第32話
なかなか寝付けず、朝寝坊して起きたときには、アルグの姿が無かった。窓が少し開いていたから散歩に出たのか、三人組の様子を見に行ったのかもしれない。
それは別にかまわない。できれば顔を合わせたくなかった。
それよりも不可解なのは、ロジアムまでが姿を消してしまったことだった。
気分が落ち込んだまま身支度を済ませて、朝ご飯を食べ終えた頃、白髪の執事が部屋へ来て報せてくれた。
昨晩のあの騒動の後、自室に戻って休んだ時までは確かに居たのに、朝になってみたら居なくなっていたそうだ。使用人たちは何も聞かされていないし、書き置きの類もなかった。
まさか、誘拐……。
ヴァイオレットの脳裏に、深夜侵入した賊が思い浮かぶけれど、あれはハッカだ。彼ではあり得ないし、いくらなんでも自宅に居てそれは無いだろう。それよりも、ロジアムがお題に時間制限を設けたこの時だという方が、関連があるのではないかと思った。だとすれば自ら姿を消したのだろうか。いろいろ問い詰められるのを嫌って。それはいかにもありそうだった。
とはいえ。
ロジアムは病気らしい。容態がどの程度のものなのかは聞いていないけれども、余命を気にしなければならない程度ではあるのだろう。どこかで倒れて動けなくなっている可能性も考えられた。
そう思ったら、ヴァイオレットは無性に心配になってしまって、捜索を手伝おうかと申し出ていた。しかし執事は普段通り腰を折って、丁重に断った。
「大変有り難いのですが、ただいま手の空いている者で探しておりますので。
もしお見掛けになりましたら、教えていただければ助かります」
「そう……ですか」
言外に、身内のことでお客様を煩わせるわけにはいきませんので、と言われているのは分かった。しかし今のヴァイオレットには、そんな些細な拒絶が思いの外、応えた。
老執事が礼をして部屋を出て行くのを見送る。
重たい心が体にのし掛かって、下を向かせた。
本当に嫌になる。
こんな自分は大嫌いだ。
ヴァイオレットには他にすべき事があるはずだ。
魔神の鍵を……探すのだ。
「——……」
気が乗らないまま無理矢理に顔を上げ、足を動かした。
失くしたのではなく隠したのだとすれば、探す場所、見るべき場所がまるで変わってくる。
この日はもう「ガラクタ」の山を、手当たり次第しらみ潰しに切り崩さなくてもいい。隠せそうな所に重点を絞って、見ていけばいいのだ。箱をいちいち開かなくてよくなっただけでも、手間が省けるというものだった。在るのか無いのか、鍵なのか別物なのか。分からなかったときと比べても、ずっとやりがいがある。——そう、ヴァイオレットは自分に言い聞かせた。
手始めは玄関広間だ。
中央に立って天井を仰ぎ、それからぐるり見渡す。
真っ先に目に付くのは真上にある飾り照明だけれど、気になるのはやはり通路を塞ぎ堂々たる存在感を放つ彫像たちだろうか。
薄絹を纏う美女の白い石像に、素っ裸に剣を構える男の銅像、そして両腕を振り上げ威嚇する大きな木彫りの熊。それぞれが別の方向を向いている。美女の石像の胸元には、何故か宝石が飾られていた。そこだけ浮いているから、作品の一部ではない。もちろん魔神の鍵でもない。たぶん誰かが——ロジアムが、後から付け足したのだろう。着せ替え遊びをする子供のイタズラのようで、ちょっと意味が分からない。初めて訪れた時には気付かなかったけれど、いつからこうなっていたのか。
ヴァイオレットは首を捻りつつ、そこから順に壷の中をのぞき込み、壁の絵を眺めた。
そして、頭の片隅で考える。
こうして目先を変えて探させるのも、ロジアムの仕掛けの内なのだとすれば、どこかに正解に繋がる示唆のような物があるのではないだろうか。例えば壁に掛かった額縁の並びに規則性があるとか、部屋ごとに共通した何かがあるとか——。
そうだとすると、昨日、ヴァイオレットや魔法院の面々で、幾つかの部屋を引っかき回してしまったのが悔やまれた。——否、普段から多少は動かしていたようだから、それは問題ないだろうか。あるとしたら、ある程度固定されている物か、動かしにくい物か、動かされても問題のない物か——。
そうしていくら仮定を上げ連ねてみても、取っ掛かりがなくては話にならない。
一通り確かめて、階段の途中で手摺りに寄り掛かり、ヴァイオレットはため息を吐いた。当てもなく広間を眺める。そこには、いつ見てもきらびやかな飾り照明があった。
ヴァイオレットが前に見たのは、金輪に幾つも蝋燭を立てただけの物で、こんなにも美しい照明は初めてお目に掛かった。光をよく反射するように、角を付けて削られた硝子の玉飾りが、幾重にも連なってぶら下がっている。透明さや光の屈折具合からすると、それらはただの硝子ではなく、水晶か何かなのかもしれない。所々に大きな玉まであって、それには淡く色が付けられていた。
天井近くにある窓から差し込む陽光を反射して、湖面のように揺らぐ儚い色の影を、壁や床に作り出している。そんな反射まで、職人は計算しているのだろうか。夜、蝋燭に明かりが灯ったら、どんなにか美しいだろう……——と、いけない。思考がずれている。
虚ろに眺めてしまっていたヴァイオレットは、頭を振って下を向いた。今度は手を置いた手摺りに目が行って、そこでまた気が付いた。
その手摺りは、縦に棒が並ぶだけの格子ではなく、渦を巻くような波紋を描いていた。その流れには躍動する拍子があって、つい目で追ってしまう見応えがある。この屋敷は本当に、どこを見ても、こんな趣向の凝らされた物で溢れている。それに改めて気付かされた。
踊り場の手摺りが水平になった部分には、大きな魚もいた。
魚——。
そういえば、ザラトールの絵がまだ他にもあると、ロジアムは言っていた。それも探してみなければならない。
ヴァイオレットはぼんやりと、思った。
オルレイン・ザラトールの絵は、他の部屋にひっそりと飾られていた。家具と家具の隙間のような場所ではあったけれど、大人が普通に立って目に入る高さ、そして手の届く位置だった。
その絵には、この屋敷の裏手にある庭が描かれていた。夜の絵だ。庭の奥——雑木林の手前だろうか、そちら側から見た屋敷と池、それから池のほとりにある多角形の屋根を乗せた東屋。月そのものは描かれていないけれど、池にその光が映り込む。
そんな月の光によって浮かび上がる深い青色の世界は、静けさと清涼な空気をヴァイオレットに感じさせた。
そしてもちろん、ヴァイオレットは絵の裏側も確かめた。
夜の絵の裏にも、あたりまえのように文字が書かれていた。これはヴァイオレットでも普通に読める。謝礼文だ。
曰く、
「長い間滞在させてもらった上に、手厚く持て成していただき、とても感謝しています。
ここに来て、新しい発見を得ることもできました。
そのお礼になるか分からないですが、これらの絵を残して行きます。貰っていただければ幸いです。
またの機会があることを願って」
最後には二十年以上前の日付と、署名。
「オルレイン・ザラトール」
ヴァイオレットはもう一度その文面を目で追いながら、唇に指を添えた。
この「新しい発見」というのは、もしかしなくてもあの「魚」の群のことではないだろうか。こうして書き残すほどに、彼にとっては重大な何かだったのか。
いや、それよりも。
最後にきっちり間違えようもなく名前が書いてある。
ロジアムは——これを見ていないのだろうか。しっかりした高級な額縁に入れて壁に飾っているのに。見ていて気付かないなんて、さすがにないだろう。それでもあんな風に、知らない素振りをしたのか……。
ヴァイオレットは目を伏せて、細くため息をついた。
絵を元に戻して、夜の屋敷を見つめる。
何が本当で、何が偽りなのか。
全てが不確かだ。
まるで、この屋敷そのものが幻のように。
池の水面に映る月が、ただ揺れていた。
▽ ▽ ▽
魔神ムルガンと英雄たちを描いた神話の絵。
これはザラトールの絵ではないだろう。ヴァイオレットが両腕を目一杯に広げてもまだ足りない、大きな絵の中心に立って、ただ見上げた。
数人の英雄が金に光る武具を持ち、漆黒に塗られた巨大な化け物に立ち向かっている。流れる血。壊れた町と倒れる人々。
ここに描かれた魔神も、確かに恐ろしく、そして醜い。
けれど本物はもっと不気味で、魂が締めつけられるように恐ろしかったのを、ヴァイオレットは覚えている。
鮮血を固めたような真紅の目玉だった。濡れたような艶のある、波打つ毛並みが蠢いて見えた。地面を踏む強靱な四肢、身を叩く怒りの咆哮。それら一つ一つを、この身に刻むように覚えている。コードリッカの惨状も……——。
ヴァイオレットは己の体を抱えるようにして、冷たい両腕をさすった。
ギイドはどうするつもりなのだろう。
あんな獣、封印を解いたところで思うようには動いてくれない。それに、一つでは足りない。ギイドの望みはあくまでも全てだから。一つでは不十分な惨劇を生むだけ。そうなれば——また、無関係な町が酷いことになる。その時ヴァイオレットは……——。
「マリー」
声を掛けられ、振り返った。
そこにいたのがピエルタで、顔をしかめる。あたりまえだったと気付いたのは、その一拍後だった。
あからさまに嫌な顔をしてしまったので、ピエルタに同じように顔をしかめられても、文句は言えない。彼女は腰に両手を当て、厳しい声で言った。
「ちょっと。退屈そうだから声を掛けてあげたのに、その顔はないんじゃないの」
「…………」
なんだかとんでもなく面倒くさい気分になって、ヴァイオレットは眉を吊り上げるピエルタから絵に目を戻した。
こんな態度では余計に怒らせるだけだろう。
しかしピエルタは直ぐに矛を収めて「まあ、いいわ」と軽く言う。退屈していたのは彼女のようだ。ヴァイオレットが視線を注ぐ絵に向き直って、小首を傾げるのが目の端に見えた。
「陰気な絵ね」
何が良いのかぜんぜん分からない、と露骨に声音に表れる。興味があるわけでもないだろうに、続けた。
「この絵に何かあるの?」
「別に……」
ヴァイオレットとしても道なりに進んで、そこにある物を順に眺めていただけで、これに特別な関心があったわけではない。
ピエルタが肩をすくめる。
「あらそう。
そう言えば、昨日から屋敷をうろうろしているみたいだけど、あなたは何をしてるの?」
「……」
——自分でも、何をしているのだろうと思う。
あれだけいろいろ言われたのに、まだ魔神の鍵を探そうとしている。それを手にできたとして、どうするつもりなのだろう。こんなことは、無意味だ。なんにもならない。でも今できるのはもう本当にコレだけで、少しずつでも何かをせずにはいられなかった。
立ち止まってしまうのが、怖ろしい。
そのまま二度と——動けなくなってしまいそうで。
「なによ。あんたまでいつにも増して陰気ね」
「エトルワトル! 怠けないでください!」
「見付かっちゃった」
ピエルタがぺろりと舌を出し、悪びれない笑顔で振り返る。ヴァイオレットもつられて目を向けると、ネイギが大股にこちらにやって来るところだった。
形ばかり怒った眼鏡が、ピエルタの隣にいるヴァイオレットの方を向く。以前は気にも留めずに見流したのに、この時は声を掛けられた。
「おや、貴女は。マリーさんでしたか。それともヴァイオレットさんとお呼びした方が良いですか」
小首を傾げて、困ったように苦笑する。ヴァイオレットはそのキツネ顔を一瞬だけ見上げ、眼差しを余所へ逃がした。
「どちらでも……」
昨日までネイギは、ヴァイオレットなんて眼中にないようだった。しかし、興味が無かったのはヴァイオレットも同じだったのだと、いま気付いた。この人になんと呼ばれても、大して気にならない。いっそかまわないでほしいというのが、偽らない本音だ。
ところがネイギはしつこく居座った。
人懐こい笑みを浮かべる。
「そうですか、ではマリーさんとお呼びしますね。
昨晩はうちのエトルワトルがお騒がせしました」
「やだもうっ、ネイギさんっ。
あたしのせいじゃありませんよ」
頬を膨らませるピエルタに、ネイギは微苦笑して後輩をなだめる。
「そうでしたね。
それにしても不思議だったのですが」
そして再びヴァイオレットに向き直ったときには、きょとんとしてみせた。
「あれが魔神の鍵ではないと、よくお分かりになりましたね。どうして見分けられたのでしょうか」
「別に……」
昨晩のやり取りで目を付けられてしまったかな、とは思っていたので、驚くにも値しない話題だった。眼鏡の奥で、ネイギが油断なくヴァイオレットを観察しているのにも、気付いている。
「たまたま知っていただけです。
それ以上、話すことはありません」
そんなネイギの思惑以前に、気乗りしない会話だった。つい、無愛想な受け答えになってしまう。あまり邪険にすると変に勘ぐられてしまうかもしれない。それも分かっているのだが、いちいち言動に気を遣うのも煩わしかった。
「たまたま、て。どうすれば偶々そんなことを知れるのよ」
腕を組んで問い詰める構えのピエルタ。
それをやんわりとネイギが制した。
「そんな言い方をするものではないよ、エトルワトル。
それよりも、僕たちは今、ロジアム氏の課題に取り組んでいるところなのです。『この屋敷で一番に価値の高い物』とは、なんとも曖昧な表現ではありませんか。恥ずかしながら、なんの取っ掛かりも掴めていないのです。
参考までに、マリーさんは何だと思いますか」
ヴァイオレットは控えめに菫色の瞳を上げた。そこにある眼鏡と向き合うけれど、それを見ているわけではなかった。眼差しは遠くの情景を映す。
ノギアムと解り合えず、愚痴を言うロジアムの背中だ。
価値が有るとか無いとか、そんなことはどうでもいいと言っていた。それなのに「一番に価値が高いモノ」とは、なんだろうか。この問い掛けそのものがちぐはぐで、彼の主張とはそぐわない気がする。ならば、答えなんて出ないのではないか。ヴァイオレットはそう思った。
そして——もう一人。
似たようなことを言った人物を、ヴァイオレットは知っていた。
価値が有っても無くても、どちらにも意味はない。
字面は似ているのに、両者の意味するところはほとんど正反対とも言える。それでも、物事に他者の欲する「価値」を求めていないのは同じだった。
「…………」
どうしても思考がずれる。
ヴァイオレットは首を横に振った。
「分かりません」
小さくそれだけ言って、話を打ち切りにするため頭を下げる。踵を返して向こうへ行こうとしたら、
「もう一つだけ」
と、呼び止められた。
足を揃えて立ち止まり、振り返る。
「アマランジル・アルグカヌクをどう思いますか」
出し抜けに聞かれた。
——口うるさいヘンタイのトリだと思う。
とは、さすがに言えない。ヴァイオレットにとってはそれ以外ではないけれど。
何か気付いているのか。何を聞きたいのか。
ヴァイオレットはその疑問をはっきりと顔に出した。
「どう……と言われても。
史上最高の魔術師としか、知りません」
実際そうだったから。ヘンタイでないのなら、そうとしか言えない。
眼鏡の奥の青い瞳が、笑みを浮かべたままじっと見つめている。そうやって、ヴァイオレットを値踏みする。天恵でもない人のそんな眼差しは、少しも恐くなかった。ピエルタが不可解そうに見比べていた。
やがてネイギはうなずいた。
「そうですね。
ですが僕としては——」
「もう、いいですか」
続けようとするネイギを遮る。
うんざりだった。
この人の思惑なんてヴァイオレットには関係ない。付き合いきれない。
ヴァイオレットは眉を僅かにしかめて見上げた。ネイギは瞬きして見返したものの、当たり障りのない笑みを浮かべ、もう一度うなずいた。
「はい。
時間を取ってしまって、すみませんでした」
言葉を最後まで聞かず、ヴァイオレットは足早にその場を後にした。
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