【縁の下】

 塀の下をくぐり出た僕は、立ち上がると体の土を払った。


 改めて前を見ると、眼前には膝栗毛邸の偉容が広がっていた。


 それはまるで、老舗のおおきくて鄙びた地方の温泉旅館を何十件も何百件も合体させたような作りに見えた。

 ビルでもないのに五階建てくらいの高さがある。それより何よりとにかく家屋そのものが化け物みたいに広い。ふつうの戸建て住宅が何百件束になってかかったとしても、そのスケールと貫禄と年季においてこの屋敷には太刀打ちできない。ほとんど町そのものだ。圧倒される。

 ただ、運よくここまで来られたのはいいが、ここからどうすればいいのかわからなかった。うかうかしているうちに黒ずくめのセキュリティ忍者がやって来るかもしれない。行動するなら早いほうがいい。


 でもどうする。屋敷の中に入るのにはどうすればいい。


 一階の雨戸はすべて固く閉じられている。縁側の部分から下はむき出しになっていて、そこは無防備な感じもするのだが、内部には入り込むスキがない。

 とりあえず周囲の縁側に沿って歩き、中に入れそうなところを探すしかないのだろうか。途中で見つかるリスクは高いが、それしか考えつかない。


 と思っていたその時、僕は縁側の下のはめ板が一枚抜け落ちているのを発見した。前歯が一本欠落したような感じ、と言えば近いだろうか。正確には、そこから何かがゴソゴソと這い出てきたのではめ板の欠落に気がついたのだった。


 一瞬僕はビクッとなったが、縁の下から出てきたのはさっきのぶち犬だった。

 僕がいることに気がついたぶち犬は、怪訝な顔でしばらくじーっと僕を見つめていたが、やがて足早に駆け去っていった。靴のコレクションをさらに増やすために出かけたのだろうか。それとも、さっきの穴に土をかけて隠すために戻っていったのだろうか。


(そうか、縁の下に潜り込むのもひとつの方法か)


 犬を見て僕は思った。


 この縁側の下から入れば、あるいは屋敷の内部に潜入できるかもしれない。ひょっとすれば縁の下の空間が、屋内のどこかにつながっているかもしれない。


 もちろん確証はない。ただ暗くてジメジメした狭い場所を虫のように這い回るだけで何も得られないかもしれない。

 でも、もし屋敷に中庭でもあれば、そこに出ることは可能だ。

 さっきも犬の導きで僕はここまで来ることができた。これは単なる偶然じゃないのかもしれない。ここはひとつ、あいつの与えてくれた啓示に従ってみよう。


 僕はまたまわりをキョロキョロ見回すと、そーっと身をかがめ、はめ板をさらに二枚ほど外した。わりと簡単にポロリと外れた。


 そこから僕は、とうとう縁の下の暗闇にもぐり込んだ。


 おもいきり服が汚れてしまうが、ここまで来たらもうあとには引けない。

 あとには引けないが、同時に酔狂な話でもある。こうまでして屋敷に無断侵入して、結局紗織さんは本当にただの体調不良で休んでるだけでした、ということにでもなったらどう取りつくろえばいいんだ。その場合僕はただの不審者だ。目もあてられない。勝手な思いこみもはなはだしい、ということになってしまう。


 それになんでほとんど口をきいたことすらない彼女のことをここまで気にかけるのか、ということを今一度自分に問いかけてみる。

 それは言うまでもない、ただ単純に気になるからだった。一週間も謎の欠席を続けてまったく連絡が取れない彼女のことが心に引っかかってしかたがなかったからだ。同級生としてとうぜんのことだろう。


 でも本当にそれだけだろうか。


 相手があの外見の美しい紗織さんだから特に気になってるんじゃないんだろうか。


 縁の下の暗闇を匍匐しながら、僕はそのようなことをずっとひとりで考えていた。


 紗織さんは確か、膝栗毛卓也氏が歳をとってからできた一人娘だと聞いた。

 彼女の母はかつて屋敷の使用人だったそうで、彼女の長い髪が金色に輝いているのも、透きとおるような瞳が碧眼なのも、母親がよその国から雇われた人だったからだということだった。おまけにその若い母親は紗織さんが幼いころ事故で亡くなったらしい。彼女には大スターの娘であるという持って生まれた血統的な気品とともに、どこかしら暗い影のようなものを雰囲気の中に宿していた。ふだんからあまり感情を表に出すことがなく、ときおり寂しそうな表情をするばかりだった。

 でも紗織さんの成績は優秀、白くて痩せた体のわりにはスポーツも万能で、とうぜんのことながら男女を問わず憧れの的だった。

 しかし僕はと言えば、最初から別世界の住人として彼女のことを見ていたので、単に漠然と憧れるだけの近寄りがたい存在だった。

 それはたぶんほかの男子連中も似たようなものだったろう。とうぜんほとんどの男子は、紗織さんと言葉を交わしたことすらないありさまだった。


 おかげでたぶん彼女は子どものころからほとんど異性とは接触がなかったのではないかという憶測が広がった。膝栗毛紗織はいつのまにか汚れなき淑女として、女子連中の憧れと尊敬の対象になっていったのだ。ひそかにこの女子連中は「紗織さんの純潔を永遠に守る」という堅い契りを結んでいるなどという噂まで広がったくらいだった。


 その取り巻きの代表が、ほかでもない鶯谷めぐみだったのだ。

 めぐみにしてみれば、僕みたいな無神経な男が彼女に近づくことはもちろん、彼女に関心を持つことじたい許せないことだったろう。ましてや屋敷に不法侵入してくるなどとは、悪質ストーカーだと判断されてもしかたがなかった。


「グルルルル……」


 不意に獣が唸るような音が縁の下の暗闇に響いた。


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