第9話 朝帰り

私たちはお店を後にした。

終電間近に迫っているとはいえ、大通りは多くのサラリーマンでごったがえしていた。

やっぱり花金と言われるだけある。

明日は土曜日。

遅く帰っても、朝に帰っても、誰にも迷惑かけない日。

いつもより、気持ちに余裕ができるそんな金曜日が好きだった。

「少し歩く?」

タツヤはそう言うと、大通りを逸れて、人気がまばらな路地を通って行った。

少し歩くと、公園がある。

何組かのカップルが肩寄せ合ってベンチに座っていた。

カップルとすれ違った後、タツヤがぼんやりとつぶやいた。

「なんだか俺の左手寂しがってるんだけど。」

タツヤの左手をみると、わざとらしくグーパーグーパーを繰り返していた。

「何?それ。」

わかっていたけど、わざわざ聞いてみる。

「手つなぐくらいはいいんじゃない?そーそー、例の心理学の教授が手をつなぐだけでも結構相性わかるって言ってたし。」

タツヤもさすがに言いながら恥ずかしくなったのか、うつむいて頭をかいた。

私は何も言わず、タツヤの左手を握った。

「ねーさん、今日はやけに積極的じゃない?」

タツヤは目をそらしながら、私の手をぎゅっと握った。

「何か感じる?この手から。」

依然、私と目を合わさないタツヤを見上げて聞いた。

「どうだろ。俺は全然いやじゃないけど。ねーさんはどうなの。」

「気持ちは悪くない。」

「なんだそれ。気持ち悪くはないって、なんだか微妙な表現じゃない?」

タツヤは苦笑しながら、ようやく私と視線を合わせた。

薄暗がりの中、タツヤの目は都会の明かりに反射してキラキラして見えた。

「あそこ、ベンチが空いてるけど、座る?」

タツヤは斜め右にあるベンチを指さした。

「そうだね。風も気持ちいいし、ちょっと座ろっか。」

手をつないだまま、ベンチに腰掛けた。

緊張のせいか、つないだ手がわずかにしびれている。

ぎこちなさを感じながらも、その手を離さずにいた。

タツヤが、軽く息をはいた。

「なんか、こういうの、蛇の生殺し状態だな。」

「え?」

「お酒回って、好きな相手と手をつないで、ベンチに腰掛けてさ。何もできずにただじっと座ってるだけなんて、結構きついもんだぜ。」

「そうかな。」

「女と男の性の違い。たぶん、俺の理性がちょっとでも緊張感なくしたら、ねーさん、そのときは覚悟しといてよ。」

タツヤの熱い左手から鼓動が伝わってくるようだった。

そして、そんなタツヤの言葉は、私を一人の女性であることに気づかせてくれた。

このまま抱きしめられてもいい。

「あそこに自販機あるから、何か酔い覚ましになるようなもん買ってこよっか?」

自分の理性を取り戻したかのようにタツヤは私の手をほどいて立ち上がった。

ホッとする自分と、少しがっかりする自分がいた。

「うん。」

「何系がいい?」

「炭酸系。」

「了解。」

タツヤはさっきまでつながれていた左手をポケットに入れてゆっくりと自販機へ歩いて行った。

そして、二つのペットボトルを持って、戻ってきた。

「はい。ねーさんのサイダー。」

「ありがと。」

喉がカラカラだった。

受け取ったサイダーのふたを開けて、喉の渇きを満たすまで飲んだ。

喉の奥が炭酸で痛い。痛気持ちいいような感覚。

「ねーさん。」

ペットボトルから口を外して、一息ついていた私にタツヤが声をかけた。

「ん?」

タツヤの方に顔を向けた時、タツヤの大きな体が私を包んだ。

思わず手に持っていたサイダーを地面に落とす。

「結婚なんかすんなよ。」

私の耳元にタツヤの押し殺すような声が聞こえた。

胸がドキドキする。

タツヤの鼓動なのか、自分の鼓動なのかわからないくらに激しく。

さっき飲んだばかりなのに、私の喉は既に渇いていた。

何かで潤さないと、息が詰まってしまいそう。

そのとき、私の唇がタツヤの唇でふさがれた。

タツヤの唇もとても乾いていた。

時折唇を離れ、そしてまた優しく何度もキスをされた。

全然嫌じゃなかった。

思わず、タツヤの背中を抱きしめる。

タツヤはそれに反応するかのように、私をさらに強く抱きしめた。

だめだ。

止まらない。

お互いの理性の蓋が取れてしまいそうになってる。

タツヤとキスをしながら、ふいにナオの寂しそうな笑顔が頭をよぎった。

その瞬間、理性の蓋が閉じられた。

タツヤの唇から、自分の唇を離す。

タツヤは、抱きしめていた腕を緩めた。

「ごめん。」

謝らないで。

謝らなければならないのは、私の方なのに。

私は一体どうすればいいの?

本当に選ぶべき人は、ナオ?それともタツヤ?

優柔不断な自分が不甲斐なくて、目の奥が熱くなってきた。

だめ。

泣いちゃだめ。

ここが暗くてよかった。

なんとか涙を止めて、タツヤから顔を背けた。

しばらく二人は何も言わずにただ並んで座っていた。

背後の草むらから、涼やかな虫の音が聞こえている。

大通りからは、時折車のクラクションが響いていた。

静かすぎる夜。

こうも静かだと、かえって落ち着かない。

タツヤとのキスは、私にとって不自然なことではなかった。

むしろ、とても自然で自分の期待していた通りだった。

どうして、今の私の状態でそれが不自然じゃないのか?


・・・タツヤが好き?


好き。


・・・ナオよりも好き?


・・・。


ナオと別れて、タツヤの胸に飛び込める?


・・・。


それでもまだ答えの出ない自分にいらいらする。

「ねーさん。」

タツヤが小さな声で言った。

「やっぱ俺じゃダメ?」

ダメじゃない。

そういうんじゃない。

私はうつむいて首を横に振った。

「きっとねーさんの彼氏って、ものすごく魅力的な人なんだろうな。」

タツヤは大きく伸びをしながら、自嘲気味に笑った。

「家までタクシーで送るよ。」

「え?」

「このまま朝まで一緒にいたら、俺どうにかなりそうだし。ねーさんにとっても、今日は帰ってゆっくり休んだ方が絶対いいって。」

タツヤはそう言いながら、少しだけ笑った。

また、泣きそうになる。

どうしてそんなこと言うの?

どうして、そんな風に思うの?

タツヤは私の手を握って、ベンチから引き上げた。

その手はすぐに離れた。

「行こうか。大通りまではすぐそこだから。きっと金曜日はタクシーもたくさんあると思うよ。」

タツヤはズボンのポケットに両手を入れて、歩き始めた。

私は、妙に空虚な気持ちを抱えて、静かにタツヤの後に続いた。

タツヤの大きな背中を見つめながら、すぐにでもその背中に抱きつきたい衝動を抑えながら。

自分の気持ちにまっすぐになれない。

色んな思いや言葉にセーブがかかる状態。

私は一体、何を恐れてる?

ナオを手放すのがそんなにも怖い?

幸せになれるであろう現実を手放すことが。

それとも、愛してくれてるナオを傷つけることが怖い?

たとえ、タツヤを傷つけたとしても?

ここまで、自分の衝動を抑えてしまうってことは、私自身がナオを選んでいるということなんだろうか。

ミユ。

あなたはどう思う?

こういう時、私はどうすればいいんだろ。

今、この時を逃したら、タツヤの手をもう二度と握ることはできなくなってしまうような気がする。

気分が悪くなるほどの焦燥感に胸が苦しくて破けそうになる。

気がつくと、目の前が明るく開け、車のクラクションが響いていた。

「ねーさん。さ、乗って。」

いつの間にか大通りに出て、タツヤがタクシーを拾ってくれていた。

無力感とともに、タクシーの椅子に倒れ込むように座った。

タツヤは、タクシードライバーに私の住んでいる町名を告げた。

タツヤにタクシーで送ってもらうのって、これで三回目。

三度目の正直。

これでおしまい・・・かもしれない。


タクシーの中。

二人は何も言わず、ただ、外をぼんやりと眺めていた。

街はどんどん暗闇に包まれていく。

人影も次第にまばらになり、何もない宇宙に私たちのタクシーが浮かんでるような錯覚に陥った。

あれだけお酒を飲んだのに、ちっとも酔いが回っていない。

少し酔ってたら、勇気が出そうなことも、理性が邪魔をする感じ。

気がついたら家の前についていた。

「ねーさん。」

私が降りようとしたとき、タクシーに乗ってはじめてタツヤが口を開いた。

「今日はありがとう。」

タツヤは、真面目な笑顔を作って言った。

「こちらこそ、今日はありがとうね。」

私も少しだけ笑って、右手を挙げた。


バタン


タクシーの扉が無機質な音を立てて閉まった。

もう後戻りできない、自分の選択にとどめを刺すかのように。

そして、タツヤの乗るタクシーは真っ暗な道へ消えていった。

小さくため息をついて、玄関の扉を開けた。

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