人形屋の奏でた狂想曲[2]

 ゴールデンウィークに入ると、ナナは小さな手提げ袋に人形を入れ、懲りもせずにまた川へ向かった。朝も昼も足げく通っては、一枚二枚と花びらを散らしていくナノハナとサクラの中に、いつかの景色を見つけ出そうと目を凝らす。散っていく花びらは、まるで落ちていく砂時計の砂のようだった。この全てが地に落ちたときが“最後”なのだと、そんな気さえする。降り積もる花びらが全て、あの細い小道すらを覆い隠してしまうような――

 けれども、ナナが再びあの海辺に辿り着くことは叶わなかった。あのときのように空が茜色に染まろうとも、お寺の鐘の音が響こうとも、やっぱり、あの赤い橋と小道だけは見つからなかった。あの鈴を転がしたような笑い声も、今はもう聞こえない。まるで夢だったのではないかと思うほどに、あの日に起こったできごとの全てが忽然と、跡形もなく消えてしまっていた。

 頼りなくも、たしかにその場所の存在を証明するものは、たった一つ。今もナナの手に握られている人形だけだった。


 また明日、また明日――どこかで遊びを終えた子供たちの声がする。足元を埋め尽くす薄紅の花びらは、来たときよりも確実に数を増して夕日に輝いていた。

「帰ろう」

 誰にともなく呟くと、人形の鈴が答えるようにちりりと鳴る。そんなこと、あるはずもないのに。ナナは人形を手提げにしまって、静かに歩きだした。

 コンクリートの橋を渡り、見慣れない角をひとつ、ふたつと曲がっていく。けれどそれから間もなく、どこか遠くから人の声がした。

「ちぃちゃん――」

 風に乗って聞こえた言葉に、ナナははっとした。思わず人形の入った手提げ袋に目を落とし、また顔をあげる。

 ――ちぃちゃん。それは、人形がひたすらに繰り返していた名前だったはず。ナナはとっさに声のした方へと走りだしていた。駆け足に合わせて鈴が跳ねる。「ちぃちゃん」と呼ぶ声が、少しずつ大きくなる。中学校の前では、知らない女の人が血相を変えて声をあげていた。

「ちぃちゃん、ちぃちゃん、どこにいるの! ちぃちゃん、返事をしてちょうだい!」

 これはなんだか、ただごとではなさそうだった。慌てて駆け寄っていくと、女の人はすぐにナナに気づいた。ナナが何かを言うより早く、まるで飛びつくように近づいてくる。

「すみません、うちの娘を――四歳くらいの女の子を見ませんでしたか。赤い――あめ玉の形をした髪留めで髪を二つに結っているんです――髪は少し茶色みがかっていて、背丈はこのくらい。薄い水色のワンピースを着ているんですけれど――」

 いきなりまくし立てあげられて、ナナはちょっと困惑した。けれど、ここまでくる間に見たのは部活帰りらしき学生くらいで、四歳くらいの女の子なんて見かけなかった。

 ナナが「いいえ」と首を振ってみせると、女の人はがっかりして、でもそれを隠そうとするように「そうですか」と、愛想笑いを浮かべた。本当は、笑っていられるような心境ではないはずなのに。

 小さいころ、迷子になったナナを見つけたときの両親の顔だって、本当に今にも泣きだしそうな顔だった。すごく、すごく心配したのだと、何度も何度も言っていた。

「あの、その子の名前は……」

「チトセです」

「じゃあその、チトセちゃんの行き先に心当たりとか、ないんですか?」

 尋ねるナナに、女の人は少し黙った。目を伏せ、何か、言おうか言うまいかと迷うように目がさまよう。

「ええ、その……前に、大切にしていた人形を失くしてしまって――多分それをさがしに……」

 途切れ途切れに語られた言葉に、ナナはもしかしてと思った。「ちぃちゃん」と呼ばれる女の子と、その子が失くしたという人形。ナナの脳裏に、泣きじゃくっていた人形の姿が浮かびあがる。気がついたら、ナナはまた人形の入った手提げ袋を見ていた。

 もしかして。もしかしたら、この人形の持ち主は――

「わ、私も手伝います」

 もとより放っておくつもりもなかったけれど、ますます放っておけないと思った。

 ナナの声で顔をあげた女の人は、少し驚いたような顔をして「でも」と言いかける。けれど、ナナの顔を見て言葉を迷わせた後、「ありがとう」と、少し泣きそうな顔で微笑んだ。

「私はコウダヒロコです。あの、あなたのお名前は?」

「ナナです。カツキナナ」


 それから、ナナとヒロコは二時間後に一度、学校の前まで戻ってくるという話をつけて、それぞれチトセをさがす場所を決めた。土地勘のないナナは人の多い大通り方面、ヒロコはまださがしていない山すそにある田んぼの方へ向かうことになった。

 この町は、田舎の、それほど大きくもない町だ。人口も、多くてやっと三桁を数えるところだろうか。町の商店街を通れば、客の中に必ず二人は見たことのある顔に出くわすくらいの、本当に小さな町だ。

 けれど、ナナはこの町の地理に、まるで詳しくない。いつも通学で通る海の見える土手と、ベベの散歩コースでもある大通り、それから商店街までの道しか知らない。誰でも知っているような所だったけれど、さがす当てもないナナは、まず一番に海の見える土手に行った。人形を拾った場所も海辺だったから、もしかしたらと思ったのだ。

 普段はおりることのない土手を駆けおりて、浜辺のすみからすみまでさがした。「チトセちゃん」と、大きな声で名前を呼びながら、小さなカニやヒトデの群がる岩場や、草の茂みもさがした。海にそそぐ川の河原に沿って歩いて、さがしてもみた。それでも、チトセらしき女の子の姿はおろか、人の影すらない。ナナは大通りに走った。

 道すがら、公衆電話を見かけた。そういえば、今日は五時に帰るとハルミに伝えていたのだった。ナナはとっさにそこへ駆けこんで、お小遣い袋から十円玉を取り出した。十円玉を投入口に入れ、はやる指先でハルミの家の電話番号を押していく。数秒のコールの後に、ハルミが出た。

「はい、ヤマセです」

「ハルミさん、私、ナナだよ」

「ナナちゃん? どうしたの、そんな切羽詰った声をして」

 電話口のハルミの声が、にわかに心配そうなものになる。けれど、今は事情を説明する時間も惜しい。ナナは早口に帰りが遅くなるかもしれないけれど心配しないでほしいと伝えて電話を切ると、公衆電話から飛び出した。


 普段着を着た同い年くらいの子供たちや、買いもの帰りの主婦たちが、慌ただしく走っているナナを不思議そうな目で見る。いつものナナなら、ここで好奇の視線に怯んでしまうところだっただろうけれど、今はなりふり構っている場合ではなかった。人も少なければ街灯も少ないこの町は、夜になると本当に暗い宵闇に包まれてしまう。余所者のナナは、この辺りで変質者が出た、なんてことは聞いたことがない。だけど、出ないという保証もない。人さらいにあってしまっては取り返しがつかないことになる。暗くなる前には、なんとしてでも見つけだしたかった。

 ナナは、たまたま傍を通りがかった主婦に「すいません」と声をかけた。

「四歳くらいの女の子を見かけませんでしたか? 急にいなくなってしまったみたいなんです。頭の上で髪を二つに結っているんですけど――」

 足を止めた四十代半ばくらいの女性は「まあ」と驚いたような声をあげて、けれど、すぐに首を振って言う。

「ごめんなさい。私、見てないわ」

「そうですか、ありがとうございます。引き止めてごめんなさい」

 肩を下げ、ナナが別の場所へ移ろうとしたとき、後ろから声があがった。

「あ、待って。僕、その子を見たかもしれない」

 驚いて振り返ると、同い年くらいの男の子が立っていた。大人しそうな顔立ちの、少し前髪の長い男の子だった。

 でも、この顔、どこかで見たことがある。よくよく見てみれば、球技大会のときにナナが偶然当ててしまった、あの男子生徒だった。

「ええと、あなたは……」

「あ――うん、そう、あの、球技大会の」

 男子生徒もナナを覚えていたらしく、どこか歯切れの悪い答えが返ってくる。ナナは妙に居心地が悪くなった。まさか、こんなところで会うなんて。けれどと、意を決して尋ねてみる。「それで、その、女の子を見たっていうのは」

 すると、男子生徒は軽く顔をうつむけた。

「えっと、たしか十五分くらい前、だったと思う。商店街の脇にある裏通りに入っていったから、よく覚えてるよ。水色のワンピースを着てた」

 顔をあげてそう言い切った男子生徒の言葉に、ナナの目にも希望の光が宿った。十五分前なら、まだ間に合うかもしれない。四歳の子供の足なのだから、十五分ぽっちではそんなに遠くへは行けないはずだ。

「ありがとう、いってみます!」

 未だに足を止めてようすを伺っていた主婦と男子生徒に頭を下げると、ナナは商店街のほうへと駆けだした。


 商店街の脇には、たしかに裏路地があった。人ひとりが、やっと通れるような細い道だ。今まで、ナナも何度か商店街に足を運んでいたのに、この道の存在には全く気がつかなった。

 裏路地の入り口には、青いプラスチックのゴミ箱が一つ置いてあって、密かに生ごみの臭いがする。ナナはその隣に立ち、路地を覗きこんだ。薄暗い路地に、ナナの細長い影法師が伸びる。入って四メートルほどまでは、傾き始めた日がかろうじて道を照らしだしているけれど、その先は光の中からでは何も見えない闇が続いている。

 小さな女の子が、どうしてよりによってこんな不気味なところに入っていったのだろうか。考えてみても、答えは出せそうにない。ナナはチトセの姿を探して裏路地の奥へと進み、闇に踏みこんだ。

 路地は、まるで迷路のように入り組んでいた。町のことすらわからないナナが路地の道を知るはずはないし、チトセがどの道を通ったかなんて、もとよりわかるはずもない。右へ左へと曲がっては、壁に突き当たり、うず高く積まれた角材の山に出くわした。その都度、もと来た道を引き返し、今度は別の道を行く。七つ目までの角を曲がった辺りまでは、なんとかナナもどこをどう曲がったのか覚えていたのだが、十、十五と曲がっていく内に、とうとうわからなくなってしまった。

 どれくらいの間、走っていたのだろう。東の空からは徐々に夜の色が滲んできている。ヒロコとした約束の時間には、とても間に合いそうになかった。それどころか、例えチトセを見つけられても、これでは帰ることもできそうにない。

 迷子を、さがして迷子になってしまった。なんて、まるでミイラになったミイラ取りだ。ナナは走りっぱなしであがった息を整えながら、壁に手をついて自嘲した。額に浮かんだ汗が頬を伝い、顎まできてから、アスファルトに落ちた。日暮れとともに冷えた空気が、何度も喉をいったりきたりしたせいで、痛みさえ感じる。

 だけれど、本当にどうしたらいいのだろう。心底、困ってナナが途方に暮れていたとき、闇色が濃くなってきていた路地の奥で、明かりが灯った。目を凝らしてみると、どうやら建物の明かりらしい。すっかりくたびれていたナナは、明かりに誘われる夏の虫たちのように、ふらふらと光に近づいていった。


 明かりが灯っていたのは、一軒の古ぼけた一階建ての建物だった。瓦屋根の上に作られた看板の字は、ペンキがはげていて読みづらい。

「……人、形……専門店?」

 暗がりの中、看板の文字はさらに読みづらかったけれど、なんとかナナにはそう読み取れた。まさか、こんなところに店があるなんて。

 もしかしたら、店の店員がチトセを見ているかもしれない。そんな淡い期待が胸に浮かんだ。そうでなくとも、この路地から抜け出す方法くらいは知っているはずだ。ナナは、そっとガラス張りの引き戸に手を伸ばした。

 がらがらと引き戸を開けると、埃っぽい空気が鼻につく。店内の棚には、ずらりと人形が並んでいた。ガラスケースにしまわれた高そうな人形から、誰でも気軽に買えそうな布製の人形まで、所狭しと置かれている。唯一、そういう類のものが置かれていないのは無人のカウンターだけだ。さすが人形専門店というだけはあるけれど、ただ、その中にちらほらとぬいぐるみの姿があるのが少し気になった。

 一番目立つところに置かれたガラスケースには、勇ましい兜をかぶり、腰に刀を差した五月人形が飾られている。男兄弟のいないナナは、見慣れないその人形をしげしげと眺めた。これも売りものなのだろうけれど、よく見るとこの店に置かれている人形には値札がついていなかった。

 戸を閉め、店の中に足を踏み入れる。そう広くもない店なのに、天井には白熱灯の電球が一つしか灯っていないせいで、部屋のところどころに薄暗い影が落ちている。ナナは一通りその場で店内を見渡したけれど、店員らしき人影は見えなかった。

「あの、すいません。誰かいませんか?」

 しんと静まり返った店の中で、ナナの声がやけに大きく響いた。ナナの後ろで、風に叩かれた戸ががたがたと鳴る。一向に、店員らしき人物は現れない。もう一度、呼びかけてみようとナナが口を開いたその瞬間。くすくすと、どこからともなく小さな笑い声が聞こえた。

 はっとして辺りのようすを伺ったけれど、そこに人の影はない。気のせいかと思ったとたん、再び高いくすくす笑いがナナの耳についた。

「誰か、いるの?」

 無機質なコンクリートの床から、漂ってくる冷気がナナの足にまとわりつく。能面のように表情を変えない人形たちの顔が不気味に白く浮かびあがっていた。店の奥の暗がりで、がたんと大きな物音がする。かと思うと、そこから人の声がした。

「あれ、いらっしゃい」

 闇の中から、ふっと浮かびあがるようにして、一人の青年が姿を現した。丸い黒ぶちの眼鏡をかけていて、男の人なのにユキみたいに頭の後ろで髪を束ねている。どことなく浮世離れした雰囲気のあるその青年の肌の色は、ガラスケースの中に佇む人形と同じくらいに白かった。


「すみませんね。いつも人が来ないものだから、ついついカウンターを空けてしまうんですよ」

「あ、いえ、違うんです。私、お客さんとかじゃなくて……」

 店員なのだろう。紺色のエプロンをつけた青年が、ナナを客だと勘違いしていることに気づいて、ナナは慌てて言った。冷やかしと取られないかとナナは内心で気をもんだのだけれど、それを聞いても青年は気を悪くしたようすはない。代わりに柔らかく微笑んで、ゆっくりと口を開く。

「おや、そうでしたか。それで、ご用件はなんでしょう?」

「四歳くらいの女の子をさがしてるんです。見ませんでしたか?」

「見てませんねえ。特長などはわからないんですか?」

 逆に、そう聞き返されてしまった。ナナは慌ててヒロコが言っていたことを思い出そうと記憶を辿る。

「えっと、これくらいの背丈で、髪が茶色くて、それから――頭の上で髪を二つに結ってるって……」

「それはコウダチトセちゃんのことではないですか?」

「知ってるんですか?」

 どんぴしゃりで名前を当てられて、ナナはびっくりした。思わず、声が大きくなってしまう。

「ええ、仕事で一度ご両親にお会いしたんです。そのとき、チトセちゃんも一緒だったんですよ」

「あの、チトセちゃんの行く先に心当たりとか、ありませんか?」

 聞いておきながら、ナナは特に青年の答えに期待をしていたわけではなかった。何しろ、チトセの行き先は母親であるヒロコですら心当たりのないことで、一度しかチトセに会っていないこの青年が知っているとはとても思えなかった。けれども、ナナはその彼以上にチトセのことを知らない。だめでもともと、チトセのことを知っているのなら、何か少しでも手がかりがあればと、そう思って口にしただけだったのだ。

 ところが、青年はふとどこか遠くを見るように顔をあげて、

「そうですねえ。たぶん、この路地を抜けた先にある海岸じゃないでしょうか。チトセちゃん、何かあると必ずそこに行くんです」

 再び、ナナに目を戻しながら、そう言った。これは、ナナにとっては嬉しい誤算でしかない。

「その海岸へはどうやって行けばいいんですか?」どうして知っているのかと尋ねるよりも先に、ナナの口はそう尋ねていた。

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