去らばこれにて
綣野緒途
去らばこれにて
僕はその時「恋空」を読んでいた。
慶介という男が既婚女性である帆波に恋をするのだが、夜を共にした次の日から帆波と連絡がつかなくなり、帆波への思いが日に日に強くなった慶介は日を追うごとに外に出なくなり、お風呂に入らなくなり、ご飯を食べなくなり、そして最終的にはベッドで仰向けになったまま動かなくなって、そのまま死んでしまう話だ。
その日はとてもいい天気だった。
僕は近所の公園のベンチに座っていた。
遠くで一人の子供が滑り台の方へ駆けていった。それを母親がちんたらと追いかけている。
公園の木々はすっかり散っていて、もう秋も終わろうとしていた。
寒いというより皮膚が痛い季節だ。
そんな季節に僕はずっと好きだった女の子にフラれた。
この季節になるとみんな人肌恋しいと言いはじめる。言い始めるのだ。
僕は街中のイルミネーションが綺麗だと思う。そこにあるむき出しの意思がはっきりと感じ取れる。もちろん、そこに悪意などない。
すべて計算しつくされた都会の風貌はそんなみんなにお似合いだ。
「どうやら人肌が恋しいらしい。」
僕はそっと呟いた。僕とは関係のない第三者の噂のような響きだった。それだけが僕がまともであると言える唯一の証拠だった。
奴らとは違うんだ。君は見誤っているよ。
ふと横を見ると猫がニャアと鳴いた。遠くにいた子供と母親はまだ笑顔で遊んでいた。
その日僕は夢を見る。
僕は長い廊下を歩いていた。ずっと続く一本の長い廊下だった。その道を遮るものはなにもなかった。
辺りは真っ暗だった。廊下だけに光が当たっており、廊下の道以外のものがなにも見えなかった。ひとたび廊下の道から逸れると、その闇に吸い込まれるのではないかと思うような、そんな景色だった。
僕はその廊下をずっと歩いている。音も匂いも何もない無機質な空間をひたすらに。
別に立ち止まればいいじゃないかと夢を見ている僕は思った。しかしそこにいるもう一人の僕は足の運びを緩めもしなかった。黙々と、ひたむきに、歩みを進めている。
しばらくしてその廊下の先に、僕がずいぶん幼かった頃に晩御飯を食べている僕を母親が笑顔でじっと見つめている姿が映し出された。
それでもそこにいる僕は歩みを止めない。遠くを見て手足を規則正しく動かしている。
続いて廊下の先には小学校の校庭で父親とサッカーをしている僕の姿が映し出された。
徐々に廊下の周りが明るくなってくる。しかしまだ僕はまっすぐ水平線を目指して歩いている。
次に女の顔が映し出された。顔に靄がかかっていてはっきりと視認することができない。どんなに目を凝らしてもその人が誰だか分からない。はっきり見たいと僕は思った。
すると突然自分を罵倒する言葉が聞こえてきた。その声はどんどん音量を増し、次第に何重にも重なり、ノイズへと変わっていった。
それでも僕は目を見開き、背筋を伸ばし、水平線を睨んで歩いている。
しばらくして廊下の先に黒い塊があると思うと、そこから大量のカラスが自分をめがけて飛んできた。恐ろしい速さだった。
廊下の周りはどんどん明るくなっていく。しかし視界は明るさを感知しているだけでその画面は目前の大量のカラスでいっぱいだ。
それでも僕はそのまま背筋を伸ばしてまっすぐ歩いている。唯一変わっているのはその歩く速さだ。加速する。カラスの群れへと自らまっすぐ歩いていく。
俺が負けるわけがない。
やがて視界は光そのものになった。窓から大量の夕日が差し込んでいる。
カラスは鳴き、六帖一間のアパートが赤く染まる。
時計を見る。
17時37分。
近所の公園から母親が帰りを促す声が聞こえた。
僕はそっとズボンを下ろした。あの子に会いたくなった。
あの子に会いに行こう。あの子のときめきを。
巷ではトニーという紙芝居師が流行っている。
「ワロタンゴwww」というギャグと優しそうなルックスが相まって女子高生の間で人気の紙芝居師だ。いまや老若男女問わず大人気で、毎日テレビにひっぱりだこ。抱かれたいB型芸能人ランキング第4位の実力派芸能人である。
そのとき有紗は大歓声の真っただ中にいた。
彼女の目線のはるか先にはうっすらと小さくトニーがいる。
今日は賀茂川南高校の文化祭。ゲストとしてトニーが来る日だった。
学校中が沸いていた。
人ひとりでこんなに騒げるなんてどれだけ幸福な人生を送ってきたんだろうと有紗は思った。隣を見るとたくみがポケットに手を突っ込んでボーッと佇んでいる。
同じことを思っているといいなと有紗は思った。
壁は考える生き物である。それは世の定説であり、猫と等しく犬より尊い。14歳より甘酸っぱく、2日目のカレーに残っているジャガイモの破片より脆い。
壁は友達が多い。なぜなら彼はおおらかだからである。床に言わせれば手でペタペタ触られるくらいならそうなるのは当然の仕上がりらしい。
そんな床だが、彼はある女子校生に恋をしたようだった。壁はその話を昨晩5時間も聞かされたのだから、彼が2回あくびをした後に3回くしゃみをするのも納得できる話である。
今朝、床は50歳手前のおばちゃん3名に体を丁寧にモップで拭かれていた。
いつものことだ。何か行事があると必ず床はお風呂に入れさせられる。彼はそのとききまって泣いている。
繊細な男だ。とても人間らしい、泥臭い男だった。
なぜ彼を人間にしなかったのか、壁は甚だ疑問に思うことがあった。
「俺はな、世界を変えるんだ。」
床はうつむきながら悲しげにそう言った。
「もう踏まれたくないんだ。誰にだって踏まれたくない。」
語尾に冷たい空気を感じた。
壁は返答に困った。世界中でなにより悲しいのは、大好きな人が困っていることに対してなんの手も差し伸べてやれないことだ。そう、彼は踏まれることのない”壁”なのである。
「だれがこんなに踏まれてるやつを好きになる?俺なら少なくてもならないね。そういうやつと一緒にいると自分の価値まで下がっちまうからな。何が悲しいって、そうさ、柚香さんにまで踏まれることだよ。好きな女性にまで踏まれちまう。みんな当たり前かのように俺を踏むんだ。それなら俺だって当たり前の顔をしてひとりひとりマントルに落としてやろうか。」
壁は必死に頭を回して、適当な言葉を探っている。
「でも床くん。君がいないとみんな地下へ落ちて行ってしまう。」
うまいことはやはり言えなかった。
「俺の重要性に気づかないバカは落ちてしまえばいいんだ。そのとき革命は起こる。ああ、床ってあったなぁって。逆に言えばだよ、そこまでしないとわからないんだ。誰も意識もしない。”きっと見てくれてる人がいるよ”って言えるのは認められたことがあるからだ。そしてそいつらに輝くなにかがあるからだ。みんなみんな、すべてが終わった後に言いやがるんだ。ああいういうことを宣うやつらはそのときの苦しんだ痛みや葛藤を度外視して、認められたという結果でラリッてやがる。その言葉を放ったあとも、そのことを言えた快感でアヘ顔だよ。狂ってる。いいかい、壁。響きがよく聞こえる言葉は大体言葉遊びなんだ。どれだけうまいことが言えるかを競っているんだよ。それに意味を持たせられたとしても、真実は含まれない。文法的に正しいだけだ。床として存在している、みんなの当たり前になった俺はどんなことがあっても消えることでしか気づいてもらえないんだよ。」
壁はついに黙ってしまった。僕らは、モノだからだ。立ち止まることすらできない。
そこにありつづけるモノだ。
「グッ。」
床が声を上げた。大量の生徒が群れをなしてこちらにやってきた。壁は黙ってそれを見ていることしかできない。これもいつものことだ。
助けてやりたいと思う。しかし僕らはそこにありつづけるモノだ。一個の独立した存在だ。悲しい話だが、それをカルマとして背負って生きていくことしか僕たちにはできない。
少なくとも壁はそう考えていた。
でもきっと床はそこにすら疑問を感じて生きているのだろう。
生きづらいと思う。けれど、だから、壁は床が好きだった。
トニーはその30分後にその場へやってきた。白のジーンズに白のシャツ、それにピンク色の蝶ネクタイをつけて、脇に赤色のフリップを抱えている。
床は多くの生徒とトニーに踏まれ、もちろん、柚香にも踏まれている。
目を閉じている。口をつぐんでいる。表情が一つも動かない。
壁もそっと目を閉じる。この地獄が早く終わるように。祈る。祈るのだ。
5時のサイレンが鳴った。トニーの学園祭ライブが始まった。
床はあれからずっと目を閉じている。身動きひとつしないまま。
窓から差し込む夕日がその会場を赤く照らす。
壁も赤い。
床は人々の黒い影を映し出す。
僕らは物質だ。
そこにあり続けた日からどれだけ頑張っても、僕らは僕らのままだった。それは理解するというよりも理解させられるという表現が適格だった。受け入れるより他に術がなかった。
誰にも意識されず、そこにあるモノとして、求められているものを求められている通りにこなす。
どんなに辛かろうとそれが変えられぬものだったから、僕らはその枠の中で精いっぱい生きるしかなかった。その範囲のなかでできる工夫を僕らなりに模索して。
トニーの紙芝居は大勢の笑いをかっさらっていた。
昔、床はよく言っていた。
「なんでこんなに悲しいのだろう。」
悪いのは誰だ。悪いのは誰だ。
そして紙芝居の紙は話すだろう。
「悪いのはお前だ。」
やがて口は話すだろう。
「悪いのはお前だ。」
17時37分。
思想が世界を変えるだろう。
次第に時空が廻りはじめる。トニーの声は歪み、紙芝居の絵は歪曲する。
天地が逆転し、風景の左右も逆転する。生徒の位相が入り乱れ、すべてのモノが細かくミクロ単位で切り刻まれていく。異様な音がする。異様な臭いがする。
そんな光景の中で、壁はもはや何も感じなかった。終わりがくることに安堵すらしていた。
床はうつむいたまま肩を震わせていた。
ミクロの塊が奈落の底へと落ちてようとしている。轟音がする。
そして床は走り出した。壁は呆気にとられて動けなかった。
「世界を変えたぜ。」
ミクロの口がパクパクと動いていた。
床は一塊の黒になる。そこに柚香がいればいいと思う。
時間は待ってはくれない。言葉遊びなんかじゃない。
黒は落ちる。そしてそれは世界中に響く。
「覚えとけよ。」
去らばこれにて 綣野緒途 @oppabuking
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