妹の友達がおもらし


「お兄さん、本当は一人で入ってみたかったんじゃないですか?」


 芳乃の部屋に入って、第一声がそれだった。

「妹の部屋なんて普通、入る機会ないですもんね? シスコンのお兄さんにとっては、今回の一件は合法的に妹の部屋を漁ることができるまたとないチャンス。さぞわくわくしていたでしょうに……楽しみを奪ってしまって、本当にごめんなさい」

 得意げな微笑を湛えて煽ってくるあやねには悪いが、あまりに的外れで反応に困ってしまう。

 俺がこれまで、どれだけの時間を妹の部屋で過ごしてきたことか……。

 俺たち兄妹の実態を知ったら、あやねはどんな反応を見せるだろう?

 ……余計に調子づかせるだけだろうな。絶対に黙っていよう。


「それで、捜索じたいは俺も手伝っていいんだよな?」


 俺に部屋を荒らさせるわけにはいかないとの理由でわざわざ駆けつけてくれたあやねに、一応の断りを入れる。

「ええ、問題ありません。お兄さんが突然変な気を起こさないよう、きちんと監視しておきますので」

「それはありがたいな」


 というわけで、俺たちはようやく捜索に乗り出した。

 といっても、そう都合よく手がかりなんて落ちているだろうか?

 俺は室内を見回す。

 六畳ほどの空間に、物はそれほど多くない。入口近くに設置された学習机の上には、ピンクのノートPCが閉じた状態で置かれている。隣にはピンクの背表紙が九割を占めている本棚。壁際にはお馴染みのベッド。奥には大きなクローゼットが一つと、シンプルな姿見。ドレッサーの類はない。フローリングの床一面に敷かれた純白のカーペットは清潔感があり、部屋全体の印象を明るくしている。

 よく片付いているので、隅々までぜんぶチェックしてもそれほど時間はかからないだろう。


 俺は手始めにクローゼットを開こうとしたのだが、

「真っ先にクローゼットを選ぶとは、さすがはお兄さんといったところですが……残念ながら、許可できません。その中はお兄さんには刺激が強すぎます」

 とあやねが言うので、特にこだわりがあったわけではない俺はおとなしく引き下がる。

 まぁ、刺激もなにも、毎日芳乃の下着やらなにやらを洗濯しているのは俺なのだが……。


 クローゼットはあやねに任せ、俺は机の引き出しを上から順にあらためていった。

 そして……数十分後。

 怪しいものは、これといって見つからなかった。

 椅子の裏や本棚の奥、本のあいだなども注意深く確認したが、机周辺はすべて空振りに終わった。

 あやねのほうはどうだろうかと思い、俺は振り向いた。


 あやねはベッドの上で膝立ちになっていた。

 太腿はピタッと閉じられているが膝から下は思いきり開かれていて、つま先は内側を向いている。

 そんな体勢でこちらに尻を向け、ベッドの横の隙間を覗きこんでいるようだったが、なぜだか脚が小刻みにくねくねと揺れていた。

 誘ってるのか?

 なんて思っていたら、あやねがこちらを振り返り、言った。


「おかしいんです、お兄さん」


 真剣な面持ちのあやねに、俺は訊いた。

「なんか見つかったのか?」

「いえ、逆です」

「逆?」

「あるべきはずのものが、どこにもないんです」

「ないって、なにが?」

「“枕”です」

「……」


 芳乃の枕は……俺の部屋だ。

「これは、重要な手がかりです。おそらくは、自分の枕でなければ眠れない芳乃ちゃんが、こっそりと男の家に持ちこんでいるのではないでしょうか?」

 芳乃が俺の部屋で寝ていることなど知るよしもないあやねが、的外れな推理を展開していく。

 正直に言うか?

「実は毎晩一緒に寝てるんだ」、と。

 …………いや。

 そんなことを言えば、どんな反応が返ってくるか……考えただけでも面倒だ。

 ここは本当のことは伏せつつ、適当に話を逸らすのが賢明だろう。


「いや、芳乃は外泊なんてしてないし、それはないな」

「“寝る”のが夜だけとは限らないでしょう? それこそ、芳乃ちゃんが危ない男と怪しげなお付きあいをしているのであれば、明るいうちから……ということも考えられるのでは?」

 自分で言っておいて、あやねはちょっと頬を赤くしている。いったいどんな“怪しげなお付きあい”を想像したのか。

「そっちの“寝る”なら、別に枕いらないだろ」

「そ、そうかもしれませんが……では、枕がないのはどう説明するんです?」

「……捨てたんじゃないか? 枕がないほうが自分に合ってるって気づいて」

「ちょっと無理がある感じがします」

 たしかに。


「やはり、枕になんらかの秘密が隠されているのは間違いないと見るべきでしょう。とはいえ、ここから芳乃ちゃんがどこで、誰と、なにをしているのか、という具体的な情報までたどり着くのは難しそうです。捜索のほうもこれ以上はなにも出てきそうにないですし、今日のところはそろそろお開きにしましょう。……そ、それでなんですが。帰る前に……そのっ」


 あやねは急に早口でまとめに入ると、続けてなにかを切り出そうとして言いよどみ、視線を逸らす。

 直後に思い直したように、キッと真正面から俺の目を見据えて――


「お……お手洗いをお借りしたいのですがっ」


 それはそれは恥ずかしそうに頬を染め、そう告白した。

 そんなあやねの態度に、俺は。


 ――ひどく違和感を覚えた。


 おかしい。

 静志麻あやねという女は、そんなキャラだったか?

 たかだか、「トイレに行きたい」と言うくらいで。

 そこまで躊躇ためらうか?

 そこまで恥ずかしがるか?

 これが内気な女の子であれば、そういうこともあるだろうと思える。

 だが、あやねがそんなタマだろうか?

 ……どうも腑に落ちない。

 なにか裏があるような気がしてならない。

 言いよどんで視線を逸らしたのは、嘘をつこうとしたからでは?


 もしかして……そういうことか?


 トイレに行くなどと言って、俺の部屋を確認しに行くつもりなのではないか?

 きっと、あやねは勘づいたのだ。

 俺の部屋に、芳乃の枕があるのではないかと……。


 そうはいくか。

 ここはなんとしても、阻止しなくてはならない。


「あ、あの、お兄さん……?」

 どこかもぞもぞと落ち着かない様子のあやねに、俺は言った。


「いや、ダメだ」


 想定外の返事すぎて、なにを言われたのかわからなかったのだろう。あやねは数瞬、呆けたような顔で固まり……

 次の瞬間、あやねは、あやねにしては珍しく声を荒らげた。


「そっ、そんな、困ります!」


 表情に焦りの色をにじませ、すがるような目で俺を見る。

「実はさっきから、ずっと我慢していて……あの、もう限界なんです」

「意味がわからないんだが。普通、催した時点で言わないか? 限界まで我慢する理由がないだろ」

「それは…………恥ずかしくて言い出せなかったんです」

 なんとも嘘くさい理由だ。嘘くさすぎる。


「あの、お借りしてもいいですよね? 借りますよ?」

「だからダメだって。『金は貸してもトイレは貸すな』がうちの家訓なんだよ」

「それこそ意味がわからないです! あっ、だめ……大きな声を出したらっ……」


 あやねはいきなり両手をスカートの上へと持っていき、太腿のあいだに挟んだ。それから、「いかにもトイレを我慢してます」という感じで、ベッドの上でもじもじと激しく悶える。

 少々大げさではあったが、「もしかしたら本当に我慢しているのかもしれない」と思わせるくらいには、その様は真に迫っていた。

 なかなかの演技力だ。あやねの意外な才能を垣間見た。


 とはいえ、俺の目は誤魔化せない。

 だいたい突然すぎるのだ。

 今までそんな兆候は見せなかったのに、ここにきて急に限界が訪れるのは、不自然極まりない。

 ……まぁ、予想外の拒絶を受けたことにより精神的に追いこまれ、その結果、急激に波が押し寄せてきた、と考えれば一応の説明はつくが……。


「ごめんなさい、お兄さん」

 ぽつり、とあやねは言った。


「ごめんなさい、相沢家のご先祖様」

 言いながら、ベッドから脚を投げ出す。


「家訓、破ります……!」


 どうやら強行突破するつもりらしい。

 止めなくては――と、使命感のようなものが反射的に湧きあがったが、


 ふと、思う。

 そこまで必死になって止めることもないか……?

 考えてみれば、枕を見られたところで、いつもどおりにからかわれるのがオチだ。

 だったら別に、いいか。

 わざわざ必死になって止めることのほうが、よっぽど面倒だ。


 という考えに至り、俺は傍観を決めこんだのだが。


 ――よほど、慌てていたのだろう。

 ベッドから立ちあがる際、あやねは、


 バランスを、崩した。


「危ないっ――!」


 俺はとっさに駆け寄り、手を掴んで引き寄せた。

 なんとか転倒は避けられたが、勢い余って思いきり身体を預けてきたあやねの体重を、俺は支えきることができず……背中から床に倒れこんだ。

 鈍い衝撃が全身を駆け抜ける。


「いってぇ……」


 思わず閉じた目蓋を、ゆっくりと開く。

 胸元に、あやねの頭があった。

 俺はあやねの背中に手を回した格好で、全身を受け止めていた。

 支えきれなかったのは情けない限りだが、それでもどうにか無事、かばうことだけはできた。

 できたはずなのだが……


「あっ……あっ……」


 突然、あやねが俺の胸で変な声を出した。

 顔をうずめているため表情は読み取れないが、前髪の隙間から覗く額は、瞬く間に真っ赤に染まった。

 もしかして、どこか怪我でもしたのか……?


「おい、あやね……? 大丈夫か?」


 声をかけるが、反応はない。

 不審に思った俺は、ひとまず身体を起こそうと身じろぎして、

 ――――強烈な違和感。

 なんだ?

 下半身が、太腿から膝下にかけて全体的に……なんか。


 生温かい、濡れたような感触が衣服ごしに伝わってきて――


「…………ご、ごめん、なさいっ」


 俺の胸に顔を押しつけながら、あやねはくぐもった声を発した。

 これまで一度もあやねの口から聞いたことがないような、引きれた声だった。

 素の狼狽だと、直感でわかる。

 それは、少なくともあやねにとっては、ただごとではない事態が起きた……ということを意味しているわけで。

 そこまで考えて、ようやく俺は、今の状況を正確に理解したのだった。



 あやねが風呂に入っているあいだに、俺は自分の着替えと、大量のティッシュをカーペットに押し当てる作業を終えた。あとでちゃんと洗ったほうがいいだろうな。

 しばらくして、あやねが部屋に戻ってきた。上半身は変わっていないが、下半身だけ芳乃のスカートに変わっている。茫然自失状態だったあやねに、俺がクローゼットから適当に見繕って手渡したものだ。

 もちろん、ノーパンで過ごさせるわけにもいかないので、下着もセットで渡した。

 いくら同性でも下着の貸し借りは個人的にはどうかと思うのだが、緊急事態なので仕方ない。残念ながら新品はなかったので、なるべくきれいなやつで妥協してもらった。

 もっとも、あやねにそんなことを気にしている余裕はなさそうだったが。


 あやねは俺とは視線も言葉も交わすことなく、部屋の隅まで行ってちょこんと体育座りした。


 こういうとき、なんと声をかければいいのだろうか。経験がないのでわからない。

 ……ふと、脳裏をかすめる台詞があった。

 あれはたしか、はじめてあやねに会った日のこと。

 初対面のあやねに、耳元で囁かれた言葉。


 ――そういうのって……ちょっぴり、引いてしまいます


「…………」

 もし、今、俺が。

 そういう類の言葉を、あやねにかけたとしたら。

 あやねは、二度と立ち直れなくなるかもしれないな。

 なんてことを思った。


 俺は静かに、あやねのそばに近づいた。

 あやねはぴくりと肩を震わせる。

 俺は言った。


「まぁ、気にするな。そんな深刻そうな顔するほどのことじゃないだろ」


 迷った末、そんなありきたりな慰めの言葉を選んだ。

 からかったり茶化したりするのは論外としても、に一切触れないのも、それはそれで不自然だと思ったのだ。

 少しの沈黙を挟んで返ってきたのは、


「……そんなわけ、ないじゃないですか。高校生ですよ、私?」


 そんな自嘲めいた言葉だった。

「ここだけの話、芳乃も小三くらいまでおねしょしてたぞ」

「全然慰めになってませんし、『も』とか言わないでください……」

「だいたい俺がすぐに行かせなかったのが悪いんだし、おまえが気に病む必要はハナからないんだよ。おまえはただ、俺とうちの家訓を恨めばいい」

「やめてください、お兄さんも家訓も悪くありません。百パーセント自分の落ち度だって、ちゃんとわかってますから……」

「……」

「ねぇ、お兄さん?」

「なんだよ」

「からかわないんですか?」

「なんで」

「だって、絶好のチャンスじゃないですか? 私がお兄さんならここぞとばかりに仕返しすると思います。今なら相当なダメージを与えられますよ? それなのに、ねぇ、どうして……どうしてお兄さんは、そんなに優しくしてくださるんですか?」

「なんだよ、からかってほしかったのか?」

「…………からかわないで、ほしいです」

 俺がうなずくと、あやねは上目遣いに俺を見あげて、

「……そ、それから。このことは、芳乃ちゃんには内緒にしていただけませんか?」

「二人だけの秘密ってやつだな」

「その言い方はどうかと思いますが……まぁ、それでいいです。……本当は、お兄さんにも忘れてもらいたいくらいですが」

「努力はする」

 俺の返事が面白かったわけではないだろうが、あやねはそこではじめて、ふっと薄い笑みを浮かべた。

「お兄さんって、お兄さんだったんですね」

「なに言ってるんだ?」

「『あぁ、お兄さんって年上なんだな』って。今日、はじめてそう意識しました」

「はじめてかよ、今までなんだと思ってたんだよ」

「シスコンをこじらせたかわいそうな人」

「あのな……」

「ふふふっ、冗談です」


 微笑むあやねは本調子にはまだ遠いが、それでもあの直後に比べればずいぶんと落ち着きを取り戻しているように見えた。

 このぶんなら、そこまで心配はいらないだろう。



 そんなこんなで、この場は解散になるかと思われたのだが。

 実はまだ調べていない箇所が残っているのだと、あやねは言った。

 さっきはこれ以上捜索しても無意味だと言ったが、それは早く切りあげなければならない事情があったからで、本心は違ったらしい。


 あやねが椅子に腰かけ、、五分が経過したころ。


「……お兄さん、ちょっと」


 ぼそりと言ったあやねに、俺は近寄った。

「なんかわかったのか?」

「ええ……」

 どこか戦々恐々とした様子で、あやねは画面を指し示す。


「これ……見てください。ブラウザの検索履歴です」


 俺は画面を覗きこんだ――



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「生々しいものを見てしまいました……」

「だな……」

 ほんのりと頬を染めているあやねに、同意を示す俺。


「それから、ここ」


 あやねはカーソルで一つのブックマークを指し示し、クリックする。

 飛んだ先は、ホテルの公式HPのようだった。

 住所を確認してみたところ、


「わりと近いな……」

「ええ……」


 ついに尻尾を掴んだ。そう感じた。


「このホテルの前にでも張りこんでれば、芳乃が来るかもな」

「かもしれません」

「今から行ってみるか?」

「いえ……やめておきましょう。そろそろ帰ってきてもおかしくない時間ですし、入れ違いになるかもしれません。それに、なにより……私が本調子じゃないんです」

「……それもそうか」

「こうして平静を装ってはいますが、正直なところ、一度帰ってひとり反省会を開かないことには気持ちの整理がつきません……すみませんが」

「いや、元のあやねに戻ってもらわないと俺も調子が狂うしな」

「明日には必ず、元の静志麻あやねに戻りますので。もし明日も、芳乃ちゃんがどこかへ出かけるようであれば――そのときは連絡をください。一緒に張りこみましょう、お兄さん」

「あぁ、了解した」


 ともかく、明日だ。

 明日も芳乃が外出し、思惑どおりホテルに姿を現せば、一緒にいるであろう男の姿もバッチリと拝むことができる。

 そいつがヤバそうなやつなら無理やりにでも芳乃から引き剥がし、健全な雰囲気であればそっと見守ることになるだろう。後者だった場合、なぜ芳乃は嘘をついたのかという疑問はやはり残るが……

 それでもここまでくれば、問題は案外あっさりと解決してしまうような気がした。

 希望的観測だが。

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