【闇に光る目】
「あたしも」めぐみも同調した。
「でも、この子だけは違うけどね」
ひとり、何も事情がわからずきょとんとした顔をしている未弥に僕は目をやった。
急に皆が未弥の顔を見たので、未弥のやつは、どうしていいかわからないといった感じで恥ずかしそうに頭に手をやると、照れ隠しに「えへ」と笑った。
紗織さんはふたたび僕を見ていった。「……いえ、あなたがたのおかげで私はプルストリンゲールの毒から解放されて正気を取り戻したのです。逆に私はおふたりに感謝しているくらいです」
「別に僕たち、何もできなかったけど……なあ」めぐみに同意を求める。
「そうね……」めぐみも何だか恥ずかしそうに同意した。
あんな夫婦漫才のようなもので紗織さんを正気に戻しただなんて、逆に何だか申し訳ない気持ちだ。
「私は……父が亡くなったとは思っていないのです。だからこのことをおおやけにするのを避けたのです。引退して以降、世間の注目を浴びるのは父がもっとも嫌うことでしたから……」
「でも、紗織さん、それでいいの?」僕はふと思うことがあり、彼女にいった。「それって結局、膝栗毛卓也氏は父親の役目を放棄したってことにならないの。自分勝手な親父ってことにならないの」
「ニコゴリ、何てこというのよ、もういいじゃないそんなこと」めぐみが僕をにらみつけた。
「……」紗織さんは黙ってしまった。
するとその時、突然何かが闇を照らした。
どうやら谷底の方から強烈な光が鉄橋の上にいる僕たち四人に向けて発せられたようだった。
「ああっ!」
何だ、新しい敵の出現だろうか。それとも例のストーカー魔女?
「ニコゴリさん、あれは?」未弥が鉄橋の下を指さした。
僕たちが覗くと、はるか下方に巨大なふたつの目が開いていた。閃光のような妙に輝かしい光は、そのふたつの目から発せられていたのだ。
「やっぱり怪物だ! 闇の底に怪物がいたんだ。今度のはかなりデカいぞ!」
目はしかし、よく見ると、同時に悲しげな色を浮かべていた。何かにすがるかのような、懇願するかのような、それでいて慈しむかのような、そんな微妙な心の動きを滲ませている。少なくとも敵意は感じられない。なので僕たちは、逃げるどころか鉄橋から谷底を覗き込む感じでしばらくふたつの巨大な目に見入ってしまった。
「お父さま……」
不意に紗織さんがつぶやいた。
僕たちは呆気に取られ、今度は紗織さんを見た。
「お父さまって……」めぐみがつぶやく。
紗織さんは僕たちのほうを向くと、
「父のこと、さぞかし冷たい人間だってお思いなのかもしれませんね……」
「あの目は……ひょっとして……」
「でも私には父の気持ちがよくわかります。私は唯一、血のつながった娘ですから……。だからとうぜん、私もふつうの人間ではありません」
「……」僕たちは何もいえなかった。
そうして紗織さんは、また光を放つおおきなふたつの目を見下ろした。
「……わかっていますお父さま。私がお父さまの後を引き継いで、この屋敷を守っていきます」
すると目は少し震えたように見えた。錯覚だったのかもしれないがそんなふうに見えた。
やがて、巨大な両目はゆっくりと閉じられていき、それと同時にあたりを照らしていた光は次第に弱まっていった。
瞼が完全に目を覆うと、光が消え、闇が戻った。今ある光は、鉄橋の両端に等間隔に立っている電灯だけとなった。
目は、断崖の奥底の闇の中に完全に溶けてなくなった。
急にこのだだっ広い渓谷が、荒涼としたさいはての大地に思えてきた。
これこそがまさに、膝栗毛卓也氏の心象風景なんだろうか……。
僕たちはしばらく、誰もが卓也氏の荒涼とした心の風に吹かれる思いでいた。
急に膝栗毛卓也氏のことをもっと深く知りたくなった。
悲劇的な末路をたどる美形の主人公、という役どころの多かった紗織さんの父親卓也氏。いったい映画の中でどんな目をしていたんだろうか。それは今見たあの巨大な目と同じものだったんだろうか。思わず吸い込まれそうになるあの哀しみに満ちた目……。
たとえば人が誰しも心の奥底に抱えている、いいようのない孤独感に直接共鳴してくるような、そんな不思議なオーラに満ちた目だった。同時に、二度と引き返せない深淵に引きずり込みそうな危険な誘惑の色があった。「ふつうの人間じゃない」っていうのは、そういう意味でだろうか。
陰気でおどろおどろしいけれど変にどこかで奇妙な郷愁を誘ってもきたこの屋敷の内部にも相通ずる「ある種の磁場」が卓也氏にはあったんじゃないだろうか、ひいてはそれが紗織さんの持つ神秘的なオーラの正体を解きあかす鍵にもなるんじゃないだろうか……。
そんなことを考えていると、不意に何者かの声があたりの闇に響いた。
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