第1話『殴り飛ばすОL』

                    ~第一章~


 目を覚ますと、透子は簡素なベッドに寝かされていた。今までもいい布団で寝ていたわけではないが、それに輪をかけて貧相だ。もはや敷き布団とは言えない。ただの布である。

「ここは……?」

 ゆっくりと体を起こす。寝ていた場所が場所だからか、体の節々が悲鳴を上げた。

 木の壁に木の床。ベッドもよく見たら木造だ。鉄筋コンクリートなど全く見当たらない。

 一昔前の学校みたいね、と透子は思った。例えるなら、今いる部屋は保健室だろうか。

(拉致された……?)

 それは当然の疑念だった。怪しい面接に怪しい面接官、そして謎の昏倒、おまけに見知らぬ場所と来た。状況証拠だけならば、満額払っておつりがくる。

「でも、何かを盗られてるわけじゃないのよね……」

 財布もあれば、電波はないが携帯もある。来ていたスーツもそのままだ。脱がされた形跡もないので、いかがわしいことをされたわけでもなさそうだ。

「やあ、お目覚めかい?」

「っ!」

 突如聞こえた声に、透子は無意識に身構えた。

 いつの間にいたのだろうか、一人の男が、ドアにもたれて立っていた。なかなかの二枚目だが、軽薄そうにも見える。ピンピンにとがった金髪も目立っていたが、透子にとっては何よりも、マントに甲冑というどこからどうみても勇者に見える格好が目に付いた。

「……レディの部屋に入るときは、ノックをするのが礼儀ではなくて?」

 軽口を叩きつつも、なるべく自然な動作でベッドから降り、すぐに動ける体勢を作る。部屋を見渡すことも忘れない。残念ながら、武器になりそうなものは見当たらなかった。

「ここはどこなの? 私はこれから何をされるわけ」

 半ば睨むようにしながら問いかけるが、勇者はニヒルな笑みを崩さない。

「ここはカルテルト大陸。その西の端さ。〝君たちの世界〟で言うと、いわゆる異世界ってやつだよ」

 異世界、と透子は反復した。

 そんなものあり得ない、と駄々をこねる子どものように現実を否定するのは簡単だ。だが、不可思議の一端はもう目にしてしまった。世の中には、自分の常識で計れないものもある、それだけのことだ。

 今までの固定概念を、透子は短い息とともに吐き出した。

 異世界の存在は納得した。だからと言って、今の自分の安全と、この目の前の男の信用とは別問題だ。

「そう睨まないでくれよ。警戒しなくてもいいじゃないか。せっかくの美人が台無しだよ」

 大仰な動作で、イケメン勇者は手を広げる。

「警戒するなって言う方が、ちょっと無理があるんじゃないの? そんな物騒なものを持っておいて」

 透子の険しい目は、イケメン勇者の腰と、そして左手に注がれた。

「ああ、これかい? はははは、勇者が聖剣を持っているのは当然じゃないか! ちなみに、こいつは聖剣ハープギーリヒ。僕の相棒さ!」

 声高々に、そしてついでに鼻も高々に、勇者は腰の獲物を抜きはなった。純金なのかメッキなのかは透子には知る由もないが、キンキラキンの刀身は、少なくとも透子には悪趣味に見えた。

「フフフ、そう物欲しそうな目で見ないでおくれよ」

「いやいや」

「代わりと言っては何だが、キミには勇者ギルドからこいつが支給されたよ。ま、僕の剣には劣るけどね!」

 ハープ何とかを鞘に納め、勇者は左手の一振りを透子に差し出した。

(わざわざ一言余計なのよ)

 心中で悪態をつきつつ、おそるおそる両手でそれを受け取る透子。ずっしりとした感触が、本物の剣であることを物語っていた。

「そいつは聖剣フェアラート。ま、気品も何もない、ただの剣さ」

 ハープ略とは違い、その剣の装飾はいたってシンプルだった。鞘も柄も金色を主にした装飾ではあるものの、宝石の類はガードの部分にサファイアのようなものが埋め込まれているだけ。だが、そのシンプルさに、透子は好感を覚えた。

 試しに抜いてみようとしたが、どれだけ力を込めても全く抜ける気配がない。ぐぎぎと粘ってみても、結果は変わらなかった。

「はぁ、ふぅ……ちょっと、全然抜けないんだけど。鍵とかないの?」

 そもそも鍵穴などないのだが。

 イケメン勇者はそんな透子を眺め、次第にプルプルと痙攣を始め、

「ク、ククク……アーッハッハッハッハハハハ!」

 その痙攣は大爆笑へと変わった。

(こ、殺してやろうかしら……)

 顔と腹を押さえながら笑う様は、まるでアメリカのホームドラマのようだ。その標的にされた透子に生まれた衝動は、全くもって仕方ないと言える。だが彼女もいい大人。殺意をぐっと抑え込んだ。

「ど、どうして笑われないと、い、いけないのかしら?」

 だが、ヒクつく眉と震える声は隠せない。勇者はそんな透子の様子は歯牙にもかけず、役者のように語り出す。

「勇者見習いのキミに、いいことを教えてあげよう! 聖剣は、ただの剣とは違う。聖剣には意思がある。それがどういうことかわかるかい? わからないだろう! 我々が道具を選ぶように、聖剣もその使い手を選んでいるということさ! つまり、鞘から抜くことさえできないキミは……ク、クク、プーッフッフッフッフ!」

 見た目はただの豪華な剣だ。その剣に意思がある。使い手を選んでいる。精霊崇拝(アニミズム)とはかけ離れた生活を送っていた透子にとって、そんな話は眉唾でしかない。だが、鞘から抜けないのは事実だ。やはり認めるしかない。

 そして、笑いすぎて引きつけを起こし始めた勇者を見て、自分がこの上なく馬鹿にされていることは、しっかりと理解できた。

「……よござんしょ。私に勇者の素質がないことはわかったわ。――それで、これからどうしたらいいのかしら?」

「おっと、そうだった。キミは〝こちら〟に来るのは初めてだろう? 面倒だが、少しこの辺りを紹介しよう。何もわからず、足手まといになっても困るからね。僕の後について――」

 嫌みたらしく言って、勇者が部屋を出ようとしたとき、不意に部屋の窓が音を立てた。見ると、一羽の鳩が窓ガラスをつついている。

「ああ、手紙だよ。キミたちの世界の……何だっけ? メール? みたいなもんはないからね。ま、そんなもんより、手書きの方が味があっていいと思うけどね!」

 またも嫌みたらしく言って、勇者は鳩を部屋に入れた。足に結ばれた筒から手紙を取り出し、何やら満足そうにうなずいている。ニタニタ顔が気持ち悪い。

 長く見てると毒になる、とばかりに透子は勇者の顔から目線を外し、ぼんやりと鳩を眺める。もちろん、「鳩や! 超可愛いやんけ!」などと思っているわけではない。彼女なりに、今までの情報を整理していた。

 まず一つ。ここはどうやら本当に異世界のようだ。そして自分は勇者になったらしい。非現実的極まりないが、来てしまったものは仕方がない。元の世界には、妹の遺骨くらいしか未練はない。そもそも、戻れるのかどうかもわからないが。

 そしてもう一つ。透子は〝この世界〟のことなど知らなかったが、この勇者は〝元の世界〟を知っているらしい。それがどの程度のものなのか。そしてどのくらい周知されているのか、少し調べる必要がありそうだ。

 不安がないと言えば嘘になるが、結局はなるようにしかならないのだ。

(何よりも、この上司が心配ね……)

 所在なさげな透子を無視し、勇者は部屋の隅にあった机で手紙を書き始めた。ただの部下ならまだしも、初対面である。もう少し気を遣ってもいいんじゃなかろうか。

「……時間がかかりそうね。先に外で待っていてもいいかしら」

 仕方なく、透子はそう言った。勇者の返事は、手をひらひらと振っただけ。その動作に対して深いため息を吐き、透子は聖剣片手に建物を出た。


 ギルドという名のボロ屋を出ると、そこは石畳の大通りだった。

(一昔前のヨーロッパみたいね。あるいはRPGかしら)

 立ち並ぶレンガ造りの家々や何かしらのお店を眺め、透子はそんな感想を抱いた。

 建物の奥には山々が見えているが、ここが田舎なのか都会なのかはわからない。ただ、大通りを歩く人々の数は少なくなく、露店からは呼び込みの大きな声が響いてくる。なかなかに活気のある町のようだ。

「田舎でがっかりしただろう?」

 手紙とやらが出せたのか、後から出てきたイケメン勇者が、開口一番そんなことをのたまった。甲冑や腰に下げた剣がにぎやかな音を立てる。ちなみに透子は、機能美に溢れるスーツでもさすがに剣を差すところがなく、仕方なく手に持っている。

 田舎だったのか、と思うよりまず、透子は僅かに眉をひそめた。もちろん、ムダにキンキラキンの甲冑に日光が反射したからだけではない。

「ここはギルドの中でも支部も支部でね。僕という逸材を眠らせておくにはもったいない。全く、不本意の限りだよ」

 本当に役不足なのだろうか、とはさすがに口には出せなかった。当然、正しい意味での〝役不足〟である。

 透子は第一印象から彼の人となりには疑問をもっていたが、どうやらそれは間違いではないようだ。道行く人々が透子たちを見ては、目を逸らしたりひそひそと小声で話したりしている。少なくとも、好意的には見えない。

「ま、ここで立ち話も何だし、町の外に行く前に食事でもしようか。こんな辺鄙な町だが、美味しい店があるんだ」

 そう一言余計なことを言ってニヒルな笑みを浮かべると、勇者は透子の返事を待たずに歩き出した。

 ガシャガシャとキンキラキンの甲冑をにぎやかに鳴らしつつ、勇者は大通りのど真ん中を歩いていく。自動車などはないようなので、特別危険はなさそうだが、大小様々な荷馬車は通っている(とは言え、荷車を引いているのは、牛と馬の中間のような、見たこともない生き物だったが)。だが、徒歩の人はもとより、荷馬車でさえも、勇者を見るなり道を譲っていく。モーゼの開海のようだ。

「フハハハ、快適だろう?」などと勇者は笑っていたが、その後を歩く透子は落ち着かないことこの上ない。針のむしろとは、こういうことを言うのだろう。

「ここだよ」

 勇者が足を止める。数分歩いただけだったが、透子にとってはとてつもなく長い時間に感じた。

 俯いていた顔を上げ、透子が目にしたのは、

「あら、ずいふんと人気があるみたいね」

 店の前に長々とできた行列だった。なるほど、店の方からは美味しそうな香りがただよってくる。

「だいぶん待たないといけないわね。ま、その分楽しみが後に……」

「はは、キミには何を言ってるんだい?」

 列の最後尾に向かおうとした透子を一笑に付す勇者。そして取った行動は、日本という国で生きてきた透子にとって、非常識極まりないものだった。

「そんな所で突っ立ってないで、キミもおいでよ」

 さも当然のように、勇者は列の先頭に立ったのだ。

「いや、でも……」

「ははは、何だいその、魔王が魔力弾を食らったようなアホ面は」

 鳩が豆鉄砲食らった顔、と同義だろう。

「まさか、馬鹿真面目に列に並ぶつもりじゃないだろうね。僕たちは勇者だよ? こいつらを守ってやってるんだ。このくらいの特例は当たり前だろう。文句ある奴はいるか!?」

 最後の言葉は、列に並んでいる人々、引いては道行く人々全てに向けられていた。だが、それに答えるものはおらず、先ほどのように目を逸らしていく。

(勇者は幅を利かせるのがこの世界の常識、というわけじゃなさそうね)

 文句がないのではなく、言えない。誰の目から見てもそれは明らかだったが、勇者はドヤ顔を浮かべているだけ。

 本来なら、列の割り込みなどという提案は、そのドヤ顔ごと切って捨てたい気分だが、一人で行動するにはまだこの世界のことを知らなすぎるし、この見るからに気分屋の勇者に刃向かうのは早計すぎる。

 情報の収集という目的も含め、

「……よござんしょ。なら、ご一緒させてもらおうかしら。私も勇者の端くれですものね」

 透子は悪魔の提案に乗ることにした。

 だが、それからたった数分で、透子は早くも自分の選択を後悔することになった。

 まず入店して一発目、席に案内したウェイトレスの可愛らしい小尻を、このイケメン勇者は思いっきり撫で回した。

「もう、相変わらずなんですからぁ」とウェイトレスは笑っていたが、その目には涙が浮かび、額には青筋が浮かんでいた。言葉から察するに、毎度のことらしい。

 そしてその食後の、注文を取る際。ここでも透子の憤怒ゲージを溜めることとなった。

「いつもの」

 常連ではあるようなので、勇者のその一言には、特に何も思わない。だが、

「えっと……いつもの、と言うと……」

「いつものって言ったらいつものだろ? そんなこともわからないのか?」

「で、でも、毎回召し上がるものが違うので……」

「だから何だ? いつものってのは、僕が食べたいものだ。それくらいわかるだろう」

 無茶苦茶な会話だった。半泣きだったウェイトレスの顔が、透子の脳裏によみがえる。

 結局、店側が選んだのだろう、魚介らしき料理が運ばれてきたが、「これじゃない」と一言で切って捨て、作り直させたのもポイントが高い。

 そして今――

「我々の仕事は、この町の治安維持、それだけさ! 楽なもんだよ! はっはっは!」

「あーそーですかーへー」

 透子と勇者は、食後の雑談としゃれ込んでいた。とは言っても、勇者が投げるボールを、透子が受け流しているだけである。キャッチボールにはなっていない。

 また、ただ会話しているだけならいいのだが、

「おい! 水! まあ何だ、超絶辺鄙な所だけど、仕事なんてあってないようなもんさ!」

 目の前に水差しがあるのに、わざわざウェイトレスに入れさせたり(もちろん、その際のセクハラも忘れない)、他の客のことを考えずに大声を出したりと、マナー違反の限りを尽くしていた。これまでの態度も数えれば、数え役満におまけがついてくる。

(我慢よ……我慢するのよ、古迫透子……)

 微妙な愛想笑いを浮かべながらも、つい目蓋がぴくぴくと動いてしまう。

 何かの肉料理を口にしたが、怒りを爆発させないように必死で、味など全く覚えていない。今も、コップを割らんばかりに握りしめることで、何とか自制心を保っているほどだ。

「えーっと、仕事があってないようなものって、この町は……その……モンスター? 的なモノに襲われることが少ないの?」

 モンスターという存在をどう表現するべきか僅かに逡巡し、結局そのまま口にした。

 透子の問いかけには、これからこなしていくべき仕事内容の確認という意味合いもあったが、話をすることで気を紛らわせる目的の方が強かった。

「そうだねえ……」勇者は僅かに考える素振りを見せる。「この町からほぼ真北に行った所に、魔王城がある」

「魔王城……?」

 陳腐な響きではあるものの、勇者となったらしい自分には無視できない単語に、透子は僅かに緊張した。魔王城と言うからには魔王が住んでいるのだろうし、その軍勢もいるだろう。勇者の言葉では、このギルドには自分も含めて二人しかいない。田舎と聞いたが、とんでもないものが存在しているではないか。

 だが、そんな透子を馬鹿にしたように、勇者は鼻を鳴らした。

「なに、構えることはない。そこの連中は腰抜けでね、全く悪魔らしい行動は起こさない。城に引きこもっているような連中だ。数年前……ああ、五年前だったか、この町を襲撃した記録が残っているくらいだ。ま、大したことはできなかったようだがね!」

 相も変わらず、勇者は大声で話し続ける。

「だから、魔王城のことは全く恐れる必要がない。なんなら、外の森に住んでる、野良魔獣や魔物、動物の方が厄介なくらいさ! ま、それもレベルの低い雑魚ばかりだけどね!」

 ガハハハと下品に笑う勇者。きったない唾が飛んでくるのを、透子は反射神経だけで避ける。勇者の一挙手一投足に苛立ちが募っていく。

「さ、さっき、守ってやってるって言ったわよね?」

 堪忍袋の口を必死で縛っているため、つい声が震えてしまう。手も小刻みに震え、コップに水の波紋が生まれまくっている。

「でも、今の話を聞く限りだと、あまり大した仕事があるようには思えないのだけれど」

 純粋な疑問だった。だが、その回答も透子はある程度予想していた。小さな事だが、守ってやってることには変わりない、などと。

 だが、帰ってきた言葉は、そのさらに斜め上を行っていた。

「はっはっは! 愚問だね! 我々勇者の存在そのものが町のためになっている。そうは思わないか!?」

 思わない。断言したかったが、すんでのところでその言葉を飲み込んだ。

 透子はこの世界のことなど何も知らない。勇者の存在そのものが、魔物を抑える抑止力になっている。その可能性も考えられる。だが、勇者の言葉に一瞬殺気立った店員や他の客の反応が、そうでないことを如実に物語っていた。

「……ご高説、ありがたく頂戴しておきますわ。もう参りましょう」

 至極丁寧な口調で言い、透子は席を立った。もう、この目の前のイケメンと話などしていたくなかった。ヨイショしたのがよかったのか、勇者は不満を口にせずに透子に従った。

 精算時に透子の分も払ってくれたが、

「いや~、後輩ができると、こういうところで気を遣わないといけないからね~。ま、これもデキる先輩のサダメだよね~。困っちゃうな~!」

 とこれ見よがしに言っていたので、尊敬の念はもとより感謝の念すら起きなかった。

「大丈夫、今までだって、大抵の理不尽は耐えてきたもの……今回も耐えられる。きっといつか慣れる……」

 上機嫌で歩く勇者の後を、自分で自分にブツブツと言い聞かせながら透子は歩く。

 この鈍感で馬鹿な勇者は気付くべくもないが、透子は完全に我慢の限界だった。幽鬼のように軽く俯き、口からはぼそぼそと呪詛のような独り言が漏れ、背中からは悪魔も真っ青のドス黒いオーラが立ち上っている。

 今までは〝勇者〟という存在そのものを避けていた町の人々も、今は透子を恐れて道を開けていた。

「我慢よ……もう少しだけ我慢するの……きっと慣れるから……そうしたら、今まで通り頑張れる……」

 逆に言えば、背後でこれだけ呪詛を呟かれているにもかかわらず、全く意に介さない勇者はなかなかの剛胆なのかも知れない。いや、気付いていないだけだろうが。

 ともあれ、透子はもう限界だった。水で例えるなら、もう表面張力でコップの縁より高い状態。とあるパチンコで例えるなら、もうクルーンが銀玉で溢れかえっている状態。

 あと五分でいい、五分でいいから、このまま何もなければここでも透子は適応できる。

 そう自分に言い聞かせつつ、耐えに耐えてきた堪忍袋の緒が、

「カァ――――――、ッペ!」


 ブツン、


 と音を立てて引きちぎれた。


「……………………やってらんないわ」

 ぴた、と立ち止まり、俯いたまま透子は呟いた。その呟きは、今まで透子が発してきたどんな言葉よりも、怨嗟とか憎悪とかいう真っ黒いもので染まっていた。

 大きくない、むしろ普段よりも小さいくらいの声量だったが、その声は大通りを歩く人という人の耳に届き、そのあまりの負の感情から、半径十メートル以内の音と動きを制止させた。

 もちろん、その範囲内にいた、気持ちよくタンを吐いた勇者とて例外ではない。

「え? 今何ドゥッフォ!」

 聞き間違いかと振り向こうとした勇者だったが、後頭部にこれでもかというほどの鈍器の衝撃を受け、数メートル吹っ飛んだ。

 宙を舞う姿はさながらチリカス。

 地面を転がる姿はさながらゴミクズ。

 無様に倒れ伏した姿はさながらボロ雑巾。

「ざまぁないわね」

 地面に転がった金ピカのボロ雑巾に、透子はまさにボロ雑巾を見るような冷酷な目で見下した(決して「見下ろした」ではない)。あるいは、ボロ雑巾の方がまだ多少の憐憫を込めてもらえたかも知れない。

「もし私がこの剣に認められていたら、今頃ここに転がっていたのはあなたの首だけだったわよ」

 吐き捨てるように言い、聖剣フェアラートを一振りする透子。刀身に付いた血を払うような動作だが、あいにく透子は鞘から抜くことはできない。

 つまり、ただの撲殺である。

「な……何で……」

 残念ながら死んでいなかった。気丈にも勇者は疑問を投げかけるが、プルプルと痙攣するその姿は、さながら生まれたての子馬とでも言えばいいだろうか。

 勇者は、本当になぜ自分が殴られたのかわからなかった。皮肉なことに、町の人間でさえ、その答えにすぐにたどり着けない。傍目には、変なカッコをした仲間であるはずの勇者が、突如その上司を殴り飛ばしたようにしか見えなかったのだ。

「なぜ殴られたかわからない? なら、それだけこの町が腐ってるってことよ」

 侮蔑とも取れる物言いだが、誰も、何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。なぜなら、透子も勇者だから。

 そんな腑抜けた連中に苛立ちつつも、透子は勇者だけに対して声を張り上げた。

「私はね、傍若無人な人間が大嫌いなの! 何でもかんでも自分中心に物事を考えて、他の人の都合なんて考えやしない。誰かが傷ついても何も感じやしない。ふざけんじゃないわよ!」

 怒りが有頂天に達したのか、殴っただけでは飽きたらず、透子は勇者に歩み寄って金髪の頭を踏んづけた。「今のあんたも大概……」と衆人の一人が呟いたが、透子に思いっきり睨まれ、泡を吹いて卒倒した。

「甘い蜜を吸ってるのはいつも自分勝手な奴ばかり! その割を食うのはいつも真面目で善良な市民なのよ! 卑怯者が得をする? 正直者がすくわれるのは足だけ? 冗談じゃないわ!」

 最早自分の愚痴になってきたが、それでも透子の怒りはとどまるところを知らない。終いにはその場(勇者の上)で地団駄まで踏み始めた。抵抗する気力も体力もないのか、勇者は踏まれるたびに潰れたカエルのような声を出しているだけである。

「世界を救う? 魔物を倒す? 馬鹿じゃないの!? 私たち下っ端が頑張ったところで、結局美味しい思いをするのは上の方だけなのよ! このクソ勇者がいい例だわ! こんな世界救ったって、私には何の得も……」

 ピタ、と透子の動きが止まった。

 自分の言葉を反芻する。今、自分は何と言った?

「――そう、そうよ、そうだわ! フ、フフフ、フフフフフフフ……」

 突如笑い出した透子に、衆人が二歩ほど引いた。ちなみに、勇者は頭を踏まれたあたりで白目を剥いていた。

「何で私が我慢しなきゃいけないの? 何で私が真面目に働かなきゃいけないの? もうそんなのクソ食らえだわ! ――私が傍若無人になってやる……私がこの世界をメチャクチャにしてやる! やられっぱなしでいるもんですか! 日本のOLナメんじゃないわよ! 私が――」

 失うものなんてもう何もない。

 今までの自分を捨てるつもりで……否、生まれ変わるつもりで、古迫透子は高らかに宣言した。


「――私が、魔王になってやる!」


 高々と、〝聖剣〟を天に向けた。

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