第12話『立ち上がるОL』
「のんきなものですね」
鍵盤に指を走らせるエーファに、ホルガーは嘲るようにそう言った。
「彼女たちも貴女の言葉を疑っていたかも知れませんが、これで諦めもついたことでしょう。手向けに音色を届けたところで、それが慰めになるはずもありません。ふふ、今頃は理不尽な対処に憤っていることでしょう」
ホルガーの言葉に耳を貸さず、エーファはただただ鍵盤を弾き続ける。
(――「トーコさんたちに、最後にもう一度だけピアノを聞いてほしいんです。弾かせてください、お願いします」――)
決して、ホルガーが透子たちのメンタルにとどめを刺そうとしたわけではない。今こうしてエーファがピアノを弾いているのは、彼女自身がそう頼んだからだった。
数え切れないほど弾いてきた曲だ。目を瞑っていても過たず弾ける。だが今だけは、そうではなかった。気を抜くと間違えそうになる。いつもは大好きだった音色も、今は胸が張り裂けそうなほどにつらいものになってしまっている。
それでもエーファは指を動かし続けた。このつらい旋律が、透子の耳に、そして心に届くと信じて。
「もう十分でしょう」
そんなエーファの指を、氷のように冷たいホルガーの声が止めた。
「時間に余裕がない、というわけではありませんが、いつまでも貴女の遊戯につきあうつもりはありません」
ホルガーはエーファの腕をつかみ、強引に立ち上がらせた。そして部屋の反対側へと突き飛ばす。
「い、痛いです……」
まなじりに涙を浮かべるエーファ。暴力そのものを受けたことはないが、タンスの角に小指をぶつけるなどのドジで痛みそのものは知っている。
彼女の涙は痛みによるものではない。優しかったホルガーから暴力を受けているという、そのつらさがそうさせていた。
「さあ、最後の仕事をしてもらいます」
震えるエーファを気にも留めず、ホルガーはソレを操作する。
「い、一体何をするつもりなんですか」
エーファの目の前にあるもの。それは今となってはあるのが当たり前になっていた、魔力水晶だった。台座の上で浮遊するそれが、不安な自分の顔を映しだしている。
「もう魔力は十分に貯まったのでね、貴女に取り出してもらいたいのですよ」
「魔力を、取り出す?」
「ええ。魔力を保管するこの魔力水晶とは別に、魔力を凝縮させた魔力結晶。魔族はそれを生み出すことができるはずです。遺憾ながら人間の私にはできませんので。お願いできますか?」
お願いと言ってはいるが、それは実質命令と相違ない。余計な口を挟めば、何をされるかわからない。断ることはもちろん、なぜと疑問を投げかけることさえできなかった。
ふう、と小さく息を吐き、瞳を閉じる。魔力の結晶化などしたことはないが、やり方は本能で理解していた。
両手を魔力水晶に向け、魔力を込める。水晶の内側に膜を張り、それを徐々に縮めていくイメージ。膜から魔力を逃さないように集中し、ゆっくりゆっくりと凝縮していく。
魔力の量は半端なものではない。少しでも焦ったり気を抜いたりすると、漏れた魔力が無駄になってしまう。それを容認されるとは思えないし、ホルガー自身も望まないだろう。集中し、ゆっくりと時間を掛ける必要がある。
十分は経っただろうか。汗だくになって座り込んだエーファの手には、紫色の物体が生まれていた。
「なるほど、これが」
うっとりとした声色で独りごち、ホルガーはエーファの手から魔力結晶を取り上げる。
アメジストのような外見で、大きさは鶏の卵より少し小さいくらい。見た目は単なる宝石だが、そこから発せられる魔力がそうではないことを雄弁に物語っている。
「上等です。これはありがたくいただきましょう」
まさしく宝石を扱うかのような所作で、ホルガーは魔力結晶をだぼついたローブの内側にしまい込んだ。
「一体、あなたの目的は何なのですか……」
魔力結晶を生成した疲労をその顔に浮かべながら、エーファは気丈にもそう問いかけた。ホルガーの機嫌が良さそうに見えることからの行動だったが、エーファはすぐにその判断を後悔した。
「……ああ」
ゆっくりと、ホルガーの顔がエーファの方に向く。その薄ら寒い笑みに、エーファは凍り付いた。
「まだいたんでしたね。もう用済みですよ」
無感情な声でそう言って、壁に立てかけていた〝それ〟を手に取るホルガー。それが鞘から抜かれると、白刃が神々しく輝いた。
そう、そうだった、機嫌がいいからと言って、道端に転がる石ころに情けをかけるような男ではない。エーファ自身がよく知っているはずのことだった。
「ひっ」
のどの奥で悲鳴が上がる。ホルガーに対してではない。彼のもつ両刃剣、それが発する気配に対してだ。
(怖い、怖い……そうだ、あの剣の気配、あれは間違いなく――)
見たことはない。だが、本能が知っている。魔族が忌避する、彼らにとって唯一にして最大の驚異。
(――聖剣)
恐怖に体が震え、歯がかちかちと打ち合わされる。
(イヤだ、助けて……)
ホルガーが聖剣を振り上げた。窓から差し込む日光に照らされ、聖剣が美しく輝く。
(助けて、お父さん……)
じわ、と座り込んだ床が温かくなった。魔王の姫としてあるまじき粗相ではあったが、もはやエーファにそんなことを気にする余裕はなかった。
聖剣が振り下ろされる。
(助けて、トーコさん!)
ぎゅっと目を瞑ったが、受けるはずの衝撃は受けることがなく、その代わりに金属が木を叩く鈍い音が響いた。
「遅くなりました、エーファ様」
聞き慣れた声。交流を始めてまだ短い期間だというのに、もう聞き慣れてしまった声。
彼女には言っていなかったが、エーファが姉のように慕っていた人。
「トーコ、さん……」
目を開き、エーファは涙を流した。
エーファとホルガーの間に立ち、悪魔殺しの魔剣を聖剣で受けたスーツ姿の勇者――古迫透子がそこにいた。なぜか手は血でにじみスカートは破けているが、彼女のその頼れる背中はまさにエーファが望んでいたものだった。
「てりゃ!」
「ぐっ」
剣を受けたまま、後ろ回し蹴りを繰り出す透子。ホルガーはそれを腹に受け、よろけるように数歩下がった。多少はダメージが入ったらしくホルガーは腹を押さえ、透子を睨みつけた。
ひとまず窮地を脱したことを確認し、透子は片膝をついてエーファの手を取った。
「大丈夫ですか、エーファ様」
「トーコさん、なぜここに……」
「聞こえたんですよ、あなたのピアノが」
「ピアノ、ですって?」
ホルガーが疑問を投げかける。
「あの曲ならいつも弾いていたもののはずです。助けを呼ぶような内容では……」
「ハン、情緒を解さない男ねえ」
透子は侮蔑の視線をホルガーに向けた。
「メロディが同じでも、エーファ様がいつも弾いてたのは長調、今のは短調よ。暗い曲調が嫌いって言ってたエーファ様がわざわざ短調で弾くんだもの。何かあると思うのが普通でしょ?」
「トーコさん……」
自信満々に語る透子に向けるエーファの顔は、完全に恋する少女のそれだった。目がハートでもおかしくはない。
「ふん、まあそのSOSについては納得しましょう。ですが、どうやってここに入ったのですか。城には結界があったはず……」
「部下思いだと、部下の秘密を共有してもらえるのよ」
お生憎様、と透子はウィンクを決めた。
* * *
「絶対に許さないわ、あのクソ野郎」
怨嗟の声は、エーファに対してだとモルタは思っていた。だがそれは、ホルガーに対してのものだった。
「行かないと」
城壁の向こうを睨みつけていた透子だったが、気持ちを静めるように一息ついた。
「なに? どこへだ」
「決まってるじゃない、エーファ様を助けに行くのよ!」
「は? さっきと言っていることが真逆ではないか。姫様の言葉だけに従うのだろう?」
「だからじゃない!」
エーファはモルタに詰め寄り、胸ぐらをつかんだ。身長差がかなりあるので見上げる体勢は変わらないが、気迫は伝わってくる。
「あんたには聞こえなかったの? エーファ様の助けが」
「助け?」
モルタはわけがわからない。助けも何も、聞こえていたのはピアノの音色だけだ。
相手をしていても仕方ないと判断し、透子は困惑するモルタから手を離した。そしてその手を城壁に向ける。
「おい、どうするつもりだ」
「この壁を登るのよ」
こともなげに言い、透子はパンプスを脱ぎ捨てた。ストッキングすらも脱ぎ、素足になってしまう。そして感覚を確かめるように、手や足を壁にかけ始めた。
「待て、無茶だ!」
「なめないでよね。ボルダリングも嗜んでいた私に、こんな壁わけないわ」
「そうじゃない! ボルダリングとやらが何のことだかはわからないが、ホルガー様の話を聞いてなかったのか。壁の上空には結界が張ってある。触れたらただでは済まんぞ」
「だから何?」
声だけを返し、透子は壁を登っていく。
「エーファ様が待ってるの。ならそこに行くだけなのよ。結界だろうが何だろうが、私の邪魔をするならぶち破ってあげる。無茶かどうかなんて興味ないわ。ただ、エーファ様のために私はそうするのよ。OLのOは
透子が足をかけ損ねた。バランスを崩し、立て直すこともできずに数メートル下の地面に落下した。
「っくぅ……邪魔、なのよ」
落下の衝撃に身悶えしたのも一瞬だけ。透子はすぐに立ち上がり、タイトスカートの両横をたてに引き裂いた。スカートに大きなスリットが入り、透子のしなやかな太股が露わになる。
そうして、透子は再び壁を登り始めようとしたが、すぐに手を押さえてうずくまった。
「おい、どうした」
駆け寄ったモルタは愕然とした。左手の指、その内二枚の爪がめくれていた。恐らく、先ほどバランスを崩したせいだろう。
「こんな手じゃあ無理だ。城壁の上まで高さもあるし、とっかかりもほとんどない。また落ちるぞ」
「それがどうしたのよ。関係ないって言ったでしょう」
心配するモルタを押しのけ、透子はまた壁を登ろうとする。
そんな透子の肩に、モルタは大きな手を置いた。
「なに、邪魔するならあんたも――」
「違う、早合点するな。私も手伝う」
「……何ですって?」
透子は眉をひそめた。意識を取り戻したラルドも首を傾げている。
「結界が危ないって言ったのはあんたでしょう? 手のひら返しもいいとこね」
「それをチーフには言われたくないな。上司が血をにじませて頑張っているのに、部下が手をこまねいている場合ではなかろう」
「は? それこそ意味がわからないわ。私たちは城を追放されたの。上司でも部下でも何でもない。もう私に従う必要なんてないの。それに、あれだけ理不尽な扱いをしたのよ? あんたたちに私への敬意があるなんて考えられない。恨み言ならあるでしょうけれど」
苦笑を伴った透子の皮肉に、モルタは神妙な顔で答える。
「恨み言というのなら、山ほどある」
「でしょうね」
「あなたがこの城に来るまで、我々は平和に暮らしていた。だが今はどうだ。罵倒され、殴られ、しごかれる日々。悪魔より悪魔らしい人間に戦慄した。やってられるかと思ったことは星の数ほどもある」
淡々と紡がれる恨み言に、透子は僅かに目を伏せた。悲しかったわけでも、悔しかったわけでもない。ただ、恨み言をぶちまけるモルタが、以前の自分と被って見えた。
「だが、あなたは我々の上司だった」
モルタは僅かに口角を上げた。
「理不尽なのは間違いない。だがそれは上司としてで、同時に、上司として我々に対等だった。覚えているか? あの冒険者から鉱山の話を聞いたときのことだ。我らは当然接収されると思っていた。だがあなたはそうしなかった。そのときに我らは話し合ったのだ。この人は、信じてよいのではないか、と」
風が吹いた。未だ、エーファのピアノは鳴り止んでいない。
「あなたは今、もう我々は上下の関係ではないと言った。形式上はそうかも知れない。だが、私はあなたに仕えたいと思った。罵倒され、殴られ、しごかれ、扱いは理不尽でも、仁義を通すあなたに仕えたいと思ったのだ。これでは答えにならないだろうか」
透子は答えず、さっとモルタたちに背を向けた。
「……馬鹿じゃないの?」
いつものような、理不尽な罵声。だがその声が僅かに震えているのを、モルタは気づかない振りをした。
「私は、ああはなりたくなかっただけなのよ」
透子の脳裏に、憎たらしい狸親父の顔が浮かんだ。今となっては懐かしいが、かと言って忘れられるものではない。
悩んだこともあった。自分の振る舞いで、きっとオークたちから嫌われているだろうと。結局、自分もまた、あの狸親父と同じなのだと。
だが、そうではなかった。
「違いない、我々は馬鹿なのだろう。まぁ、そのセリフはそっくりそのまま返させてもらうがね。何はともあれ、我々はあなたに従う。ラルドもそれでいいな?」
「うん、いいよ」ラルドはなぜか頬を赤らめた。「たくさん頑張るから、またたくさん殴ってください……」
「お前……」
モルタは言葉を失う。可愛い弟に新たな性癖が生まれた瞬間だった。
「っぷ……ふふっ、あっはははは! ……まったくオークってのはあんたたちみたいに変なのばっかなの? これから苦労しそうだわ。――ところで」
透子は辺りを見回す。
「ロースはどこに行ったの? さっきから姿が見えないけれど」
「さて、ともにここまで走ってきたところまではいたんだが。まあ奴のことだ、そこらの薬草でも摘んでるんでしょう。それよりも、姫様のところに行く手だてを考えなければ。結界を破るのは不可能ではないだろうが、やはりリスクが高すぎる」
「んなこと言ったって、他に方法なんて――」
ないじゃない、と言いかけたところだった。
「え? きゃあっ」
突如透子の足下が隆起し、透子は後ろに転がった。
「なっ、なな何なのよ!」
めくれあがったスカートを慌てて押さえつけ、透子は涙目で起きあがる。
隆起したと思っていた地面は、まるで潜水艦のハッチのようになっていた。そこから「よっこらせ」と巨体が這い出てくる。
「ろ、ロース! お前何をしてたんだ!」
「へ? いや、何って」
地面から出てきたロースは、目を丸くしている透子たちに大きな袋を掲げた。
「城を追い出されるって聞いたから、荷物を取りに行っとっただけやけど? うわ、どしたんチーフ、手ぇ血塗れやし、スカート破れてますやん! えーっと、薬、薬……」
ロースは袋をごそごそし始めたが、透子たちはそんなことどうでもよかった。
「ロース、あんたその荷物、どこから取ってきたの……?」
「そんなん自分の部屋からに決まってますやん」
「城の中の?」
「そらそうでしょ」
こともなげに言うロースを見て、透子は少し前のことを思い出していた。
(――「何であなた壁から出てくるの!?」――)
(――「町ぃ? 確かあなたたち、町はもちろん、外出にも私とホルガーの許可がいるんじゃ……」――)
そう、確かあのとき、ロースは壁に掛けてある絵画を押しのけて現れたのだ。あのときはうやむやになってしまったが、つまりそういうことだったのである。
「あんた、勝手に抜け道を作ってたのね?」
「げ」
ゆらりと立ち上がった透子に、ロースは体を硬直させた。ちょうどそれは、悪戯が見つかった子どものようだった。
「いや、それは……ちゃ、ちゃいますねん。ウチの研究には薬草とか色々ようけ必要やのに、ホルガーはんがなかなか外出許可をくれんから――」
口角泡を飛ばしながら言い訳を重ねるロースだったが、透子はふるふると顔を横に振る。そして、ロースの肩に手を置いた。
「でかしたわ、ロース」
ロースはわけもわからず首を傾げた。
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