【拉致】


 それは巨大な黒い蜘蛛の怪物だった。


 僕たちが少しずつ距離を狭めていっても微動だにしない。

 まだ気がついていないのか、それとも虎視眈々と僕たちが真下を通るのを狙って待っているのかわからない。

 視線が合うとマズいので、僕は途中から見上げるのをやめた。薄暗い天井の照明が作る影と気配で蜘蛛の様子は見ずともだいたいわかる。ような気がする。

 思わずダッシュして駆け抜けたくなる気持ちを必死に抑え、僕は一歩一歩慎重にゆっくりと足を前に出していく。


 怪物の真下に来た。


「今だ!」


 僕は未弥の腕を掴むと猛然と走り出した。


 いきなり未弥が転んだ!


 なんてドジなやつ!


「ああっ!」


 巨大な蜘蛛の化け物はあっというまに天井から降りてきていて、もうすでに未弥の体を全身で包み込んでいた。

 かと思うとそのままササササとものすごい速さで僕たちがやって来た方向の廊下の奥に消えていったのだ。

 そのあまりの手際のよさに、僕は呆然と立ちつくしてしまった。


 ハッと我にかえり、


「何してんだ僕は!」


 僕は走って巨大蜘蛛を追いかけた。


 元来た廊下をドスドスドスと駆け巡る。


 何度も何度も角を曲がる。


 いない。

 見つからない。

 どこまで走っても追いつかない。なんて素早いんだ。どのみち一本道だから隠れる場所はないはずだ。


 でも、僕はあまりにも全速力で廊下を駆け抜けてきたので、あっというまに分岐のあるところまで戻ってきてしまったのだ。


 T字路に出た。


 クソ、どっちに行きゃいいんだ。とりあえず右だ。僕は右に曲がる。

 あっ、今度は三叉路じゃないか、ああもうダメだ、いやあきらめるなあきらめるな、未弥のやつを見殺しにはできない。あいつ悲鳴も上げなかった。あっという間の出来事でそんなヒマさえなかったんだろう、すぐに気を失ったのかもしれない、クソ、未弥待ってろ、絶対助けてやるからな。


 ああまた三叉路だ、右か? まん中か? 左か? 今度は左だ! 


 曲がると延々と一本道が奥まで延びている。


 いない。誰もいない。ああ無理だ。苦しい。息が持たない。これ以上走れない。しかしそれでも走り続けるしかない。そうしないと未弥は見つけられないし、助けることもできない。

 僕はフラフラになりながらも廊下の迷路を全速力で駆け続けた。


 やがて廊下の突き当たりにぽっかりと開いた空間が見えてきた。

 吸い込まれるように入っていくと、そこは踊り場になっていたのだった。


 上下に続く狭い階段があった。

 蜘蛛の怪物は依然として影もかたちもない。

 上に行っていいものやら下に行っていいものやら、どっちに行っていいものやらもはやさっぱりわからない。そもそも蜘蛛の怪物がこの場所にやって来たのかどうかさえわからない。

 やっぱりダメなのか。僕は未弥を助けることができないのか。女の子ひとり守ることができないのか。


「チキショォォーッ!」


 絶望的な気持ちで僕は、まったく何も考えず衝動的に上り階段をがむしゃらに駆け上がった。何階も何階も、ほとんど錯乱状態となって上へ上へと続く階段を、そのつど体の向きを変え、どこまでもどこまでも延々と上階を目指していった。いったいこれはどこまで続いているんだ。


「紗織さん! 紗織さん!」


 僕はまだ手にしていた木刀を振り回し、狭い階段の周囲をバシバシ叩きながら発作的に沙織の名前を叫んだ。


「紗織さん! ひょっとしてどっかから見てんじゃないのか! 一部始終を見てんじゃないのか! これは全部ゲームなんじゃないのか! もしそうならそろそろ出て来てよ!」


 木刀を振り回し怒鳴ったおかげですっかり息が上がってしまい、とうとう僕は薄暗い階段の途中で立ち止まると、肩でおおきく息をしながらがっくりとそこに膝をついてしまった。


「わかった、もう降参するよ。だからお願いだよ、ゲームだっていってよ。頼むよ……」


 無慈悲なまでの静寂が階段ぜんたいを包み込んでいた。


 僕の問いかけに答える者は誰ひとりいなかった。


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