06⇔初めての湯浴み
シャワーのヘッドからは綺麗な水が流れている。
地下にある独房とは違って、地上の一階。奥の部屋にあるシャワー室へと連れてきたが、アルの手錠はしっかりと鍵がかかっている。そして、その錠は、アズウェルの腕についている手錠と繋がっている。
逃亡防止のために、二人の手首同士は錠で繋がれていた。
鎖は短く、擦れあう。
だから、必然的に二人の距離はほとんどなくて。たまに、肌と肌が触れ合ってしまう。火照った彼女の肉体は濡れていた。
「あっ、あっ、あああああっ!!」
「やっぱり……痛い、のか?」
お湯は傷にしみるはずだ。しかも、おびただしいまでの傷跡は全身に及んでいる。そっと、彼女の傷をいたわるように触ってみる。柔らかくて、それでいて弾力がある。なのに、こんなにも痛々しい。
「い、いいえ。ただここにきて、こんなの初めてで……ちょっと声がでただけです。痛いというより、やっぱり気持ちいいです……」
髪の毛や顎から滴る水は、彼女の肢体をなぞっていく。綺麗な形をしている胸をなぞって、へそまで。湯気のせいであまり見えないが、あまりじろじろ見るのも悪い気がして、後ろに回り込む。
初めて。
といったのは、恐らく本当だ。独房の中でみかけた水浴びできるもといえば、桶の一つぐらいなものだった。アレを使って毎日水浴びしていたのだろうが、きっと飲み水もかねている。
どのぐらいの頻度で水をもらえたのかは知らないが、貴重な水を無駄遣いしないために、水浴びをしない日もあっただろう。仮にできたとしても、真水。温かなお湯など浴びられるはずもない。
「温かくて、気持ちいい。このまま、いつまでも濡れていたい……」
シャワーの音に混ざって、鼻をすする音がする。
泣いているのかもしれない。
涙を流しても、ここなら分かりづらい。だから、好きなだけ泣いてもいいはずだ。こんな時だからこそ、泣いて欲しい。泣いたら、辛さのほんの少しでも和らぐ気がするから。そうすれば、自分の犯した罪も流れ落とすことができるような、そんな最低な気持ちになれるから。
「――私、エルフの集落から逃げ出してきたんです」
いきなり、アルは話を変える。きっと誰かに言いたくてしかたなくて、つい溢れてしまった言葉だ。そんなの、すくいあげるしかない。
「どうして……?」
背中の傷を見せながら、じっとアルは俯く。お互いに無言の時間が過ぎて、気まずい空気が流れる。何か喋ってやりたい。けれど、今はじっと待つ時だ。
言うのを躊躇っているってことは、それだけ大事なことだ。こちらがつついて、無理やりこじ開けてはいけない。
自分の意志で心の扉を開かなければ、きっと全開ではないのだろう。
こちらが半ば開けて、アルがばたん、と閉じれば、もう二度音心の核に触れられない。だから、いつまでも待ち続ける。だけど、
「自分の父親を殺したからです」
それは、思ってもない告白だった。
人間が、自分の肉親を殺したというだけで、かなりの衝撃を受ける。が、エルフ族が、同族を手にかけるというのを、アズウェルは聴いたことがない。
「私の母親は拷問されるみたいに、ずっと父親にひどいことをされてきました。私も人間に捕まった後と変わらないぐらいに傷つけられてきました。特にお酒に酔うと、すぐに手がでるような父親でした。そんな父親が……私はずっと嫌いでした……」
身体のあちこちについていた傷跡。
おかしいとは思っていた。明らかに数日、数か月よりも、もっと前につけられたであろう傷があったのだ。
初めてアズウェルと出会った時に見た、あの尋常でないほどの怯え方。
あれはもしかしたら、父親から日常的に虐待されていたことで、暴力というものを心底恐れていたのではないのだろうか。
「だけど、母親のことは大好きでした。魔法や弓矢の練習を毎日、ほんとうに……寝る時間を削ってやっていました。父親からは私という存在を認めてもらえなかったから、母親にだけは褒められたかった。そして、母親は私のことをまるで自分のことのように褒めてくれました。それが、本当に嬉しかった……。たとえ生き地獄を味わっていても、支えがあるから頑張れたんです。だけど……」
背を丸めるアルが、とても小さく見える。
小さすぎて、この世から消えてしまいそうになるぐらいに。
「母親はまるで自分のことのように褒めてくれていたんじゃなかったんです。自分のことだけを褒めていたんです。自分の娘のことを褒めることができている自分が偉い! ……そんな風に思い込んでいただけみたいだったんです。私のことなんて、ただの厄介者ぐらいにしか思っていなかったんじゃないんですか?」
「でも、自分の親だろ?」
こちらの言葉に、アルは微苦笑をする。
「自分の親だからです。ある日、父親の暴力がいつにもまして激しくて、本当に激しくて、このままじゃ殴られている母親が死んでしまう! ……そんな状況に陥ったら、どうしますか? 自分が娘だからとか、誇りあるエルフとして、私が殴られてしまったらどうしよう、とか、そんなどうでもいいことを考える暇もなく、助けると思うんです。私も、頭よりも先に手が動きました。滂沱の涙を流しながら、必死になって母親の盾になりました。そんな時に母親はどうしたと思います?」
分かる訳がない。
分かりたくもない。
だけど、アルは答えを言ってしまう。
「逃げ出したんですよ。……自分の娘を置いて」
アルは父親から暴力を受け続けてきた。
だけど、自分の大切な母親が命を落としそうになった。だから、恐怖の対象である父親に立ち向かった。
その勇気は一体どれほどのものだったのだろうか。
そして、それを最愛のものに裏切られた時の絶望感は、一体どれほどのものだったのだろうか。
「きゃー、とか小さく言って……。フフ。おかしいですよね。ああ、よかったよかった。これで私は殴られなくてすんだ。ラッキー、とばかりに逃げ出しました。あれには、流石の父親も一瞬阿呆然と立ち尽くしましたよ。私も、何がなんだか分かりませんでした。自分の親がまさかそんな行動をとるなんて思いますか?」
父親が怖かったのならば。
その場から逃げ出したいぐらい怖かったのならば。
せめて。
せめて、助けを呼ぶことぐらいはできたのではないのだろうか。自分の娘を助けるために必要なことは、身体を張るだけじゃない。それ以外の方法だってあった。
だけど、アルがそれを言わないってことは。
お湯を頭から被って熱いはずなのに、寒さに震えているように震えているってことは。
きっと、アルの母親は何もしてくれなかったのだろう。
自分のことだけが大切で、大切過ぎて、逃げ出してしまったのだろう。
「それから、背を向けた母親を射抜こうとした父親を、背後から魔法で殺しました。そうしなければ、私の母親は父親に殺されていたでしょう。だけど、そんな私のことを母親は同族殺しだと罵り、集落のエルフに自分の都合のいいようにねじまげた情報を報告し、みんなを使って私を殺そうとしました」
どんな理由であれ、父親殺しは真実。
ならば、咎人は罰せられなければならない。
たとえ、どれだけ理不尽な罰だとしても。
「……よく言うじゃないですか。『生きているってことは、他の誰かに必要とされているから生きているんだよ』って。お前が産まれてきたのは、望まれたからだよ。だから、この世にいらない奴なんていないって。――じゃあ、私のことを必要だと言ってくれる人はいったいどこにいるんですか?」
子どもを産むのは文字通り、命がけだ。
母体が死んでしまうこともありえる。
それだけのことをしても、生まれたての子どもをスラム街に置き去りにする母親はサラマンディアでも少なくない。サラマンディアが荒れているせいもあるけれど、だけど、きっとそれだけではない。
きっと、何も考えていないのだ。
産むことの責任の重さを理解できていない。
産んで、育てて、愛情を注ぐ。
それができない、子どものような大人がたくさんいる。それは、エルフ族も例外ではないのかも知れない。
ただ、話を聴いている限りでは、子どもだとか、大人だとか。人間だとか、エルフだとか、そういうちゃんとした枠組みに当てはまるような母親ではないようだが。
「自分のお腹を痛めて産んでくれた母親ですら、ほんとうはお前なんて産みたくなかった! 父親が娘を欲しいって言ったから、しかたなく産んでやったんだ! 感謝しろ! お前がここにいるのは、全部私のおかげなんだ! だから感謝しながら、私のために生きろ! って罵ってくるんです。父親は父親でずっと殴って蹴って暴力ばかり。『お前が悪い』が口癖ですね」
たとえ、どれだけ外に敵がいても、家に帰りさえすれば家族が味方してくれる。
そんな風に救われない人ほど、家族に依存する者は大勢いる。
外じゃ全く話さないのに、家に帰れば明るく笑って、家族を大切にし、そして大切にされる者は、逃げ場所があるからいい。
だけど、その逃げ場所がなかったとしたら。
外にも内にも、ずっと敵がいたとしたら。
……それはきっといつだって地獄のようなものなのだろう。
「……すいません。こんなこといきなり言っても、意味が分からないですよね」
「いいや、わかるよ」
後ろから抱きすくめる。
そうせずにはいられなかった。
同情ではない。むしろ、同情できた方がよっぽどよかった。残念ながら、そんなことできないほどに黒ずんだ生き方をしている。
「だって、俺も同族殺しの人殺しだからな」
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