妹がラブホテルに入った
翌、日曜日。
芳乃は正午過ぎに、また例の後輩の女の子と会うのだと言って、昼食も摂らずに家を飛び出していった。
下手に尾行して見つかっては元も子もないので、三十分ほど時間を置いてから、俺も家を出た。
当然、芳乃が出かけると言い出した時点であやねへの連絡は済んでいるので、今ごろあやねは一人ラブホ前に先回りして張りこんでいることだろう。
果たして、
「首尾はどうだ?」
「きゃっ!?」
背後から声をかけると、あやねは飛びあがって可愛らしい声をあげた。
「……驚かせないでください」
相手が俺だとわかったとたん露骨に安堵の表情を浮かべ、かと思えば非難するような眼差しを向けてくる。
「驚きすぎだろ」
「……普段滅多に来ない通りなので、少し警戒していただけです。そんなことよりも、お兄さん。芳乃ちゃんですが、まだ来ていないようです」
言って、あやねは物陰から顔だけ覗かせ、道路を挟んで向かい側にそびえ立つ建物の入口を注視する。
俺はそんなあやねを注視した。
袖が余っているニット地のタートルネックに、デニムのショートパンツと黒タイツ、足元のハイカットスニーカー。肩から下げたバッグも含め、全体的に落ち着いた色合いで、シックな雰囲気に統一されている。
「あやね、私服可愛いな」
「……急になんですか?」
振り返ったあやねが、戸惑い交じりに言う。
「いや、ただ可愛いなって思っただけだ。他意はない」
「……そ、そうですか。でも私、ファッションにはあまり自信がなくて……変なところとかないですか?」
「だから可愛いって。似合ってるぞ」
昨日はどこか女子小学生を思わせるキュートさがあったが、今日は女子小学生が背伸びして大人ぶっているかのような可愛らしさがあった。
「あ、ありがとうございます。はじめて言われましたよ、そんなこと……」
照れたように視線を逸らすあやねの反応が面白くて、俺は追撃を加えた。
「まぁ元が可愛いから、たぶんなに着ても似合うだろうな」
「もうわかりましたから! そう何度も可愛いとか言わないでください!」
顔を赤くしながらそっぽを向き、そそくさと監視に戻るあやねであった。
雑談しながら監視を続けること、数十分。
あやねが言った。
「ねぇお兄さん、芳乃ちゃんは本当に来るでしょうか……?」
「今さらだな」
「だって、その…………お昼、じゃないですか」
「それがどうかしたのか?」
言いたいことはわかるが、あえて訊く。
「いえ……普通、こういう場所って、夜に来るものでは?」
「へぇ、そういうもんか? よく知ってるな? もしかしてあやねも、」
「いっ、一般論に決まってるじゃないですか。馬鹿なんですかお兄さんは?」
「なんだ、てっきりあやねの経験談なのかと」
「経験なんてありません!」
「カマトトぶるなよ」
「ぶってませんっ!」
あやねって、すぐ顔が赤くなるから見てて飽きないな。
「まぁ真面目な話、芳乃が来るとすれば、日中以外にはありえないんだよな」
なぜなら、夕方以降に芳乃が外出している様子はないからだ。
「といっても、日が落ちるまでまだ何時間もあるわけですが……」
「疲れたら先に帰ってもいいからな?」
「いえ、ご心配なく。こんなこともあろうかと、非常食も用意していますから」
そう言ってあやねがバッグから取り出したのは、動物のイラストが描かれた小袋が縦にいくつか連なった――タマゴボーロだ。
「好きなのか、タマゴボーロ?」
「ええ、好きなんです。お兄さんにも分けてあげますね」
と、小袋を切り離し、俺に渡そうとしてきた……そのときだ。
「なぁ、あれ、芳乃じゃないか?」
ホテルの方向に向かって歩いてくる、一組の男女の姿を捕捉した。
「どこですか?」
あやねが俺の視線をたどる。
人影が近づいてくるにつれ、顔の輪郭がだんだんと浮かびあがってきた。
「本当に来たな……」
「ええ……」
自分の妹を見まがうはずもない。
正真正銘、芳乃だった。
肩のあたりがはだけ気味な黒のブラウスに、クリーム色の上品なチュールスカート、エメラルドグリーンのパンプスを合わせている。上品さと大胆さが絶妙なバランスで調和した、普段の姿からは想像もつかない大人びた雰囲気を醸し出していた。
家で見たときはなんとも思わなかったが、外を歩いているところを見ると、顔の可愛さも相まって妙に目立つな。角を曲がるたびに軟派な男が寄ってきそうだ。
男連れでなければ、だが。
「あやね、隣の男に見覚えは?」
「ないです。そう訊くってことは、お兄さんも?」
「あぁ、ないな」
男は細身で背が高く、メガネをかけていて、優男といった感じの風貌だ。顔はそれなりに整っているが、あどけなさが全面に出ていて、下手をすれば芳乃より年下かもしれない。
男と芳乃は楽しげに談笑している様子だった。
そこに剣呑な空気は微塵もない。
「少なくとも、危険人物ではなさそうだな」
「ええ、悪い人には見えませんね。仲も良さそうですし、本当にただ健全なお付きあいをしているだけなのかもしれません。というか、そうとしか見えないです」
「ラブホ通いを健全と呼べるかはともかくとして、な」
だとしたら。ただ普通に付きあっているだけなのだとしたら。
なぜそれを、芳乃は俺たちに隠そうとしている?
やはりその点だけが、どうしても引っかかる……。
「……どうします? 出て行って止めますか?」
「いや、いい。ひとまずは見送ろうと思う」
「……お兄さんがそれでいいなら」
少しでもヤバそうな雰囲気なら止めるつもりでいたが、普通の恋愛の範疇であるならば、俺たちに邪魔をする権利はない。
そして、二人はホテルの前を素通りすることもなく、入口から建物の中へと消えていった。
「…………」
二人が消えた入口を、あやねはなんとも言えない表情で見つめている。いくら問題がなさそうでも、心配や懸念が完全になくなるわけではないだろう。
「そんなにじっと見てたって、しばらくは出てこないと思うぞ。なんなら、俺たちも休憩してくるか?」
「いいですね、では行きましょう」
「……」
「……なんとか言ってくださいよ。私、馬鹿みたいじゃないですか?」
照れるかからかいという名の罵声を浴びせてくるか、そのどちらかだと思ったが。
まさかノッてくるとは。
あやねの意外な一面を見た。
いや、もしかしたら、あやねは元々こんな女の子なのかもな。
以前よりもお互いに打ち解けた結果、より素に近い部分を見せてくれるようになったのかもしれない……なんてことをふと思った。
「よし、行くか」
「絶対に行きません」
「じゃなくて。あやねも昼メシまだだろ? どっか食べに行かないか?」
芳乃たちへの対処をどうするにしろ、早くても一時間は出てこないだろうし。
「……そうですね。お腹すきました」
というわけで。
俺たちはホテル前から歩いて五分の好立地にあるファミレスに入った。
俺はチキンドリアとアイスティーを、あやねはオムライス&ミニハンバーグプレートとメロンソーダフロートをそれぞれ注文する。
細長いスプーンですくったアイスクリームを一口食べてから、あやねが切り出す。
「さて……芳乃ちゃんですが。先ほどお兄さんは、“ひとまずは見送ろうと思う”と、そうおっしゃいましたよね?」
「言ったな」
「つまり、方針はすでに固まっている、と?」
「あぁ。待ち伏せて、直接真相を聞き出そうと思う」
こうして迂遠な調査方法を取ってきたのは、相手の動向があまりに不透明で、下手に刺激するのが躊躇われたからだ。
だが危険性がないとわかった今、これ以上探りを入れたところで時間の無駄でしかないだろう。
「たしかに、なぜ芳乃ちゃんは嘘をついてまで彼氏の存在を隠そうとしたのか……それは知っておきたいところです。ですが、なにも今じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「というと?」
「だって、デートの邪魔をするのも悪いですし。私たちが事情を聞くのは、明日でも……」
「よくないな」
俺はキッパリと言いきる。
「相手が芳乃だけならそれでもいいが。あの男と話をする機会を逃すのは惜しい」
もしもあいつが古井出湊に匹敵、あるいは凌駕するようないい男であれば、湊との復縁に固執する必要もなくなるからな。
「お兄さんによる面接、というわけですね」
「下手したらそっちが本題になるかもな。なんならあやねは帰ってもいいぞ」
「いえ、お邪魔でなければお供させてください。面白そうなので」
言いながら、ハンバーグを口に運ぶあやね。
幸せそうに顔を綻ばせている。
「……あげませんよ?」
「いらないが」
そんなにじっと見ていただろうか。
「仕方ありませんね、一口だけあげます」
「いや、別に……」
「はい、どうぞ……」
あやねはただでさえ小さいハンバーグをさらに一口サイズにカットし、俺の眼前へと差し出してきた。
……こいつ、芳乃の悪い影響受けちゃってないか?
俺が無反応でいると、あやねは我に返った様子でフォークを引っこめた。
「な、なにをやっているんでしょう私。なんというか手が勝手に……忘れてください」
「いや、やっぱりくれ」
あーん、と俺は口を開けた。
「…………」
あやねは俺の意図を推しはかるように数秒のあいだ見つめてきたが……
やがて無言で、再度俺の口元へハンバーグを運んでくれた。
躊躇せずパクリと食らいつく俺。
「お、うまいなこれ。ファミレスだからって馬鹿にできないな」
「でしょっ! …………こ、こほんっ」
あやねはわざとらしい咳払いをして、
「ですよね? 私もそう思います」
「言い直さなくても。なんだったら別にタメ口でもいいぞ?」
「いえ、そういうわけには」
「でも今の、可愛かったぞ」
「……はぁ。それはよかったですね?」
「もう一回言ってみてくれ」
「言いません」
そっけない返事をしつつも、その顔は赤く、視線は定まっていない。
う〜ん。
やっぱり、あやねと一緒にいると飽きないな。
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