第11話 新しい道

その日の夜、ナオから電話があった。

「ハル?こないだはややこしい時に電話したみたいでごめん。」

相変わらず冷静で優しい言葉をかけてくれる。

「ううん。こっちこそごめんね。」

「で、そっちは大丈夫だったのかな?タツヤくん、だっけ。」

ナオはやっぱり気にしてる。タツヤのこと。

「ああ。うん、まぁ。」

今はナオにタツヤの話をする気分にはならなかった。

これまでの状況が一瞬にして変わってしまったから。

私の気持ち云々よりも、ナオとタツヤの立場があまりにも違いすぎる。

これからニューヨークへ前途洋々に旅立とうとしているナオに対して、タツヤは仕事に失敗して退職においやられてしまった。

そんなこと、ナオには言えない。

タツヤのためにも言いたくなかった。

何も話さない私にナオは話題を変えた。

「実は、今週末、僕の両親がこっちに来るんだ。」

ドクン。

急に現実に引き戻される。

そうなんだ。

「もし、よかったら一緒に食事でもどうかなと思って。」

「あ・・・。」

思わず言葉に詰まる。

「いや、別に結婚前提で付き合ってるとかそんな風に紹介するつもりないよ。ハルの気持ちが定まってからそれは伝えるつもりだから安心して。」

そっか。

でも、今はナオのご両親に会う気分にもなれない。

ナオと私の見ている先は、既にずれが生じているような気がした。

かといって、ナオが提示したタイムリミットまでは、私も真剣に向き合うつもりできたわけだし。

その時は刻々と迫ってきている。

ナオの気持ちを無下に断るのもどうなんだろ。

それに。

タツヤは今職を失ってしまった。

もし、私がタツヤを選んだら?

結婚なんて、考えられない話だよね。絶対。

だって、タツヤにとってはそれどころじゃないんだもの。

例え、私のことを好きでいてくれたとしても。

そして、私にとっても。

だとしたら?

私が結婚することを目的に今動いているとしたら?

ナオを選べってことなんだろうか。

ナオとだったら、きっと何不自由なくやっていける。

私を愛して、守ってくれる。

幸せな結婚を望むなら、ナオ?

ずれが生じてると感じながらも、ナオを振り切れない自分を情けなく思う。

結婚って、そんな単純なものではないもの。

生活がかかってる。

だから、将来不安定な相手よりも安定している人を選ぶのが当たり前・・・だよね。

なんだか、必死に自分自信に言い訳しているような気がした。

「週末、いいよ。一度、ナオのご両親にご挨拶したいし。」

気がつくと、そんな返事をしていた。

「え?いいの?」

ナオは驚いていた。

ナオにとっても一か八かの提案だったんだろう。

「うん。だって、今度いつお会いできるかわからないんだもの。ナオにはお世話になってるし、ご挨拶して当然だよ。」

そう言いながら、無理に明るい声を出していた。

「・・・ありがとう。」

ナオは静かに言った。

ありがとう、って。

どういう意味なんだろう。

ナオはいつも、私の気持ちを思い計って動いてくれてる。

私の気持ちが揺れ動いてるのも、わかってて、全部受け止めてくれてるんだろうか。

でも、今の私には、それがとても辛かった。

もっと、ナオの正直な気持ちを吐露してほしい。

私に対する、不満や不安もぜーんぶ。

じゃないと。

私がどんどん腐っていくような気がする。

ナオの優しさに甘えて。

いつの間にか、私は優しいナオに、自分の気持ちを偽って話をするということができるようになってしまった。

それは、本当の自分じゃない。

だけど、それを知ってて、ナオは私を愛してくれるの?

結局、タツヤへの気持ちを引きずりながら、週末ナオの両親と会うことに決まった。

そんな返事をしたものの、よく考えたらナオの両親にはじめてお目にかかるわけで。

着ていくものはあるの?!

いざ、クローゼットを見渡すと、着古した普段着がずらりと並んでいた。

普段の私を!って見せるのもいいのかも??

だけど、やっぱりねぇ。

何事も最初が肝心なわけで。

ナオはいいとこのお坊ちゃんっぽいし、きちっとした服装で最初はお会いした方がよさそう。

かといって、買いに行く時間もほとんど残ってない。

誰かに借りる?

アユミ・・・

いやいや、これ以上アユミに迷惑かけるのはよくない。

妹のナツキ・・・

25歳のナツキの体型に、自分の体型が会うとは思わない。

間違いなく若作りしてるのバレバレ。

どうしよう。

ミユ・・・

に相談してみよっか。

なんとなく、これまでのこと、そしてこれからのこと、ミユに話を聞いてもらいたくなった。

こんな時間に電話なんかかけて大丈夫かな。

時計を見ると、23時だった。

とりあえず、携帯メールに送信してみる。

『ミユ、今から電話かけても大丈夫?』

しばらく待ってみるも、返信はなかなか来なかった。

もう寝ちゃったのかな。

15分が経過して、あきらめようとしたとき携帯が鳴った。

ミユからだった。

「ハルナ、ごめんごめん!子どもと一緒にうたた寝しちゃってたよ。」

「あ、こっちこそこんな夜遅くにごめんね。今は大丈夫なのかな?」

「大丈夫よ。旦那がもうすぐ帰ってくるくらい。」

「え?旦那さん、まだ帰ってないの?」

「そうよ、うちの旦那は残業ない日なんてないんだから。安月給なんだからしっかり働いてもらわないとね!」

そう言いながらも、なんだか楽しそうだった。

「で。どう?その後何か進展はあった?」

ミユは真面目なトーンで聞いてきた。

「それなんだけど。なかなかね。」

「ん。まぁ、ハルナの性格じゃ、そうそうはっきりとしたものを得るには時間がかかるとは思ってたけど、ちょっと遅くない?」

こうやってずばずばとはっきり言ってくれるミユの存在は、今までもこれからも私には必要だ。

「そうだよね。私もいい加減自分に嫌気がさしてさ。ただ、少しだけ変化はあったよ。」

「変化?」

「ナオとタツヤと二人で色んな話をしたし。で、実は今週末ナオの両親と会うことになっちゃって。」

「へ~!そうなんだ。」

ミユは驚いた声をあげた。

「ナオさんのご両親と会うの?」

「うん、そう。それでさ・・・」

「いや~、意外。」

意外??

「ミユ、何が意外なの?」

「だってさ、ナオさんのご両親と会うってことは、ほぼ決まりなんでしょ?私はてっきりタツヤさんの方にハルナは傾いてるのかなって思ってたからさ。」

そうなの?

「あ、ごめんごめん、話続けて。」

「いや、それで、もう週末まであまり時間ないんだけど、何着ていったらいいかなと思って。」

話を続けたものの、ミユの言葉に引っかかって着ていく服なんかもうどうでもよくなっていた。

「そうねぇ。やっぱり初めて会うわけだから、それなりにきちっとした格好の方がいいわね。ちょっとシャキッとしたワンピースとかある?」

「・・・だれ~んとしたワンピースならある。」

「だめね。で、週末って土曜に会うの?」

「うん。」

「じゃ、土曜日の朝に用意すればなんとかなるわね。」

「そうだけど。」

「一緒に買いに走ったげる。」

「え??」

「旦那も休みだし、子ども預けれるし。買いに走るのにそんな時間もかからないでしょ?」

そりゃそうだけど。

えー、申し訳ないよ!

「それに、会って、話もしたいし。一体全体ハルナの本心はどこにあるかってことを。」

本心・・・。

「ま、今日は遅いからゆっくり話聞いてあげれないけど、土曜の朝一、デバートで服用意してから、ご両親と会う時間までね!」

「あ、うん。ありがとう。ほんと助かる。」

「じゃ、また土曜日に。」

ミユと待ち合わせ時間を決めて携帯を切った。

ミユは、私がタツヤを選ぶと思ってた?

どうして、そういう風に思ったんだろ。

ん、まぁ、今そんなこと考えてもしょうがないか。

土曜日にしっかり話を聞こう。

それよりも、明日、タツヤに会ったら何を話すかを考える方が先だもんね。

ベッドにごろんと横になった。

タツヤは退職という道を選んだ。

その先は考えてのことだったんだろうか。

気づいたら、湖光と明かりの灯った部屋で寝てしまっていた。

一瞬目が覚めたけど、あまりに眠くてすぐに電気を消してそのまま眠る。

こんな状況でも寝れてしまう自分が少し情けなくもあり、そういう部分も人間必要よ、なんて肯定したくもなる。

それにしても、私の結婚への道のりはなかなか難しいものがあるわ。

結婚って。

私にはまだ時期尚早ってことなのかしら?

・・・おやすみ。


翌日。

結局タツヤに会って何を話すかまとまらないまま家を出た。

なんとなく早く目が覚めたので、いつもより2本早い電車に乗った。

ふぅ。

2本も早いと、結構空いてるもんなのね。

思わず目の前に空いていた座席に腰を下ろした。

携帯を広げる。

別に意味はないんだけど、電車に乗ると携帯を広げるっていうのが習慣になっちゃってる。

一通のメールが来てるのに気づいた。

開くとタツヤからだった。

タツヤの名前を確認した途端、鼓動が激しくなる。

『ねーさん、色々心配してくれてたみたいでごめん。俺、明日で退職するわ。今までありがとう。お元気で。』

・・・。

電車は鈍いブレーキ音をたてて停車した。

これだけ?

たった、これだけで終わり?

お元気で・・・って。

なんだかばっさり切られた感じ。

思わず胸が締め付けられるような痛みが走った。

それは、

それはいくらなんでもあんまりでしょう?

今まで張っていた緊張の糸がブチンと断ち切られたようだった。

どうして?

こないだは、一応、私のこと好きだみたいなこと言ってたじゃない。

その相手に、たったこれだけ・・・って?!

メールの内容を読み返すたびに、タツヤに声をかける気持ちが萎えていく。

結局、タツヤにとって私っていう存在はその程度だったのかもしれない。

私が、いくら何かを言ったとしても、タツヤの心に大してひびかないとしたら?

言っても無駄。

気づいたら、降りる駅に到着していた。

重たい足を引きずるようにホームに降り立った。

私は今何のために早く出社しようとしてるんだろう。

ばかみたい。

自分自身、何を浮かれてたんだろ。

思い上がりも甚だしいよね。

情けなくて、目の奥が熱くなる。

朝っぱらから泣いてるなんて格好悪い、悪すぎるって。

思いきり堅く目をつむって、気合いで涙をシャットアウトする。

更衣室で着替えて、職場に向かった。

タツヤの所属する部署の前を通る。

人気まばらなフロアに、タツヤは座っていた。

思わず足が止まる。

そして、ごくりと喉の奥がなった。

自分でも信じられないくらいの鼓動。

このまま心臓が止まっちゃうんじゃないかしら?

どうする?

フロアにはほとんど人がいないから、今だったら少し話ができそう。

だけど、私が話して何が変わる?

タツヤに何を求めてる?

険しい表情でパソコンに向かっていたタツヤが、ふいにこちらに顔を向けた。

「あ。」

思わず声がこぼれる。

タツヤは軽く会釈をして、またパソコンに目を向けた。

む、無視?

私とは話したくない?

そうはさせないわよ。

このまま、一人勝手に会社辞めさせるなんて、絶対しない。

急に妙な気持ちに突き動かされて、タツヤの前までずかずかと歩み出た。

タツヤはもう一度顔を上げる。

「おはようございます。」

タツヤは少し笑った。

たった数日会わなかっただけなのに、顔色も悪く、頬もこけたように感じた。

思わず、その頼りない姿を抱きしめたくなる。

握り拳にぎゅっと力を込めた。

「少しいい?」

タツヤはパソコンに顔を向けたまま言った。

「今は無理です。時間がなさすぎるから。」

そりゃそうだよね。

明日退職するんだもん、引き継ぐ仕事が山積みだもん。

わかってた。

だけど、最後にもう一度向き合いたかった。

この期に及んで。

そんな頑固な気持ちが私をその場から動けなくさせていた。

「じゃ、時間できたら教えて。」

今のタツヤの立場を考えたら、そんなこと言えるはずもないのに。

でも、言っていた。

このまま。

このまま終わりなんて、絶対いや。

タツヤはぼんやりと私の顔を見上げた。

そして、苦笑しながら、短く息を吐いた。

「何時になるかわかんないっすよ。」

「いいよ。何時でも。」

「またメールします。待てない時間だったら、遠慮なく帰ってて。」

タツヤはそう言うと、またパソコンに目をやった。

私はうなずいて、その場を離れた。

ごめんね。

タツヤ。

そこまでタツヤに覆い被さって、何を話そうとしてるの?

未だ何を話すのかすら決まっていないのに。

ただ、私は何時まででも今日はタツヤからのメールを待つ覚悟だけはできていた。

今日で最後かもしれない・・・。

時間は刻々と過ぎていく。

気がつくとお昼休みの時間が来ていた。

「ハルナ、今日お昼一緒にどう?」

席の後ろにアユミが立っていた。

久しぶりに見るアユミの穏やかな笑顔に思わずうなずいた。

何かが少しずつ変わっていってる。

私の周りだけでなく、私自身の何かも。

タツヤのことがあってから、アユミと二人でランチすることがなかった。

久しぶりに二人で向かい合って座る。

なんだかぎこちない。

アユミはそんな私の緊張をほぐすかのように、笑った。

「緊張しすぎだって。」

私も笑った。

「色々とごめんね、アユミ。」

「ううん。いいの、もう。」

アユミは運ばれてきたお冷やを一口飲んだ。

「で、タツヤとは話できた?」

私はうつむいたまま首を横に振った。

「そっか。なかなか時間とれなさそうだもんね。」

アユミは軽くため息をついた。

「で、ハルナは結局どうするの?」

「どうするって?」

「水口さんとは?」

思わず口をつぐむ。

「まだ気持ちがはっきりしない?」

はっきりしない?

「あれだけハルナがなりふり構わず心配している相手って今まで見たことなかったから、私はてっきり、もうタツヤに決まってるのかって思って・・・。」

なりふり構わず・・・?

「水口さんって素敵な人だもんね。正直私だったら、今のタツヤより水口さん選ぶかなぁ。」

アユミはあえて冗談っぽく笑った。

「あのさ、もしタツヤのこと私に気兼ねしてたら悪いなって思ったから今日はお昼誘ったんだけど、私、今ユウタと付き合ってるんだ。」

やっぱり。

「私もそうかなーって思ってたんだ。よかったじゃん。」

ようやく言葉が出てきた。

「別にタツヤとハルナの一件があったから、とかっていうんじゃなくって、なんていうか、すごくタイミングよくユウタと一緒に飲む機会があってさ。お互いに意気投合しちゃって。」

アユミは少し頬を染めて首をすくめた。

タイミング・・・か。

「ユウタが、ハルナってタツヤに惚れてるの?ってしつこく聞いてくるもんだから、私もいつも言葉につまっちゃうの。」

「え?なんで??」

「なんでって・・・本屋で会ったとき、タツヤのことものすごい勢いで心配してたじゃん。誰が見たってそう思うよ。」

「そんなにすごかったっけ?」

「ん、すごかったって。」

アユミは優しく笑った。

「だけど、別に嫉妬とか全くそういうの関係なく、一人の親友として、今のタツヤをハルナに勧めることは私にはできない・・・かな。」

目の前にに熱々のハンバーグが置かれた。

まだ火がついてるかのように熱いフライパン皿の上で、ハンバーグの肉汁が踊っていた。

「ユウタの話だと、タツヤ、まだ次の職場決まってないんだって。これから探すって言ってた。でも、タツヤも中途半端な年齢だし、辞めた理由が理由だけに、次探すのは難しそうだよ。」

そうだろうね。

少しずつ冷めていくハンバーグを見つめながらゆっくりとうなずいた。

「タツヤも相当参ってるみたいで、同期メンバーですらまだゆっくり話ができてない状態だって。皆心配してるよ。とりあえず、実家に帰るんじゃないかってユウタは推測してる。」

「実家って、どこだっけ?」

「福岡、だったかな。」

「そっか・・・。」

福岡か。

随分遠いな。

すっかり冷めたハンバーグにナイフを入れた。

「ハルナがタツヤとどんな話しようとしてるのかはわからないけど、タツヤは今相当に落ち込んでるし苦悩してるみたいだから、もしかしたら、ハルナが今まで知ってるタツヤじゃないかもしれない。これからどうなるかわからないタツヤにどうこうするより、私はやっぱり水口さんとの関係を大切にした方がハルナのためだと思うんだ。」

アユミが私を心底心配して言葉を選んでくれているのがわかった。

だけど、今はそんな心配が私には辛い。

私だって、自分の本心がどこにあるのか、どうしたいのか揺らぎに揺らぎまくってるから。

誰かに導いてもらうんじゃなくて、自分で答えを見つけたい。

「アユミ、ありがとね。」

「もちろん、最終的にハルナがどうするのかは決めたらいいと思うよ。タツヤを選んだとしても、水口さんを選んだとしても。ただ・・・」

「ただ、今の状況では水口さんを選ぶ方が幸せになれるって思うのよね?」

アユミは大きな目を見開いてうなずいた。

「きっと縁ある人とつながっていくんだろうね。でも、今の私にはどこにその縁がつながってるのかがまだわからないんだ。」

ハンバーグを口に入れた。

おいしい。

こんな状況ですらお腹が空く自分が結構好きだったりする。

「今日、タツヤと少しでも話せるといいね。」

アユミのその言葉のトーンもまた揺らいでいた。

私も揺らいだ心でそんなアユミの言葉を頭の中で反芻した。

タツヤと話せるんだろうか。

そんな時間、タツヤは私にくれるんだろうか。

その後、アユミとたわいもない話を久しぶりにはずませて、お店を後にした。

あと半日。

デスクに戻りパソコンを開く。

まだタツヤからのメールはない。

メールの受信を気にしながら、次から次へとわき出る仕事を一つずつ片付けていく。

不思議と仕事への集中力が高まっていた。

いくら仕事をしても、疲労も感じない。

別のところに神経が行ってるからかしら。

気がつくと、20時を回っていた。

久々に残業してるよな。

でも、まだタツヤからの連絡はなかった。

何時になるかわからない・・・って言ってたっけ。

今の私は、たとえ何時になろうとも、タツヤと会うことの方が大切だった。

職場の同僚がどんどん帰る中、私の机上は書類でいっぱいだった。

21時を回って、上司が私の前にやってきた。

さすがにこんな夜遅くまで女性社員を残業させるのに気がひけたらしい。

「おい、まだ仕事あるのか?」

本当は今やらなくてもいい仕事をやっていた。

「はい、あと少しだけ。きりのいいところまでやりたいんで。」

上司の顔をちらっと見て、またパソコンに向かう。

「でも、もう遅いから、明日に仕事回して早めに引き上げろよ。」

上司は優しい声でそう言うと、自分の席に戻っていった。

上司って時に不憫に思う。

私が残ってる限り上司は帰れないわけで。

心の中で上司に謝った。

時計を見る。

21時半が限界かな・・・。

タツヤとの縁もここまでってわけか。

長いため息をつきながら、どうしようもない寂しさがこみ上げてくる。

つながらない人とはそれまでなんだってわかってるけど、

もう一度だけ会いたかった。

私はまだタツヤに何もしてあげれていない。

タツヤには結局いつも助けてもらうばかりだった。

タツヤは実家に帰ってしまう。

そうなったら、きっともう二度と会えない。

そして、私は、ナオと結婚するんだろうか・・・。

その時、パソコンに『受信通知』が点灯した。

急いでメールを開く。

タツヤからだった。

間に合った?!

『まだいる?』

すぐに返信を打つ。

『いるよ』

『遅くなってごめん。まだ帰れないけど、今から少しだけ休憩とれそう。1階ロビーにどう?』

『了解』

私は慌てて机上を片付けてパソコンの電源を落とした。

上司は半ばあきれた顔で私を見ている。

「もう大丈夫なのか?」

「はい、遅くまですみません。お先に失礼します!」

私はそう言い終わらないうちに走っていた。

更衣室にも寄らず、制服のままエレベーターに飛び乗る。

久しぶりに息が上がってる。

誰も乗っていないエレベーターの中で一人呼吸を少しずつ整えていった。

私は・・・

タツヤと会って、何て言えばいいんだろ。

深呼吸をした。

エレベーターの扉が静かに開く。

さすがにこの時間にもなると、人気は少なかった。

ロビーに隣接する本屋も既にシャッターを下ろしている。

そのシャッターの向こうに少しうつむいて立っているタツヤがいた。

少しこけた頬。

手入れのしていない前髪。

よれよれのワイシャツにネクタイが無造作に首に巻き付いていた。

タツヤって、こんなだったっけ。

近寄りがたいその雰囲気に思わず足が止まる。

魂が抜けてしまったようなタツヤの姿は、私の知らないタツヤだった。

立ちつくしている私の方に、ゆっくりとタツヤの視線が向けられた。

タツヤの口元がわずかに緩んだように見えた。

「おつかれさん。」

タツヤは壁にもたれたまま、力のない声で言った。

私は右手を挙げてその声に応えた。

そして、タツヤのそばまでゆっくりと歩み寄った。

「遅くまで残ってたんだね。」

タツヤが私を見ずに言った。

「うん。」

私はうなずいた。

何も言えない。

言葉が出てこない。

しばらく二人の間に沈黙が続く。

「もう誰かから聞いたかもしれないけど、俺実家に帰るよ。」

タツヤは静かに言った。

「実家でどうするの?」

「まだ何も。」

「そう。」

私はタツヤと並ぶようにして壁にもたれた。

「ねーさんには色々と世話になったよね。こんなしょうもない後輩の相手してくれてありがとね。」

どうしてそんなこと言うの?

お世話なんてしてないし。

しょうもない後輩だなんて思ったこともない。

あふれそうなほどの思いが胸の奥にうずまいているのに、そこから先が蓋をされてしまったように何も出てこない。

「ねーさん、幸せになんなよ。」

タツヤは私の目を見つめた。

目の奥が熱い。

いやだ。

そういうこと言ってほしくない。

「ねーさん、まだ着替えてないじゃん。もうこんな時間だぜ。早く着替えてこいよ。」

「え、でも。」

「わかってるって。ねーさんの気持ち。最後まで見捨てないで心配してくれて本当に嬉しかった。」

涙があふれそうだった。

「いつもは口やかましいねーさんが、今回のことでは何も言わないでいてくれたことも感謝してる。」

タツヤは右手を私に差し出した。

「握手しよ。」

ためらう私の右手をタツヤはさっと握った。

温かくて厚い手。

私の知ってるタツヤの優しい手・・・。

「元気で。」

もうだめだった。

握られた手に視線を落としながら涙があふれて止まらない。

「もう行けよ。俺、後から上がるからさ。」

私の涙に気付いたのか、タツヤは私の手を離した。

私は促されるままエレベータに乗る。

タツヤが笑って言った。

「終電乗り遅れんなよ。今日は送っていってやれないからな。」

そして、エレベーターの扉は静かに閉まった。

更衣室に入るまで、ずっと涙が止まらなかった。

結局、私は何のためにタツヤと会ったんだろう。

逆に私が慰められているみたいだった。

何も言えなかった。

タツヤの姿は、私の知ってるタツヤじゃなかった。

だけど。

このままタツヤと離れてしまうことに言いようのない恐怖に似た感情がわいていた。

どうなるんだろう。

私は。

その翌日、タツヤは退社した。

とても静かに。














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