第28話

 午後になってから窺ったので、屋敷をざっと見て回るだけでその日は終わってしまった。

 部屋数は多いけれど、外観はほぼ長方形なので整然と並んでいるのかと思ったら、けっこう入り組んでいたらしい。アルグを連れずにヴァイオレット一人で歩いたら、気付いたときには迷っていた。

 慌てず騒がず、窓から外を見て、おおよその場所を確かめる。そこには薄闇に沈む裏庭があって、大きな池とお椀型の屋根をした東屋が見えた。その先にあるのは、鬱蒼とした森だ。そうした景色の角度から、今いるのがどの辺りなのかは分かった。しかし、あてがわれた部屋に戻る道順はというと、そうはいかない。一階ではなかったので、一度外に出て——というのも無理だった。

 まさか個人の家で迷子になるとは思わず、少々呆然と景色に見入っているところに、ちょうど女性の使用人らしき人が通りかかった。ヴァイオレットは恥を忍んで道を聞き、やっと部屋に帰ったのだった。



 翌日になって、朝食を終えると探索に取り掛かった。

 始めは書物だ。一日部屋に籠もっていると退屈だとアルグが言うので、どうせならばヴァイオレットの代わりに本を読んで、調べておいてもらうことにしたのだ。それに本棚の前なら、手提げ籠を持っていたとしてもあまり不自然ではない。見繕った本を入れて運ぶための籠だ。

 ヴァイオレットたちは大きな図書室を避けて、大量に書物の積まれた部屋へとやって来た。壁に取り付けられた書棚では足りず、分類前の本が床や机の上に山となっている。そんな書物の間に、巻物や関係なさそうな骨董品が……やはりと言うか、忍んでいるのだった。

 ざっと題字を見ただけでも、本の内容は多岐に渡った。中でも小説や詩集などの文学、歴史、民話、民族関係が多いだろうか。各種の図鑑や辞典も見受けられた。

 息を吸うと、古い本の匂いがする。この屋敷はどこもだいたいこんな匂いに包まれていた。学校でも図書館に入り浸っていたから、あまり好きとは言えないけれど、ヴァイオレットにはよく馴染んだ匂いだった。

 正式な図書室にしなかったのは、そこにあるめぼしい本には既に一通り目を通したとアルグが言ったからで、現在はレイクンという魔法院の女性が調べているからだった。

 あまり時間を掛けてもいられない。とりあえず見やすい壁の棚に目を付ける。

 籠を足下の物陰に置き、天井近くまである棚の前に立って、端から一つずつ背表紙を確かめていく。一番上は届かないので、背伸びして——なんとか魔法で取り出した。そんなほんの少しの成果が無性に嬉しいのは、トリには内緒だ。

 どれも古そうな本ばかりだった。

 関係の無さそうなものを弾いていくと、残るのはほんの少しだ。神話や古い歴史。それ自体が極めて古そうな書物。古代文字で描かれた書物。籠から頭を出して眺めるアルグと共に、そんなものをより分けて、また次の棚へ向かう。

 そうしている時だった。

 アルグを連れているので周囲に目を配りながら探していると、部屋に人が入ってきた。魔法院から来た一人、見習いの少女だ。ヴァイオレットはその姿を目に留め、強いてそちらを見ないように背を向けた。足で軽く籠をつついて合図する。

 少女はただ通り掛っただけに見えた。しかし向こうもヴァイオレットに気が付いたのか、途中からこちらを目指して歩みを進める。それが視界の端に映った。

 背後に立つ気配。

 数歩分離れた位置だ。

「ねえ、あなた。マリーよね?」

「…………」

 不躾に声を掛けられる。鳥が鳴き交わすような響きのある、明るい声。

 無視するのも変だろうか……。

 ヴァイオレットは心の内で息を吐き、それから振り返った。

「ああやっぱり、マリーだ。

 久しぶりね」

 そう言って笑う少女は、両足を肩幅に、腰に手を当て立っていた。自身に溢れた立ち姿は、まるで変わっていない。自分が忘れられているかもとは、少しも考えないらしい。まだほんの一年前だから、忘れようもないけれど……。

 彼女、ピエルタ・エトルワトルは、ヴァイオレットにとって一応知った顔だった。

 突然、青空に暗雲が立ちこめたようなものだ。目を合わせないようにしていると、ピエルタは体を大きく傾けて、明るい茶色の瞳でのぞき込むように見てきた。

「今までどこに行ってたの?

 急に学校からいなくなってしまったから、みんな心配したのよ」

 嘘だ、と思う。

 彼女を含めて、あそこにヴァイオレットの身を案じる人は、一人もいない。逃げ出して里に帰ったと思うだけだろう。

「…………」

 ヴァイオレットは何も言えなかった。この一年を、彼女のために言葉にするのが嫌だった。それをしてしまうと、何かが損なわれてしまう気がした。彼女の反応を見るのも、嫌だ。

 見せかけの心配顔から目を逸らすと、ピエルタはくすりと笑った。

 計算ずくの可愛らしい笑顔のつもりなのだろう。真っ直ぐ切り揃えた前髪の下で弓なりに細まる瞳が、ヴァイオレットにはたまらなく気持ち悪い。

 ピエルタは二つに分けた長い髪を揺らして体を起こす。独り楽しそうに後ろで手を組んで、周囲に気を留めながら軽やかに動き回る。毛先にいくほど茶の濃くなる不思議な色合いの髪が、背中で踊った。

「あたしはね、今年学校を卒業したの。それで副院長さまに認められて、師事させていただいてるわ。春からネイギさんの下で研修中よ。いろいろやることがあって、大変なの」

 聞いてもいないのに、抑揚の強い歌うような独特の調子で語る。

 この日は制服ではなかった。魔法院から来た彼らも屋敷の物を調べるそうだから、動き易さを重視したのだろう。ピエルタは都会風の洒落た服を見せびらかすように回って、また前に向き直った。

「どうしてこんな所にいるのか知らないけど、マリーも変わらず頑張っているみたいで、安心したわ」

 ちらりと視線を向けるのは、傍らにある書棚と籠の中の本だ。名前を呼ばれるたび、ヴァイオレットは居たたまれなくなる。

 早く行ってくれればいいのに。

 そう思って菫色の瞳を上げると、向こうの部屋にまた人が通り掛った。黒髪に眼鏡。ネイギに間違いない。袖をまくって金具で留めているものの、彼は頑なに濃紺の法衣を身に纏っていた。

 ネイギは部屋の外からこちらに目を向けると、足を止めて少し顔を差し入れた。

「エトルワトル。ここにいたのですか。こちらを手伝って下さい」

「はい。ただいま」

 ピエルタが甘えた声で返事をする。一緒にいたからか、ネイギはヴァイオレットにも視線を寄越した。しかしそれだけで、まるで気に留めず去っていった。

「じゃあまたね。

 お互い頑張りましょう」

 ピエルタを意識したくないばかりに、ネイギが去った戸口の方を気に掛けていたら、横をすり抜けざま軽く肩を叩かれた。ヴァイオレットはまともに目を見開いて、体を引いてしまう。しかしピエルタはそれに気付きもせず、振り返りもせずに部屋を出ていった。肩を押さえて硬直したまま、姿が確かに消えるのを確認せずにはいられなかった。

 しばらくして、力が抜けたようにうずくまる。ヴァイオレットは両手で顔を覆い隠して、長く長く息を抜いた。

『知り合いか?』

「ええ、そう……」

 内に籠もる暗闇の中で返事をする。

 間近にアルグの声を聞いて、驚かないわけではなかった。ただ今は胸がいっぱいで、それがどうでもいいように思えた。説明を求められている気がしたので、余計なことを聞かれる前にと短く続けた。

「——学校にいた頃の、同級生。

 彼女は一番に、優秀だった。

 マリーはわたしの……以前の名前」

 以前の、だ。本当の、ではない。

 もう捨てた過去。そのはずだった。

 学校での出来事も、自分も。

 今のヴァイオレットには関係ない。

 だからこんなにも動揺するなんて、自分でも思いもしなかった。

 唇を噛み、ゆっくりと息を吸い込む。

 それから手を下ろした。

 周りを囲う本の山。アルグが籠から頭を出して、群青の眼で見つめていた。

『優秀? そうは見えなかったが。まあ、ああいう周りが見えていない子の方が、コツを掴むのが早かったり——うぐっ!』

 ジェーイジェーイと声を出す嘴を、手で摘む。

 あまり口を出されたくない。この場合は嘴。

「優秀だったの。

 わたしなんかより、ずっと……」

 小さく言う。

 アルグは抵抗しなかった。手を離すと『ひどいぞ』とだけ。そんなぼやきも、ヴァイオレットの耳には入らない。

 ピエルタはヴァイオレットと同じ年齢としだ。彼女はもう魔法院で働き始めている。ヴァイオレットがあのまま学校にいたとして、今年卒業できたかどうか……。アルグは魔法院の制度にいろいろ文句があるようだけれど、一定の水準を満たさない未熟者を世に送り出すほど甘くはない。

 あの時ヴァイオレットは、決意して飛び出した。それはいい。でもそれで今、何が出来ているだろう。役に——立てているだろうか。アルグの手伝いだって、本当は頼んだヴァイオレットがどうにかしなければならなかったのに、ヌーやチャボやハッカの三人にばかり手間を掛けさせて、ほとんど何もできなかった……。

 それに——、

 思わず、こぼれる。

「——わたしが、もっと、優秀だったら……」

『だったら何だ。

 ギイドはそういう次元にいないだろう』

 ヴァイオレットは膝の上で服を握りしめた。

 アルグが目一杯に胸を膨らませ、そして呆れた息を抜いてしぼませる。

『あれは自分より優秀な人間だろうと、駒ならば顎で使う。ちがうか?』

「……そうね」

 なにせあの恐ろしい魔神さえ、己の望みを叶える道具にしようという人だ。己の手足として使えるのなら、駒の技量なんて気にも留めない。上手く、良いように、使ってみせる。そしてそこには、敬意も信頼も無い。

 いつだって不機嫌そうな、黒い背中。

 ヴァイオレットは簡単に、思い浮かべられた。

 アルグは彼流に元気づけているつもりなのかもしれない。沈み込もうとする気持ちが、上手に逸らされた感じだった。控えめに翼を振って、ヴァイオレットの顔を仰ぐ。

『ほらさっさと続きだ。

 急がないと、ここだけで日が暮れてしまうぞ』

「うん」

 ヴァイオレットも気分を変えたくて、敢えて大きくうなずき膝を伸ばした。

 本に向き直っても、ただ眺めるだけでは頭に入って来なかったので、一度目を瞑ってから、改めて背の文字だけに意識を集中する。

 一つの題字が、目に飛び込んできた。

「魚図鑑」

『……そこにこだわるか、お嬢さん』

「だって……気になるでしょう」

 実を言うと、昨日あの文字の群を見てからずっと、魚が目に付いてしかたなかった。そして困った事に、この屋敷にはそこかしこに魚がいる。彫像だったり装飾だったり絵柄だったり——。裏にある池には、生物ナマモノが泳いでいるそうだ。そのいくつかを手に取ってみたけれども、何か細工がしてあるわけではなかった。書き置きのようなものも無い。考えてみれば、オルレインがいた頃より品物は増えていて、家具の配置も変わっているはずだ。絵の他に彼が残せるものなんて、無いのだった。

 ヴァイオレットはぱらぱらと図鑑をめくる。

 かなり古い本のようだ。繊細に描写された魚の線画。細やかな説明文。それらは何故か、大きく二つに分類されていた。川と海。ヴァイオレットは首を傾げる。

「うみ? 太古の図鑑なのかしら。でも海の魚と川の魚って、違うの?」

『古代語ではないから、誰かが翻訳したものではないか?

 海は塩辛いから、同じ水中でも棲んでいる生き物は異なるのだよ。私は地上に行ったとき食べたぞ!』

「そうか、そうよね。ふしぎ……」

 海の話は聞いている。でも川の水が流れ込んでいるはずなのに、違う生き物なんて変だと思う。そのうえ海だけ塩辛いなんて。地上は不思議な場所だ。

 いま必要とは思えなかったので、図鑑は元あった場所に戻した。その横にある本に指を向ける。それには題字が無かった。何の本なのか確かめるために引き出してみる——が、どうしてか、その本は途中で止まってしまった。

 その上、カコンと妙な音がした。何かが動いたような外れたような音だ。

「?」『?』

 顔を見合わせるまでもなかった。

 首を巡らせたその先の壁が、軋んだ音をさせて開いた。ヴァイオレットは瞬きする。そこは建物の中心になる方の壁で、そこだけ書棚が無かった。結局そこの床にも本が積まれていたから、特に気にしていなかった空間だ。

 恐る恐る近付くと、扉のように開いた深緑の壁の向こう——裏側に、通路があった。のぞき込んでも真っ暗闇で先が見えない。どこに続いているのか、隠し通路というやつだ。はっきり言って、不気味だった。

「なに、これ?」

『さあ?』

 振り返ってトリに問うても、首を傾げるばかり。

「こんなのあるの??」

『あるんじゃないかとは思っていたが、私も知らなかったぞ』

 また反対側に首を傾げて、思案している様子だ。ヴァイオレットは戸口に両手を掛けて身を乗り出し、通路に首を差し入れてみた。

 微かに空気の流れを感じるから、通気孔でもあるのだろう。蝋燭が使えるし、閉じ込められても窒息するようなことにはならなそうだ。こんなものがあるなら、入り組んだ構造にも納得がいく。

 ヴァイオレットは開いた壁を、静かに閉じた。

 特に苦労もなく元通りの、何の変哲もない壁に戻る。継ぎ目も凹凸のある壁紙の模様に隠れて、触ってもよく分からない。

『なんだ、行かないのか』

「……」

 あっけらかんと言われてしまったので、恐い——というのは度外視にして考えてみる。どこかでなくした首飾りが、隠し通路の先にあるだろうか。ヴァイオレットはさすがに無いと思う。何があるかは気になるところだけれど。

「目的が違うでしょう。

 気軽に入っていいのかも分からないし」

『それもそうか?

 ロジーは気にしないだろうが』

 必要ならまた今度、確認してから入ってみればいい。ヴァイオレットはとにかくも見なかったことにして、作業に戻った。

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