【逃走】
ぴちゃっ、ぴちゃっと背後で音がする。
最初はかすかに聞こえてくる程度だったのであまり気にもとめなかったが、いや、とめないことにしていたが、しだいに不気味な音はおおきくなってくるばかりなのだ。
(おいおいおいおいまたなんか出てきたみたいだぞ)
あいかわらずいつ果てるとも知れない廊下を歩いている僕たちだったが、うしろを振り向きさえすればそれが何かすぐにわかるっていうのに、僕はあえてそれを拒否していた。なぜなら振り向いた瞬間にイヤな予感が当たっていることをどうせ知ることになるからだ。
それは未弥も同じのようだった。彼女も廊下のうしろから何かが来ている気配を確実に感じ取っているはずなのに、決してうしろを振り返ろうとしなかった。
しかしいつまでも現実に背をそむけているわけにはいかない。ぴちゃぴちゃいう音はもうすぐそこまで来ているからだ。
なぜか思わず僕たちはその場でピタリと立ち止まってしまった。理由は僕じしんにもよくわからない。
すると、ぴちゃぴちゃいううしろのやつも動きを止めたのがわかった。類推するに、その距離は五、六メートルと見た。
僕は身を縮こまらせる感じでとなりの未弥にいった。
「どうせうしろから来てるやつはロクなもんじゃない。このまま振り返らずに走って逃げようか」
「そ、そのほうがいいかもしれませんね」
といいながらもまだ僕たちは動けないでいる。
うしろにいるやつは不意におおきなゲップをしやがった。いや正確にはゲップのような音を出しやがった。
その音で、僕はとうとう振り返ってしまった。
薄暗がりに潜んでいたのは、巨大なオオサンショウウオの姿をした化け物だった。しかも体ぜんたいがラメのような鱗に覆われている。さっきの穴の途中にいたやつに違いない。目が同じだ。眠りを覚まされて怒りでもしたのか、深い深い穴からわざわざ這いのぼってきたのだ。
顔面は醜悪、おおきく裂けた口は笑っているようにも見えるが、吊り目は決して笑っていない。音もなく長い二股の舌を出したり引っ込めたりしている。
未弥がいつのまにか僕と同じようにうしろを振り返って顔を硬直させていた。僕は未弥と目があうと、
「……な」と、いった。
何が「な」なのか自分でもよくわからなかったが、未弥はおびえた声で、
「……はい」と答えた。
申し合わせたかのようにゆっくり同時に前に向き直ると、次の瞬間僕たちは猛ダッシュして廊下を駆け出した。
ぴちゃっぴちゃっぴちゃっぴちゃっと化け物が追いかけてくる音が聞こえた。
すぐに前方の廊下は毎度おなじみのT字路になっている。右に逃げるか左に逃げるか。
「よし、左に曲がるぞ!」僕は必死に逃げながら横を見て未弥に聞いた。
「あれっ、いない」
未弥が横にいない。伴走していない。
僕はあわてて急ブレーキをかけうしろを向いた。すぐには立ち止まれず数歩うしろにつんのめった。
未弥のやつ、よろよろとよろめきながらこっちに歩いてくるところだった。どうやら線路の溝で足をくじいて途中でコケたようだ。さいわい化け物の動きはスローモーでまだ追いつかれていない。
というもののもうそこまで来ている。化け物はクワッと邪悪な口をおおきく開き、今にも未弥を食べようとすぐうしろまで迫ってきた。
「キャーッ!」
ドアップで化け物の顔の前にさらされた未弥は、くじいた足もなんのその、あわててものすごい速さでこっちに向かって走ってきたのだ。まさに火事場のクソ力ふたたび、といったところだった。
未弥は僕の手首をひっ掴むと、そのまま僕を引っ張ってダッシュした。
そのあまりの力に、僕は風に舞う洗濯物のようにヒラヒラ宙ではためきながらなすがままになっているしかなかった。もはやT字路をどっちに曲がったのかもおぼえていない。未弥だって同じだろう。それどころか、そのあとも何度か廊下の分岐をすぎ角を曲がり、メチャクチャに逃げ回った。
しかしそれでもさすがに疲れてきたようで、やがて息を切らせ、走るスピードも落ちていき、僕はようやく地に足をつけることができた。
「おい、大丈夫か」声をかけてもハアハアという荒い息しか返ってこない。
未弥はとうとうペタンペタンと歩き出した。
ついに僕の腕を離すとその場に立ち止まって肩を上下させ、疲労に満ちたおおきな息をひとつ吐いた。
「あぶないっ!」
とっさに僕は未弥の体を抱えるようにしてすぐそばの障子戸へ頭から体当たりした。うまい具合に、ちょうどそこに部屋があったのだ。
障子戸はバリバリと壊れ、僕と未弥は部屋の中に転がり込んだ。
ものすごい速さでサンショウウオの化け物がかたわらの廊下を駆け抜けていった。まるで暴走車だ。さっきまでのスローモーな動きはなんだったんだ。僕たちを油断させるつもりだったのか。あいつにそんな知恵があったのか。ともあれここにいたんじゃすぐにあいつは戻ってくる。
ほら来たほら来た戻ってきた。素早く動く音が近づいてくる。
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