【唸り声】
なんだ?
僕は縁の下の匍匐をピタリとやめて耳をすませた。
血の気が引いていく。
何かいるのか?
おいおいおいカンベンしてよ……、こんな狭くで暗い中じゃまったく身動きとれないぞ。何かが襲ってきたらひとたまりもないぞ。
さっきの犬か? 自分の集めてきた靴のコレクションを取られるとでも思ったのか。いや、今のは間違いなく犬の唸る声じゃなかった。なんというか、もっとおぞましいような感じだった。今まで聞いたことのないような凶悪な響きがあった。
変な生き物が近くにいる……。
こうしちゃいられない。
とりあえず引き返そう。とっさに僕はそう思った。
つぶれたカエルのような姿勢で、あわてて体の向きを百八十度回転させようとする。
「グルルルル……」
うへっ、今度は近くで聞こえたぞ。おいおいおいおい近くにいるぞ。どこにいるのかぜんぜん見えないのに何だこの身を切る殺気は。ああダメだこのままじゃ襲われる。
まるで僕はゴキブリのようなすばやさでカサカサカサカサと縁の下を這い駆けた。
這い駆けただなんて言い方があるのか? まあいいもはやそんなこと深く考えている余裕はない。
ゴツッ。
あいてっ!
クソ何かに頭をぶつけた。
梁か? 柱か? クソ、クソ、クソ、僕はズキズキ疼く頭頂部にかまうこともできずになおも縁の下の暗闇を這い駆ける。
(どこだ、出口はどこだ)
あれっ? 光が見えない。
元来たルートをそのまま逆行したつもりだったのに、焦りと恐怖のせいで方向感覚を失ってしまったのか。いつのまにか完全な暗闇だ。
迷った。こんなところで迷子になった。困った。僕は動きをピタリと止めた。どうすりゃいい。まだ僕は変な生き物に追いかけられてるのか。気配がない。でもわからない。近くで息をひそめてるかもしれない。
(あっ、光だ!)
十メートルほど先に光がある。ちいさなスポットライトのように、狭い範囲に弱い光が降っている。屋敷の床に穴でも開いていて、明かりが漏れてきているんだろうか。僕はカサカサカサと光あるほうに這っていった。
「グルルルル……」
ほとんど耳元で例の唸る声が聞こえた。あまりにも不意の出来事だったので、
「ギャッ!」
僕は驚いて思わず上体を起こそうとし、おもいきり頭を板にぶつけた。
「イテーッ!」
バリッと音がして一気に光の照らす範囲が増えた。
ちょうどそこが光の漏れていた箇所だったのだ。頭をぶつけたおかげでさらに穴が開いた。
とっさに開いた穴に首を突っ込むと、強引に両腕を差し込み肩を出し、グイッと腕を突っ張るようにして体ぜんたいを縁の下の狭い空間から引っ張り上げた。
板がさらにベリベリ裂ける音がした。
そうしてできるだけ怪物から離れるべくゴロリと転がるとすばやく体を起こし、しゃがんだ状態で自分が出てきた穴を見つめた。
何も出てこない。
もう唸り声も聞こえてこない。
そこではじめてホーッと息を吐くと、次にまわりを見回した。
僕はとうとう屋敷の中に入った。
しかし、やけに狭苦しい。
それに、何もない。
一瞬カラッポの押入れか、あるいは衣装棚の中にでも入り込んだのかと思ったが、少し違う。
変にカビ臭い。
すぐ目の前に木の扉がある。
勇気を出してソーッと開けてみると、そこには前方に延びている廊下があった。
廊下は五メートルほど先でT字路になっている。
どうやらこの小部屋は、メイン廊下をそれた突き当たりに位置する納戸のようだった。
それにしても、まったくがらんどうで人もいないこの納戸にどうして明かりが点いているんだろう。
納戸だけじゃない。廊下にも明かりだけはちゃんと点いていた。誰の姿もないのに。ただし一様に薄暗く、そのおかげで陰湿な雰囲気が濃厚に醸し出されてもいた。
僕はおそるおそるその小部屋を出ると、突き当たりのT字路まで歩いた。
T字路のまんなかに立って、左右を見回す。
どっち側を見てもまったく静まりかえったやけに幅広の廊下が延々と続いていた。漆喰の壁に板張りの床。
そうしてここには、謎の線路……銀のレールが埋め込まれていた。こんなの見たのは生まれてはじめてだった。
ともあれ僕は屋敷の中に潜入することに成功した。小部屋の床の一部を破壊してしまったが、これはしかたがない。変な怪物のようなものの声が聞こえたせいだ。いったいあれは何だったんだろう。
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