妹がラブホテルから出てきた


 食事を終えてホテル前に戻り、待機すること二時間と少し。

 もしかして、すでに出てしまったあとだろうか……?

 そんな不安がよぎり始めたころ。


 来た。

 芳乃と男が、腕を組んで入口から現れた。


「行くぞ」

「はい」

 俺とあやねはホテルから出てきたばかりのカップルのもとへ、堂々と駆け寄った。

 近づいてくる人影に気づいた芳乃が、何気ない仕草でこちらを見やり……一瞬でその顔色を変えた。


「えっ……なんでっ……」


 目に見えて狼狽える芳乃を見た男が、遅れて俺たちの存在に気づく。

「あの人たちがどうかした? 知りあい?」

 気遣わしげに声をかける男だったが、芳乃の耳には届いていないようだ。それどころか芳乃は、慌てた様子で男の腕を振りほどき、距離を取った。


「そ、その、これは違うの。ちがくてっ……!」


 ちらっと背後の建物を気にしつつ、芳乃は、必死な様子でしどろもどろに弁明する。

 ……なんだ、これは?

 ふいに脳裏をよぎったのは、目の前の光景によく似たシチュエーション。


 ――ち、違うよシュンくん? シュンくん勘違いしてる。だってこの人、わたしの兄だから


 芳乃の部屋で田宮俊朔と鉢合わせした際、芳乃は田宮に対し、必死に弁明を試みていた。

 それが今は……どうだ?

 芳乃はなぜ、真っ先に俺に弁明している?


 


 と、そこへ男がどこかおどおどと一歩前に出て、芳乃を守るように片腕を伸ばした。

「あのっ、どっ、どちら様ですか。ぼっ、ぼぼ僕の彼女になにか用ですか」

「ソーマ、この人は……わたしのお兄ちゃん……」

 言いながら芳乃が、やんわりと男の腕を下ろす。

 するとソーマと呼ばれた男は、とたんに表情を硬くした。

「おっ、お兄様でしたか。たたたいへん失礼いたしました。ぼ、僕は芳乃さんとお付きあいさせていただいております、たに宗真そうまという者です」

 深々と頭を下げる、宗真氏。

「俺は相沢光貴。こんなところで立ち話もなんだから、場所を移さないか?」

「はっ、はい、そうですねっ」

「芳乃もそれでいいか?」

 ぶんぶん、と首を縦に振る芳乃。


 かくして、五分間の無言の移動時間を経て、俺たちは再びファミレスへと舞い戻った。

 当然、四人がけのテーブル席へと通されたわけだが、こういう場合の席順は普通、


宗真 芳乃

俺 あやね


 と、だいたいこんな感じで、二対二で向かいあう構図になるかと思うのだが。

 なぜか、


あやね(←離れすぎ→)宗真

俺芳乃(←近すぎ)


 といった席順に落ち着いた。

 それもこれも、芳乃が真っ先に俺の隣を確保したためだ。

 その結果、初対面の男と並んで座るはめになってしまったあやねは、露骨に壁際ギリギリまで身を寄せている。


「…………」

 全員に飲み物が行き渡ったが、あやね以外は誰も手をつけようとしない。

 本日二度目のメロンソーダフロートを頼んだあやねちゃんは、我関せずとばかりに幸せそうにアイスクリームを頬張っている。そんなに冷たいものばかり飲んで、おトイレは大丈夫なのだろうか? そこだけ心配だ。

 ソーマくんはおろおろと落ち着きなく店内に視線をめぐらせている。

 芳乃は俺にベッタリと肩を寄せたまま動かない。普段とは違う、馴染みのないシャンプーの香りが鼻腔に届いた。

 そして俺は――


「なぁ、ソーマくん」

「はっ、はい、なんでしょう」

「芳乃のこと、好きか?」


 率直に、そう訊いた。


「もっ、もちろんです」

「今はまだ付きあって日も浅いだろうから、そうやって即答できるだろうが……あ、ちなみに知りあってどのくらいだ?」

「芳乃さんには中学で後輩として可愛がってもらっていました……あっ、僕は今中学三年です」

 なるほど、後輩と会っていたというのは、あながち嘘でもなかったわけだ。性別は違うみたいだが。

「で、話を戻すが、今は好きだと断言できても……ほら、芳乃ってこういうとこあるだろ?」

 俺に寄りかかる頭の上に、手を載せる。

「はい……それが?」

 一発で意味が伝わるあたり、芳乃の甘えっぷりはソーマくんに対しても遺憾なく発揮されていると見ていいだろう。

「嫌になったりしないか?」

「まさかっ、ありえません。むしろ必要とされてる感じがして心地いいくらいです」

「と、今は言えるが。一週間後、一か月後、一年後、だんだんとそれが重く感じ始めて……いつか耐えられなくなるだろうな」

 元カレたちはそうして、芳乃のもとを去った。彼も同じ道をたどることになる未来は容易に想像がつく。


「おっ、お言葉ですがお兄様。勝手に決めつけないでください。僕は未来永劫、芳乃さんを好きでい続ける自信があります! むしろ日に日に好きになっていってるくらいなんです!」


 ほう……と俺は胸中で唸った。

 口だけならなんとでも言える。

 だが彼の真剣な眼差しからは、ただならぬ熱意がこれでもかというほど伝わってくる。

 たしかに、彼はまだ若い。不安な面もある。

 だが、もしかすると、あるいは。

 彼ならば、いずれは芳乃を任せるに足る、立派な男へと成長を遂げてくれるのではないか?

 そんな期待を抱かせるのに充分な熱量が、彼からは感じられた。


「本気なんだな?」

「はい、本気です」

「……そうか」


 彼と芳乃が真剣交際をしていることに関しては、もはや疑いようがない。

 だったらもうしばらくのあいだは、彼らの行く末を温かく見守ることにしよう。

 そう心に決めたとき、


「コウくん」


 芳乃が耳元で囁いた。

「ちょっとだけ、ソーマと話してもいい?」

「ん? あぁ、別に構わないが」


 芳乃は姿勢を正すと、まっすぐにソーマくんを見て、


「ソーマ、あのさ、」


 ふいに芳乃が俺の手を握る。なにか不安があるのだろうか。俺が握り返してやると、芳乃はさらに力強く握り返してきて、

 そして、言った。


「――わたしたち、別れよう?」


 なにを言い出すかと思えば……さすがにそれは想定してなかったな。

 それはソーマくんも同じだったようで、彼は真顔のまま固まっていた。なにを言われたのか理解できていないのかもしれない。

 数秒の沈黙ののち、


「…………んでだよ」


 ぼそり、とソーマくんは言って、

 ――いきなり立ちあがった。


「なんでだよっ、芳乃っ!! なんでそんなこと言うんだよ!! 冗談だろ!?」


 豹変したように激昂するソーマくんに、芳乃は怯えた様子で俺の肩にしがみつく。


「なぁ!! なんとか言えよっ、嘘だって言ってくれよっ!!」


 店内で人目もはばからず声を荒らげ醜態を晒す男に、あやねがゴミ虫を見るような冷たい視線を送っている。あれは本気で引いてる顔だな。


「……突然でごめんね。だけど、どうしても別れたいの。もうソーマとは付きあえない」


 俺の背に隠れるようにしながら、芳乃が言う。

「だからっ! 理由はなんなんだよっ!!」

「……わたしのわがまま。ソーマは悪くないの。本当にごめんなさい。それと、今までありがとう。短いあいだだったけど、楽しかったよ」

「っ……!! そんなんで、納得できると思うかっ……!? なぁ芳乃っ!!」


 叫びながら、思いきりテーブルに身を乗り出す。俺は反射的に芳乃をかばうように右腕を広げていた。

 だが、彼がそれ以上迫ってくることはなかった。

 ソーマくんの視線は、隣でゆらりと立ちあがったあやねへと吸い寄せられていた。


 あやねは無言で手を振りあげ――直後、辺りに鈍い音が響いた。


 そして何事もなかったかのように着席するあやね。

 顔を明後日の方向へ向けたまま固まっているソーマくん。

 それは大切な親友を守ろうとしての行動なのか……あるいは彼が身を乗り出した拍子に、メロンソーダのグラスを倒してしまったことが原因なのか……若干涙目になっているところを見ると、後者かもしれない。

 騒ぎに気づいた店員が駆け寄ってきて、テーブルを拭き始める。

 ……あぁ、もうなんか、めちゃくちゃだな。


「なんでっ……なんでこんなことになるんだよ……クソがぁっ!!」


 ソーマくんは俺たちに背を向け、椅子を蹴りあげた。

「……ごめんね」

 そんな芳乃のつぶやきは、果たして届いただろうか。

 最後に大きな舌打ちを残し、ソーマくんは出口へと向かっていった。


 これが湊であれば、去り際にさりげなく伝票を持っていくところだが……まぁ、さすがに最年少にそこまでは求めない。

 ただせめて、自分の飲み物代くらいは置いていってほしかった。


 俺はテーブルを拭いてくれた店員さんに追加でメロンソーダフロートを注文し、それから芳乃に向き直る。

「いろいろと言いたいことはあるが……よかったのか?」

 俺としては、別れて正解だと思うが。

「うん」

「本気で付きあってたんだよな?」

「……たぶん」

「なんだよたぶんって」

「でも、いいの。このままじゃダメだっていうのは、ずっと感じてたし。コウくんに見つかって、ようやく別れる決心がついたの」

 そう言うと、芳乃は俺とあやねを順番に見て、

「コウくんとあやねが一緒にいるってことは……わたしが嘘ついてたのなんて、とっくにバレてるんだよね?」

「まぁな」

「そうですね」

「ごめんなさい!」

「それはいいんですけど、どうしてまた?」

 あやねの問いに、芳乃はぽつりと答えた。


「後ろめたかったから」


 ……それは、どういう意味だ?

、後ろめたかったの」

「……」

「それはソーマに対しても、コウくんに対しても。そんな気持ちだったから、あやねに自慢する気にもなれなかった」

「俺は早く彼氏作れって、いつも言ってただろ? なにを後ろめたいことがあるんだよ」

「そうだけど、でも…………ううん、違う、そうじゃない」

 芳乃は首を振ると、俺の目を見つめた。

「認めます。コウくんのことをキープしておきたいっていう願望が、わたしにはあった。そういう下心があったの。だから……新しい彼氏ができたなんて言ったら、コウくんがわたしから離れていっちゃうんじゃないかって――……」

「…………」

「それだけは、嫌だった。だから、ソーマとは別れることにした」


 それは、なんというか……本末転倒じゃないか?

 本物の彼氏よりも、あくまで彼氏の“代わり”でしかなかった俺を取る、だなんて。


「わたし、コウくん以外じゃ満足できない身体になっちゃったのかも」


 つまりは。

 芳乃にとって、彼氏の隣よりも、俺の隣のほうが心地よくなってしまった、と。

 そういう話らしかった。

 ……いや、どうなんだそれは。


「……本当にそれでいいんだな、おまえは?」

「うん」

 うなずく芳乃に、別れたことに対する未練はなさそうだ。

 それはそうか。今回は振られたんじゃなくて、自分から振ったんだもんな。


「あのね、コウくん。わたし、気づいたの」


 いつになく真剣な表情で、芳乃は言う。


「甘えられるひとがいれば、彼氏なんかいなくても、わたしは満足なんだなって」


 ……以前の芳乃であれば、そんなことは言わなかった。

「自分が甘えていることを認める」ような発言は、しなかった。

 前にあやねにからかわれた際も、「甘えている」ことを頑なに否定していた。

 傍から見れば一目瞭然な事実でも、芳乃はずっと態度で示してきた。


 そうやって、俺と芳乃は、なあなあな関係でここまで来たのだ。


 それが、今――


「だから、これからも、?」


 はじめて、自分の希望を明確に言葉にしてみせた。

 それはあるいは、芳乃にとっての“宣言”なのかもしれない。

「これからは今まで以上に甘えるから、覚悟してね♡」的な、そんな、悪魔のような宣言――


 そうでないことを願うばかりだった。

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