【上昇】


「……その子、助かったの?」めぐみが心配そうな顔をして紗織さんに尋ねた。


 僕はふたたび未弥に視線をやる。

 気を失っているのか眠っているのか、目を閉じたまま動かなくなっていた。何よりも安らかな表情をしている。


「……う、ん」


 唇がかすかに動き、ちいさな声がもれた。


「未弥……」


「今のは応急処置です」下から紗織さんの声がする。「私たちはクヴァブイ対策用にいつもこれを携行しています。あとでもっとちゃんとした治療をおこなう必要があります。屋敷には超重粒子線照射の設備がありますから、あとでそこに連れて来てください」


「紗織さん、すごいよ!」めぐみが僕のかわりに感嘆の声を漏らした。僕は未弥からまだ視線をそらすことができない。


 未弥の首がちょっと動いた。それが合図となったかのように、両方の目がゆっくりと開かれた。

 その視線が僕に向けられると、


「……ニコゴリ、さん?」


「気がついた!」僕は思わず快哉を叫んだ。よかった、本当によかった。


「私……」


「もう大丈夫だよ」


 そういって僕は紗織さんを目線で示した。


「紗織さんがきみをを助けてくれたんだ」


 未弥はきょとんとした顔をしている。


「私……どうなったんですか」


「蜘蛛の毒にちょっとやられただけだ」


 さすがに体の中に卵を産みつけられたとはいえない。少なくとも今は。


 ずいぶんな目にあったけれど、これで最悪の状況からは脱したんじゃないだろうか。いや、そうあってくれ。頼む。


「もう大丈夫だから心配すんなって」


 不安げな表情の未弥を安心させるように、僕はことさら明るめの声を出した。それは自分じしんを元気づける意味合いもあった。


 未弥は今の状況を自分なりに把握しようとしているのか、ひとりで考え込む表情になっている。意識が戻ったばかりなのだから、しばらくはそっとさせてあげよう。


 その間も、僕たちは風切の力を借りて暗闇の谷から浮上すべく、ぐんぐんと上昇している。


 ずっと黙っていた紗織さんが、不意につぶやくようにいった。


「……どうやら私は、今までヒプノティの毒であやつられていたようですね」


 僕とめぐみはその言葉に一瞬ハッとなって紗織さんを見る。


「私……あなたたちにずいぶんひどいことしたのではありませんか?」


「いや……」どう答えていいものやらわからない。


 彼女はすべてを察したような寂しげな表情になったが、それ以上は何もいわなかった。


「……」僕たちも黙った。


 無言の時間がすぎていく。

 上昇する風の音だけが耳元で唸り、僕たち四人を包むようにしている。


 しばらくすると、ようやくのこと頭上に鉄橋が見えてきた。


 寂しげな明かりが、高架をさらに寂しく闇の中に浮かばせている。


「帰ってきた……」思わずめぐみが漏らす。


 しかし僕たちが電車ごと落下した途中で崩落した鉄橋じゃない。まったく別物だ。だから帰ってきた、っていうのはちょっと変な気もするけれど、そういいたくなる気持ちはよくわかった。


 僕の口からも思わず安堵のため息がもれる。

 ほかの連中も内心同じ心境だろう。


「助かったんだ……よね、あたしたち」めぐみが僕に確認を求めてくる。


「ああ、そうだね」


 あれだけのことがあったのに、ともあれみんな無事だった。よくよく考えてみれば奇跡に近い。

 いやまだ決して気は抜けないぞ。例の魔女だってひょっとしたらまだ生きているのかもしれないのだから。僕は風切を振りつつ鉄橋の上二メートルくらいのところまで上昇し続け、次にゆっくりと下降しはじめた。


 やがてめぐみと紗織さんは僕の足から飛び降り、次に未弥もストンと線路の上に降り立った。


 久しぶりの大地だ。


 いや、正確には大地じゃなくてただの鉄橋だし、単線のせいで幅が狭いから奈落の底への入口がすぐ左右に口を開けて控えているのだが。ドンと背中を突かれただけでもあっという間にふたたび暗闇に吸い込まれていくだろう。それでも地に足をつけているという安定感は何者にも勝るものがあった。


 見ると、未弥がおずおずと紗織さんに近づいていき、


「あの、助けてもらってありがとうございました」


 そういうとペコリと頭を下げた。まだ事情がよくわかっていないなりに感謝の気持ちをあらわしたかったのだろう。


 しかし、急に紗織さんは険しい表情になったかと思うと、未弥から顔をそらせてしまったのだ。


 やっぱりまだ様子が変だ。


「どうしたの」僕は聞く。


「紗織さん……」めぐみも声をかける。


「私は……やはりあなたがたを殺そうとしたのですね」


 誰の顔も見ずに紗織さんはいった。


「……」



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