妹か彼女か


 廊下は登校してきた生徒たちでごった返している。俺とあやねは人のあいだを縫うようにして目的地へ急いだ。

「……ところで、あやね」

「はい、なんでしょう?」

「さっきのあれは、俺はどうかと思うぞ?」

「……あれ、とは?」

 あやねは心当たりがないようで、ちょこんと可愛らしく首を傾げた。

「『古井出くんだけが頼りなんです』、とかなんとか。あんなこと言われたら、湊が変な勘違いをしかねないだろ。惚れられでもしたらどうするんだ?」

「……ふふっ」

「……なに笑ってるんだよ」

 俺は至って真面目に言ったつもりだったのだが。

「なんですかお兄さん、嫉妬してるんですか?」

 さもおかしそうに言って、あやねはまた声をあげて笑う。

「……そういうんじゃない」

「心配しなくても、私はお兄さんだけのものですよ?」

「……その口調モードでそういうことを言われると、付きあう前のあやねに迫られてるみたいで、ちょっとグッとくるな」

「それはそれで、なんだか複雑な気分ですけど……」


 あやねのおかげで幾分か気分が軽くなったところで、目的地に到着した。

 俺は躊躇なく二年三組の教室へと足を踏み入れる。

 幸い、目的の人物はすぐに見つけることができた。


「おーい光誠、ちょっといいか?」


 その男は俺の呼びかけに気づくと、慌てた様子でバタバタとこちらへ駆けてきた。


「お久しぶりです、相沢先輩!!」


 人のよさそうな爽やかな笑みを浮かべ、光誠はガバッと頭を下げた。

「……それに静志麻さんまで!! こんな朝から、どうかされたんですか?」

「話があるんだ」

「話、ですか……?」


 俺たちは手近な空き教室に入ると、二対一で向かいあった。


「それで、話っていうのは……?」

「おまえ、今すぐ芳乃と別れろ」

 俺は単刀直入に告げる。

「えっ……芳乃さんと?」

 光誠はなにを言われたのかわからない、というような顔をしたあと、

「そ、そんな突然……」

 ショックを隠しきれないといった様子でうろたえてみせ、

「お、教えてください先輩!! オレがなにかしましたか!?」

 自分はなにも知らないというスタンスで、俺に詰め寄った。


「茶番はいい。別れるのか、別れないのか、どっちだ?」


「ま、待ってください先輩……オレ、本当に心当たりがないんです!! 正直、なにがなんだか……先輩はきっと、なにか誤解してるんだと思います!!」

「あくまでシラを切るつもりか」

「で、ですからオレは……!!」

「芳乃と谷宗真が、ホテルに入ろうとするところを見た」

「……」

 すぅっと表情が消えたように感じたのは一瞬のことで、光誠はすぐに驚愕の表情を浮かべた。

「ホ、ホテルって……もしかして、ラブホテルってやつですか!? そんな……まさか、芳乃が浮気を?」

「被害者ぶろうとしてるところ悪いが、宗真がぜんぶ吐いたぞ。おまえが発案者だと」

「……その、谷さん? という方のことは知りませんが……きっと浮気の言い逃れをするために、その場しのぎの嘘を、」

「芳乃もおまえが発案者だと言っていたが?」

「…………そういう、ことか。二人で結託して、オレをハメようと……」

「……」

「そうとしか考えられません。きっと芳乃は、オレよりその谷って人を選んだんです。だからっ……」


「無駄だぞ、光誠」


「……え?」

「おまえがなにを言おうが、俺はおまえより芳乃を信じる」

「そんなっ……! まさか芳乃は嘘をつかない、なんて思ってるわけじゃっ」

「そうは思わない、芳乃だって嘘くらいつく。それでも俺は、芳乃を信じる」

「どうしてっ!!」

「芳乃が俺の妹だからだ。それ以上の理由はない。おまえごときがどれだけ必死に弁明しようと、無駄なんだよ」

「……」


「さぁ、そろそろ答えを聞かせてくれないか? 別れるのか? 別れないのか?」


 光誠は俺をまっすぐに見つめると。

「お、オレは……芳乃と…………別れ、」

「……」

「別れるわけないだろうが、バーカ!!」


 唾が飛んできそうな勢いでそう言うと、光誠はヒヒヒと声に出して笑い、下卑た笑みを口元に浮かべた。

「オニイチャンは知らないだろうが、あの女はなぁ!! 最ッッッ高の優良物件なんだよ!! 週三日拘束されても耐えられると思えるくらいにはなぁ!? ……あ、ジャンケンで負けたら四日か。そうなるとさすがにキツいんだよなぁー……あぁそうだ、なんならオニイチャンも参加するかぁ? 気持ちよさだけは保証してやるぜ? あぁ!! 気持ちいいよぉ芳乃ぉっ!! はぁ〜、思い出しただけでイキそ」


「……こんな人を、芳乃ちゃんのそばに置いておくわけにはいきません」

 あやねがそっと俺の手を握ってくる。

「あぁ、わかってる」

 俺は力強く、その手を握り返した。


「おいおい、聞こえてるぞぉ、あ・や・ね・ちゃん? 先輩に向かってそんな口の利き方が許されると思ってるのかぁ?」

「……気安く名前で呼ばないでください。耳が腐ります」

 あやねはぎゅっと俺の腕にしがみつき、軽蔑が多分にこもった眼差しで光誠を睨む。

「んだと!?」

「おまえこそ、少しは態度を改めたらどうなんだ?」

 すごんでくる光誠からあやねをかばいつつ、牽制するようにそう言ったが、光誠の耳には届いていないようだった。

 光誠はあやねの全身を上から下まで舐めるように眺めると、またヒヒヒと口元を歪めた。


「なぁオニイチャンよ、芳乃と別れてほしいかぁ?」

「さっきからそう言ってるが?」

「そこまで言うなら、別れてやってもいいが。ただし……代わりにその女を寄越せ」

「おまえ、ふざけるのも大概にしろよ?」

「芳乃みたいな上玉を手放せっていうんなら、それ相応の対価はほしいよなぁ? そこで!! 芳乃に負けず劣らず気持ちよさそうなあやねちゃんなら、見返りとしては充分!! とはいえ実際の具合はヤッてみるまでわかんないわけだしなぁ……あれ、じゃあオレのほうが損かぁ? ま、ダメならダメでいいか。使いみちなんてほかにいくらでもあるしなぁ!!」

「兄さん……」

 あやねが俺の耳元で不安げな声を漏らす。

「安心しろ、絶対に渡したりしない」

 俺はそっとあやねの頭に手を載せ、優しく撫でた。

「はい……でも、どうやって芳乃ちゃんを助ければ……」


「悪くない取引だと思うがなぁ? だってその女は、オマエにとってはただの彼女なんだろ? 彼女なんていくらでも替えが利く存在より、替えの利かない妹のほうがよっぽど大切だよなぁ? なぁオニイチャン?」


 ピクリ、とあやねが小さく肩を震わせた。

「そんなくだらない取引に応じる気はない」

「でも、芳乃は返してほしいんだろ? まさかタダで、なんて言わないよなぁ、セ・ン・パイ?」

「……呑める条件なら呑んでやる、言ってみろ」

「んじゃ、あやねちゃんの……」

 俺が反射的に睨みつけると、光誠はおどけるように肩をすくめた。

「そう怒るなよ、冗談だろうが?」

「どうだか」

「ん〜、そうだなぁ…………ヒヒヒ、じゃあこんなのはどうだぁ?」

 名案を思いついたとばかりに、光誠は愉快そうにニヤリと笑い――


「オレとオマエ、どっちの言い分を支持するか、

「……芳乃に?」

「芳乃がオマエを選べば、オレは潔く芳乃と別れる。ただしオレが選ばれた場合は、オマエらは今後一切、オレらのやることに干渉しない」

「……」

「どうよ? これでも大サービスなんだぞぉ? 別れる別れないなんてのはそもそも彼氏彼女カップルの問題で、部外者のオニイチャンが口を挟む権利なんて本当はないんだからなぁ?」

「……わかった。それでかまわない」

「ヒヒヒ、言ったなぁ? 絶対だからなぁ?」


 光誠は余裕に満ちた表情で笑う。自分が選ばれないことなど少しも考えていない顔だ。

 その自信も、当然といえば当然だった。

 俺たちがこうして光誠のもとへ交渉に来ている時点で、芳乃がのは明らかなのだから。


「じゃあさっそく今日の放課後、屋上にでも集まろうぜ?」

「あぁ、わかった」

「逃げるなよ、オニイチャン?」


 最後までニタニタとした笑みを崩さず、光誠は去っていった。

「……よかったの?」

 二人きりになった教室で、あやねが心配そうに訊いてくる。

「まぁ、しょうがないだろ。まさかおまえを差し出すわけにもいかないし」

「……」

 あやねはどこか浮かない顔で、床に視線を落とした。

「差し出されるとでも思ったか?」

「ううん、兄さんのことは少しも疑ってない……ただ、彼女より妹のほうが大切だろって言われて……そうかも、って」

「あのなぁ」

 俺はポンとあやねの頭に手を置いて、

「確かに芳乃のことは大切だが。あやねのことも同じくらい大切に思ってるぞ?」

「……そこは、あやねのことはもっと大切だ、って言ってほしかったかも」

 あやねは口を尖らせ、どこまで本気かわからないようなことを言う。

「でも、考えてみたらあやねも、兄さんと芳乃ちゃんのどっちがより大切かなんて、決められない」

「だろ?」

「うん……ねぇ、兄さん。芳乃ちゃんのこと、ぜったいに助けようね」

「当然だ」


 俺とあやねはまっすぐに見つめあい、その決意を共有した。

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