【黒いもの】


「駅」さえ見つかれば……。


 ふたりで廊下を歩きながら、僕はそればかり考えていた。通りがかる電車があれば、どうにかしてそれに飛び乗ってやろうかとも思った。そんなこともちろん無理なのはわかってる。部屋が見つかってもそこが「駅」であるという保証を得られなくなってしまった今、電車に乗るのはさらにむずかしいことになってしまった。


(まあいいさ。そのうち見つかるだろう)


 それもこれも未弥の体力が持てばの話だ。彼女はかなり疲れてきているように見える。まだこの先、どれだけ歩けばいいのやらまったく見当がつかない。延々と廊下をさまよい続ける可能性もあれば、あんがいすぐに「駅」が見つかる可能性もある。ぜんぜん先が見えないことがよけいに疲労度を高めた。せめて気持ちだけでも前向きにしておこう。


 ところが、どうやらそうもいかない事態が起こりそうな感じになってきた。


 さっきからずっと気になっていたが、廊下の前方、十メートルくらい先の天井に、今度は何やらおおきな黒いかたまりのようなものがくっついているからだった。

 僕たちはいったんその場に立ち止まった。


「ニコゴリさん、あれ、何ですか」未弥が聞いてきた。


「ここからじゃまだよくわからないな」


「何か、生き物っぽい感じがするんですけど……」


 そうだよなあ、と僕は思った。やっぱりそう見えるよなあ。っちゅうか、それ以外には考えにくいよなあ。


 黒いかたまりは今のところ動いているような様子はない。ぴったり天井に張りついたままじっとしている。


 大事を取って引き返すか。それともこのまままっすぐ行くか。危険なルートをそのまま通過することには何のメリットもない。引き返して同じ道を戻るのは面倒だけれど、このさいしかたがなさそうだ。


 と思ってうしろを振り返った僕は、しばらくのあいだずっと分岐のない一本道を歩いてきたことに気がついた。角はたくさん曲がったが、引き返すとすれば、まったく同じルートを後戻りしなくてはならないということになってしまう。今までの単調な廊下の道のりのことを思い出すと、激しく気が萎えた。


 前に向き直ると、そこにはまだ未知のルートが延びている。黒いかたまりの下を通りすぎさえすれば、その奥にはまた曲がり角がある。あの角を曲がれば、ひょっとしたら今度こそ何か新しい展望が開けるかもしれない。開かないかもしれないが開くかもしれない。黒いかたまりはじっとしているだけで蠢いて襲いかかってくる様子がまるでない。


「このさいおもいきって、このまままっすぐ行くか。どう思う?」僕はいちおう未弥にも意見を求めてみた。


「わ、わかりません」


 困ったような顔で未弥は答えた。そらそうだろう。僕だって何がベストなのかわからない。


「引き返したほうがいいかな」


「わ、わかりません」


「行くとしたら、おもいきり走り抜けたほうがいいかな」


「わ、わかりません」


「それとも、刺激しないようにゆっくり行ったほうがいいかな。あれが生き物だとしての話だけど」


「……わ、わかりません」とうとう未弥は泣きそうな顔になった。


「やっぱりこのまま行こう」僕はいった。「どうせこのぶんじゃどこをどう進もうと常に危険はつきまとうんだろうし、同じことなら前に向かって進んだほうがマシだ」


 僕は決意を固め、上着の襟首から背中にさしていた木刀をスッと引き抜いた。その先っぽを黒いかたまりにさして向ける。


「いいか。無理に走り抜けようとするとあいつを刺激して逆に襲われそうな気がする。最初はゆっくり行って、真下まで来たら一気に駆け抜ける」


 未弥はもはや恐怖で口もきけないのか、無言でコクンとうなずくだけだった。


「よし、行くぞ」僕は決然としたまなじりを未弥に向けた。未弥はほとんど泣き顔のままでうなずいた。


 木刀を力強く握りしめ、天井を見上げつつ、僕はそーっと前に歩き出した。未弥が僕の服の袖を掴みながらあとに続く。

 じりじりと近づいていくにつれ、天井に張りついているものの輪郭が、しだいに明瞭になってきた。


 やっぱり生き物だった。


 おおきな蜘蛛だった。


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