昨日のОL 今日の勇者

しろくろ

プロローグ


                  ~prologue~


「キミ、もう明日から来なくていいよ」

 朝一で唐突に告げられたそれは、まさに晴天の霹靂と呼ぶに相応しい一言だった。

 とある中小企業のオフィス。その窓際――部長のデスクの前で、古迫ふるさこ透子とうこの頭は真っ白になった。初夏だというのに、スーツに包まれた身体に悪寒が走る。

 は、と思わず透子は間抜けな声を出していた。

 部長の背後からは柔らかな朝日が差し込んできている。普段ならさわやかに感じるそれが、なぜか今は呆ける自分をあざ笑っているように感じた。

 その陽光に、部長の金縁メガネと脂ぎった頭が輝く。

「いやあ、私としてもこんなことを言いたくはないんだけどねえ。でも、さすがに何日も無断欠勤はいただけないねえ」

 残念そうな言葉とは裏腹に、部長の顔は頭と同じくらい輝いている。

「待ってください!」その輝きに負けじと、透子はデスクを両手で叩いた。「無断欠勤って何ですか! 私は確かに、忌引き届けを出したはずです!」

 まさに噛みつかんばかりに叫ぶ透子。しかし部長は動じない。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、両手を組む。

「忌引き届け? 。もうすぐ昇進だったのに、残念だったねえ」

 その粘着性の高い語尾にイラつきつつも、透子は全てを理解した。

「……そうか、あんた、私の昇進を恐れたのね。自分の地位を脅かされるから……」

 ギリ、と歯を食いしばり、デスクに叩きつけた両手を堅く握りしめる。

「さて、何のことだかねえ。私は受け取っていないと、そう言ったんだ。なあ、他のみんなも、私が届けを受け取るところなんて見てないよねえ!」

 部長が他の社員に、言葉を投げかけた。あまり広くないフロアからは「見てないッス」「古迫さんの勘違いじゃないの?」「ちょっと仕事ができるからって、無断欠勤はだめでしょ」などといった、呆れや嘲りを含んだ声が帰ってくる。

 このフロアに、自分の味方はいない。そう悟った瞬間、透子はめまいを覚えた。胸の奥からせり上がってくるモノを、吐き出さないようにするのに必死だった。

「私が……私が今までどれだけ……」

 ギリギリと唇を噛み、ようやくそれだけを呟く。目の前の部長が、そしてフロアにいる他の社員たちが、自分をニヤニヤと嘲笑っている。

「たかが部長に、そんな勝手が許されると思っているんですか」

 努めて冷静な声を出した。怒りで声を震わせないようにするのに精一杯だった。

 本来なら、このことをさらに上に訴えるべきだった。事実、この瞬間までは、そうするつもりだった。

 だが、次の部長の一言で、完全に我を忘れた。


「なあに、キミならどこでもやっていけるさ。キミの元から、


 そこから先は、よく覚えていない。

 覚えているのは、デスク越しに部長をグーで殴りつけ、会社を飛び出してきたことくらいだ。ああ、そう言えばマンションまでの道程で、カラスに糞を落とされ、犬の糞を蹴り飛ばしたか。まさに糞だり蹴ったり。はは、ケッサク。

 携帯電話には、会社――人事部長からの留守電が入っていた。「経理部長が、キミに殴られたと訴えている。同じ部署の者たちも間違いないと口を揃えている。詳しい話を聞きたいから、来てほしい」とのことだ。部長が泣きついたのだろう。何も間違っちゃいない。

(ざまぁないわね……)

 今思うと、部長の挑発に乗ってしまっただけかも知れなかった。人事に言ったところで、もうどうにもならない。殴った方と殴られた方、どちらの言を信用するかなど考えるだけ無駄だ。おまけにオフィス全員が敵。

 だが、もうどうでもいい。首を切られようと、殴ったことを訴えられようと。こちらから訴えを起こす気力もない。警察に捕まるなら捕まればいい。

 自暴自棄とはこういうことを言うのだろうと、こんなときでも自分を客観視することに辟易する。食事をしていないことも、自分の体がとてつもなく不潔なこともわかっている。

 だが、何もする気が起きない。

 古迫透子は、半死人状態だった。

 平日の昼下がり、世の社会人たちが汗水流して働いている時間である。だがこの妙齢の女性は、マンションの布団にうつ伏せで寝転がっていた。長い黒髪は乱れに乱れ、身につけているのは下着だけ。部屋に帰ってきて、スーツを脱いで、布団に倒れる。それが、三日前の透子の限界だった。

 もう三日、風呂にも入らなければ、食事もしていない。初夏の熱気に蒸され、髪が張り付いた額も、布団でひしゃげた胸も、しばらく機能を果たしていない足の裏も、いたずらに汗を流していくだけ。布団も自身も、香しいスメルを放っている。

 頭が痛い。こめかみの辺りを、脳内から直接殴られているようだ。おまけにめまいまでする。典型的な脱水症状だ。そう言えば、尿意の一つも怒らなかった。全て汗として出て行ってしまったのだろうか。

 生ける屍となってから三日間、怨嗟の声を吐き続け、もうこのまま死んでもいいとさえ思った。いつの間にか意識が暗転していたことも何度かあったが、それが睡眠なのか気絶なのかもわからない。何ならいっそ、もう目が覚めなくてもよかった。

(もう、がんばる理由なんてないもんね……)

 重い頭を動かし、卓袱台の上に置かれた写真立てに目をやる。写真の中で笑っている妹は、こんな自分を見てどう思っているだろうか。

(ごめんね詠香……私、何にもしてあげられなかったね……。私も、もうすぐそっちに行くから……)

 自分らしからぬ、弱気な考えが脳裏をよぎり、

「もう、死にたい……」

 もう何度目になるかわからない、ネガティブ発言をした、そのときだった。

「…………ん?」

 不意に聞こえた音に、透子は眉を顰めた。ドアの郵便受けから、一枚の紙が落ちてきた。乾いた音を立て、その紙は玄関にふわりと落ちる。

(ビラ……?)

 今はもう昼前。広告が届くような時間帯ではない。どこかの会社が、DMとして配っているのだろうか。

ご苦労さんね、と独りごちる。真面目に働いたところで、自分のように馬鹿を見る。正直者が救われるのは足だけなのだと、透子は身をもって痛感した。

(どうでもいいわ……)

 目を閉じ、頭の中を空っぽにする。事実、本当にどうでもよかった。もう死んでもいいとさえ思っているのに、今さら広告を見てどうなるというのか。

 しかし、なぜか意識を追いやることはできなかった。

 光の宿っていない胡乱な目で、もう一度広告を見やる。何が書いてあるのかは、ここからでは読むことはできない。

 気になった。なぜか無性に気になった。本当にどうでもいいはずなのだ。なのになぜか、今までにない好奇心を覚えた。まるで魔法でもかかっているかのように。

 もしこのまま死んだら、自縛霊になってしまうだろう。未練は当然「ビラが気になって」である。あまりにダサい。

 そう、これは自らの矜持を守るためである。死後の世界など知ったことではないが、成仏できないのはちょっと困る。何しろ天国に行かなくてはならない。

 空腹で思考が支離滅裂となりながらも、手足をゆっくりと動かす。三日間動かさなかっただけで、それらは鉛のように重かった。筋肉の麻痺によるものか、空腹によるものか、あるいは両方か。

 立つことなどできなかった。無様に這っていくしかない。だが、きっと自分にはお似合いだ。半死人が直立歩行してどうする。死に損ないは死に損ないらしく、ゾンビのように呻き声をあげながら芋虫よろしく地面を這いつくばればいい。

 フローリングの床がとても冷たく感じた。この冷たさは何かに似ている。冷たく、堅くなってしまった何かに。それを思い出しそうになり、透子は激しくえずいた。幸いにも、空っぽだった胃からは何も逆流しなかった。

 どうしてこんな思いをしてまで、あのチラシを取ろうとしているのだろう。わからない。どうでもいいじゃないか、という声は得体の知れないものにかき消された。義務感、使命感にも似た何かを透子は感じていた。


 そうしてようやく手に取ったこの一枚の広告が、自分の人生を変えるなどと、古迫透子はこのとき夢にも思っていなかった。


 何とかかんとか広告を手に取り、透子はそこに大きく踊っている文字を読んでみた。

「えーと」

 怨嗟の声を発し続けていたからか、声はすんなりと出てきた。

「なになに……『この世界に絶望したアナタ! 異世界の勇者になって、魔王を倒しませんか?』だって?」

 読んでいる途中から、自分の声が呆れていくのを、透子ははっきりと自覚していた。馬鹿馬鹿しい。あまりに馬鹿馬鹿しい。『この世界に絶望したアナタ』という一文が気になったが、それも一瞬だけ。

「ふ、ふふ……あっははははは!」

 可笑しくなり、大声で笑ってしまった。

「言うに事欠いて異世界!? 勇者!? はっ、ジョークもここまで手が込むといっそ尊敬するわ!」

 ご丁寧に、その広告には面接会場や日にち、持ち物などが記載してあった。まるでバイトの募集のような内容と、異世界や勇者の文字のギャップに、透子は笑いが止まらない。

 ひとしきり笑い、思いの外自分が元気になっていることに驚いた。何しろ三日も食事どころか水分さえとっていない。空腹どころか脱水症状だったのに、こんな元気がどこから沸いてきたのか。不思議に思ったが、何しろ断食など初めてだったので、そんなものなのかと無理やり自分を納得させた。

 もちろん、空腹感がなくなったわけではない。むしろ空腹感も汗の臭いも余計に感じるようになったが、そんなことは後回しだ。

 元気になると、ふつふつと怒りが沸いてきた。

「そうよ……そもそも、何で私がクビになって、あのセコい狸親父たちが甘い蜜を吸ってるの? ふざけんじゃないわよ!」

 一瞬で怒りのボルテージは最高潮に達し、手に持っていた広告をくしゃくしゃに丸め、思いきり壁に投げつけた。乾いた音を立てて空しく落ちる、広告だったもの。

 当然、透子の怒りが収まるはずもない。次は何に当たってやろうかと意気込んだが、全くいいものが見当たらない。何なら町中のガラスというガラスを割って歩きたいくらいに腹が立っているが、いざ冷静になってみると、やっぱり法には触れたくない。

 さてどうしたもんかと思案していると、ふと、くしゃくしゃになった広告に目が止まった。

「異世界に勇者に魔王、ね……」

 透子のイメージする、勇者や魔王だのの異世界は、そこまで近代化しているものではない。勇者が幅を利かせ、悪魔やモンスターだのが闊歩し、当然そこに警察なんていない。

「ふふ、ふふふふ……」

 イメージと違っているかも知れないし、そもそもこの広告がジョークやいたずらである可能性は十二分に考えられる。というよりも、異世界や勇者など全く信じていない。

 だが、元気にしてもらったお礼参りも含め、透子は行ってみることにした。

 まずは身支度を整えねばなるまい。空腹を満たし、清潔を取り戻す。いや、広告によると面接は三日後。まずは寝よう。そして、面接ならば正装がいいだろう。スーツをクリーニングに出し、シャツにもアイロンをかけねば。

 数年ぶりに感じる高揚感に、透子は笑みを浮かべるのを止められなかった。


                *     *     *

 

 市内の一角にある、ビジネスビルのワンフロア。部屋を借りたのだろうが、驚くべきことに、面接自体はきちんと行われていた。

 その面接会場は、異様な空気に包まれていた。いや、面接会場と言うより、その控え室が、である。

 あんな馬鹿な広告に釣られた馬鹿が少ないのか、それとも配られた広告自体が少ないのか、フロアの一室を利用した控え室には、十名弱の若い男女しかいなかった。

 まあそれはいい。普通は来ないから、人数が少ないのは不思議ではない。

 故に、ここにいる者たちは、皆一様に普通ではなかった。

「ありがとうございました……」

 生気のない声が聞こえ、面接をしているらしい部屋から、一人の男性が出てきた。ふらふらとした足取りで、そのまま控え室からも去っていく。目に光がなく、この後電車にでも飛び込まないかと心配になる。

「次、五番の方ー」

 面接室から男の声が聞こえ、五番のプレートを胸につけた女性が幽鬼のように立ち上がった。その目には、やはり生気が宿っていない。

 そう、面接を終えた者だけではなく、控え室にいる者まで全てが、異様な雰囲気を纏っていた。

 死んだ魚のような目で、イスに腰掛けている者。

 明日にもよからぬことをしでかすのではないかと勘ぐってしまうほど、目をギラつかせて立っている者。

 ぶつぶつと何かを呟きつつ、うろうろと歩き回っている者。

(なるほど、『この世界に絶望したアナタ』ね……)

 どっかりとイスに腰掛け、透子は腕と足を組んでいた。短いタイトスカートから、艶めかしいふとももが一際強い存在感を放っている。その足を組み替えると、数人の男の視線を感じた。「殺すぞ」という視線を返しておく。

 列になるでもなく、控え室で散り散りに待機している若者たち。彼らの異様な雰囲気を、笑うこともしなければ馬鹿にすることもしない。つい三日前まで、透子自身もああだったのだ。もしかしたら、今も同じような目をしているかも知れない。

(いや、だめね。平常心平常心……)

 深呼吸をして、心を落ち着かせる。

「次、六番の方ー」

 先ほどと全く同じ抑揚で、透子の番号が呼ばれた。

 最後にもう一度大きく息を吐き、透子は立ち上がった。その瞬間、妙な違和感を覚えたが、特に気に留めることもせず、透子は面接室のドアをノックした。


 面接室には、一人だけ面接官がいた。普通のサラリーマンと何も変わらない、どこにでもいそうな中年男性だ。七三分けにメガネと、逆に一周回って新しい。その面接官が、長机の向こうで座っている。

 長机を挟んで反対側に、ポツンと置かれたイス。典型的な、個人面接の配置だ。

「どうぞ、お掛けください」

 面接官に促され、透子はイスに腰掛けた。その刹那に一瞬だけ、視線だけで周囲の様子をうかがう。

 面接室には今入ってきたドア以外に出入り口はなく、面接官の後ろに窓があるだけ。特におかしいところはない。だが、またも違和感に襲われた。

(何だろう、何かがおかしい……)

 だが、それを悠長と探っている暇はなかった。

「早速ですが、面接に入らせていただきます」

 丁寧な口調だが、そこに感情はあまり感じない。

「まず、自己紹介と、今までの経歴を簡単に説明してください」

 普通なら、あまりされない質問だった。それもそのはず、この面接には、履歴書など何も持ってこなかった。受付では名前さえも聞かれず、番号のプレートを渡されただけ。

「はい、名前は古迫透子です。一週間ほど前まで、とある会社で働いていました」

 だが、透子は特に気にせず答えた。こちらも、あまり感情は込めていない。

「その会社は、自らお辞めになったのですか? それとも、リストラクチャリングでもされたのでしょうか」

「リ……」

 さすがに、透子は絶句した。質問内容がふざけている。失礼にもほどがある。面接とは言え、そんなことを聞くだろうか。

(試されているのかしらね)

 透子は冷静に試験官を見据える。能面のような無表情。そう振る舞っているだけなのか、あるいは本当に興味本位で聞いたわけではないのか。

(ま、どうでもいいわ)

 心の中で嘆息する。そして透子は口を開いた。

「リストラです。身内に不幸があり、忌引き届けを出したのですが、それが受理されておらず、無断欠勤という扱いを受け、クビを切られました」

「わかりました。他に親族の方はいらっしゃいますか。結婚をされているとか」

「結婚はしていません。両親とは幼い頃に……死別し、他の親類も、私が知る限りではいません」

「わかりました」

 驚くほど淡々と面接は進む。ただ単に、個人情報を抜かれているだけではないのだろうか、などという邪推さえしてしまう。

「では次です。あなたの、志望動機は何ですか」

 ようやくの、面接らしい一般的な質問だった。

(志望動機、ね……)

 勇者になって異世界を救いたいとか、魔王を討ち滅ぼしたいとか、そんなことを答えればいいのだろうか。だが、透子にとって、そんなことはクソくらえだった。

「もういいでしょう」

 そう言って、おもむろに透子は席を立ち、おどけたように両手を広げた。

「異世界? 勇者? そんなものあるわけないじゃないですか。とても気の利いたジョークですね。さあ、ネタばらしをしましょうよ」

「……つまり、あなたは、冷やかしに来ただけですか?」

 僅かに、面接官の声のトーンが下がった。

「冷やかしと言うほど、悪意はありません。広告の通り、この世界に絶望していた私に、こんなジョークで元気をくれたんです。お礼を言いに来たんですよ」

「なるほど……古迫さん、とおっしゃいましたか。面白い方ですね」

 初めて、面接官が笑みを浮かべた。どこか人を食ったようなその笑みに、透子は少しだけ警戒心を抱く。

 思えば、不自然な面接である。異世界などというあり得ないもので、小数とは言え人を釣る。会社なのか個人なのかはわからないが、この連中にメリットはあるのか。

(そう言えば……)

 先ほど覚えた違和感。その正体を、透子は唐突に掴んだ。

 四番の男性は、面接を終えたあと、この部屋から出てきた。

 五番の女性は、

 この部屋には、出入り口は一つしかない。三階の窓から飛び降りたわけもあるまい。

 じり、と透子は一歩後ずさった。嫌な汗が背中を伝う。

「どうしました?」

 不敵な笑みを浮かべたまま、面接官も立ち上がった。

「五番の女性は、どこへ行ったんですか」

「ああ、彼女は面接に合格したので、異世界へ行ってもらいました」

 言葉の前後、そのギャップが激しすぎる。

(バカにされてるのかしら)

 そう考えるものの、五番が消えた説明がつかない。だがあいにく、古迫透子は科学に支配された、現代社会の人間だ。はいそうですかと認められるはずがない。

「さきほども言いました。異世界や勇者、魔法なんてありえません」

「ふむ、あなたは異世界や魔法を信じていないと?」

「当たり前だのクラッカーじゃないですか。この科学にまみれた時代で異世界? 魔法? へそでティータイムできますわ」

「なるほど。では、三日間飲まず食わずの人が急に元気になっても、特に不思議ではないと」

 意味がわからなかったのは一瞬だけ。目を見開くと同時に、めまいを覚えるほど血の気が引いた。

「普通に考えるとありえませんよね。病院に行って点滴でも受けないと。しかし、魔法がかけられているとどうでしょう。例えば、手に取った広告に回復魔法が発動するようしかけられていたら。――ああ、そんなに怖い顔をしないで下さい。もしもの話ですよ」

「ああ、何だ、そうですよね~、もしもの話ですよね~」などと言えるほど、透子はバカではない。だが同時に、そんなことがありえるのかと疑っている自分もいる。

「この面接の、目的は何なの?」

「おかしなことを聞かれますね。きちんと広告に書いてあったでしょう? 勇者の採用試験ですよ」

 その勇者とはどんな意味なのか。こんな面接に来てしまった時点で、勇者様(笑)だが、その先に待つのは地下労働か人身売買か。

 後悔と焦燥で、心臓が早鐘のように鳴っている。だがその一方で、冷静な自分もいた。こういうときこそ落ち着かなければ。

「……悪いけど、この面接は辞退させていただきますわ」

 これ以上、ここにいてはいけない気がする。透子はその直感に素直に従った。

 面接官に背を向けないよう、慎重に後ずさりながら後ろ手にドアノブを掴む。だが、

「え? ちょっと……!」

 ドアはうんともすんとも言わなかった。鍵があるのは内側だ。なのに、鍵をどういじってもなぜかドアは開かない。

 いや、その表現は相応しくない。あくまでも透子の主観だが、壁と同化しているような感覚だった。

「心配いりませんよ」

 焦る透子に、面接官は手のひらを向けた。待て、のポーズだが、当然そうではないだろう。その手のひらに、透子は本能的な恐怖を覚えた。生命線が短いとかそういうことではない、未知のものに対する嫌悪感だ。

 このままではまずい、と透子は思った。

 自分は拉致される。この面接官は裏の世界の住人か、もしくは某国のエージェントだ。拉致されて薬漬けにされて、アレやコレやされてしまうだろう。エロ同人みたいに!

(そうは行くもんですか)

 人生には絶望していたが、他人に好き勝手されるなど冗談じゃない。

 相手は中年のおっさん一人。やってやれないことはない。

「怪我させたらごめんなさいね!」

 心にもないことを言い、透子は面接官に突進した。パンプスだが、そんなもので透子の研ぎ澄まされた体幹は揺るがない。

 長机の手前で跳躍し、右足を大きく振り上げる。面接官からはショーツが丸見えだろうが、目を奪われるなら好都合だ。そのまま脳天に踵を振り下ろす、脚力にものを言わせた必殺の飛び踵落とし。

 ヒールを七三に突き刺す。相手は怪我どころではすまないだろうが、自分が助かるなら知ったこっちゃない。

 と、透子は考えていた。

「想像以上の思い切りのよさ。武道も嗜んでいますか。そして魅惑的な黒。いいですね」

「……え?」

 七三分けは無事だった。怪しく光るメガネに、透子のショーツが映っている。どういう理屈かはわからないが、透子の体は踵を突き刺す寸前で静止していた。空中に。

「な、によ、これ……」

 もがこうとするが、それすら許されない。見えない蜘蛛の糸にでも捕まったようだった。ここに至り、透子の混乱は極まった。

 目を白黒させる透子に、あくまで面接官は冷静に告げる。

「胆力、行動力、洞察力、そして躊躇いなくネリチャギを放つ格闘技術と度胸、思い切りのよさがあり、こんな状況であっても自分を見失わない冷静さももっています。その上、眉目秀麗。天涯孤独で、気にする人もいない」

 向けられた手のひらが輝いたような気がした。

「古迫透子さん、この採用試験――合格です」


 全く、一切の抵抗もできないまま、透子は気を失った。

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