最終章
そしてまた、妹に彼氏ができた
兆候はあった。
昨晩、芳乃はいきなり「今日から自分の部屋で寝る」と宣言し、俺たち兄妹は約三か月ぶりに別々の部屋で寝た。
思えば、それは芳乃なりのけじめだったのだろう。
同様に、朝の風景もいつもとは少しだけ違っていた。
あやねに睨まれているわけでもないのに、芳乃は俺の正面の席に座った。
隣でも、まして膝の上でもなく、正面に。
それが意味するところは。
「あのね、お兄ちゃん。わたしね、」
果たして、芳乃は言った。
「新しい彼氏ができたの」
――次の休日、芳乃たっての希望により、彼氏を紹介してもらうことになった。
約束の時間より十分ほど早く、インターホンが鳴り響く。
俺は芳乃に連れ立って玄関まで出向いた。
「いらっしゃい、コウくん」
扉を開けながら、芳乃が言う。
……どこかで聞き覚えのあるあだ名だった。
俺はコウくんと呼ばれたその男に目を向ける。坊主頭でやや色黒なその男は、例によってそれなりにイケメンだった。
男は俺の存在を認めると、ガバッと勢いよく頭を下げた。
「お初にお目にかかります、芳乃さんのお兄さん!!」
「あ、あぁ……どうも」
やたらとでかい声に、若干気圧される。
「オレは二年三組の
「なるほど、それでコウくんか」
「はい?」
「奇遇だな、実は俺もコウくんなんだ」
「えぇ、本当ッスか!?」
気持ちがいいくらいでかいリアクションだ。
「あぁ、相沢光貴だ。よろしくな、光誠」
「はい!! こちらこそよろしくお願いします!!」
「まぁ、こんなところで立ち話もなんだし、あがってくれ」
「いえ、今日はご挨拶に伺っただけなので!! 今日のところはこれで失礼させていただきます!!」
「そうか?」
「はい、また今度お邪魔させていただくッス!!」
「わかった。ぜひまた来てくれ」
「はい、それでは――」
「ところで、光誠」
ドアノブに手をかけようとした光誠を、俺は呼び止めた。
「はい、なんですか?」
「ひとつだけ、訊いておきたいことがある」
そう前置きして、俺はかつて谷宗真にしたのと同じ質問を口にした。
「芳乃のこと、好きか?」
笑われてもおかしくないような唐突な質問だったが、光誠は表情を引き締めた。
「はい、もちろんです」
まっすぐに俺の目を見つめ、光誠は言う。
「先輩が危惧していることは、わかります。オレが途中で嫌になって投げ出すんじゃないかって、そう思ってるんですよね?」
「あぁ、正直にいえばな」
「芳乃さんが先輩にベッタリだったという話は、聞いています。でも、安心してください。これからは、オレがそのポジションを代わります」
「……」
「これからは、オレが二代目“コウくん”として、ずっと芳乃さんのそばにいます」
彼が俺に向ける眼差しは、真剣そのものだった。
誠実を絵に描いたような男だ、と思った。
彼が芳乃のそばにいてくれれば、俺は……。
「頼もしいな」
「任せてください」
お互いにそれだけ言って、俺たちは笑った。
「あの、なんていうか……わたしのことで、そんなに真剣に話し合わないで……」
恥ずかしそうにぼそりと言った芳乃に、俺たちは顔を見合わせ、また笑った。
「それでは、今度こそ失礼します!!」
「あぁ、またな」
「ぜったいまた遊びに来てね、コウくんっ」
光誠が爽やかな笑みを浮かべながら、芳乃に手を振って。
扉が閉まって。
その一秒後。
俺は……芳乃に抱きついた。もう我慢の限界だった。
「お兄ちゃん、ぎゅってするのはいいけど、こんなところじゃなんだし……わたしの部屋行こ?」
嫌だ。
移動するのも煩わしかった。
そんな想いが伝わるように、俺はさらに力をこめた。
「ん……わかった。お兄ちゃんの好きにしていいよ」
優しさに満ちた声でそう言って、芳乃は俺の背中を撫で始める。
俺は芳乃の温もりを求めて、ただひたすらに、その華奢な身体にしがみつく。
そうやって、この一か月、俺は芳乃に甘え続けた。
本来であれば俺は、芳乃ではなくあやねに甘えるべきなんだと思う。少なくとも妹に甘えるくらいなら、彼女に甘えていたほうがよっぽど健全だ。現にあやねと愛しあうことでも、多少は“欲求”の解消になる。
だが、それでは足りないのだ。
セックスでは、俺の中に潜む根源的な“渇き”までは、潤わない。
俺という人間のすべてをさらけ出して、全力で甘えることでしか、満たせない。
あやね相手に、俺はそこまでできない。どこかで嫌われたくないという想いがある。
だけど芳乃になら、嫌われようが呆れられようが、あまりにも今さらだ。
だから俺には、芳乃しかいないのだ。
一方で、芳乃も俺に甘えるのをやめたりはしなかった。
だが俺が芳乃に甘えるようになったぶん、芳乃が俺に甘える時間は目に見えて減った。相互に依存しあう関係の中で、俺のための時間は増え続け、芳乃のための時間は減り続けた。
だから、芳乃が彼氏を作ったのもまた、必然だったのだろう。
「……なぁ、芳乃」
「なぁに、お兄ちゃん?」
「おまえは、光誠のこと……好きか?」
甘えられれば誰でもよくて適当に選んだとか。
そういうことなら、考え直さなければならない。
「うん。ちゃんと好きだから、安心して」
俺の心を見透かしたように芳乃が言う。
「たとえば、どんなところが?」
「えっと……」
「優しいところとか、ぜんぶとか、そういうありきたりなのはナシで」
「……相性がいいところ、かな」
「馬が合うってことか?」
「……ん、そんな感じ」
「へぇ」
声の柔らかさから、本気で好きだという気持ちが伝わってくる。
このぶんなら、考え直す必要はなさそうだ。
湊と復縁させる計画は、一度白紙に戻して。
芳乃と光誠の関係がこれからも続くよう、心から応援してもいいのかもしれない。
「光誠のこと、大事にしろよ」
「……応援してくれるの?」
「あぁ。あいついいやつそうだしな」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
ぎゅっと、芳乃が力強く抱きしめてくる。
「これからは、お兄ちゃんと一緒にいられる時間、減っちゃうと思う。でも、ずっとってわけじゃないから。わたしはもうお兄ちゃんに甘えなくても大丈夫だし、コウくんがいないときはお兄ちゃんが、わたしのこと独り占めしていいから。今までどおり、遠慮しないで甘えていいからね」
「……ありがとう、芳乃」
やがて父さんの足音が聞こえてきて、慌てて身体を離すまで、俺たちはずっと互いの身体をきつく抱きしめていた。
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