第10話『外出するОL』

「今日から、ダンジョンを再開しようと思う」

 開口一番、透子はそう言った。

 石造りの壁だが、壁際のテーブルにはダンジョン監視用のモニターがずらりと並んでいる。棚には茶器や各種ティーパック、砂糖、ミルク、お茶請けが納められており、作戦部屋というよりも休憩室の様相を呈してきている。

「また、急な話ですね」

 棚を開け、お茶を用意しながら次男ラルドが言った。人間よりも遙かに大きな手で、器用に飲み物の用意をしていく。

 ちなみに、棚の中身は透子が用意させたものだ。戦いの中にも安らぎが必要だ、という透子のモットーである。

「せやけど、ウチらの練度はそんなに上がってまへんで? ちょいと性急ちゃいますのん?」

 そう尋ねた三男ロースは、虎柄の上着を愛用するようになった。初めこそは透子の指示だったが、次第にロース自身が気に入るようになったのだ。やはり関西弁と虎は切っても切れない関係なのかも知れない。

「まあ、そうね。でも悠長に構えているのはもうやめたの。あなたたちには悪いけれど、付き合って貰うわ。――ああ、ありがとう。いい香りね。こっちにもアールグレイがあってよかったわ」

 ラルドからカップを受け取り、透子は日本人にしては高い鼻を近づける。ベルガモットの香りが鼻孔をくすぐった。そして一口含み、その味と香りを存分に楽しむ。

「……うん、美味しいわ」

 小さなため息とともに見せた微笑みは、オークたちが今まで見たことのない柔らかなものだった。

 そんな透子の様子を見て、オークたちは顔を見合わせる。そして、ひそひそと何かを囁き合った。

「……何よ」

「いえいえ、何でも」

 透子の三白眼を、長男モルタが作り笑顔で受け流した。本来ならば追求してもいいところだが、そんなことは後でもできる。

 んん、とのどを整え、透子は改めてオークたちを見回した。

「ラルドとロースも言ったけど、確かに再開するには時期尚早だしレベルも足りていないと思う。だけど、実戦に勝る経験はないわ。訓練の方が大事だと思うなら、この実戦も訓練だと思いなさい。まあ、もし負けて財宝が奪われるようなことがあったら、あなたたち全員チャーシューにしてあげるけどね」

 透子は冗談めかして言ったが、モルタたちは愛想笑い一つこぼさなかった。それも当然である。透子は冗談のつもりだったが、

「財宝を奪われたら、殺す」

 そんな気配をモルタたちはビンビンに感じていた。笑えというのが酷な話だ。

「さて、それじゃあ行きましょう」透子は椅子から立ち上がった。「あなたたちはダンジョンに向かいなさい。私は看板を『営業中』にしてから」

 行くわ、という最後の一言は、突如響きわたったノックによって遮られた。

「失礼します。透子さん、緊急事態です」

 開け放たれた扉。そこには、珍しく深刻な顔をしたホルガーが立っていた。

「城外の森に、ハグレ魔物が出没しました」


                *     *     *


 ベルンシュタイン城の外には、そこそこ深い森が広がっている。魔王の森、と呼ぶに相応しい、鬱蒼とした森だ。日の光はあまり届かず、時折不気味な鳥の鳴き声も聞こえてくる。モンスターどころか幽霊も出てきそうだ。

 そんな森の中を、古迫透子は頬をぷりぷりと膨らませながら歩いていた。スーツというOLの戦闘着も、この森の中においては違和感しかない。

「タイミングが悪いにもほどがあるでしょう! これからってときに!」

 周囲の森に負けずとも劣らない、陰鬱とした恨み言をぶちまける。苛立ちついでに聖剣フェアラートで一本の木を殴ったが、小さな音が空しく響くだけだった。あるいは抜き身で切りつければまだ手応えもあるかも知れないが、悲しいことに透子は聖剣を鞘から抜くことができない。

「しゃーないですって。ハグレ魔物なんかほっといたら、冒険者なんか来うへんようなりますよ」

 勇者は増えるかも知れまへんけど、と笑ったのは三男ロース。透子の隣を、虎柄の上着をはためかせながら歩いている。脳天気と言うよりもどこか達観したところのある彼は、だいたいいつもこうやって笑っていることが多い。

 対照的に、暗い顔をしているのはモルタとラルドだ。

 びくびくと体を縮こまらせ、透子とロースの後ろをついて歩いている。厳つい豚頭がびくついているのは残念と言うより他になく、さらに残念なことに、縮こまったところでその巨体は全く隠れていない。

「まあ確かに、今の私たちのレベルじゃあ簡単に返り討ちにあうかもね」

 内心ひやりとしながら、透子はホルガーの話を思い出す。


「ハグレ魔物って何? ただのモンスターとは違うの?」

「突然変異、あるいは何かしらの理由で、強力な力をもつにいたった魔物の総称です。透子さんたちに、そのハグレ魔物の討伐をお願いしたいのです」

 何でもないことのように、ホルガーは言った。

「レベルの差がありますので、追い払うだけでも構いません。それなら可能でしょう」

「は? 冗談じゃない。あなたの話だと、ハグレ魔物はかなりの強さなんでしょう? 仮に猛獣レベルだとしても、か弱い人間の女の子とちょっと強い豚三頭が熊やゴリラに勝てると思うの?」

「おや、怖いんですか?」

「挑発したって無駄よ。こちとら煽り耐性はそこそこあるんだから」

「どうしても無理ですか?」

「無理よ。収入が減るのは死ぬほどつらいけど、ハグレ魔物だってずっといるわけじゃないんでしょう? 台風だと思って過ぎ去るのを我慢するわ」

「姫様が、非常に心を痛めてらっしゃるんですが……」

「さあハグレ魔物退治に行くわよ! 準備しなさいあなたたち! 何とか無事に帰ってきて、エーファ様からお褒めの言葉を貰うのよ!」


 などといった、やむにやまれぬ事情があったのだ。出撃しないわけにはいかなかった。

 だが、と透子は眉をひそめる。

「やっぱし不安でっか?」

 そんな表情の変化に目ざとく気づき、ロースが問いかけてきた。

「まあね。不安だらけよ」

 などと口にするのは簡単だ。だが、透子はそうしなかった。

「ふん、私がついてるのよ、負けるわけがないじゃない。私が心配していたのは、エーファ様のことだけよ」

「そらぁ頼もしいですわ」

 深くは追及せず、ロースもそう笑うにとどめた。もちろん、彼も透子の本音などには気づいているだろう。だが『ここまで来て、上司として弱気なところは見せられない』という透子の意志を尊重した。

 気を遣われたことを察し、あえて透子は逆に食いついた。

「あなた、見た目より鋭いのね」

「さあ? 何のことでっか。ただ、ウチはこう見えても科学者の端くれですんで、観察力とか洞察力には自信ありまっせ」

「そう言えば、あなた色々と発明とかしてるんだったわね。何か戦闘で役立ちそうなものはないの?」

 それがなかなか、とロースは首を振った。透子も期待して聞いたわけではないので、特に気にしない。

「アイデアはぽんぽん浮かぶんですけどねえ、上手いこと形にならへんのですよ。改良が上手いこといったんは、こないだの……あ」

 何かを思い出したのか、ロースは目を丸くして透子を指差した。

「何よ、人に指を向けないでくれる? 折るわよ?」

「怖! そうやなくて、前に渡した身代わり人形、まだ持っとってんとちゃいます?」

「ああ、これのこと?」

 透子はポケットから小さな筒を取り出した。

「それ、閃光弾ですけど」

「え? ああ、違った、こっちね」

 閃光弾をしまい、透子は違うポケットから藁人形を取り出した。見た目にはただの藁人形だが、その実は念じた人とそっくりになる高性能身代わり人形である。戦闘能力は皆無で喋ることもできないが、見た目も中身もその人と瓜二つになるらしく、おまけに出血もするようになったとロースは胸を張っていた。

「念じた人そっくりになるだけじゃなくて、ちゃんと中身も再現できるのよね? 量産化して売り出せば、かなりの儲けになりそうよね」

「儲け? いやいや、そっくりになる言うても、戦闘力は全然あらしませんのやで? さすがにバカ売れするほどやないと――」

「ああ、違う違う。戦力としてじゃなくて」

 ロースの言葉を遮り、透子は朗らかに笑った。

「ダッチワイフとしてなら人気が出ると思わない?」

 最低の発想だった。およそ妙齢の女性が語る内容ではない。後ろでその会話を聞いていたモルタとラルドも、白い目で嬉々としてダッチワイフの話をする透子を見ている。

「チーフ……」

 ロースも深々とため息をつき――

「そのアイデア、最高ですやん!」

 ――グッ、とサムズアップを決めた。ですやん、という胸焼けしそうな関西弁が、城から離れて密度を上げ始めた森の中に溶けていった。

「ああ~、なるほどな~。そういう使い方があったんは盲点でした! けど悲しいかな、量産化するにはまだ技術が足りませんねん」

 量産化できたら売り出すつもりなのか、と長男モルタは戦々恐々とする。財政が潤うのは喜ばしいことだが、ベルンシュタイン城がダッチワイフの名産地になるのはとても一言では言い表せないほど複雑だった。

 などと魔王に申し訳なく思っているモルタのことなど露知らず、透子とロースのコンビは猥談に花を咲かせている。

「まだ、ってことはつか技術は追いつくのかしら」

「そらもう! ウチの技術革新舐めたらあきませんで」

「ふふふ、期待してるわ。髪さえ手に入れられれば、自分の好きな姿に変えられる人形。質感だって本物のそれと遜色なし。そんなものが売れないはずがないもの」

「いやもうほんま、チーフの慧眼には恐れ入ります。こらあ頑張って量産化にこじつけんとあきませんわ」

「ああでも待って、出血は実装できたのよね? なら、他にも追加しないといけない機能があるわ。血液の他にも、色々な分泌液を――」

 真剣そのものの顔で語っていた透子だったが、不意に言葉を断った。今更猥談を恥じたわけではもちろんない。

 周囲の森から、明らかに生き物が立てたであろう物音が聞こえたからだ。

「静かに」

 立ち止まり、透子はオークたちを制止させた。彼らも気配を感じ取ったらしく、警戒心を露わにしている。

物音が聞こえた距離は少し遠かったようで、折り重なった木々の陰に何かしらの姿を認めるには至らない。

(もしかして……)

 つ、と冷や汗が背中を滑り落ちた。嫌な予感が黒い霧となり、心の中に満ちていく。ホルガーの話では、野良魔物は非常に強力だという。ロースには大口を叩いたが、実際にエンカウントして勝てる保証などどこにもない。

 向こうもこちらを警戒しているのか、初めに音が聞こえてからは何の動きも感じない。だがその代わりに、やけに近くから別の物音が聞こえてくる。何か固いものを打ち合わせるような音。その正体はすぐにわかった。

(ざまぁないわね……)

 自嘲する。他でもない、自分が歯を打ち合わせている音だった。そんなことにも気づかないほどに緊張し、そして歯を打ち鳴らすほど恐怖していることを嫌でも自覚させられた。

「き、来ますね」

 モルタが、剣を握る手に力を込める。

 足音が再び聞こえ始めた。向こうもこちらを警戒しているのか、じわりじわりと寄ってきている。音の様子から察するに、二足歩行のようだ。熊ではない。

(たぶん、実力行使じゃあかなわない。不意打ちをかけるしかないわね)

 透子はモルタたちに物音を立てないようジェスチャーを送り、聖剣フェアラートを上段に構えた。まだ抜けないので鞘のままだ。

 現れると同時に、脳天から叩きのめす。致命傷にならないだろうし、そもそも効くかどうかもわからないが、やってみるしかない。

 足音が近づいてくる。周囲には生け垣のように藪が生い茂っており、数メートル先も見渡すことができない。つまり、藪から飛び出した瞬間が勝負になる。

 あと、約十メートル。ゆっくりと迫ってくる足音に、透子の鼓動も早くなっていく。モルタたちの様子を見てみると、彼らも緊張感を露わにしていた。が、次男ラルドは立ったまま白目をむいて気絶していた。器用だ。

 聖剣を握る手が、じわりと汗をかく。振り下ろしたときに、すっぽ抜けないかが心配だ。

 あと数メートル。もう今にも相手が藪から飛び出してくる距離。

 激しく拍動する心臓の音が、直接耳に聞こえるようだ。こんなに鼓動が早くなるのは、年末宝くじで三等が当たったとき以来だ。

(来る……!)

 聖剣を構える透子の方へ、〝それ〟が藪から飛び出した。


                *     *     *


 軽快な足音が、長い廊下に響く。窓からの日光は眩しく、京もいい天気になりそうだ。

「~♪」

 エーファ・ベルンシュタインは、とても上機嫌だった。

 手の中から、心地よい温かさを感じる。小分けにされた袋。その中には、大小さまざまなクッキーが入っていた。どれも形容しがたい色と形をしている。

(今日のは上出来かなっ)

 いつもは消し炭になるか石のように堅くなってしまうクッキーだが、今回は手で割れる程度には堅くないし、きちんと形を保っている。味見はできない(、、、、)ので、それだけが心配だ。

(みんな、喜んでくれるかな……)

 真っ先に思い浮かんだのは、古迫透子の顔だった。なぜか自分にとてもよくしてくれる女性。傍若無人の嫌いはあるが、根はとてもいい人なんだと思っている。あの人なら、石クッキーでも喜んで食べてくれそうだ。

 だが、今日は朝から姿が見えない。ラルドたちもいなかった。

(どこに行ったんだろう。……まあ、すぐ帰ってきてくれるよね。トーコさんから、たくさん元気を分けてもらわなくちゃ)

 活動的な透子の傍にいると、自分まで元気になれる気がする。そんなことを、エーファは思うようになっていた。

(そうだよ、トーコさんから元気をもらって、ホルガーさんに呪いを消してもらうんだ)

 昨日の、ホルガーの言葉が脳裏に蘇る。

(――「姫様の呪いを解く方法が、わかりました」――)

 耳を疑った。嘘かとも思った。呪いを受けてから今までの十年間、手がかりすら見つからなかったのだ。信じられなかった。

 だが、他ならぬホルガーの言葉なのだ。彼は、必要であると判断した嘘はつくが、気休め程度でしかない嘘はつかない。非情なまでに真実を告げる。

(やっと、普通の生活に戻れるんだ!)

 そう考えると、自然と足取りは軽くなった。世界もいつもより輝いて見える。

(うーん、やっぱりこれかな)

 ホルガーの部屋の前で、エーファは袋の一つを選んだ。どれもそこそこ均等になるようにクッキーを分けたが、選んだのは他のものより少しだけ多く入っている。

 トーコが知ったらがっかりするだろうが、それでも今日はホルガーに一番の恩返しをしたかった。

「うふふ」

 自然に顔がにやける。

 このときのエーファは、率直に言うと浮かれていた。

 今まで生きてきた中で、一番嬉しいことがあった。

 今まで作ってきた中で、一番いいクッキーが焼けた。

 だから、ついノックを忘れてしまったのも仕方なかった。

「失礼します!」

 元気よく扉を開ける。ホルガーの部屋は、扉を入って両手の壁は全て本棚。もともと広くない上に、その本棚のせいで余計に狭くなっている。

 そして本棚の間を抜けた、部屋の反対側。そこがホルガーのデスクだった。

「……っ! どうしました姫様、ノックもなしに」

 珍しく、ホルガーは少し慌てていた。何か書き物をしていたらしく、それが無造作にデスクに伏せられる。そのデスクには、布で包まれた細長いものが立てかけられていた。

「あ、すいません、うっかりしてました」

 てへへと悪びれつつ、エーファはクッキーの袋をホルガーに手渡す。

「あの、クッキーを焼いたので、皆さんに配ろうかと……」

「……お心遣い、感謝します」

「今日のは自信作なんです!」

「そ、そうですか……」

 おずおずと差し出されたクッキーを、ホルガーは多少の間をおいて受け取った。顔がひきつりそうになるのを、必死で隠そうとしている、そんな表情だった。

「あの、トーコさんたちをご存知ないですか? 今朝から見かけなくて」

「うーん、どうでしょう。私は存じ上げておりません(、、、、、、、、、、、、)。買い出しにでも行っているのでは? モルタたちは荷物持ちでしょう」

「買い物ですか、いいですねぇ。私も町に行ってみたいです……。あ、でももうすぐ行けるようになるんですよね!」

「そうですね、もうすぐですよ」

 などと答えつつ、ホルガーはクッキーを矯めつ眇めつしている。ぐにぐにと指で押して硬度を確かめている辺り、エーファの「自信作なんです」という言葉は信用していないようだ。

「あ、鳩さんですよ」

 窓の外に飛んできた鳩に、エーファが目を輝かせた。ホルガーの伝書鳩だ。どこかしらに行っていたのが帰ってきたらしい。

「手紙を持って帰ってきていますね。はいはい、今開けますよ」

 ぐ、と窓を押し開く。その刹那、少し強い風が部屋に吹き込んだ。その風に、デスクに伏せられていた手紙がふわりと舞う。

 足下に舞い落ちたその手紙を、エーファは無意識に拾い上げた。プライバシーに関わるので内容は見ずに、ホルガーに手渡そうとして、

「ホルガーさん、手紙落ちまし……」

 言葉が途切れた。

 ホルガーが、恐ろしく冷たい表情でエーファを凝視していた。普段から多少温かみには欠ける人だったが、ここまで冷徹な表情を見たのは初めてだった。

「姫様、それを渡してください」

 氷のように冷たく、そして針のように尖った声。エーファは、背筋を振るわせた。

「さあ、早く渡してください」

 有無を言わせぬ語調。無意識に従いたくなる。

 いつもなら一も二もなく渡していただろうが、なぜか今のエーファは逡巡した。

 人のものだ。見ていいものじゃない。

 だが、確認しなくてはならない気もする。

 ホルガーの様子は尋常ではない。何か、見られてはいけないものが書かれている。それは間違いない。

「渡しなさい」

 言葉が変わる。ホルガーが一歩踏み出した。エーファが逡巡していると悟ったのだろう。

 緊張で呼吸も鼓動も早くなる。

 一秒にも満たない時間。その間に、エーファは数え切れないほどの逡巡を繰り返した。


 そしてエーファは――書面に目を落とした。


「……おのれ」

 怨嗟の声。ホルガーがそんな言葉を口走ること自体珍しいことだったが、エーファの耳には届いていなかった。

 食い入るように、エーファはその書面を見つめている。その顔は驚愕を通り越して真っ青になっていた。

「ホルガーさん、これ……」

 なぜ、どうして。無数の疑問が頭の中に生まれるが、全く答えは見つからない。

 あまりの衝撃に、何を言っていいかわからない。

 茫然自失とするエーファだったが、何かが床に落ちた音で我に返った。

 可愛らしいリボンで口を結んだ、小さな袋。その中にあるクッキーは多少歪であるものの、エーファが一生懸命に作ったものだった。

 それが、床に投げ捨てられていた。

 なぜ、と思う間もなく、そのクッキーはホルガーに踏みつぶされた。

「やれやれ」

 ホルガーの声からは、一切の感情が抜け落ちていた。先ほどまでの冷徹さも、焦りのようなものも見えない。いつもの、事務的なホルガーだ。

 だからこそエーファは無意識に悟った。クッキーは、踏もうとして踏んだのではない。ホルガーの視界に入ってすらいない。ただそこにあったから踏まれたのだ、と。

「だから、渡しなさいと言ったのです」

 そう言ったホルガーに目を向け、エーファはのどの奥で小さく悲鳴を上げた。

 睨まれているわけではない。

 怨嗟を向けられているわけでもない。

 ただ、声と同じように、無感情な顔がそこにあった。

「あ……あ……」

 呆れられることや、ときには怒られることもあった。

 だが今の表情は、そこらの石ころを見るような目とおなじそれをしている。生き物としてさえみられていない。そんな目を向けられるのは初めてだった。

「まったく、あの女が現れてから、想定外のことばかりで嫌になります」

 ぼやきつつ、ホルガーはデスクに立てかけてあった、布で包まれた棒状のものを手に取った。

 布がするりと解かれ、中から現れたもの。それを見て、エーファは心底震え上がった。

「いや、それ、いやです……あっ」

 じり、と後ずさりしかけて、エーファは尻餅をついた。全く足に力が入らない。

「まぁ、多少計画が前後するだけですね」

 ホルガーはそれをすらりと抜いた。白刃が陽光に照らされ、美しく輝く。

 ホルガーが手に持つそれは、先日透子が宝物庫の奥で見た、一振りの剣だった。

「いや……いや……」

 その両刃剣に、エーファは言いしれぬ恐怖を覚える。剣そのものはもちろん怖い。それが自分に向けられているということも。だが何よりも、その剣がもつ気配が恐ろしかった。

「悪魔殺しの、剣……」

 目にするのは初めてだった。だが、それは悪魔殺しと呼ばれる類の剣に間違いないとエーファは確信した。まるでトラウマにぶつかったときのように、魂自体が恐れている。

 ゆっくりと歩み寄るホルガーはエーファの眼前で足を止める。

 鋭く尖った切っ先を、エーファの胸に当てた。

「私の指示に従っていただきます」

 その言葉にエーファはただ、壊れた人形のように首をたてに振るしかできなかった。

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