第10話 失意
こんなんじゃ、アユミにまだ何も言えない。
ミユにも、相談すらできない。
結局、私の状態は、ミユに会う前となんら変わりなかった。
こんなにも、変わらないってことは、やっぱり私が選ぶべき人はナオなんだろうか。
こうやって、自問自答してること自体不自然なわけだけど。
煮え切らない自分にいらいらだけが募る。
無駄に過ぎてく時間。
日曜日。
ナオとドライブにでかけた。
ナオからの提案で、郊外にある自然公園へ。
今は人混みよりも、こういう場所の方が落ち着いた。
相変わらずナオの選択は、いつも間違いがない。
「たまには、こういう場所もいいかなって思って。」
ナオは、広い芝生の上に寝転んだ。
「そうだね。気持ちいい。少し紫外線が気になるところだけど。」
冗談ぽく首をすくめて笑った。
「でも、紫外線って、人間にとっては悪いことばかりでもないらしいよ。」
ナオは笑いながら答えた。
「女性にとっては大敵の何物でもないよ。」
私はナオの隣に寝転がった。
「体を丈夫にしてくれる要素もあるんだってさ。当たりすぎはよくないけど、適度に当たるのは人間にとって必要なことって、誰かが言ってた。」
「ふうん。」
この世には無意味なものは何もないってことか。
太陽光線から目を守りながら、その暖かさを感じていた。
「赴任する日が決まった。」
そんな私にナオは突然切り出した。
思わず身を乗り出して、ナオの顔をのぞき込んだ。
「え?いつ?」
「ちょうど一ヶ月後。」
「え?そんな急なの?場所・・・は?」
「ニューヨーク。」
ニューヨーク・・・。
すご。
映画でしか見たことがない、巨大な摩天楼が頭に浮かんだ。
そんな世界で、ナオは渡り合おうとしてる。
自分には決して真似できない、
それに、真似できる人だって、選ばれた一握りの逸材だけだよね。
尊敬の何ものでもないよ。
私にはあまりにも広すぎる世界。
「それでさ。」
ナオは言葉を選びながら話し出した。
「もし、ハルの気持ちが僕とのことを前向きにとらえてくれてるのなら、赴任前に一度両親に会ってもらいたいんだ。」
ドクン。
急に心臓が大きく脈打った。
このドクンは、どういうドクン?
選択を迫られている。
もう時間がないんだ。
すぐに返事ができない自分に、心の中でため息をついた。
「まだ、早かったかな?」
ナオの声は珍しく頼りなげだった。
ナオの顔は見れなかったけど、きっと前みたいに不安そうな、そして寂しそうな笑みを浮かべてる。
その顔は私の気持ちを引きずっていく。
「ごめん。なんだかあまりにも急な話すぎて、自分の気持ちが付いていってないかも。」
そう言うのが精一杯だった。
「そっか。」
ナオは、そのまま何かを思い詰めたような表情で空を見上げた。
「いずれにせよ、赴任前に一度そういう機会を設けたほうがいいかも。」
ものすごく機械的にしゃべってる私。
本当にこれでいいの?
私にもう迷いはないの?
「急なんだけど、もし、ハルさえよければ来週末どうかな?たまたまうちの両親がこっちに来るんだ。」
って、え~?!
いきなり来週末?
さすがに動揺を隠せない私。
「う、うん。ちょっとまた予定みとく。心の準備っていうのも必要でしょ?」
「確かにそうだよね。じゃ、もし都合が合ったら連絡もらえるかな?」
「わかった。」
緑の芝生を眺めながら、一瞬にして現実に引き戻されていた。
歯車が回り出したってこと?
もしそうなら、その歯車にのっかれってことなんだろうか。
結婚を前提におつきあいしているのに、未だに煮え切らない自分。
寂しそうに私の手を離した、タツヤの横顔が頭から離れなかった。
もう少し、
もう少しだけ、タツヤと話していたかった。
そしたら、私の中の何かが、動き出していたような気がする。
その時間が持てなかったことも、あるいは、タツヤとの縁の薄さだったの?
もっと若い頃は、自暴自棄なくらい、自分の意志で色んな挑戦をしていた。
それで失敗しても、その失敗を糧に次へ進む力がと余裕があった。
だけど、最近の私は、歯車にのっただの、縁だの、運命だの・・・。
自分の意志とは別次元の神がかったものに身をゆだねる傾向にあるよね。
ミユの言う、「これだ!」っていう決定打って本当に存在するだろうか。
それは、自分の意志だけで獲得できるものなんだろうか。
30を過ぎてから、自分の判断にすっかり自信をなくしてる。
こんなんじゃ、幸せな結婚なんてできやしない。
皆、どうやって結婚なんていう恐ろしい決断を下してるの??!
そんな優柔不断な気持ちを抱えながらも、夜になるとナオの胸に抱かれていた。
ただ、最初に抱かれていた時とは違う、体の違和感を少し感じていた。
今、自分の中にある不安感から来るものなのか、もしくはタツヤの影響なのかはわからなかったけれど。
「なんだか元気ない?」
全てが終わった後、ナオは私の髪をなでながら聞いてきた。
「そうかな。」
そうだってわかってるのに、白々しく応えた。
「やっぱり僕の両親に会うことに、まだ抵抗がある?」
ナオは子供を諭すような優しい声で言った。
「そんなことはないよ。せっかくのいい機会だし。」
「じゃ、別のことで何か悩んでる?」
「・・・。」
「ひょっとして、結婚のこと?」
ナオの手が一瞬止まった。
今、ナオに正直に伝えるべきだろうか。
でも、もし伝えてしまったら、ナオはどう思うだろう。
ここまで親密になっておいて、それはないだろうって軽蔑するかもしれない。
どうして、もっと早く相談してくれなかったのかって怒るかもしれない。
もし、ナオと結婚するんだったら、そんな話しなきゃよかったって私が後悔するかもしれない。
しばらくだまっている私の手を、ナオはそっと握った。
「一人で悩まないでほしいな。」
「え?」
「結婚、まだ決めきれずにいるんだろ?そんなことくらい、ずっとハルの態度見てたらわかるよ。」
思わず胸がきゅっと痛くなる。
ずっとわかってた?
なのに、あんなに優しく抱きしめてくれてたの?
「図星・・・か。」
ナオは私から目をそらして遠くを見つめた。
そして、天井を見上げてゆっくりと息を吐いた。
「急がせすぎちゃったかな。結婚前提だなんて。」
もう一度私を見つめた目は、心なしか潤んでいるように見えた。
もし、タツヤという存在が私の前にいなければ、迷わずナオを選べていたんだろうか。
タツヤが、あんな意味深な言葉を私に言わなければ、こんなにもタツヤのことが気にならなかった?
全部タツヤのせいにしてる自分が嫌だった。
ナオの目を見つめながら、自分自身の不甲斐なさに涙があふれてきた。
ナオは私の涙を手でぬぐい、顔をそっと抱きしめた。
今、何を考えてるんだろ?
ナオの胸の鼓動を聞きながら、本当は聞きたい一言を聞けずにいるような気がした。
「僕は、ハルを全身全霊で守るよ。どんなことがあっても。だから、今もこれから先も信じてほしい。僕はそれだけの覚悟を持って、あんなに早くからハルにプロポーズしたんだから。」
ナオは静かに、真面目に言った。
こんなにも、誠実で揺るぎない愛を注いでくれるナオに、結婚相手として何一つ過不足な部分は見当たらない。
見当たらないのに、いつも自分の中に違和感を覚えるのはなぜ?
安心しきって身をゆだねられないのはなぜ?
ナオの胸に抱きしめられながら、頭の中はとても冷静だった。
そのとき、ナオが言った。
「ただ、ハルの気持ちに揺らぎがあるなら、僕の決意も揺らぐ。」
「え?」
「結婚はお互いが、信頼しあえて、揺るぎない決意の元でしかできないものだと思うから。どちらか一方が、少しでも気持ちに揺らぎがあるなら、その結婚はうまくはいかないって思うんだ。」
ナオは薄明かりの中で優しくほほえんだ。
「だから、ハルも遠慮なく正直な気持ちを僕に伝えてくれたらいいんだ。結婚はどちらか一方に少しでも迷いがあっちゃ前には進まない。そういうものだから。」
私は黙ったままナオの顔を見つめた。
「その時は、」
ナオは私から目をそらした。
「ハルの気持ちに迷いがあるなら、僕はハルの気持ちを尊重するよ。」
言い直したナオの言葉に、揺らぎを感じた。
自分の気持ちを抑えてる。
私のために。
「ナオ。」
「ん?」
「もう少しだけ、私に時間をくれる?」
「もちろん。」
「私って、昔から気が焦ると、どうしても落ち着いて自分の気持ちを見つめられない傾向があるんだ。」
「じゃ、僕からもお願いがある。」
「何?」
「タイムリミットだけ決めさせてほしいんだ。」
「タイムリミット?」
「じゃないと、僕もいつまでも待てるほど気持ちに余裕がないし。」
ナオは少しだけ笑った。
「ハルが焦らない程度の時間ってどれくらい?」
こういう決断は、あまり時間がありすぎても、余計決まらなかったりするんだよね。
「じゃ、ナオが赴任する直前まで。」
「了解。」
ナオは、笑った。
ナオは優しい。
いつも私を優先にして考えてくれる人。
本当に申し分ない人。
でも、きっと結婚って、それだけじゃだめなんだ。
ふと、私の中でそういう思いが生まれた。
ナオの言うように、お互いが同じように相手に思わないといけない。
私はまだ、ナオが私を愛してくれてるほど、愛を感じていない。
感じていないというよりは、その愛を自分の中に気づけない。
決定打が、まだないんだ。
それは、タツヤに対しても言えること。
あと一ヶ月。
自分の中に決定打が生まれると信じて、真剣に向き合う時間。
無駄にできない。
ナオのためにも。
タツヤのためにも。
そして、アユミのためにも。
新たな気持ちで、次の週を迎えた。
自分の中で、何かが動き始めたような気がする。
今までどーってこともなく過ごしていた日々の大切さを身にしみて感じる。
それは、一つ一つのことを丁寧に見つめること。
人との付き合い方。
仕事への向き合い方。
誰かに思いを伝えること。
目に映るものに感じる心。
すべてのことを、おざなりにしてきたツケが今の自分を苦しめていることに気づき始めていた。
そんなさりげない日常だからこそ、もっと大切にしなければならなかった。
そうじゃないと、きっと後戻りできないほどの後悔をすることになるってことも。
一日一日丁寧に向きあうようになってから、しばらく平穏な毎日を過ごしていた。
そんなある日の朝、タツヤの部署の前を通ると、皆が険しい表情でせわしく動いていた。
こんな朝からばたついてるってことは何かあったのかしら?
肝心のタツヤの姿はそこにはなかったけれど。
気になりながら、自分の席についた。
ふと上司とその前に座る部下の話し声が耳に入ってきた。
「となりの部署、やらかしちまったみたいだぞ。」
「え?」
「ようやくとりついだ上海のお得意先に、でっかいポカミスやらかしたみたいでえらい騒ぎみたいだ。」
「どんなポカミスですか?」
「なんでも、上海の別の取引先の内々の契約書を、間違えて得意先の方に送っちまったらしい。内々だけに内容も他社には知られるとまずいデータが入っていたらしくってさ。これは部署だけじゃなくて会社として問題になってくるな。」
「そんなミス、新入社員でもしでかしたんですかね?」
「いや、それがそうでもなくてさ。俺も見込んでたやり手の若手だったんだけどねぇ。あいつも相当窮地に陥ってるはずだ。どうしてあんなミスやっちまったんだろうな。」
その話を聞きながら、背筋に冷たい汗が流れていった。
嫌な予感がする。
まさか、
まさかタツヤってことはないよね?
そのミスおかしたの・・・。
タツヤにメールを手短に送った。
『タツヤの部署で何かあった?大丈夫?』
受信メール通知があるたびに、ドキドキしながら開いていたけれど、
一向にタツヤからの返信はなかった。
トイレに行くふりをしては、タツヤの部署の前を通るけれど、タツヤの姿は朝から全く見当たらなかった。
胸騒ぎがする。
そのとき、アユミからメールが入った。
『タツヤ、えらいことになってみるみたい。さっき上司が話してるの聞いたんだけど。』
やっぱり。
大きなミスを犯したのはタツヤだった。
こないだ会った時はあんなに上海のこと意気込んで話していたのに。
あれから、何があったの?
タツヤ・・・
大丈夫?
内々の契約書の送付ミス。
事務職の私でも、それが会社にとって大変なことだってわかる。
今どこにいるの?タツヤ?
結局、その日、タツヤの姿を見ることはなかった。
そして、メールの返信もないまま。
不安な気持ちのまま、帰宅するしかない私。
なんとなくまっすぐ帰りたくなくて、駅前の書店に入った。
とりあえず雑誌コーナーの前まで来ると、聞き覚えのある声が後ろからしてきた。
振り返ると、アユミと、飲み仲間のユウタだった。
「あ、アユミ。」
今はこれまでのことを置いておいて、アユミにすがりたい自分がいた。
「ハルナ!ちょうどよかった。」
アユミは私の方へ駆け寄ってきた。
「タツヤのこと、何かわかった?」
自分でも驚くほどなりふり構わずアユミに聞いていた。
アユミの気持ちを考えたらそんなことできるはずもなかったのに。
「うん、帰り、ユウタと一緒になったんだけど、ユウタから色々聞いたよ。」
アユミの真面目な表情から、事の深刻さが伺えた。
後ろに立っていたユウタも心なしか顔がひきつっていた。
「俺も、心配になってタツヤに連絡とってんだけど全然連絡つかなくてさ。どうも今は上司と上海にいるらしいんだ。」
「そうなんだ。」
とりあえず、居場所がはっきりしたことに安堵する。
「タツヤと同じ部署に同期がいるから聞いたんだけど、やっぱかなりまずい状況らしくてさ。始末書もんだって。しかも、上司もその責任とらないといけないらしくて、あいつとしたら一番きつい状況だよ。」
ユウタは長いため息をついた。
三人の間に重たい空気が流れる。
「どうしてあんなミスしたんだろ。あいつらしくもない。どうなっちまうんだろうな、タツヤ。」
ユウタは心配そうに自分の携帯をチェックした。
未だに誰も連絡はとれない。
きっと上海で、上司と会社を回って頭を下げまくってるんだろう。
こんな失敗、取り返しがつかない。
どんなに謝ったって・・・。
タツヤはあんな奴だけど仕事だけはバリバリこなしてたのに。
一体どうしちゃったの?
タツヤに何が起きたの?
自分の意思に関係なく体が震えていた。
アユミと目が合う。
「ハルナ、大丈夫?」
アユミはそう言うと、私の肩を抱いて優しくさすってくれた。
こんなにも、アユミに支えられることがあろうとは思いもしなかった。
「アユミ、ありがとう。大丈夫。アユミは?」
アユミはいつもみたくにっこり笑った。
「私は大丈夫。」
そして、意味ありげにちらっとユウタに視線を送った。
え?
もしかして、ユウタと・・・?
そういうこと?!
「何かわかったら、また知らせるよ。」
ユウタは真面目な顔で私に言った。
「うん、ありがと。」
そして、私は何となくアユミの視線の意味を察して、二人とそこで別れた。
知らない間に、私を残して、色んな変化が起こり始めていた。
私の時間だけが止まったままだ。
何の変化も訪れないまま。
アユミ。
そっか、ユウタと。
でも、それは私にとってはとても嬉しい変化だった。
ユウタは優しいやつだし、きっとアユミとうまくいく。
今度こそ、アユミに幸せになってもらわなくちゃ。
なんて、悠長なことを考えてる場合じゃなかった。
タツヤ。
まだ上海にいるの?
無理だとわかっているのに、思わずタツヤの携帯に電話をかけていた。
『留守番電話サービスです』
その声が聞こえると、すぐに携帯を切った。
その直後、携帯が鳴る。
タツヤ??!
「タツヤ?大丈夫?」
私は着信も確認せずに緊張した声で出た。
携帯の向こうでしばらくの沈黙。
「ハル?僕だけど。」
その声は、タツヤではなかった。
昨日一緒に過ごしたナオのものだった。
一瞬気まずい空気が流れる。
「あ、ごめん。ナオ。どうしたの?」
どうしようもなくて、開き直った。
だって、今はタツヤが心配なんだもん。何よりも。
「タツヤって、例のタツヤくんかな?アユミちゃんとダブルデートのお誘いがあった?」
こんな時にそういう話はしたくない。
今はそれどころじゃないんだもの。
だけど。
だけど、ナオは事情を知らない。
そういう暢気な発言をしてもしょうがないんだよね。
「そう。例の人。ごめん、ちょっと急いでるんだけど、何かな?」
ナオが悪いわけじゃないのに、妙にいらいらしてる自分がいた。
「急いでるんだったら構わないよ。ごめん。また明日にでもかけ直す。」
「あ、ごめんね、ナオ。」
「うん。じゃまた。」
携帯が切れた。
ナオ。
何か気づいただろうか?
あんなに切羽詰まった声で「タツヤ?」って出てしまった私に。
でも、今はやっぱりそれどこじゃない自分がいて、そういうことすらも冷静に受け止めることができた。
ここまで来たらなるようにしかならないんだ。
私は軽くため息をつくと、駅の方に足を向けた。
今日はもう家に帰ろう。
ここにいても、何もわからない。
明日になれば、少しは状況がつかめて、タツヤとも連絡がとれるかもしれないし。
電車に揺られながら、タツヤを思った。
きっとタツヤは今失意のどん底にいるんだろう。
一日も早くタツヤの顔を見て、何か言葉をかけてあげたい。
それが気休めの言葉にしかならなくてもいい。
そばにいるだけでもいい。
私ができること全部やってあげたいと思った。
たとえタツヤがすべてを失ったとしても。
翌日。
早めに出社した。
少しでも早く状況を知りたかった。
既にタツヤの部署はほぼ全員がそろっていた。
そこに、やはりタツヤの姿はなかった。
まだ上海にいるんだろうか。
いずれにせよ、前日よりも部署内の雰囲気は落ち着いていた。
一段落したんだろうか。
そうであってほしいと祈りながら、自分の席についた。
パソコンのメールには、まだタツヤからの返信はなかった。
そりゃそうだとわかっていながらも、返信がないことに不安になる。
気持ちが落ち着かないまま、一つ一つ仕事を片付けていった。
パソコンに受信通知があるたびに、メールを開きながら。
そして、いつの間にか夕方になっていた。
アユミからメールが届く。
『仕事終わってからちょっといい?』
タツヤの新しい情報を入手したんだろうということはすぐにわかった。
妙な緊張感の中、返信を送る。
『オッケー。更衣室で待ってる。』
終業時間きっかりに私は事務所を後にした。
更衣室に入ると、まだ着替えを済ましていないアユミが壁際にもたれていた
「アユミ、おつかれ。」
私は少し疲れた顔のアユミに声をかけた。
アユミは力なく右手を挙げて、私に近寄ってきた。
「タツヤのこと、何かわかった?」
小さな声でアユミに聞く。
胸がざわつく。
緊張のあまり、声が震えた。
「うん。わかったんだけど。ちょっと重たい話でさ。」
アユミの表情から、いい話ではないことは察していたけど、改めてその口から聞くとショックだった。
「タツヤ、今日の午前の便で帰国したみたい。例の問題については、会社全体で動いてなんとかなったみたいなんだけど。」
「うん。それだけでもよかったね。」
別に仕事なんかどうでもよかった。
タツヤは?
「ユウタの話だと、タツヤの上司は左遷。社員一人しかない会社に出向だって。で、タツヤは・・・。」
「タツヤは?」
アユミはちらっと私の顔を心配そうに見た。
「・・・退職願い出したって。」
・・・え?
「ユウタが言うには、上司がそれだけ重い異動になった状況で、自分が会社に居続けることはできないって判断したらしいの。当然、タツヤも地方に飛ばされる予定ではあったんだけど、それを断って退職を選んだみたい。」
そんな。
こんな不景気に会社を辞める?
これからどうするの?タツヤ。
自分のこと以上に不安な気持ちにおそわれた。
目の前が一瞬クラッとゆがみ、足下がふらついた。
「ハルナ、大丈夫?唇が青いよ。」
アユミはそう言うと、私をぎゅっと抱きしめた。
「たぶん、仕事の引き継ぎとかで、明日、明後日くらいまでは会社に残ってるはずだから、タツヤと話しなよ。」
アユミは私の髪を優しくなでた。
私はアユミに身をゆだねたまま、首を縦に振った。
「今、タツヤは?」
「お得意先に挨拶に回ってるみたい。なにせ、急なことだから。営業ってきつい仕事だよね。こんな状況でも、最後までいい顔で回らないといけないなんて。」
今日は会えない、か。
タツヤが退職すると決める前に、一度でも会いたい。
その選択が本当に正しかったのか。
私にはやっぱりわからない。
ただ、タツヤの立場を考えると、そうせざるを得ない状況だったのかもしれない。
だけど。
辞めてしまうの?
辞めて一体これからどうするの?
このまま、タツヤが会社に戻るまで待っておこうかとも思ったけど、さすがにそこまで踏み込むことは、私にはできないと思った。
私よりも、今はタツヤの方がずっとずっと辛くて、誰かと話するのすらしんどい状況だと思うから。
アユミの言うように、明日、もしくは明後日、少しでも話ができたらいい。
できるかどうかわからないけれど。
少しだけでも顔が見たい。
私の頭の中がぼんやりと霞がかかったようだった。
あの日の夜、握られた熱いタツヤの手を思い出す。
でも、今はその記憶も現実のものなのかわからなくなる。
それくらい私は混乱していた。
今すぐにでもタツヤに会って、その心細い背中を抱きしめたいと思った。
それくらいしか、今の私にはできない。
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