第26話
取り残されたロジアムの背中がある。
ロジアムは長く息を抜き、うつむきがちに額に手を添えた。それから苛立ちを露わに顔を上げ、室内をぐるり見渡す。
「まったく、あいつは! 本当に! まるで分かってない! この『ガラクタ』の良さが少しも理解できないとは。あれでもコルトコネ家の男か! 価値があるとかないとか、そういうことではないのに……っ」
憤る声に、寂しさのようなものが混じるのを、ヴァイオレットは感じた。それはままならない想いだ。籠と一緒に部屋へ入って、少し迷ってから声を掛けた。
「あの……」
ロジアムがはっとして振り返る。決まりが悪そうに苦笑した。
「見苦しいところを見せてしまったようだ」
ヴァイオレットはただ首を横に振る。感情豊かに愚痴を言うロジアムは、近付き難く感じたさっきよりは、話し掛けやすかった。
自分だけではなくアルグも聞きたがっている気がしたので、ヴァイオレットは真っ直ぐ鳶色の瞳を見上げ、尋ねた。
「お身体、悪いのですか?」
「……ああ」
ロジアムは静かに見返した。
「医者が言うには、長くないそうだ。
魔法使いのように誤魔化しは利かないのでね。順当に
「そう、なのですか……」
ロジアムは笑ってみせる。それ以上なんと言っていいのか分からずうつむくと、床に置いた籠からトリが頭を出していた。睨みつけるように、群青の眼を細めて見上げる。冠羽がへたって、不服そうだった。
「そんな顔をしなくていい。
悲観はしていない。時が来れば、誰しも逝くのだ。私は余生を充分に楽しんでいる」
既に受け入れているのだろう。ロジアムの表情は明るかった。その笑顔に嘘はないように思えて、ヴァイオレットは複雑になってしまったものの、微笑を返せた。
そんなロジアムが、眼差しを部屋にある物たちに向け、表情を曇らせる。
「気掛かりがあるとすれば、この『ガラクタ』たちだ。
あいつの言う事も分からないではない。だが私はね、この場所が変わってしまうのが嫌なのだ。若い人には分からない感覚なのだろうが……」
——分かります。などと、軽々しく応えられるはずがなかった。ずっと、己の居場所を持たなかったヴァイオレットだ。しかし、最近になって身に染みた。ほんの一年間だったけれど、やっと居心地の良い場所を見付けたと思った。それなのに、その場所は、あっという間に壊れてしまった。失ってからようやく、惜しむものだったと気が付いた。変わってほしくないと思えたときには遅かった。
それはたぶん、「場所」ではない。そこにあるいろんなモノが影響しあって作り出す、空気のような何かだ。ヴァイオレットにとっては、大事にしたいものだった。ギイドにとっては——どうだったのだろう。やはり、取るに足りないものなのだろうか……。
そんなことを、漠然と思う。
大きく息を吐く老人は、初対面の時よりも随分と小さく、疲れて見えた。初めは何を考えているのか分からなくて恐いと思ったけれど、この人のあの厳しい無表情は、商売相手に本心を悟らせないための、仮面だったのだろうと今なら分かる。長年の経験で培った癖のようなものだ。親子の間では必要ない。そして打ち解けてくれば、子供のような笑顔も見せてくれる。
ギイドとは違う、と思った。あの人の無表情は変化に乏しいだけで、割と率直にその時の気分が顔に出る。見慣れるとそれがよく分かった。いつも不機嫌で、何かに苛立っている。
「…………」
ロジアムが向き直り、以前と変わらない固い声に戻って言った。
「邪魔者が来てしまったが、あんな奴らに遠慮することはない。さっきも言った通り、君も自由に調べて行きなさい。
部屋を用意させよう。何日でも好きなだけ居て構わない。必要な物があれば、執事かその辺にいる者に言うといい」
「あ、あのっ」
では——とそのまま去ってしまいそうだったので、ヴァイオレットは思わず引き留めてしまった。用があったわけではない。ロジアムに疑問そうに見つめられ、焦って目を泳がせる。そうして話題を探した先に、ヴァイオレットは一枚の絵画を見付けた。
そうだった。さっき気になったものがあったのだった。
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
「何かね」
「この絵なのですが——どなたが描いたものですか?」
駆け寄って指さしたのは、この屋敷を描いた風景画だ。ずっと頭の片隅に残っていた。ヴァイオレットは聞く前から、作者について確信めいたものがあった。
絵を見たロジアムは、首を傾げた。
「何という名だったか……。二十年近く前で忘れてしまったが、若い——青年だったはずだ。絵の題材を探して各地を旅している、画家の卵ではなかったかな」
「画家……ですか?」
「うむ。夏期休暇か何かで私が偶々この屋敷に滞在している時に、訪ねてきたのだよ。彼も絵を描く間しばらくここにいて。古い物にも興味があるとかで、屋敷の中を熱心に調べていた。これはその時のお礼として置いていったものだ」
「……どんなものを調べていたか、分かりますか」
ヴァイオレットは考えを巡らせながら尋ねてみた。
「さあ、どうだったか。当時は今より物が少なかったのは確かだが。
そうだ。地域の伝承が好きで、本をよく見ていたかもしれない。神様がどうと話していたのを覚えている。鳥の絵も描いてくれたよ。
気に入ったのなら他にも何枚かあるから、探してみるといい」
「はい」
「では、また。私は少し休むとする」
やはり体調が思わしくないのか、ロジアムは疲れた様子で部屋を去っていった。
少し目を伏せて、小さく息を抜く。
それからヴァイオレットは、再び風景画に向き直った。今度は隅々まで真剣に観察する。そうしてみても、何の変哲もない絵画にしか見えない。たぶんこの絵自体に仕掛けのようなものはないだろう。
『おかしいと思ったのだ。博物館にするなんて』
拗ねた鳴き声が聞こえて、ヴァイオレットは一度顔を上げた。後ろを見れば、アルグが籠から首を伸ばして、周りに人がいないか確かめているところだった。
「……そうなの?」
そこでは目立つので、引きずって絵の方に寄せてやった。アルグはやっと思い切って体を持ち上げ、縁に翼を掛ける。不満な息を抜いた。
『ここに対するヤツの偏愛ぶりを見ただろう。絶対にそんな事を言い出すはずがない。息子の発案だったのだな……』
それについては同意する。ロジアムは何よりもこの屋敷と「ガラクタ」を——そしてその二つが合わさって出来るこの空間を、大事に思っているようだった。より大切に、そして適切に扱われるとしても、博物館になってしまえばそれはもう、ロジアムにとっては別物なのだ。
『ロジーのことだから、黙っているとも思えないが』
「でも、取り合ってもらえなかったわ」
『むー……』
アルグは鳥の顔で器用に膨れ面を作り、考え込む。
ヴァイオレットもそれは気掛かりだ。しかし、何が出来るのか……何をしていいのかも分からない。首を突っ込める立場ではない気がするのだ。そしてそれよりも、優先すべき事が自分にはある。
ヴァイオレットは風景画を振り返った。
「ねえ。これ、オルレイン・ザラトールの絵よね?」
『恐らく。否、そうだな。
私も驚いた。彼が来ていた上に、しばらく留まっていたとは。初耳だぞ』
「ロジアムさんは知らないのかしら」
『気付いていれば我々には教えると思うが。気付いていないのならそれはそれで、相当に脳天気だな。
考えるまでもなく、ここにはオルレインの興味を惹く物がたくさんある——というか、だ。彼はあちこちに絵を残していたのだな。これは盲点だったかもしれないぞ……』
「そう……」
絵から目を離さないままに、アルグの声を聞く。
絵にはおかしな所が無いので、次は横から壁との境をのぞき見る。背伸びをして手を伸ばした。両腕を広げて丁度良いくらいの大きさ。少し——だいぶ重たい。息を詰めて力を込めれば、なんとか持ち上がった。
『……何をしている?』
なに、て……。
絵を床に下ろして一息。ヴァイオレットは肩越しにアルグを見た。
「ザラトールの描いた風景画よ。裏に何か手掛かりがあるかもしれないでしょう」
『フォーヤーンに魔神はいないと思うが』
「封印の場所でなくても、何かあるかも……」
後ろを見れば額縁の裏板で、板の端に小さな留め具がある。傷を付けては申し訳ないので——少しばかり今更な危惧ではあって、ヴァイオレットとしては心が痛むけれど、壁に斜めに立て掛けてから裏板を外してみた。
絵画の裏側が露わになる。
ヴァイオレットは一瞬喜色を浮かべ、それを直ぐに疑念に染めた。
「さかな?」
『魚だな』
アルグもまた疑問そうな声を出す。
絵の裏には期待通り文字が書かれていた。今度のものは暗号にすらなっていない。ただ一面を埋めるように「魚」の文字が書かれている。丁寧な文字。辿々しい文字。勢いのある文字。乱暴な文字。様々な想いの入り乱れる筆跡だった。表を描きながら書き殴ったせいか、色とりどりではある。
その全てが、魚だ。
魚しかない。
「全部ザラトールの文字?」
『言い切れないが、他に誰がいる? 古代文字でまで書いてあるぞ』
読めない文字に何か意味があるのかと思えば、それも魚だったらしい。ならきっと、色にも意味はないのだろう。
「さかな……。
どういう意味——何なのかしら?」
この「魚」には書き手の苦悩しか感じなかった。狂おしいほどの魚。じっと見ていると、目がちかちかしてくる。ヴァイオレットは目頭を押さえた。
「……よっぽど食べたかった、とかだったらどうしよう」
『……せめて神話に関係していると思いたいが。これだけでは、この時のオルレインは魚で頭が一杯だったことしか、分からないな』
「そうね……」
魚で頭を一杯にしながら、こんな綺麗な風景を描いたのだろうか。よく分からない人だ。
ずっと見ていても仕方ないので、ヴァイオレットはそっと裏板を戻し、元あった所に苦労して掛け直した。
「魔法院の人は、これがオルレイン・ザラトールの絵だと気付くかしら」
思い付いて言ってみる。彼らはどう考えたって、ヴァイオレットと同じ目的でここを訪れている。魔神を探すため、神話や太古の事を知れる何かを求めているのだ。正直、魔神の鍵らしき首飾りの描かれた肖像画に目を付けられないか、冷や冷やした。彼らが去った後で、執事がさり気なく絵の群の中に戻していたので、今は見当たらない。
『気付かないのではないか。これはかなりの難易度だぞ。少なくとも裏側を見ようとは思わないだろう』
「…………」
非難されているわけではなさそうだけれど、奇怪な行動だったかと、ヴァイオレットは今やっと思い至った。——あれは必要な作業だった。他の人に見られなければいいのだ。気を取り直してうなずく。
「他にもあるそうだから、探してみる」
『それがいい。
が、お嬢さん。私はあまり手伝えそうにない』
どうして——と問おうとして思い出した。
「あの男の人? もしかして、呪いをかけた一人なの?」
ただの顔見知りなら、鳥の姿でそこまで隠れる必要はない。アルグは嘴を縦に振った。
『そうだ。
やはり人となりを知っているわけではないが。奴は副院長の側近の一人だから、今までとは違って呪いの中心となった方の人物だ。まだ若いが有能だとかで、重宝されていると聞いた。それだけで人柄も想像できるというものだな。ロジーの言う通り、胡散臭い男に違いはない』
「ふうん」
アルグとしては心証の良くない人物だというのが、よく分かる物言いだった。
狐に似た、眼鏡の男。
ヴァイオレットは腰の低い、丁寧な人だと思った。言われてみれば、あのニコニコ顔は嘘っぽいような気もする。しかし大人というのは、少なからず外向きの笑顔を作っているものだ。ヴァイオレットはそう思う。自分の周りにいる大人たちが——ギイドを筆頭にして、変わっているのだ。
『そういうことだから、単に呪いを解けと言っても応じないだろう。私の姿を見られてもまずい。ほんの少しでも気取られる恐れがあるから、魔法も使えない。お嬢さんがこんな籠を持ってうろうろするのも不自然だ』
「それも……そうね」
了解を得ているから持ち歩いているものの、中に鳥がいると知らなければ、かなり違和感のある籠だ。何が入っているのかと、気にされただけで墓穴だった。
「分かったわ——」
仕方ないものね、と続けそうになったのを、うなずきで誤魔化す。今までが頼りすぎだった。それではいけない。とりあえずは手当たり次第に見知った〈鍵〉を探すだけだ。不確かな目標しかなかったこれまでに比べれば、見通しは随分と明るい。一人でだって、なんとかしてみせる。
『すまないな。日中は寝泊まりする部屋にいるとしよう。機を見計らって宿にいる——はずの三人と、連絡を取る役でもするさ。言葉は通じないから、手紙を書いてくれ』
「文字も読めないわ」
『まあ、なんとかしよう。向こうでなら魔法が使えるからな』
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