【穴】
床は全部板張りで、壁には何本か木刀がかけられてある。
どう見ても剣道場だ。
スーッと引戸を開け、とりあえず入ってみることにした。
「ニコゴリさん……」
不安げに未弥があとに続く。
僕の目的は、目に入った木刀だった。どこでまた例の怪物に出くわすかわからない。あの時の箒はとっくに手元にはない。手に何か武器的なものを持っていないと不安だ。木刀なら箒とは比較にならないくらい頼りになるだろう。僕は広い道場の空間を横切ると、壁にかけてある一番上の木刀を手に取った。
その時、カチリという、スイッチか何かが入る音がしたような気がした。
僕は後ろからついてきた未弥と顔を見合わせたが、未弥は気がつかなかったようだ。まあ別にたいしたことはないだろう。
それ以上特に気にすることもなく、木刀の振りを確かめつつ道場のまん中まで歩いていった。そこで二、三度素振りの真似事をしてみる。これならやりようによっちゃ怪物に結構なダメージを与えられそうだ。
と、未弥が突然おおきな声で、
「ああっ、ニコゴリさん、あぶない!」
「えっ」
未弥の大声に気を取られているあいだに僕の足もとの板がふたつに割れていた。そこにおおきな黒い深淵が広がっている。もうこの段階で僕の両足は宙に浮いていた。
突如として割れた床板がスライドし、巨大な丸い穴が口を開いたのだった。
「ああっ!」
「ニコゴリさん!」
落ちる!
木刀を床に放り上げた僕はとっさに穴の側面にしがみつこうとした。
間一髪止まった!
壁面に張りつくような感じになった。しかも滑らない。
両方の足の先もかすかな凹凸にうまい具合に引っかかっている。穴の内壁は石積みになっていたのだった。完全にロッククライミング状態だ。やったことないのに。
ダッシュで駆け寄ってきた未弥が手を伸ばすが、届かない。たとえ彼女の手を掴めたとしても、女の子ひとりじゃ無理だ。僕を引き上げられない。
よせばいいのにこの時僕は穴の底を見極めようと、チラリと下を見た。
暗すぎて底など見えない。
そのかわり、ふたつの邪悪な光がこちらを睨み上げていた。
明らかに生き物の眼球だった。
しかもそいつがこっちに向かって近づいてきたのだ。
「うわあっ!」
驚きのあまり、僕はいとも簡単に自力でスルスル穴から這い出すことができた。まるで手慣れた忍者のようだ。こういうのを火事場のクソ力とでもいうのだろうか。人って生命の危機を感じると一瞬だけ超人になれるのかもしれない。よもや自分でもこんな芸当ができるとは思わなかった。
「未弥! 早く!」穴から這い出た僕は木刀を拾って立ち上がると未弥の腕を掴んで走り出した。
「どうしたんですか?」
「怪物だよ怪物。穴から出てくる!」
僕は未弥を引っ張りながら道場から飛び出すと、廊下をメチャクチャに走った。
(クソ、何だよこの屋敷。完全に怪物に乗っ取られてるじゃないか)
それにしてもどこをどう行きゃいいんだろう。
僕と未弥がどこまで走っても走っても走っても走っても廊下と壁が続くばかりだった。怪物は捲いたんだろうか。そうでなくとも、もうこれ以上は走れなくなった。というぐらいに僕たちはどこまでも必死に走り続けた。
僕も未弥もとうとう廊下のまん中で立ち止まってしまい、お互いに荒い息を吐いて、胸を苦しげに上下させた。
「さすがに、追いかけてくるのを、あきらめたみたいだ、な」
「穴で、何を、見たんです、か」苦しげな息で未弥が聞いてくる。
「よく、見えなかった、けども、百パー、怪物、だ」僕も切れ切れに答える。
「それにしても、いっぱい、走ったのに、やっぱり、ぜんぜん、出られませんね、この、お屋敷、から」
「せめて、携帯が、使えれ、ば。とにかく、進むしか、なさそう、だ」
僕たちは息を整えると、また廊下を歩き出すことにした。
いったいあの穴は何だったんだろう。直径二メートルくらいはあった。何の用途に使う穴なんだ。単純に落とし穴なんだろうか。だとすれば中途半端なところに中途半端な感じで設置されてるもんだ。とても無意味な感じがする。ああいった仕掛けが屋敷の至るところにあるとでもいうのだろうか。
しかもそこに住みついてでもいるかのような正体不明の怪物。光るふたつの目は明らかに一番最初に遭遇した怪物とは別種のものであることを示している。
とにかく怪物からは何とか逃げた。自分だけならともかく未弥を巻き添えにするわけにはいかない。
それにしても僕たちはどこへ向かっているんだろうか。廊下をメチャクチャに走ってきたが、本当に迷路のどまんなかまで入り込んでしまったみたいな感覚だ。
ともあれ最寄りの「駅」さえ見つかればそれでいい。電車に乗れさえすればこの屋敷から出られる。はずだ。と思う。たぶん。
それにしては同じところをグルグル回っているだけのような気もしてくる。でもだからといって立ち止まっているわけにはいかない。
でも疲れた。さっさと次の「駅」を見つけないといけない。
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