詰めた息がいくらか抜ける気がした。
ヴァイオレットは両足で立って近寄ると、絵に手を掛けた。慎重に額を外して裏返す。真っ白で何も書かれていない——かと思えば、片隅にひっそりと「さかな」の文字があった。
まだ気になっていたのか。
ヴァイオレットはゆっくり一度瞬きして見る。
そのたった一言には、迷いと確信がない交ぜになっていた。
こんなにあると、ザラトールが何を悩んでいたのか、〈魚〉とは何のことなのか、とても気になってくる。単純な好奇心だ。神話研究の第一人者がここまでこだわるのだから、きっとすごい事実に違いない。
それが分かったなら——。ヴァイオレットは絵を額に入れ直し、元の位置に戻しながら頭の片隅で考えた。ギイド様に話して差し上げられるのに……。
はっとして、首を横に振った。強いて別の事に考えを巡らせ、今の思考は取り消す。
そう言えば——、
この絵に似た鳥の銅像を、どこだったかの階段横で見掛けた。写実的ではないから、雰囲気を象ったという感覚なのだろう。思い返してみると、羽の広げ具合や波打つ尾羽はそのままだ。
そしてその鳥の首にも、どういうわけか宝石がぶら下がっていたように記憶している。それもやはり鍵ではなかったけれど。——それが鍵だったなら、皮肉にすぎる。
なんとか気を持ち直したヴァイオレットは、それから図書室にも足を向けた。本を読むためではない。一つ一つ部屋を巡って確かめているので、その順番通りというだけだ。始めの日にちらと見た莫大な量の書物は、ちょっと読みかじるには向かない迫力がある。
二枚扉の片方を押し開いて中へ入ると、窓を覆う分厚い遮幕のせいで、図書室は薄暗かった。壁を埋めるだけでは飽き足らず、整然と列をなす本棚。そこにびっしりと詰め込まれた本。そこここにある大小の踏み台と椅子。入って直ぐ----真ん中に残された空間にある机には、炎のような朱い髪をした女性が、腰を掛けて本を開いていた。
顔を上げた彼女と目が合って、ヴァイオレットは目礼する。
確か、クーラン・レイクンという名前の魔法使いだ。彼女がいるのは分かっていた。言葉を交わしていないどころか、ほとんど顔を合わせてもいなかったので、静けさに包まれた部屋に二人きりというこの状況は、非常に気詰まりだった。幸いなことにここは図書室で、レイクンは本を読んでいる。つまり話をする必要はない。
ヴァイオレットは彼女を気にしないように努めて、さっさと用事を済ませ、出て行くことにした。
見たいのは本棚の装飾や、その間にある彫刻などだ。手前の端からゆっくりと目に留めていく。
作り付けの本棚は、区切れ目ごとに模様が彫られていた。ありふれた草木模様だ。壁にある絵も森の中を描いた風景画だし、彫刻も梟や鹿などの落ち着いた動物だった。ただ、明かりを灯す燭台の飾りだけが魚だ。気になっているからつい気にしてしまう。火元に水の生き物だから、火除けのまじないとかそれくらいの意味でしかないだろう。
これだけ本に囲まれていると、物音がはばかられる心境になって、自然と一歩一歩の足音さえ忍ばせてしまう。
四方の壁一面が本棚だから、もしかしたら昨日見たような隠し通路の仕掛けが、ここにもあるのかもしれない。一通り調べ終わったヴァイオレットは、本棚の群を見渡しそんなことを思う。とはいえ、それを探してみたいかと言えばそうではなかった。むしろ探す必要が浮上しないことを、願う。
そうしていると、レイクンが立ち上がってこちらにやって来た。一瞬ぎくりとしてしまってから、直ぐに、ヴァイオレットの脇にある棚に本を戻しに来たのだと分かった。
レイクンは無表情のまま別の本を手に取って、その場でぱらぱらとめくる。
側に立たれると、背の高さがよく分かる。普通の身長しかないヴァイオレットでは、視線を上げなければ目が合わせられない。冷めた色の唇。無駄がなく物静かなたたずまい。ややツリ目の鋭さのある眼差しが、すばやく紙面を行き来する。それはヴァイオレットが想像する、知的で有能な女性そのものだった。
「本は好きですか」
「!」
密やかに見ていたつもりが、唐突に声を発せられて、飛び上がりそうになった。
何を聞かれたのかまで咄嗟に分からず口ごもると、レイクンは本を開いたまま炎色の瞳でちらとヴァイオレットを見た。そしてまた、紙面に目を落とす。
「本です。小説でも研究書でも。
本、好きですか」
——どうだろう……。
ヴァイオレットは瞬きしてから考えを巡らせた。
勉強のためにたくさんの本を読んだ。でもそんなことは考えてみたこともなかった。
さまよう菫色の眼差しから先にうつむき、やがて下を向いてしまう。
「たぶん……あまり好きではない、と思います」
声までが下を向いて、弱々しい。
ヴァイオレットが本を読んだのは必要だったからで、好んでではなかった。知識を得る喜びも、物語を楽しむ余裕もない。字面を追うのは苦ではないけれど、そこにあるのは苦痛の記憶だけだ。
「そうですか」
レイクンは特にこだわりなくうなずいた。手にした本を棚に戻す気配がある。
「私は好きです。
この屋敷も気に入っています。
読みたくても読めなかった本が、たくさんありますから。古今東西あらゆる物がごった煮になっているこの感じもすばらしい。本当に、すばらしいです」
淡々と、やや早口に語り出す。低めの落ち着いた声には、少女のような明るい芯があった。ヴァイオレットは意外に思って、上目に様子を窺った。
「でもあの人たちは違うんですよ。そんなものにはいっさい興味が無いみたいで。欲深なんです」
相変わらず眉一つ動かない。表情にも語り口にも、一切の感情が表れなかった。——表さないのだろうか。
ヴァイオレットを横目にまた一瞬だけ見ると、レイクンは別の本を手に取って、表紙を撫でた。
「私だけ派閥が違うので。
ネイギさんはどうにかして屋敷にある物を全て手中に収めようと目論んでいるみたいですが。それは自分にとって利益となるからで、すごく利己的な価値しか見出していないんですよね。
それはとても残念なことですよ」
「はあ……」
ヴァイオレットは返事に困った。そんな話をここでしてもいいのだろうか……と、他人事ながら思う。これが派閥の違いというヤツなのだろうか。大人の付き合いはよく分からない。目を合わせようとしないレイクンが、何を考えているのかもよく分からない。
「あなたはどうですか」
「え……?」
突然こちらに話を向けられて、ヴァイオレットは戸惑った。何を問いかけられたのか、やはりよく分からない。
ヴァイオレットにしても、この屋敷に来たのは魔神の手掛かりを掴むためで、それはとても個人的な理由からだ。そして見付けた情報は全てギイドに渡してしまうから、結果として悪事に利用されることにもなる。
自分の都合しか考えていない。そう言われてしまえば、その通りだった。
答えられないでいると、レイクンは本を手に持ったまま、本棚へと静かに眼差しを上げた。
「あなたにとって、価値とは、何ですか」
「価値……ですか」
「ええ。物事を判断する基準となるもの。もしくは最も重視していること——と言い換えられますかね。
私にとっては、本です。
積み重ねられた、歴史と文化です」
無表情なのに、彼女の話し声にも眼差しにも、冷たさは感じなかった。
だからヴァイオレットは、真剣に考えた。
そして、首を横に振った。
「分かりません。
でも……ここには無いと思います」
また、うつむいてしまう。
大事なものと聞かれたら、いつだって思い浮かぶのは一つだ。
それなのに、今は、答えられない……。それが、つらい。
レイクンはうなずいた。
「そうですか。
あるのなら、良かった」
それだけ言うと、本を開いて一心に読み始めた。その状態ですいすいと元の机に戻り、腰を下ろす。話はもう終わりなのか。顔を上げる様子もない。
その無機質な態度に少々面食らって、ヴァイオレットはレイクンの後ろ頭を見つめた。
彼女が何を言いたかったのか、結局よく分からなかった。大事な話だったのかさえも。世間話がしたかっただけなのかもしれない。でも……——。
ヴァイオレットは軽く頭を下げ、図書室を後にした。
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