第4話『迎え撃つОL』

 透子たちがやってきたのは、ダンジョンの傍の小部屋――通称作戦部屋だった。ダンジョンには内部を監視できるマジックアイテムがあり、この部屋でそれをモニタリングすることができる。早い話が監視カメラだ。

 モニターの向こうには、四人の人間が映っていた。

 大きめの剣を背負っている、ムキムキマッチョの男。

 全身を鎧で包み、大きな盾を持っている人物。フルフェイス兜を被っているため、性別はわからない。

 そして、身軽そうな身なりの女。

 最後に、全身をローブで包んだ髪の長い女。

「確かに冒険者のようですね。戦士二、スカウト一、僧侶一。スカウトと僧侶は女性のようですね。鎧はどちらでしょうか。オーソドックスなパーティです。それにしてもあのリーダーらしき戦士、いい体つきですね。非常にチャーミングです」

 やや頬が上気しているホルガー。透子は無視し、モルタに問いかけた。

「つまり、木を切ってたらいきなりインネンつけられた、と」

 そうです、とモルタは情けない声で答えた。

「我らを見つけるなり、ケイケンチ、ケイケンチとわけのわからない呪文を唱えながら追いかけてきたんです。慌てて城に入り、彼らをダンジョンに誘導しました」

「なるほどね」

 透子はあごに手を当てる。いきなり敵が来たことは驚いたが、これは逆に考えるとチャンスだ。

「あんたたち」透子はオークたちに視線を飛ばした。「あいつらを追い払ってきなさい」

 仰天したのはオークたちである。たまらず長男モルタが抗議した。

「む、無理ですって! あんな強そうな人たち!」

「オークのくせに情けないわねえ。可能不可能はどっちでもいいの。やるかするかよ」

「同じじゃないですか!」

「うっさい。はよ行け!」

 有無を言わさず、透子はオークたちをダンジョンに蹴り出す。哀れ彼らは泣きながら走っていった。

「ったく、手間のかかる」

「まあまあ、彼らなりに緊張をほぐしているのかも知れません」

「緊張? ダンジョンにいるオークなんて、女を○し、男も場合によっては○し、それ以外は○○したり○○したりすることしか考えない、鬼畜生物じゃないの?」

「伏せ字が多すぎです。それはともかく、彼らは緊張して当たり前なんですよ。実戦経験など皆無ですから」

「は? どういうことよ」

「彼らは地方農家の出です。今までは農業でやりくりしてきましたが、父親が蒸発、母親が病に倒れたということで、出稼ぎのためにこの城へ来たそうです。……どうしました?」

「……ぐすっ、何でもないわ」

 透子はハンケチで目頭を押さえていた。自分の境遇と重ねてしまうのかも知れない。人情噺に弱い透子である。

「ちなみに、どうして木を切らせていたんです?」

「森がまったく整備されてなかったからね。ダンジョンに客を呼ぶには、まず周辺環境を整えるところから始めないと」

 強制労働を命じられたオークたちは絶望的な顔をしていたが、透子は当然無視した。

「まあでもあんな体格だし、そこそこ戦えるんじゃない?」

 期待の目をオークたちに向けるが、すぐにその目は失望の色に染まった。モニター越しに、彼らの声が聞こえてくる。


「に、兄さん行ってよ!」

「何を言うラルド! わ、私は長男だぞ! 長男は最後と相場は決まっているだろう! こういうときは、一番下から行くものだ!」

「え、ウチ!? イヤやて! ウチはそもそも肉体労働派ちゃうし!」

 完全にダ○ョウ倶楽部状態だった。見た目はゴツいオークだし、武器もそれぞれ剣と盾、ハルバード、釘バットと強そうなのに、残念なことこの上ない。

 そしてさらに残念なことに、まだ彼らとあまり親しくない透子には、誰が長男で誰が次男で誰が三男なのかわからない。名前すら覚えていなかった。

「さっきのオークたちだな」

 モルタたちの姿を認め、リーダーらしき男がずいと一歩進み出た。

「まさかダンジョンのモンスターだったとはな。出てきたってことは相手してくれるんだろう? 見たところあんたらもレベルが低いようだが安心しな。あんたらが戦うのは彼女だけだ」

 リーダーの言葉に合わせ、透子と同じくらいの少女がおずおずと前に出た。ありありと不安を顔に出し、少し垂れたまなじりには微かに涙が浮いている。地味な色のローブを身に纏い、震える手には錫杖を持っている。いわゆる僧侶というやつだ。

「……君が?」長男モルタが眉を顰めた。「君、僧侶だろう。後衛ではないのか? おっぱいは大きいが」

 モルタの言う通り、僧侶の子はローブの上からでもわかるくらい、胸部が盛り上がっていた。当然それに気づいている透子も、気分が盛り上がっていた。

「ははは、まあそんなことはどうでもいいだろう」答えたのはリーダーだった。「で、やるのか? やらないのか? ……ああ、もしこの子を倒した後のことを心配しているのなら、約束してやるよ。俺たちは一切手を出さないし、負けても素直に撤退する」

 オークたちは顔を見合わせた。口約束など信じるわけないし、女の子に手を上げることにも抵抗がある。だが、いずれにせよ引けないのだ。

「……やるしかないわなあ」

 三男ロースが嘆息した。三体の脳裏に、悪魔より悪魔らしい女の顔が浮かんだ。ここで尻尾を巻いて逃げ出せば、後で何をされるかわかったものではない。

「仕方がない、ここは長男ということで私が行こう」

 す、と長男モルタが手を挙げた。

「いや、やっぱあんちゃんにゃあ行かせられへんわ。ここは下からやろ」

 す、と同じく三男ロースも手を挙げる。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 慌てて次男ラルドも手を挙げた。

「じゃあ僕が!」

「「どうぞどうぞ」」

 ささっと道を譲る上と下。完全にダ○ョウ倶楽部だった。次男は不運である。

「うう、怖い……」

 涙目で前に出るラルド。二メートルを越える巨体に豚の頭、手には身長と同じくらいのハルバードと、見た目は怖い。だが、涙目なのである。

「別に同時でもいいと思うけどねえ」

 冒険者のリーダーが苦笑した。


「じょ、状況はどうですか?」

 不意に作戦部屋の扉が開き、エーファが入ってきた。

「エーファ様、どうしてこんなところに」

「心配になったので。ご迷惑でしたか?」

「いえいえ、そんなまさか」

 ぶんぶんと透子は首を振った。

安心したようにして、エーファはモニターに目を落とす。

「モルタさんたちが戦ってくださっているんですね。相手は女性の方みたいですが……」

「そうなんです。あんな凶悪そうなモンスターに、か弱そうな女の子が一人。相手が何をしたいのかさっぱりです」

 首をひねる透子だったが、ホルガーはぽんと手を打った。

「なるほど、そういうことですか」

「何がなるほどなのよ。ああ、実はあのおっぱいの子、戦闘になると性格が変わるとか、見た目に反してめちゃくちゃ強いとか? ありがちな設定よね」

「いえ、彼女は見た目通りです。典型的な後衛、魔法力は未知数ですが膂力は人並み。もしくはそれ以下でしょう」

「ならその魔法とやらでドカンじゃないの? あいつら、魔法に弱そうな顔してるし」

「ひどい言いようですね。でも、すでに対峙している距離が前衛同士のそれなので、魔法で戦うのでもないでしょう。仮に詠唱を始めても、ラルドの攻撃が先に届くはずです」

「ならあの冒険者たちは何がしたいの? あの子が負けて、オークたちにアレコレされる未来しかないじゃない。エロ同人みたいに」

 透子は大真面目にそう言ったが、

「すぐわかりますよ」

 ホルガーはたった一言、そう答えただけだった。


 そして数分後、透子は絶望と失望をもって、その言葉の意味を理解した。

 たった数分である。そのたった数分で、オーク三兄弟は地に伏せられていた。華奢な僧侶によって。

「わかったわ、彼らが何をしたいのか」

 頭を押さえる透子。

「そう、戦闘経験を積むことによって、体力、筋力、技能、魔法力その他諸々の向上を図ったのでしょう。まれにスキルを得ることもありますね」

「とどのつまりが、レベル上げ、でしょう?」

 モニターの向こうでは、魔法の錫杖(鈍器)でオークたちをノし、レベルアップして僧侶の女の子が大いにはしゃいでいる。笑顔が可愛いし、ぴょんぴょん跳ねる度にゆっさゆっさとダイナミックシェイクしている胸部は素晴らしいものがある。

 ちなみに、他のメンバーは僧侶が戦っている間カードをしていた。興味がないと言うよりも、彼女のことを信頼している表れのようだ。

「あの女の子が強いわけじゃなかったのね。ただ、彼らがそれ以上に弱すぎた、と」

「そういうことです。彼女のレベルが十なら、モルタたちのレベルは一、勝負になりません。――まあ、多少のカラクリはあるのかも知れませんが」

 折り重なってノビているオークたち。勝負はあっという間だった。

 先制攻撃とばかりに、僧侶の錫杖が次男ラルドのスネにクリティカルヒット。悶絶するラルドがトドメを刺され、モルタとロースはパニックに陥った。そしてあれよあれよと言う間に二人とも撲殺され、戦闘終了である。

「仕方ない。今回は素直に負けを認めましょう」

「援護に行かないのですか? 財宝を持って行かれてしまいますが」

「ダンジョンに置いてあるのは一部だし、少し高い授業料だと割り切るわ。代わりにあなたが行ってくれるわけでもないのでしょう?」

「そうですね。魔王の補佐が軽々と現場に出るものではありません」

「そういうことよ。私だってチーフだもの。それに、レベル一と謳っているのに、レベル一ならそれらしく、モンスターは弱くなくてはいけない。私が出ると、その前提が崩れちゃうわ」

 もっともな意見に聞こえた。そこに、エーファの悲しそうな声が混ざる。

「財宝、取られちゃいますね。それにやっぱり、モルタさんたち……可哀想です」

 ガタン、と透子が聖剣を手に勢いよく席を立った。半ば察しながらも、ホルガーは尋ねてみる。

「……どこへ行くのです?」

「決まってるじゃない、彼らの仇を討ちにいくのよ」

「いや、死んではいませんが……。それについ今し方、助けに行かないと言ったばかりで――」

「今行くわよおおおお!」

 うおおおと叫びながら、透子は部屋を飛び出していった。


「いや~、楽勝だったじゃないか。強くなったな、カーヤ」

「そ、そんな、皆さんのおかげです。こんな武器まで装備させていただいて……」

 リーダーの言葉に、カーヤと呼ばれた僧侶は耳まで真っ赤になった。先ほど戦闘で使用した錫杖を抱きしめ、錫杖が豊かな双丘に挟まれる。

「今は頼ってればいいさ。その、正直羨ましい杖にな。じきに実力が追いついてくる」

「は、はい……」

「さて、他にモンスターもいないみたいだし、財宝をいただいてとっとと帰るか」

 そう言ってリーダーは歩きだそうとしたが、

「そうは問屋が卸さないわ!」

 突如女の声が響き渡り、足を止めた。

「おお、あんたか」

 現れた女に、リーダーは目を丸くした。誰であろう、ダンジョンのビラを配るという奇行を演じ、妙ちきりんな格好をしていた彼女である。

 ダンジョンの闇を背負って仁王立ちするその姿は、妙な威圧感に包まれていた。

「私は古迫透子、このダンジョンのチーフよ。改めてよろしく!」

 敵意満面であるが、挨拶は忘れない。OLの鑑である。

「フルサ・コトーコか、変わった名前だな。俺はテオバルト、テオでいい。よろしく。見たとこ、道案内をしてくれる、ってわけでもなさそうだな」

 リーダーことテオバルトの目は、コトーコなる女の手に向けられていた。その手に握るは、金色の剣。

「聖剣、なわけがないよな。勇者が魔王城にいるはずがない。人間のようだが、あんた何もんだ?」

「ふん、悪いけれど、それをあなたに語る義理はないわ。さあ、とっとと来なさい! 剣道二段は伊達じゃないわよ!」

 ケンドウニダンが何かはわからないが、コトーコの口振りからすると何かしらのスキル、あるいはジョブのようだ。未知のものに対する不安はあったが、それでもテオバルトはカーヤの背を押した。

「カーヤ、お前が行け」

 その言葉に、カーヤ本人はもちろん、他のメンバーも仰天した、

「むっ、むむむ無理ですよ! だってあの人何だか強そうです!」

「大丈夫だ」

 涙目のカーヤに、テオバルトは自信満々にそう告げた。

「きっとこの先、お前はもっとたくさんの強敵と戦うだろう。これはその第一歩なんだ。怖いのは当たり前だ。その恐怖を乗り越えてみせろ」

「……わたしが負けても、テオさんたちは何もしないんですよね?」

「ああ、そういう約束だからな、素直に装備と金を差し出して帰るさ。でも、俺はお前が勝てるって信じてるぞ」

「テオさん……」

 決して、この無邪気に笑っている男は、自分が勝てるなどと思っていないだろう。だが、信じてると言ってくれた。その思いに報いようと、カーヤは思った。不思議と、胸の奥が熱くなる。

 ふと、石畳を断続的に叩く音が聞こえ、カーヤは自分が冷静になったのだと気づいた。

「もう茶番は終わりかしら?」

 その音は、コトーコが足先で鳴らしていたようだ。ありありと苛立ちが伝わってくる。

「どうしました? 生理ですか?」

「違うわよ! むしろ安全日よ! って、生々しい話はやめなさい! そうじゃなくて、目の前でイチャコラされたら腹が立つものなの!」

「イチャコラだなんてそんな……!」

「照れるな! クネクネするな! ふん、余裕ぶるのも今だけよ。レベル一のダンジョンだからって、モンスターが弱いばかりとは限らない。時には私みたいな裏ボスがいるんだって、教えてあげるわ!」

 つまり私は強い、そう内包したコトーコの言葉に、カーヤはクネクネをやめて気を引き締めた。

 聖剣は鞘のなかに納めたまま、コトーコは勢いよく切っ先をカーヤに向けた。

「カーヤって言ったわよね。私はあなたたちを通しはしない。OLのOはobstacle邪魔・障害のO! さあ、かかってらっしゃい!」


                *     *     *


「ん……」

 意識を取り戻した透子は、目を開けるより先に心地よい音色に酔いしれることになった。

 ピアノの音だ。

 長調の明るい音色が、耳からではなく、全身からとけ込んでくるように、部屋の中に流れている。聞いていると、ふつふつと元気が出てくるような、そんな音色だ。

 声をかけるのも悪いと思い、その音色がやむまで、透子は目を瞑ったままでいることにした。

「いい曲ですね」

 やがて静かに曲が終わり、透子は目を開けてそう讃えた。

 透子に背中を向け、ピアノを弾いていた少女――エーファは、肩をびくりと震わせた。

「びっくりした……。起こしてしまいましたか? すいません」

 エーファは透子の方に向き直った。その顔は、少し赤く染まっている。

「私、どれくらい寝ていましたか?」

「えと……半日ほどです。本当ならトーコさんのお部屋に運ぶところだったのですが、私が無理言ってここで介抱させていただきました」

 その言葉に礼を言いつつも、透子の心は晴れない。深々とため息をつくのは、異世界に来てからこれで何度目だろうか。

「呆気なかったわね」

 当然、気を失う前のことは鮮明に覚えている。むしろ忘れたいくらいだ。カーヤなる僧侶と対峙し、勢いよく面を打ちに行ったものの、あっさり弾かれてがら空きだった胴をもらった。

 威勢よく名乗りを上げ、しかし簡単に負け、さらに消化しかけだったトーストをリバースし、そのまま失神。情けないことこの上ない。

 エーファの「大丈夫ですか?」には、透子の鼻っ柱が粉砕された

 それでも、エーファには笑顔を見せる。

「ごめんなさい、私は大丈夫です。何の影響かは知りませんが、私の体、結構丈夫になってるみたいですから」

 ベッドから降りて立ち上がり、平気であることをアピールする。だが、エーファの顔は晴れなかった。

「財宝、取られちゃいましたね……」

 その言葉を、透子は少し意外に思った。

 エーファは就寝時以外はドレスで過ごしていたが、それは華美なものではなく、宝石を身につけているところも全く見たことがない。なのに、財宝を奪われて落胆している。やはり王女様は皆そんなものなのだろうか。

「すいません、私の思慮不足でした」

「あ、いえ、そういう意味で言ったのではありません。ごめんなさい」

 お互いに頭を下げ、再び重い沈黙が降りる。これはまずいと、透子は明るい声を上げた。

「そう言えば、先ほどの曲、聞きほれました。明るい曲なのはもちろん、元気が出てくると言うか励まされると言うか……ん~、何と言えばいいのでしょうね。こういうとき、自身の表現力のなさに恥入ります」

 エーファを励ます意味ももちろんあったが、決してお世辞などではない。真実、透子はそう思った。歌には不思議な力があると言うが、その力の一端を透子は感じた。

 そして、透子の言葉にも、多少は力があったらしい。エーファは嬉しそうに顔を輝かせた。花が咲いたようなその顔に、透子自身も嬉しくなる。

「ありがとうございます。感性が豊かな方だとお見受けしましたが、トーコさんも音楽に造詣は深いんですか?」

「あはは、まさか。ドレミくらいは読めますが、音楽活動をしたことは一度もありません。ただ、明るい曲はよく聞きましたね」

「トーコさんも、明るい曲がお好きなんですか?」

「そうですね、そのまま、明るい気持ちになれますから。逆に、暗い曲は積極的には聞きませんでした」

「私も、そうです」

 ほんの少し、エーファの声のトーンが下がった。

「私も、短調の曲は嫌いなんです。聞いてると、悲しいような、誰かに助けを求めてるような、そんな気持ちになるので……」

 嫌い、と、エーファの口からネガティブな言葉をはっきり聞いたのは、透子にとって初めてだった。

 エーファの気持ちがまた沈みかけていることを敏感に察知し、透子はことさら明るい声を出す。

「そうだ。エーファ様がよろしければ、先ほどの曲をもう一度聞かせてくれませんか?」

「え? 私のピアノを、ですか?」

「ええ、とてもいい曲でしたので。ダメでしょうか?」

「いえいえ! 私なんかでよければ!」

 ぶんぶんと手を振って、エーファはピアノの方を向いた。ふわりと、腰まである銀髪が揺れた。

 深呼吸を一つし、エーファの細い指が踊り出す。

 透子はベッドに座り、目を閉じた。

 川のせせらぎのように優しい音色だが、その中に力強さも感じる、そんな曲だ。アップテンポではないものの、聞いていると、元気や勇気、そういうものをもらえるような気になってくる。

「『希望』という曲なんです」

 器用にも、鍵盤を叩きながらエーファは言った。ピアノの音色は、一分たりとも乱れない。恐らく、指が勝手に動くくらい、何度も弾いているのだろう。

「私がつらいとき、泣いてるとき、母がよく弾いてくれました。母のことはほとんど覚えていませんが、不思議とこの曲だけは覚えています」

 普段は物静かなエーファだが、今はやけに饒舌だ。

「お母さんのことを覚えていない……?」

 その言葉をオウム返ししてしまってから、透子はしまったと思った。

「はい……私が幼い頃、亡くなったそうです」

 透子からは、エーファの後ろ姿しか見えない。彼女が今どんな表情をしているのかはわからないが、声色は穏やかだった。

「……ごめんなさい」

「気にしないで下さい。さっきも言いましたが、母のことはほとんど覚えていないので」

 その言葉をそのまま受け取れるほど、透子は脳天気ではなかった。ほとんどということは、少しは覚えているのだ。大切な人を失う悲しさやつらさは、痛いほど知っている。

「もう、トーコさん、わたしのピアノを聞いてるんでしょう? 暗くなっちゃだめですよ」

 おどけたようなエーファの言葉に、透子は短く息を吐いた。

「そうでしたね。『希望』だったかしら。この曲に失礼でした」

 苦笑しつつ、透子はこのとき、自分の目的が変わってきていることをはっきりと自覚した。

 魔王になる。そして世界を征服する。そこは変わらない。ただ、それは目的ではない。手段だ。

 では目的は何か。

 今までは、世界征服をした後、この世界をめちゃくちゃにすることだった。それは単なる、世界規模の八つ当たりである。妹を亡くし、世界に絶望したことに対する、透子のわがままだ。

 あの町で勇者を打ちのめしたとき、確かにその願望を抱いていた。

 だが、今は果たして。

(私は……)

 ピアノの音色に耳を傾けつつ、透子は自身の心と改めて向き合った。

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