第6話『恥じるОL』

 ベルンシュタイン城には浴場が二つあった。

 一つは和風の露天風呂。洋風の城には似つかわしくない上に、今はほとんど誰も使うことがない。いかんせん城の住人が少ないのだ。男女別にわかれており広さもそこそこだが、宝の持ち腐れである。鹿威しの音は、もう何年も響いていない。

 そしてもう一つは、割と豪華な室内バスだ。露天風呂ほど広くはないものの、オーク三兄弟が全員入ってもまだ余裕があるほどには広い。そしてこちらは完全洋風。豪邸でよく見る、ライオンの吐水口もある。ただなぜか浴場が一つしかないので、城の男連中はエーファとはち合わせないように気を配る必要があった。

 日もとっぷり暮れ、午後十時。室内浴場の脱衣場に、衣擦れの音が囁いていた。

「いっつつ……」

 そろりそろりと、透子はワイシャツの袖から腕を抜く。引き締まった二の腕、その白い肌には、痛々しい青あざと切り傷がいくつもできていた。

「まったく手加減ないんだから」

 ぼやきつつ、ブラのホックに指をかける。大きさよりも美しさ。普段からそう言ってはばからない自慢のCカップには、傷一つついていなかった。そこにはホッと息をつく。

(まあ、手加減しなかったのは私もだし。にしても、あの子たち本当に弱かったわね……)

 自分が勝てたのには安堵した。だがダンジョンのメインモンスターがこれでは、心許ないにもほどがある。そう嘆息し、ショーツから足を抜きながら、透子はふとあることに気がついた。

(浴場の明かり、いつも点いてたかしら?)

 城の明かりは魔力に頼っている。ベルンシュタイン城は魔力には余裕があったが、ホルガーの方針で無駄な浪費は控えてきた。つまり、不必要な明かりは消しておく。節電の精神である。

 浴場も例外ではなく、誰もいないときは消灯してある。つまり、今は単なる消し忘れ、あるいは誰かがいるのだが。

(誰だろう……)

 浴場からは人の気配がしていた。時折、お湯を弄ぶ音も聞こえてくる。

 モルタたちではない。彼らは白目を剥いたまま結局目を覚まさなかったので、裏庭に放置してきたはずだ。先ほど廊下ですれ違ったホルガーでもない。

(エーファ様だわ!)

 そう悟った瞬間、透子のテンションは急上昇した。

 元々入浴は、透子の楽しみの一つだった。化粧は普段から薄かったので、こちらに来てからはしなくても気にしなかったが、風呂となると話は変わる。もしこの世界に入浴の概念がなかったら、透子は絶望のあまり自殺していたか、あるいは自分で風呂を作り出していた。

 それほどまでに人生の娯楽である風呂である上に、今夜はそこにエーファがいる。

(そうよ、よく考えたら、これって典型的なラッキースケベのシチュエーションじゃない!)

 お風呂の扉を開けたら中にはすっぽんぽんのヒロイン。その叫び声や桶、せっけん等を受けながら、「すまん!」などと謝りつつ扉を閉める主人公。そんな場面は嫌と言うほど見てきたが、まさか当事者になるとは夢にも思わなかった透子である。

 扉を開けたのが男なら馬鹿変態スケベ死んじゃえの烙印を押されるところだが、幸いにして女同士、ともに湯に浸かっても何も問題はない。むしろ、今までどうして一緒に入浴しようと誘わなかったのか。

(タオル……は巻かなくていいか。持って入るだけでいいわね。うっふふ、一日の終わりにこんなラッキーイベントがあるなんて、神様はちゃんと見てくれているのね)

 いそいそと長い髪を上でまとめ、背中を流しっこなんてしちゃおうかしら、などとウッキウキで扉を開ける透子。

 闖入者に気づき、のんびりと湯船に使っていたその人物は、驚いて叫び声を上げた。全て透子の期待通りである。

「うだっ!」

 その叫び声が、ダンディボイスだった点を除けば。

 十メートル四方はあろう、広い湯船。その一番奥で、頭にタオルを乗せた魔王が目を丸くしていた。

「魔王様のこと忘れてたあああ!」

 がっくりと透子はその場に崩れ落ちた。

「いきなり入ってきてその言い草は、ちょっと失礼じゃないかい……? と言うか、前、隠しなよ」

 慢心していた透子はタオルを巻いていない。いつもであれば長い黒髪がカーテンになったかも知れないが、今は上げてしまっている。つまり、磨きに磨いた、白く美しい肌がフルオープンだった。

 それを見て動じないのは、果たして魔王の人となりなのか、あるいは魔王という地位故なのか。だが、見られた透子も全く狼狽の色を見せていなかった。

「……よござんしょ、ご一緒させてもらいますね、魔王様」

「いいのか! いや、よくないでしょ」

「あ、そうでしたね、まずは体を洗わないと。今日は特に土埃がひどいですし」

「そうじゃなくてだな……!」

 シャワーをし始めた透子に、魔王はもうかける言葉が見つからなかった。気にしていないということは、見られても構わないということだろうか。だがさすがにじろじろと見続けるのもばつが悪く、魔王は目を逸らすことにした。

 体を洗い終えた透子は、何の遠慮もなく湯船に浸かった。わざわざ魔王の傍で肩まで浸かり、湯船の縁に背中を預ける。魔王と同じく頭にタオルを乗せ、いい意味での深いため息をついた。少し熱いくらいのお湯。全身の疲れが染み出していくようだった。

「はあ……こんな広いお風呂は久しぶり……」

 エーファと出会って以来の幸福感だった。思わず、手で水鉄砲をしてしまう。

「……普通、男がいたら、叫び声の一つでもあげるものじゃないかい?」

 一方、魔王の恨みがましい声は、風呂場独特のエコーを伴っていた。彼は透子に気を遣っているのか、背を向けている。湯気もあるしお湯も乳白色に濁っているためよくは見えないはずだが。

 魔王はそこまで大柄ではないが、その体はよく鍛えられてるようだった。背中一つ見ても、その筋肉量は一目でわかる。同時に、古傷も数え切れないほど刻み込まれていた。今は戦いを忌避しているようだが、昔はそうではなかったのだろうか。

 だが今は混浴状態だからか、少し萎縮しているように見えた。

「生憎ですが、見られて困るような体ではありませんので。ほら、どうですか?」

 その背に向かい、透子は湯船の中でセクシーポーズを決めて見せた。右腕は頭の後ろに回し、左腕は胸を持ち上げる。谷間に溜まった乳白色のお湯は、流れ出ることなくその場にとどまっていた。

 外見は女の武器である。それをよく理解していた透子は、自己の研鑽を怠らなかった。出るところは出、締まるところは締まっている。珠のような白い肌も、透子の自慢の一つだった。

 だが、魔王は背中を見せたままピクリともしない。無反応の魔王に、少し透子はむっとした。

「そう言えば、さっきも面白くないリアクションでしたね。男性の方こそ、こんなナイスバディを見たら鼻血の一つでも出すのが礼儀なのでは?」

「こんなおっさんを捕まえて、君は何を期待しているのか。それほどまでに自慢なら、ホルガーやモルタたちに見せてやればいい。ロースあたりは喜ぶぞ」

 ご冗談を、と透子は笑った。

「女を無駄撃ちするのは愚行です」

「なら、今は無駄撃ちではないと?」

「もちろん、相手は魔王様ですから」

「……なるほど、では魔王らしいことでもしてみようか」

 言うや否や、魔王は透子の方に振り向くと、透子の細い顎を右手で軽く持ち上げた。

「へ?」

 言葉をなくす透子に、魔王は躊躇いなく顔を近づけてくる。

 浅黒く日焼けした肌。紅玉のような瞳は透子の何もかもを見透かすように、怪しい光を放っている。まるで蛇に睨まれた蛙のように、透子は身動きを取ることができない。

「あ、あわわ……」

 思えば、これまで自分に言い寄ってくる男はいたが、ここまで接近を許したことなどなかった。ましてや相手はダンディズム溢れる二枚目。透子の頭が真っ白になるまでに、全く時間はかからなかった。

 身につけているものと言えば、頭に乗せたタオルくらい。その最後の砦タオルすら、顎を持ち上げられたはずみで湯船に落ちてしまった。身を守るものは何もない。

 紅玉の瞳がさらに近づき、お互いの吐息を感じるか否かというところまで来たとき、

「……冗談だよ」

 魔王はお決まりのダンディスマイルを浮かべた。透子の顎から手を離し、再び背を向ける。

「ふぁ……?」

「耳まで真っ赤にして、可愛らしい〝女の余裕〟を見せてもらった。それに免じ、魔王を誑かした罪は不問にしてあげよう」

 からかうように言われ、ようやく透子は我に返った。激しく水音を立て、魔王から距離を取る。

「っ~! かっ、からかいましたね」

「先にからかったのは君だろう?」

「……人が悪いです」

 鼻までお湯に浸かり、透子はあぶくを吐いた。頬の上気は全く収まらない。

 対する魔王は、「悪魔だからね」と余裕綽々に笑った。

「でも、もし仮に僕が色仕掛けに引っかかっていたらどうしたんだい? 僕も男だ。狼の素質はあると思うけれど」

 魔王は冗談めかして言う。

 信じてましたから、と透子は小声で返した。

「相手が一児の父だったもので。それに、会って三日の怪しい女に浮気するほど、人間ができていないようには見えませんでしたから」

「悪魔の王に人間ができている、か。よく言うよ、存在を忘れていたくせに」

「仕方ないじゃないですか、この城に来たとき以来、全く会わなかったんですから」

「それこそ仕方ないことだよ」魔王が苦笑する気配がした。「何しろ農業の朝は早いし、ほぼずっと外にいるからね」

「食事のときくらいご一緒してもいいのでは? それとも、身分の高い方は別で召し上がるのですか?」

「そんなことはない。僕はエーファと一緒に食べてるんだ」

「エーファ様と?」ようやく透子は本調子に戻った。「そう言えば、エーファ様も自室で召し上がっているようですね。なぜです?」

「エーファから聞いてないのかい?」

 何も、と透子が答えると、魔王は押し黙ってしまった。透子も何を言っていいかわからず、ただライオンの口からお湯の出る音だけが響く。

 しばらくの沈黙の後、

「エーファに聞いてみるといい」

 教えてくれるかはわからないが、と堅い声で魔王は言った。その一言に一抹の寂しさを覚えつつも、聞かれたくないことなのだと、言葉尻から推察するのは容易かった。

「君は……」

 あまり間を置かず、魔王はそれだけを口にした。言葉の途切れた先を探すような気配が透子に伝わってくる。話を変えようとしているのは明白だった。

「トーコと言ったね、君の目的は何だい?」

 結局、魔王はそう言い直した。

「目的?」

「そう、目的だ。君からはまだ、ここで働きたいということしか聞いていない。その先に何を見てる? 何を目指している?」

「私は……」

 途切れた言葉の先。次は透子がそれを探す番だった。いや、答えは決まっている。どう伝えればいいのか。

 結局、悩んだのは少しだけ、偽ることはしなかった。

「あなたを退け、私が魔王になる」

 魔王が肩越しに振り向く。紅い瞳が、湯気の向こうで不気味に輝いた気がした。数秒だけその瞳を真っ向から受け止め、透子は視線を逸らす。

「……そう、考えていました」

「今は違うと?」

 紅玉の輝きが、少しだけ柔らかくなった。

 はい、と透子は苦笑でもって返事をする。

「疑わないのですか?」

「もし今の言葉が嘘なら、そもそも初めから疑われないような言葉を選ぶべきだ。そして君は、それがわからないほどバカじゃない。だろ?」

「ふふ、違いありません」

 見た目は単なるダンディなおじさまだが、小規模とは言えさすがは一城の王。真偽を見抜く洞察力、そして自分を弑すると言われても取り乱さない器の広さは非凡である。いや、後者は余裕とも言えるだろうか。

 何にせよ、透子は改めて魔王の〝強さ〟を思い知った。

「それで?」

 気を遣っても無駄だと悟ったのか、魔王は湯船の縁に背を預けた。透子とは数メートルの間隔を開け、横に並ぶ形になる。

「それでとは?」

 透子はちらりと魔王を盗み見た。お湯が濁っているので、その中の様子は見えない。いや、特に残念でも何でもないのだが。

「とぼけないでくれ。僕を弑すのはやめたんだろう? なら、他の目的があるはずだ。それを聞きたい」

「それは――」

 透子は両の手のひらでお湯をすくった。乳白色のそれは、指の隙間から逃げ出していく。指に力を入れると、少しだけ手のひらに残った。

 透子は顔を上げる。徐々に量を増し、視界を狭めてきた湯気の向こうに、ここにいるはずのない少女が、一瞬見えた気がした。

 そう、これは、自分自身に対しての決意表明だ。

 短く息を吸い、透子は言った。

「――エーファ様を、幸せにすることです」

 強い覚悟。

 それをはっきりと魔王は感じた。二十四、五そこらの小娘が、どんな生き方をすればそんな声が出せるのか。

 その疑問と同時に、透子とエーファは会ってからまだ三日程度のはずだ。エーファの体質すらまだ知らないと言う。そんな薄い関係のはずなのに、どうしてそこまでの覚悟がもてるのか、魔王は不思議に思わざるを得なかった。

 そんな魔王の気配を感じたのか、透子はさらに言葉を紡ぐ。

「私には、妹がいました。エーファ様は、その妹にそっくりなんです。もちろん、ただの他人の空似であることはわかっています。ですが、錯覚とは言え一度亡くした人に出会った。出会うことができた。その奇跡を、その感動を、言葉で表現できないことが歯がゆくて仕方ありません」

「肉親でもない、ただの他人の空似のために、自らの人生を使うと?」

「その通りです。元より、妹を亡くした時点で私の人生は終わったも同然でした。ですがこうして、新たな意味を見出すことができたのです。それをどうして惜しむことができるでしょう」

「……ふむ」

 魔王は腕を組んだ。そして目を閉じて沈黙すること数秒。

「あいわかった、信じよう」

 大きくうなずいた。額や顎から、汗が湯船に滴っていく。

「し、信じるんですか?」

「そんなに驚いた顔をしなくてもいいだろう。何だ、信じてほしくないのかい? 今のは嘘だったと?」

「い、いえ、そんなことはありません。紛れもない本心です」

「ならそれでいいじゃないか。せっかくこうして、お互い素っ裸で話をしてるんだ。疑ってかかっては興が冷める。違うかい?」

 ダンディスマイルを浮かべる魔王に、透子は毒気が抜かれる思いがした。思わず深い息が漏れてしまう。

「ため息は幸せが逃げるよ」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「僕のせいって聞こえるけれど」

「そう言ったんです」透子は恨みがましい目を向けた。「最初に、魔王になるって言ったときから、私はそれなりの覚悟をしていたんです。それなのにこうも受け流されては、立つ瀬がありません」

 それは悪かった、と魔王は笑う。そして、透子に向ける目を少しだけ細くした。

「だが、受け流しちゃいないよ」

「それはどういう――」

「二秒だけ、あっち向いてくれるかい?」

「え?」

 一瞬呆けたが、魔王が立ち上がろうとしているのを悟り、透子は慌てて目線を外した。

「はっはっは、耳まで真っ赤だよ。男慣れしてるってわけでもないんだね」

 きっかり二秒。目線を戻すと、魔王は腰にタオルを巻いていた。透子は恥ずかしいやら情けないやらで何も言えない。結局、意識していたのは自分だけ。魔王は透子を意識していたわけではなく、始終気を遣ってくれていただけだった。

 魔王はもう上がるつもりらしい。湯船から出たが、そこで一度立ち止まった。そのまま振り返ることなく、言う。

「エーファはその体質故、これからも色々と大変な目に遭うだろう。――どうか、支えてやってほしい」

 腹の底に響くような、重い声音だった。そこに込められているのは、威厳ではなく至誠。魔王としての言葉ではなく、言うなれば、一人の父親としての言葉。透子にはそう感じた。

「私の心は決まっています。命に代えても」

「頼んだよ」

 そう言って、魔王は浴場を出て行った。

 拳を握りしめ、透子は呟く。

「必ず守ります。……今度こそは」

 その呟きは、湯気の中に溶けていった。

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