第三章 大富豪の屋敷

第23話

 青い空の下。

 煌めく金色の門を前にして、ヴァイオレットは言葉も無く立ち尽くした。

 ここは話に出た大富豪ロジアム・コルトコネ氏の別邸。その敷地を隔てる正面の門。

 ヴァイオレットの身長の軽く二倍はありそうなその門は、横に渡る優美な曲線と上から突き出た鋭い切っ先が、絶妙な調和を奏でていた。門の左右は視界の果てまで続く石積みの塀。中に目を向ければ、規則正しく植わる庭木の先に屋敷が見える。——遠い。大きいから分かり難いけれど、遠かった。そしてその背後には、樹木の頭が覗いている。庭園の木というよりは雑木林——それも、もう少しで森と言った方が正しいような密度だ。

 アルグの話では、あの森も敷地内なのだとか。個人のお宅に森がある……。その事実を目の当たりにして、ヴァイオレットは圧倒された。

 空の浮島は基本的に土地が不足している。人が生活しようと思えば、町だけではなく農地や放牧地だって必要だし、山や森だって必要だからだ。それらを将来に渡って維持しようと思えば、それなりの面積が不可欠だった。結果、都市として使える土地は限られてくる。

 だから個人で広い敷地を占有するのは、非常に贅沢なことだった。それはただ莫大な資金を持っていれば手に入るというものではなく、それが許されるだけの地位や権力、そして社会への貢献がなくてはならない。

 そんな常識からすると、この屋敷は桁外れだ。港のある島の中心地ではない。町からも離れた場所にあるとはいっても、ここは交通の要である交易島フォーヤーンだ。そこにこれだけの敷地を持つ……。

 大富豪だとは聞いていた。ココネ商会と言えば、ヴァイオレットでも知っているような世界でも指折りの、長い歴史のある大会社だ。その経営者ともなれば、それは大きくて豪勢な家に住んでいるのだろうと、あたりまえに予想していた。

 しかし、規模が違う。想像の遥か彼方。なんなのかと思うくらいに。

 しかもここは別邸。

 世界が、違う……。

『どうした、お嬢さん。門は開いているぞ』

「…………」

 すっかり定位置になった手提げ籠から頭を出して、アルグが茶化すように鳴いた。このトリは知っていたわけだから、面白がっているのだ。ヴァイオレットは唇を引き結んで、少し顎を引く。

 いきなり大勢で押し掛けたのでは失礼だから——というより、有力者のお宅にあんな柄の悪い連中を連れて行ったらただの押し込み強盗か強請になってしまうので、アルグだけを連れて一人で来た。だから……しっかり、しなくてはいけない。

 深呼吸。気持ちを引き締め前を向き、それでも恐る恐る手を掛け、門扉を押し開く。

 玄関まで続く道は、左手方向に曲がっていた。貴族の邸宅と言っても差し支えない大きな屋敷は、輝くような白が美しい壁に、青なのか緑なのか、爽やかな色合いの屋根を乗せた、上品な佇まいだった。

 その重厚な玄関扉が見えてくるにつれて、ヴァイオレットはまた落ち着かなくなってきた。

 自然、己の服装に目を落とす。

 代わり映えのない紫紺色のワンピース。失礼の無いように整えて来たつもりだけれど、華やかさや飾り気のある形ではない。簡素に過ぎただろうか。この華麗な屋敷には、あまりにそぐわないのではないか。装飾品の一つでも、身に付けるべきだったのでは……。

 ——自分がひどくちっぽけに思えた。

 事前に手紙で知らせているとはいえ、やり取りをしたわけではない。

 門前払いされたら、どうしよう……。

「……!」

 ヴァイオレットは小さく首を左右に振った。流れ落ちた黒髪を耳にかけ直して、いつの間にか止まっていた足を、前に踏み出す。

 考え過ぎだ。

 他人の身形を気にする人ではないと、アルグも言っていたではないか。近頃、魔法が使えないせいで、弱気になってしまっている。

 ギイドなら、どんな金持ちや権力者を相手にしても、少しも物怖じせずに、着飾ることなく、いつもと同じ態度でいるだろう。一国の王と対面したって、あのふてぶてしさが変わるはずもない。さすがに、ヴァイオレットにそこまでの度胸はないけれど。

 大丈夫。ギイド様よりコワい人なんて、この世にいないもの。

 そう強いて自分に言い聞かせ、大理石の石段を一歩ずつ上る。深い焦げ茶色をした、木製の分厚い玄関扉の前に立つ。胸に手を置いて呼吸を整え、それから魚を象った呼び金を握り、叩いた。

 待たされる時間が、またじりじりする。

『まだ中に入ってもいないのに』

 下から聞こえた呆れ声は無視だ。

 間もなく扉が開くと、トリは素早く頭を引っ込めた。

 出迎えたのは、真っ白な髪を丁寧に後ろに撫でつけた老人だった。服装からすると執事というやつだろうか。その男が細い眼鏡の奥で静かにヴァイオレットを見つめ、髪と同じ白い口髭の下で、恭しく尋ねる。

「どちら様でしょうか」

 一瞬で頭が真っ白になった。

「あ、あの、わたくし、とある魔術師の使いでやって参りました、ヴァイオレットと申します。ロジアム氏にお目通り願いたく……」

 言ってから後悔した。

 敬語が過ぎる気がする。

 視線が定まらずそもそも顔を見れてもいないのに、頬が紅く染まっていそうで、ヴァイオレットはさらにうつむいた。縮こまる。

「窺っております。どうぞ、お入り下さい」

 変わらず落ち着いた声が聞こえた。目を上げると、堅苦しさを感じさせない無表情がある。老執事は丁寧な物腰で中へ招いてくれた。ヴァイオレットはひとまずほっとした。

 玄関を入ると、そこは大きな広間だった。側面の階段を上がると、二階の廊下へ繋がっているようだ。三方にある扉は開け放たれて、次の部屋が見えていた。

「こちらで少々お待ち下さい」

「は、はい!」

 広間に気を取られていたヴァイオレットは、返事が上擦ってしまった。ここでも気にした様子を見せず、執事は腰を折り曲げて礼をすると、階段を上がって姿を消した。

 ヴァイオレットはその背中を目で追ってしまってから、視線を部屋中に巡らせる。

 広い——のはもういい。外観からして、これくらいの広さは普通にあるだろうと思っていた。ここだけでヴァイオレットの生家が二つ分は入ってしまいそうだけれど、最早それだけでは驚かない。壁を覆う布絵も、かなり高い天井から吊り下げられた飾り照明も、豪奢で煌びやかではあるものの、このお屋敷なら当然ありえると思える。玄関の直ぐで最も人目に付く場所だから、おもてなしとか見栄とかの理由で、ここには最上級の品を置くものなのだ——たぶん。

 そうではなくて。なんというのか、不自然に物が多い気が、ヴァイオレットにはした。

 大きくてふくよかな花瓶の横に、別のほっそりした花瓶がある。反対側にはまた別の花瓶や素朴な壺があって、甲冑と一緒に並んでいる。中央の開けた空間には、どんどんどんっ、と石像や銅像や木像が我を競い合っているし、壁一面に額縁がひしめき合っている。階段や床の隅にまで、小振りな骨董品らしき物が「ちょっと置いておこう」くらいの無造作さで置かれているのだった。

 掃除は行き届いているので、片付いていないのとも違う。こんなお屋敷には初めて訪れるヴァイオレットでも、首を傾げてしまう、不自然さ。

 嘴だけを突き出して、アルグが鳴いた。

『ここはまだ序の口だ』

「え?」

「お待たせ致しました。こちらでございます」

「はい!」

 階段の上にさっきと同じ執事が顔を出した。ヴァイオレットは黒髪を揺らして振り返り、慌てて返事をした。



 そしてまた、呆気にとられた。

 アルグの言葉は正しかった。

 ヴァイオレットが執事に連れられて奥へ進むと、そこは物で溢れていた。

 とても多い。

 とにかく、多い。

 たくさんがいっぱいで、おびただしいような具合だ。

 壺、花瓶、鎧、石像銅像、また花瓶。皿にお椀、木彫り人形、絵画絵画、石像、書物。そして箱、箱、はこ、ハコ、ハコハコハコ……。

 広いはずのお屋敷が、部屋と部屋が繋がって通路になっているような室内が、雑に積み上げられたそんな品々で、広さを感じられない程に埋め尽くされている。日頃使うための道筋がなんとか確保されているくらいのもので、後の空間は家具ごと物に呑み込まれてしまっていた。

 これだけあると、一つ一つの品物がどんなものなのか——良い物なのか、古い物なのか、大した物ではないのか——そんな個性は大群の中に塗り潰されてしまって、なんだか分からない。あれでも玄関の広間は人目に付くから、避けていた方なのだろうと、今になって察せられた。

 ——博物館……。

 ヴァイオレットはただ驚くしかない。

 収集家の変わり者。大金持ちだから骨董品や美術品を集めるのを趣味にしていても、変ではないと思った。広いお屋敷なら飾る所はいっぱいあるし、自分一人で鑑賞するのではなく、珍品名品を来客に見せびらかして楽しむのだ、と。

 これは……そういう感じでもない。

 どれだけの価値の物が山積みになっているのか知らないけれど、これなら確かに、博物館でも出来そうだった。

『また増えたな』

 籠から漏れ聞こえる声は大いに呆れている。しかし驚きの色は含まれていなかった。つまり、以前からこんな風ということだ。ヴァイオレットはそれらを呆然と眺めることしかできなかった。




     ▽ ▽ ▽


 そうして案内された書斎で対面したロジアム・コルトコネという人物は、元の茶色をほんの少し残す白髪の男性だった。端整な顔立ちに、屋敷にある古物を思わせる深みのある皺が刻まれている。目を合わせただけで相手を萎縮させるような厳しい雰囲気。アルグの知り合いとして、もう少し柔和な人物を想像していたヴァイオレットは、その鋭い鳶色の瞳に晒されて、緊張しながら挨拶を交わした。

 玄関先のような失態は見せられない。アルグの使いという以上に、ヴァイオレットはギイドの手下なのだ。彼が侮られることのないように、言動に細心の注意を払う。怯みそうになる心は、口元に浮かべた微笑で誤魔化した。

「アマランジル・アルグカヌクの使いで参りました。ヴァイオレットと申します」

「ロジアム・コルトコネだ。

 早速だが、手紙を」

 無表情。それがまた、恐い。

 立ち上がって手を差し伸べるロジアムに、アルグの紹介状を渡す。ロジアムは書き物机に戻ると老眼鏡を掛け、慣れた手付きで封を開けた。

 ちなみにあの手紙は、鳥の姿のままアルグが魔法でしたためた。ペンを使わず墨だけで書いたのに、その筆跡はきちんとアルグのものらしい。

 ロジアムが無言で読み始める。

「…………」

 居心地の悪い時間だった。

 なんでもないふりをして待つものの、じっと見つめているのも気詰まりで、菫の瞳を泳がせてしまう。

 この書斎はさすがに埋もれていなかった。ロジアムはもう隠居しているらしいが、まだ一部の事業には携わっているそうで、その仕事をする部屋として空けてあるのだろう。ここに来るまでに見た惨状よりは、ずっとましだった。ましなだけで、物が無いわけではない。そこかしこに、書斎とは関係なさそうな物が置いてある。謎のお面、花模様の絵皿、美しい色の硝子細工、床に立て掛けられた絵画、凝った装飾の刀剣、などなど。もしかしたら、飾ってあるといった方が正しいのかもしれない。

 その中でも、横の棚に二つ並んで置いてある木彫りの置物が目に付いた。縦に長く、それぞれ熊と鹿のような動物を彫り込んだ、不思議な存在感を放つ置物だ。

 ヴァイオレットは小首を傾げてそれを見る。どこか可愛らしくもあるその置物に、見覚えがある気がした。これそのものではなく、似た造形の、別物——。

「それが気になるのかね」

「!」

 不意に声を掛けられて、ヴァイオレットは振り返った。手紙に目を通し終えたロジアムが、眼鏡を外して顔を上げたところだった。

「それは町へ出掛けた際に、たまたま見掛けて買い求めた物だ。売っていたのは、行商の青年だったか。作ったのは、まだ子供のような年齢の駆け出し職人だそうだ」

「そう、ですか」

 ほんのひと月前に知り合った、二人の人物の顔が思い浮かんだ。こんな形で再び出会うなんて、奇妙な縁だ。

 気付けば、ロジアムが真っ直ぐにヴァイオレットを見ていた。ここでも無表情だ。なにか機嫌を損ねるような事をしてしまったのかと心配になる、厳しい顔付き。何を考えているのか、その表情からは窺えない。

 ヴァイオレットは密やかに息を詰め、固まった。

 これまで一癖も二癖もある商売敵や権力者を相手にして、渡り合ってきた眼だ。その濃い歳月をたたえた眼差しに、ヴァイオレットは机の上に置かれてただ鑑定を待つ他ない、骨董品の気持ちを味わった。

 籠の取っ手を握りしめる。

 やがて——それはほんの数秒だったのだろう、ロジアムが静かにうなずいた。

「確認した。以前の一通と共に、アマランジルの手紙で間違いないようだ」

 言って、戸口に控えていた老執事に何事かを目配せする。その視線につられて、ヴァイオレットも執事が会釈をして出て行くのを見送った。自分から気が逸れたのが分かって、心底からほっとする。

「それにしても、アレに君のような知り合いがいたとは。事情を詮索する気はないが。ヴァイオレット君と言ったか。付き合う相手はよく吟味することだ」

「…………」

 ロジアムが口の端に笑みを浮かべる。可笑しみや労りよりも、皮肉が勝る笑みだ。

 ヴァイオレットも常々そう思っている。しかしこれは冗談と取るべきなのか、それとも真面目に受け取るべきなのか。人柄が掴めず上手く対応できないでいるうちに、言葉ではない抗議の声が、手にした籠から上がった。

「ジェーーッ!」

 という鋭くも五月蠅い鳴き声と共に、赤い鳥が掛けてあった布を跳ね除け現れる。頭頂から生えた冠羽が、ぴんと反り立った。

「ん?」

 当然、ロジアムが目を向ける。

 籠の中で暴れられて、ヴァイオレットは慌てて取っ手を持ち直した。

「す、すみませんっ。

 これは——わたしの、相棒のようなもので……」

 正体を知らせなくていいと言われているので、その辺をぼかすとなんとも不本意な説明にしかならない。

「籠からは出さないようにします。

 一緒でも、構わないでしょうか」

「珍しい鳥だ」

 ロジアムがいくらか身を乗り出して、赤い鳥に視線を注ぐ。アルグは先程の言い草が気に食わなかったのか、ご立腹だ。つぶらな眼を精一杯険しくして睨み返している。長い付き合いだと言っていた。見抜かれてしまわないかと、そんな両者にヴァイオレットの方がどきどきした。

「出さないのであれば、問題ない」

「ありがとうございます」

 ヴァイオレットが頭を下げると、ちょうど老執事が戻ってきた。まだ明るいのに、手には火の点いた蝋燭を持っていた。ロジアムは腰を落ち着けてそれを受け取ると、何の躊躇いもなく、アルグの手紙を小さな炎にくぐらせた。真っ白な便箋の先に火が燃え移り、徐々に広がる。持っていられなくなると、それを灰皿に置いた。

「私は見られて困る証拠は、直ぐに処分する性質たちなのだ」

 燃える手紙から目を離さないままに、言う。

 ヴァイオレットは小さくうなずいた。

 過去はどうであれ、今やアルグは立派なお尋ね者だ。ロジアムのように立場のある人物なら、関係を隠さなければならないのも当然と思える。

「さて」

 灰皿の上で手紙が真っ黒い墨になり、散り散りに崩れるのを見届けてから、ロジアムは改めてヴァイオレットと向き直った。

「確かに私は以前、見せたい物があると言ってアレを呼びつけた。この手紙には、自分は来られなくなったから、君に見せてやってほしいと書いてある。君も太古の文明や歴史に関心があるそうだね」

「はい。それらに関係するものだと窺いましたので。図々しいお願いだとは承知しておりますが。ぜひ見せていただきたいのです」

 声が震えそうになる。裏返ってしまわないように、慎重に言葉にする。ここで断られてしまったら、どうしようもない。強く打つ心臓の鼓動を聞きながら、ヴァイオレットは鳶色の瞳を見つめ返した。

「なるほど」

 ロジアムがうなずく。

「よかろう。アレに見せるのも君に見せるのも、手間は同じだ。

 しかし——間が良いというか、悪いというか……」

 付け加えられた言葉は、視線を余所へ逃がし、ぼやくように呟かれた。ヴァイオレットは小首を傾げる。ロジアムは深く椅子に体を預けると、腕を組み、顎先を撫でた。

「どこにやったのだったか。

 捕まったと聞いたから、もう来ないものと思って片付けてしまったのだ」

 天井付近に視線をさまよわせ、思案する。

 この屋敷の惨状をして片付けるとは、どういった状態を指すのだろうか。ヴァイオレットが口を挟めるはずもなく、なんとも言えない気分で待った。

「ついて来なさい」

 程なく立ち上がって、ロジアムが部屋を出ていく。一拍遅れてしまってから、その背中を追った。

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