第2話『就職するОL』

「ほ、本当に城なんてあるのかしら……」

 びくびくしつつ、透子はまさに鬱蒼という言葉が似合う森の中を歩いていた。

 町を出て北に向かうこと一時間。街道からも逸れ、木々の密度は徐々に高くなり、今はもう十メートル先も見渡すことができない。太陽を確認するが、方角はあっているはずだ。

「ぴぃっ!」

 突如木の葉を揺らしながら数メートル先に何かが現れ、透子はびくりと飛び上がった。

 一メートルにも満たない体に、ややアンバランスに大きな頭。二足歩行で手には棍棒を持っている。ファンタジーで言うところのゴブリンだろう。

 驚かされたことに腹が立ち、透子はゴブリンを思い切り睨みつける。すわ戦闘でも始まるのかと思ったが、ゴブリンはこの世の終わりみたいな顔をして藪の中へ逃げていった。これはこれで不愉快である。

(もう、戻ろうかしら……)

 ため息をつくが、いやいやと首を振る。もう後戻りはできない。思いっきり殴りつけた上、頭まで踏んでおいて、どの面下げてギルドに戻るというのか。そして、ただの町の住人Aになるつもりもない。

 つまり、進むしかないのである。

 気合を入れなおし、再び歩を進め始める。

 やがて、木々の隙間から何か巨大な影が見え始めた。進むにつれてその影が徐々に全貌を露にし、

「これが、魔王城……」

 森が急に開け、その巨大な城が現れた。五メートルくらいはありそうな城壁に囲まれており、中の様子はうかがい知れない。だが少しだけのぞく城の上部を見た感じでは、洋風の城であるようだ。まぁ、和風建築の魔王城など聞いたことがないが。

「……よし!」

 深呼吸し、城門をノックした。

 当然、うんともすんとも言わない。蹴ってみたが、自分の足が痛いだけ。ならばと聖剣で門を殴ってみたが、鈍い音がしたものの誰も出てくる気配がなかった。ビリビリとしびれた手が痛い。

 出直すわけにもいかないし、まさか留守でもあるまい。

「こうなったら……」

 居留守に対する最終手段――大声を出そう深く息を吸って、

「……チャイム?」

 巨大な門、その脇に、呼び鈴らしきものがあることに気付いた。門と比べて小さく、そしてあまりに当然のようにあったため、視界に入っていなかった。よく見れば、巨大な正門とは別に、小さな従業員出入り口のようなドアもあった。

「…………どうなってんのよ」

 拍子抜けしつつも、透子は呼び鈴を押してみることにした。城が全体的に中世チックなのに、ここだけ現代っぽい。スピーカーがあるところを見ると、会話もできるようだ。

 ぴんぽ~ん、と気の抜けた音がし、しばらくしてくぐもった男の声が聞こえてきた。

『どちら様ですか?』

 インターホン越しではあるが、バリトン歌手のようなダンディボイスだ。

「あ、初めまして。えーと、こちらは魔王城ですか?」

 我ながら、間抜けな答え方をしたものである。「こちらは魔王城ですか?」などと初めて口にした。はじめに「あ」とつけてしまったのもマイナスだ。訪問販売の初心者か。

『はいそうですが』

 だが、意外にも相手はあっさりそう答えた。そして、当然のようにこう続ける。

『もしかして、挑戦者の方ですか? もしそうなら、申し訳ないのですが、こちらの城はただ今ダンジョンを閉鎖しておりまして……他を当たっていただけるとありがたいのですが……』

 返す言葉が全く見つからなかった。イメージと違いすぎて、わからないことが多すぎて、もう何がわからないのかがわからなくなってきた。

「…………いや、挑戦者? ではないです」

 結局、言えたのはそれだけ。挑戦者ではない、はずだ。

『それならご用件は何でしょうか。新聞ならお断りですよ? あと、うちの魔王は宗教にも興味ありませんので悪しからず』

 新聞の勧誘を受ける魔王城があるらしい。しかも、宗教って。

 透子の心中で〝魔王〟というイメージが音を立てて崩れていくが、深呼吸することで何とか恐慌と思考停止は避けた。

「えと、その魔王さんに用がありまして。お目通り願えたらありがたいのですけれど」

『お目通り……ですか。少々お待ち下さい』

 そう言い残し、インターホンの向こうから気配が消えた。誰かしらに指示を仰ぎに行ったのだろう。よく考えれば、「ご用件は?」に対しての返答にはなっていないが、それでも相手は納得したらしい。

 しばらくして、声の主が帰ってきた。

『魔王の許可が下りました。今開けますので、少々お待ち下さい』

 またもそう言われ、今度はインターホンが切れる音がした。そして待つことおよそ一分。鉄製のドアの向こうで気配がした。

 鍵が開く音がし、重苦しい音を響かせながら、ゆっくりとドアが開く。

 現れたのは、壮年の男性だった。

「お待たせしました」

 穏和そうな顔立ちに、無造作ヘアーとあごヒゲ。髪には白いものが混ざっているものの、それが逆に大人の雰囲気を醸し出している。バーか喫茶店の店長でもやっていそうな、それはそれはダンディズム溢れる男性だった。あの声なのも納得である。悪趣味なキンキラキンよりはよほど好印象だ。

 男は農夫のような格好をしており、手にはクワを持っていた。これから畑仕事にでも行くのだろうか。目の前の城とのギャップが激しい。

 そんな透子の視線に気付いたのか、壮年男性は苦笑した。

「こんな格好ですいませんねえ。ちょうど畑に出ようと思っていたところで。そろそろ作物を植える季節ですから」

「……いえ、第一次産業は大切ですよね」

 当たり障りなく答えつつも、透子は今の言葉からいくつかこの世界の手がかりを得た。

(この世界にも、恐らく日本のように季節がある。そして、魔王城では畑が作られている、と。……前者はともかく、後者はレベル三くらいの情報ね)

 どうでもいいことに嘆息した透子を、逆に男の方も興味深げに観察していた。

「……何か?」

「ああいや、珍しい格好をしているなあと思いまして」

 スーツのことを言っているのだろう。確かにこの世界では浮きまくっているが、透子にはもっと気を遣うべきものがあった。

 に視線を向け、男は目を細める。

「あと、珍しいものもお持ちになっているようですね」

「え? あっ……」

 道程の途中からただの杖と化していたので、その存在をすっかり忘れていた。自分にあるまじきミスだ。

 魔王城に、聖剣。きのことたけのこくらい、相容れないものである。

「えっと、これは……」

 どう説明するべきか。拾った? いやいや、聖剣がそこらに落ちてる世界なんて嫌だ。かと言って、バカ正直に説明するのも違う気がする。「勇者に嫌気が差したので、魔王になりたいんです。聖剣はパクりました」などと言って信じてもらえるわけがない。せいぜい、寝首をかくのだろうと思われるのが関の山である。と言うか、現に今そう思われてそうだ。

 冷や汗がダラダラと流れる。クレーム処理でもこんなに焦ったことはないだろう。

「もしかして……手土産か何かですか?」

 男がぽんと手を打つ。思わぬところで助け船が入った。

 聖剣、手土産、魔王……。ポクポクポクと頭の中で計算する。チーン。計算終了。

「ええ、そうなんです」とびっきりの営業スマイルを向ける。「魔王様に謁見するのに、手土産の一つもなしでは申し訳ないと思いまして。ここから南にある町の勇者を、ちょっとばかりボコってきたんです」

 後半は事実である。

 そうですか、と男は一瞬だけ透子に、疑惑とも違う、値踏みするような目を向けたが、すぐに元の柔和なダンディスマイルに戻った。

「わかりました。それでは案内いたしますので、離れないようについてきて下さい」

 そう言ってドアの向こうに招く男。透子は大人しくそれに従うことにする。

 門、と言うか城壁の向こうは、綺麗な庭園になっていた。花壇には色とりどりの花が咲き乱れ、微かにいい香りが風に運ばれてくる。庭園の中央には噴水まであり、透き通った水が絶えず溢れていた。魔王城と言うよりは、貴族の道楽と言った感じだ。

 イメージとのギャップは拭えないが、綺麗に整った生け垣などもあり、丁寧に手入れをされているのは理解できた。

「ただの自己満足なんですけれどね。毎日の手入れも大変ですし」

 前を歩く男が、苦笑する気配が伝わってきた。男からも、透子の視線がわかるはずもない。彼も気配を感じ取ったのだろう。

「でも、それが楽しいんですよ。次は何を植えよう、とか、ちょっと生け垣の整え方を変えてみようかな、とか。癒しってやつですかね」

 魔王城の癒しなど、「金! 暴力! 女!」みたいなものだと思っていた。透子、反省。

 この用務員(と呼んでいいのかわからないが)らしき男は、そこそこ幸せそうだ。魔王城と言ってもブラック企業ではないらしい。

「ほ~」

 城に近づき、透子の口から感嘆のため息がもれた。煌びやかさはないものの、どっしりと構えた姿から底知れぬ威厳や荘厳さを感じる。その上、無骨さはなく、どこかあか抜けた様は瀟洒とでも言えばいいだろうか。

 中世ヨーロッパを思わせる城から感じる威圧感は、まさに魔王の城と呼んで差し支えないものだった。ただ、やはり禍々しさは全く感じない。

「おっと、そっちじゃありませんよ」

 用務員に呼び止められ、透子はハッと我に返った。初めて見る城に見とれて、ついフラフラと近づいていたようだ。よく見ると、立派な扉には『無期限営業停止中』という張り紙がしてあった。

(……営業?)

 もうすでに透子は、この城に魔王らしさを期待していない。だが、どうしてもその二文字が気になった。何かの商売でもしているのだろうか。

「こっちです。こっちの扉」

 用務員が招いた先――城の端に小さなドアがあった。荘厳な城に対して、地味すぎるドアである。透子はぱっと見、物置か何かかと思った。

 そのドアノブに、用務員は手のひらを向ける。すると、手のひらが濃い紫色に光り、錠前が開くような音がドアノブから響いた。魔力的な何かで解錠したのだろうか。

(何だか、ようやくそれらしいものを見た気がするわね……)

 今まで見たものと言えば、金髪イケメンクソ勇者や抜けない聖剣、遺伝子操作で作れてしまいそうな牛馬や小鬼程度でしかない。人知を越えた超自然的な出来事に、どこか安心している透子がいた。

 地味な扉の先は、細長い通路だった。人二人がどうにかすれ違えそうな狭さで、長さは大体二十メートルほどだろうか。照明が少なく、やや薄暗い。だが、その薄暗さよりも何よりも、不気味なもの。

(魔法陣、ってやつかしら……)

 用務員の背中から視線を下げた先、廊下の床には、びっしりと謎の幾何学模様が書かれていた。何が書いてあるのかはわからないし、どういう意味があるのかもわからないが、不気味なことこの上ない。

 用務員が普通に廊下を歩いていくので、とりあえず踏んでも問題はなさそうだ。

 おっかなびっくり足を差し出す。後ろ手に扉を閉めると、鍵がかかる音が響いた。オートロックらしい。そのまま用務員について歩いても、少しめまいがした程度で、何もハプニングはなかった。

「さて」

 廊下の先の、これまた地味な扉。その前で、用務員は神妙な顔で振り向いた。自ずと緊張感が走る。

「ここから先は、魔王の部屋になります」

「え!? もう!?」

 短くて真っ直ぐな廊下一本しか歩いていない。もっと入り組んだ通路とか、貴族がドレスをひらめかせながら降りてきそうなデカい階段とか、そういうところは通らないのか。

「魔方陣の上を通ったでしょう? 一種のショートカット魔法です。それはともかく、魔王は一応それなりの身分の方なので、お客様とは言え無礼のないようにお願いします」

 客への礼儀は欠かさないまま、主への礼儀も忘れない。使用人の鑑である。だが、畑仕事の格好のままなのはいいのだろうか。

 透子がしっかりとうなずいたのを確認して、用務員は扉をノックした。

「魔王様、お客人をお連れしました」

 やや緊張感が混ざっている、ダンディボイス。今まで「魔王」だった呼称が「魔王様」になっている。透子は、会社の電話ではたとえ自分の上司でも呼び捨てにする、という決まりを思い出していた。

 返ってきた言葉は、魔王に相応しい、地獄の底から響いてくるような深淵を感じる声、ではなく、

「入りなさい」

 重苦しさなどまるでない、若者の声だった。

「失礼します」と一声かけ、用務員は扉を開ける。それに続いて透子も魔王の部屋(?)に足を踏み入れ、

「っ!? ギャアアアアアアア!! 犯されるうううううう!!」

 出迎えた豚の頭をした大男を、聖剣(鞘)でつい反射的に殴り飛ばしていた。二メートルは越えているだろう巨体が軽々と吹っ飛び、壁に激突、そのまま床にノビてしまう。

「きゅう……」

「弟よおおお!?」

「あんちゃあああん!」

 似たような姿形をした二体が泡を食って駆け寄った。

「ちょっと! 何なのよあれ!? 何なのよあれ!?」

 さすがに冷静さを失い、透子は用務員に詰め寄った。用務員は答えずに額を押さえ、ただただ深いため息をついた。

 透子が殴り飛ばした一体、そして駆け寄った二体、彼らは総じて豚の頭に人間の体。ファンタジーで言うところの、オークだった。

「あれってヤバい奴じゃないの! オークって言えば性欲の塊! 性欲の権化! 捕まったが最後、牢屋に繋がれて服を剥かれて体を縛られて、アヘ顔ダブルピースをするまでアンナことやコンナことをされるんでしょう!? エロ同人みたいに!」

「お、落ち着いて下ささささ!」

 襟首をガックンガックンと振り回されつつも、用務員は何とか透子をなだめようとする。

「だ、だって、あいつら私を犯……」

 わなわなと透子はオークたちを指差すが、彼らは部屋の片隅でまるで寒さに凍えるように、身を寄せ合って震えていた。あまりに情けない姿である。その姿にようやく冷静さを取り戻し、ざっと周囲を確認した。

 そこは、絵に描いたような玉座の間だった。少し大きめの体育館ほどの広さ。天井には典麗絢爛なシャンデリアが吊ってあり、石畳の上に幅広の赤絨毯が敷いてある。いずれも高値で売れそうだ。そして絨毯は、階段の上の玉座へとつながっていた。

 その玉座には、二人の人物がいた。その片方、立っていた方が口を開く。

「茶番はそのくらいでよろしいですか?」

 氷のように冷たい声だった。感情というものを全く感じない。

 やや髪の長い、若そうな男だった。やや細面だが整った顔。某クソ勇者と似た種類のイケメンだが、こちらは油断ならない人物だと、透子の直感が告げていた。武器は持っておらず、ローブのような少しだぼついた服を着ている。恐らく、武官ではなく文官だろう。

「いきなり部下を殴り飛ばすとは、なかなかユニークな挨拶ですね、ご客人」

 文官が、どこか冷ややかな目線を皮肉とともに投げてきた。その目には、どこかこちらを計っているような光もある。突発的な事故とは言え、第一印象は最悪らしい。

「失礼しました。ろくに教養も受けていないのです。少々家庭環境が歪だったもので」

 能ある鷹は、ではないが、ここは下手に出ておくべきところだ。まあ、あながち完全な嘘でもない。

 それよりも、と透子は目線を文官の隣に向けた。

「まあいいでしょう。さて、紹介が遅れました。私はホルガー・ディール。魔王様の補佐をしております。そしてこちらが――」

 ホルガーと名乗った文官が、隣の玉座に腰掛けている大男を手で示す。

「――このベルンシュタイン城の主、魔王アーダルベルト・ベルンシュタイン様です」

 まさに、魔王と呼ぶに相応しい大男だった。威圧感たっぷりの、鋭い眼光。人間の歳で言うと、五十歳くらいだろうか、厳つい顔に、口髭と顎髭を蓄えている。悪魔の王らしく、頭には立派な二本角が生えていた。

 体格は普通の人間より遙かに大きく、座っているのでわかりづらいが、恐らく身長は三メートルほどあるだろう。露出している腕や足などはもちろん、煌びやかな衣装の下からも、隠しきれない筋肉オーラが発せられている。ムキムキマッチョマンに違いない。

 その魔王が悠然と、泰然と、そして厳然と透子を見下ろしている。透子は改めて、自分が非常識な存在の前にいるのだと認識した。取りあえずその場で片膝を付いてみる。この世界では正しいのかどうか。

「先ほどは無礼を失礼しました。突然の謁見感謝いたします。私は、古迫透子と申します」

「フルサコ……?」

 魔王は微動だにしていない。首を傾げたのは隣のホルガーだった。魔王がデカいせいで、彼は少し小さく見える。

「まあいいでしょう。それで、貴女は何の用でここへ?」

 基本的な渉外は魔王に代わるのだろうか、ホルガーがそう尋ねてきた。

 そして、その質問は透子が待っていたものでもあった。

「はい、単刀直入に言います。……私を、この城で雇って下さい」

 それが、透子の考えてきた手段だった。ここで働きつつ経験を稼ぎ、隙あらばあの魔王の寝首をかいてやるわ。真面目に働いて出世? ははは、片腹痛い。

「なるほど、面接志願でしたか」

 などとコンビニ店長のようなことを言いつつも、ホルガーは懐疑的な目を向けてくる。いや、どちらかと言うと、値踏みされている感じか。透子が苦手な切れ長の目も相俟って、全くいい気分ではない。

「……何か?」

 不快さを顔に出さないよう、現世で鍛えられた営業スマイルを向けてみる。

 ホルガーも懐疑心を引っ込め、にこやかに微笑んだ。

「いえいえ、感心していただけですよ。上手く化けたものだとね」

 一瞬、その言葉の意味がわからなかった。だが、次の言葉で、透子は背中に氷を入れられた気分になった。

「貴女、勇者ギルドから来ましたね?」

「……そんなことはありません」

 表情を変えずに否定したが、相手はにべもない。

「あくまでとぼけますか。貴女は恐らく、スパイのような形でこの城に潜入し、魔王様を暗殺するつもりだったのでしょう。そもそも聖剣が手土産です、などと信じられるはずがありません」

 出来の悪い推理小説のように、ホルガーは朗々と言葉を紡ぐ。そして都合の悪いことに、透子はすぐにそれを否定できなかった。

(あながち、的外れって訳でもないのよね……)

 つ、と冷や汗が流れる。その一瞬の心の迷いは、ホルガーにはすぐに見抜かれたようだ。

「焦らなくてもいいですよ」

 したり、という顔を浮かべる。その顔は、今までの柔和なものではなく、どこか醜悪なものだった。

「私も――同じ目的ですから」

 言うが早いか、ホルガーはローブの下から短刀を取り出し、魔王の首へと当てた。魔王は大柄だが、座っているので十分にその凶刃は届き得る。魔王の顔は、驚愕に歪んでいた。

「は? え?」

 透子は訳がわからない。これはどういうことだろう。この文官らしき人物は、魔王の仲間ではなかったのか。

「難しいことはありません」透子の心を見透かしたように、ホルガーは言う。「私も、スパイとしてこの城に潜り込んでいたのです。魔王の側近になるまでには、長い時間と苦労を要しましたよ。ということで――」

 にっこりと、ホルガーは微笑む。

「――貴女の目的もこれで達成ですよ。何なら、手柄を譲ってもいい。これでも魔王ですからね。それなりに出世は見込めるでしょう。どうですか?」

 その問いに、透子はすぐに答えなかった。今まさに、目の前で正義が執行されようとしている。だが、それでいいのだろうか。

 手柄を譲ってもらえる。それが本当なら、町でイケメン勇者をしばき倒してきたが、それすら赦免されるかも知れない。

 だが、それでいいのだろうか。

「わ、私は……」

 出世できたとしても、勇者ギルドにいては面白くない。型にはまった正義などつまらない。そんなことがしたいのではないのだ。

 世界をムチャクチャにしたい。自分勝手な復讐を遂げたい。それはきっと、勇者ギルドなどにいては叶わないだろう。

「私は、その手を取れない」

 毅然と、それだけを言い放った。後悔はなかった。

 そもそも、透子はホルガーの行動を八割がた演技だと思っていた。ここで勇者として寝返ろうものなら、

「やはり裏切るつもりでしたか、死ぬがよい」

 などと短剣の切っ先がこちらを向くに決まっている。忠誠を試されているのだ。そうに違いない。

「ふふ、貴女の本気、よく伝わりました」

 と微笑むに決まっている。

「……そうですか」

 だが、透子の予想に反し、ホルガーはたちまちつまらなそうな顔になった。瞳に陰惨な輝きが灯る。

「なら、私は私の正義を執行するとしましょう」

 ホルガーが短刀を振り払うのに、躊躇いは見られなかった。

 え、と透子は思うより早く、魔王の首は体から離れていた。

 ボールのように、首が階段を転げ落ちてくる。透子の側で動きを止めたそれは、驚愕に目が見開いたままだった。かなりグロい。モザイクでもかけたいところだが、透子の目にはそんな便利な機能はない。ひ、と小さく悲鳴を上げ、透子は飛び退いた。

「さあ、魔王は死にました。あとは貴女たちです。せっかくなので、悪は全員皆殺しにしましょう」

 あっさりと、彼はそう言った。魔王の首をはねたという達成感や興奮。そんなものは一切感じない。書類仕事の最後のエンターキー。それを打ち込む瞬間でさえ僅かな昂揚が透子にはあったのに、目の前の男にそんな人間らしい感情は全くなかった。

 短刀を持ったまま、ホルガーが無表情で階段を下りてくる。玉座には、胴体だけになった魔王が力なく座っているまま。

(……ん?)

 その光景を見て、透子は違和感を覚えた。何かがおかしい。

「もう一度だけ問います」透子の前に立ったホルガーは、短刀の切っ先を透子に向けた。「考え直しませんか? もう仕える魔王はいません。意地を張っても仕方ないでしょう?」

 確かにそうだ。ここで逆らい続けたところで、魔王の二の舞になるだろう。なら、やはり勇者ギルドに戻った方がいいのではないか。何なら、後で改めて勇者ギルドを裏切ったっていい。などと――

「……ふざけんじゃないわよ」

 ――透子は考えなかった。

「私はね、あんたみたいな話し方をするやつが大嫌いなの。自分が正しい。自分こそが正義だ、みたいなやつはね。私はもう、そんなのに尻尾を振るのはうんざりなの。勇者? ちゃんちゃらおかしいわ」

 それは、全く合理的な判断ではなかった。抵抗はするつもりだが、間違いなく殺される。命あっての物種なのに。全く自分らしくない。

 妹と死別して、自分はどこかおかしくなってしまったのだと、透子は心の中で自嘲した。

「そうですか、なら死になさい」

 冷徹な声で言い、ホルガーが短刀を振りかざす。透子も聖剣を持つ手に力を込めた。

 殺らなければ殺られる。その透子の覚悟は、

「く、くく、あーっはっはっは!」

 不意に響き渡った笑い声によって霧散した。透子は驚いて振り返る。大声で笑っていたのは、透子を案内してきた用務員だった。いつの間にか、壁際のオークたちの側にいる。介抱していたらしい。

「いや~、っくく、役者だねえ、ふふ、あははは!」

「ええ、少し興が乗ってしまいました」

 答える声に、透子は前に向き直る。ホルガーが、短刀をローブの中に戻すところだった。

「な、何なの、どういうこと……?」

 混乱する透子の声に答えたのは、哄笑していた用務員だった。

「君を試させてもらった。悪いと思ったが、魔王様に話がある、なんていきなり言われて、こちらも素直に応じるわけには行かなくてね」

 ダンディボイスでそう説明し、用務員は透子に向かって歩いてくる。

「ちなみに」傍まで来ると、用務員は魔王の首を拾い上げた。「これは人形だよ。多少複雑な動きはさせられるけど、声が出せないんだ。おまけに血も出ない。まだ改良の余地があるね」

 その説明を聞いて得心が行った。そう言えば、あの魔王は一言も喋っていない。また、透子が覚えた違和感は、首を飛ばされたのに出血が一切ないことだった。

 そして同時に、この用務員の正体も悟った。

 その用務員は玉座に歩み寄る。そっとその体に触れると、未だ玉座にいた首なし魔王は、まるで空気が抜けるようにしぼみ、わら人形になってしまった。それを懐にしまい、用務員は玉座に腰を下ろす。

「紹介が遅れたね。僕がこの城の魔王、アーダルベルト・ベルンシュタインだ。驚いたかい?」

 用務員、もとい魔王はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「私の提案です。申し訳ありません」

 頭を下げるホルガー。そして、満面の笑みを浮かべた。

「ですが、あんな図体が大きいゴリラより、こちらの方がダンディで魅力的でしょう?」

 やや頬が上気してる。透子は無視して壇上の用務員、もとい魔王を見上げた。

「……人が悪いのですね」

「あっはは、まあそう言わないでほしいな。今日日、新聞勧誘だけじゃなくて、新手の詐欺も少なくなくてね。それに、僕は魔王だ。人が悪いのは当たり前だろう」

 話し方は全く変わらない。そして当然だが、用務員のような格好も。だが先ほどまでとは違い、どこか貫禄があるように透子は感じた。

「その格好も、私を欺くためでしょうか」

「いやいや、畑仕事をしようとしていたのは事実だよ。魔王っぽくなくて幻滅したかい?」

「そんなことは……」

 ある、が、口に出しても仕方ない。

「それよりも」透子はお茶を濁した。「私はここで雇っていただけるのですか?」

「ダメ」

「早っ!」

 即答だった。

「悪いけど、もう人手は足りてるんだよ。他を当たってくれるかな」

「そんな! 魔王城ということは、何百人も兵士がいるんでしょう? その末席でいいので――」

「いや、いないよ」透子の言葉を遮り、魔王は苦笑した。「この城の住人は、ここにいる五人と、別室にいる一人だけだ」

 まさか、と透子は疑った。魔王、文官、そして部屋の隅っこで震えているオーク三体、そしてここにはいない一人。たったそれだけ?

「ははは、びっくりしてるね。でも本当のことだ。この城は戦わない(、、、、)。だから、これだけで十分なんだよ」

「戦わない?」

「そう、詳しい理由は面倒だから説明しないけど、僕はラブ&ピース、平和主義者なの。この城でのんびり暮らしてるだけ。つくづく、魔王のイメージをぶち壊して悪いね」

 人を小馬鹿にしたような物言いだが、嘘をついている様子ではない。

 透子は、怒るより、呆れるより、まず何よりも失望した。

「なるほど」深いため息をつく。「話はわかったわ」

 透子の言葉から敬語が消え、魔王の眉がピクリと動いた。

「ラブ&ピース? ご立派ね。戦わない魔王? 素敵じゃない。素敵すぎて失望したわ。残念だけど今日日その設定は、ラノベ界じゃあ二番煎じどころじゃないのよ」

「らのべってのが何なのかは知らないけど、ずいぶん言ってくれるね。僕が怒って、君をつい殺っちゃう、なんて展開は考えないのかい?」

 とんでもない暴言だが、魔王は笑顔を崩さない。対する透子は大げさに鼻を鳴らした。

「そうされた方が、まだ魔王らしくて安心するわ。私にはもうね、失うものなんてないの。だからもう我慢しないって決めたのよ。やりたいようにやるし、言いたいように言わせてもらう。それで殺されちゃうなら、そこまでの人生だったってことだわ」

「いやはや、最近の若い子は怖いね」

 全く怖くなさそうに鼻をほじる魔王。その態度にも腹が立ち、透子はもう話は終わりとばかりに魔王に背を向けた。

「こんなところで働くなんて、こっちから願い下げよ。失礼させてもらうわ」

 捨て台詞以外の何でもないが、頭に血が上ってそれしか言えない。

 大股で扉に向かい――途中、縮みあがっているオークたちにガンを飛ばすことも忘れず――部屋を出ようとした、そのときだった。


「お客様ですか?」


 鈴を震わせたような、少女の声がした。

 恐らく、魔王が言っていた「別室にいる一人」だろう。

 透子は驚愕で目を見開いていた。その声に、聞き覚えがあった。

 まさか、と思いつつも恐る恐る振り返る。

「な、何でここに! 部屋にいるように言っただろう!」

 先ほどの余裕とは打って変わり、玉座から立ち上がって狼狽している魔王。だが、そんなことはどうでもよかった。

 玉座の側、その少女は立っていた。

「聞き慣れない声がしたのでもしやと思いましたが、やはりお客様ですね。来客があるのに、のんびりと寝ている訳には参りません」

 か弱くも、どこか威厳を含ませた声で、少女は言う。

「挨拶が遅れ、申し訳ありません。私はこの魔王の娘、エーファ・ベルンシュタインと申します」

 心臓が激しく波打つ。その鈴のような声を聞きたいのに、鼓動の音が邪魔をする。

 きっと夢だろうと思った。これが夢でなくて、何だと言うのか。

 違っているのは、ドレスを着ていることと、長い髪が銀色なことくらい。

 優しくも、どこか憂いを帯びた丸い目も、

 整っているが幼さを感じさせる可愛らしい顔も、

 まだ未発達で、触れれば折れてしまいそうなその華奢な身体も、

 エーファと名乗ったその少女は、透子の妹――詠香にうり二つだった。


「詠香……?」

「はい?」

 にっこりと微笑み、小首をかしげる・エーファ・。

 一瞬だけよろめき、透子はオークたちの方に足を向けた。心のぐらつきは、そのまま震える足に現れていた。オークたちは後ずさろうとするが、残念ながらもう壁際である。

 オークたちの側まで来ると、透子はその一体の頬を思いっきりつねりあげた。見た目より固い。

「いだだだだだだだ!」

「ラルド!?」

「あんちゃん!」

 痛がっている。超痛がっている。つまり夢ではないようだ。

(冷静に……冷静になるのよ……)

 オークから手を離し、ゆらゆらと頭を振る。

 そう、これは夢ではない。あそこにいるのは、詠香ではない。他人の空似だ。名前も似ているだけ。さっきは返事をしたが、聞き間違えただけに違いない。

 でも、と、改めて壇上の少女を見る。本当によく似ている。生き写しと言ってもいい。

 涙が出そうになり、透子は慌てて顔を拭った。

 ふう、と一息吐き、魔王と話していた場所まで戻る。そして数刻前と同じように、片膝をついた。

「こちらこそ、改めてご挨拶させていただきます。私は、古迫透子と申します」

「トーコさん、と仰るのですか。変わった格好をされてますね、ふふ」

 ころころと笑うエーファ。そこには、決して侮蔑や皮肉の色はない。ただ純粋に、珍しいものを見て笑っているのだ。

 その笑顔を眺め、透子は決心した。

 極めて真剣な顔を、心配そうにエーファを見ている魔王に向ける。

「お義父さん!」

「おとうさん!?」

 さすがに魔王も度肝を抜かれた。

「お願いします、娘さんを妹にくださ……じゃなくて、やっぱりここで働かせて下さい!」

「いや、君ね……」見るからに呆れかえっている魔王。無理もない。「さっき、さんざん僕のことをバカにしたじゃないか」

「そんなことはありません。あれは全て演技です。ラブ&ピース、素晴らしいと思います。私も愛と平和は大好きです。設定の二番煎じとも言いましたが、心優しい魔王モノは王道になりつつあります。王道は王道故に強いと、私は愚考致します」

「もの凄い手のひら返しだね、いっそ関心するよ。でもダメなものはダメ。ついでに言わせてもらうけど、君におとうさんなどと呼ばれる筋合いはない! ふふ、言ってみたかったんだよね、これ」

「そんな、そこを何とか! お父さん!」

「だからそう呼ばれる筋合いは……って、なんかイントネーション違わなかった? それはともかく、ダメだってば」

「お願いします! 味噌汁は得意ですよ!?」

「何のアピールだよ」

 よくわからない押し問答を続ける二人を交互に見やり、不意にエーファがぽんと手を打った。

「そういうことですか!」

 今まで、話がよくわかっていなかったらしい。

「いいじゃないですか、雇ってあげれば」

「エーファ!?」

 心底驚く魔王。

「女神様!」

 目を輝かせる透子。

「困っている方を見捨てるのは、義理に反するじゃないですか。ね、お父様」

「む……ぐぬぬ」

 娘に弱いのは、人間も魔王も同じなのだろうか、しばらくうんうんと唸り、魔王はため息をついて透子を見やった。

「仕方がない」

「では!」

「落ち着け。まあ正直、畑仕事だけでやっていくには、最近キツいと思っていたんだ。今までの貯金も減ってきているしね。ちょうど頃合いなのかも知れない。」

 その魔王の言葉を聞き、エーファが一瞬だけ悲しそうな顔をしたのを、透子は見逃さなかった。

 こほん、と咳払いをする魔王。

「この城には、地下にダンジョンがある。もう何年も使っていないから廃墟どうぜんだがね。君にはチーフとなって、ダンジョンを立て直してもらいたい。それで小金でも稼いでくれれば満足だ。その剣も、君が持っているといい」

「ま、待って下さい!」

 これに反論したのは、途中から傍観に徹していたホルガーだった。

「今日訪れた者に責任者など、唐突にも程があります! それに、ダンジョンの開放は、魔王様の主義に反するのでは!?」

 ぐうの音も出ない程の正論である。透子自身も、下っ端からだと思っていた。

「最後まで聞きなさい。確かに唐突だが、条件がある」

 ぴ、と魔王は指を立てる。

「条件……?」

 眉根を寄せる透子に、魔王は意地悪く笑う。

 こうして、古迫透子の第一歩がスタートした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る