【孵化】
「紗織、さん?」下からめぐみの声がした。「紗織さん、気がついたの? 我にかえったの? ちょっとニコゴリ、どうなったのか報告しなさいよ」
「そんなこといわれても」
「ニコゴリ、さん」今度は未弥の声がした。「私、苦しい……」
「何っ?」
今度は急に未弥の様子がおかしくなった。ずっと必死になって僕の腕を掴んでいたのに、いきなり全身をガクガクと激しく痙攣させながら暴れはじめたからだ。
「未弥!」
そしてあろうことか服の上からでもわかるほど体中にデコボコした起伏ができたり引っ込んだりを繰り返し出したのだ。
「未弥! 未弥!」
来た。いや、来たのか? とうとう来たのか? よもやこんなタイミングでおそれていたことが来たのか? しかしほかに考えられない。クヴァブイの卵が孵ったんだ!
もう手遅れだ。ここまで来たらなす術もない。未弥は僕の手を振り切ろうとするかのようにグラグラとおおきな振幅で四方八方に揺れるので、こいつを掴んでいる僕の手首の力がいっぺんに限界に達してきた。
「未弥! 未弥! 暴れるな! 暴れないでくれよ!」
もはや未弥は完全に常軌を逸してしまったようだ。自分の体を食い破ろうとしている内なる悪魔に苦しみ悶え、みずから谷底に落ちていこうとしている。あまりの絶望感に僕は自分の全身が真っ黒になった気がした。このあとさらに残酷な光景が待っているっていうのか……!
暴れる未弥はとうとう僕を振り切った。
「!」
未弥の体が暗黒の底へと落ちていく。
その姿が闇の中に消えた。
叫び声すら発することなく。
「未弥ーっ!」
ふと気がつき前を見ると、風切をだらりと下げたまま放心状態の紗織さんがいる。僕のまん前にずっと浮かび、じっとしたままだ。
紗織さんは紗織さんでいったいどうなったっていうんだ。毒が抜けたのか? 元に戻ったのか? いっぺんにいろんなことが続けさまに起こるから僕の頭は激しく混乱した。いや違うそうじゃない、悠長に考えているヒマなんかないんだ!
僕はほとんど反射的に紗織さんから風切を奪った。「ゴメン、ちょっと借りるよ!」
瞬間、刀を取られた紗織さんは声も上げずに未弥と同じように墜落していった。
「ニコゴリ! 何すんの!」めぐみが叫ぶ。
かまわず僕は奪った風切を力いっぱい降り下ろすと空気砲を発生させ、片手にめぐみの手首を掴んだままジャンプするようにいったん上昇した。
背中を引っかけていた鉄橋のでっぱりから上着が抜けた。
これで僕の体は自由になった。
次に僕は体をくるりと回転させ海に飛び込む要領で頭から谷底に突っ込んでいく。風切の空気砲を利用して先に落ちていった未弥と紗織さんに追いつこうという腹だ。これらのことをほとんど無意識にやっていた。
思ったとおり風切を手にした瞬間、僕の全身にめくるめくようなスーパーパワーが注入されてきたのがわかった。
しかし間に合うか。間に合うのか。
暗黒の中、未弥と紗織さんの姿はまったく見えなくなってしまっている。頭を谷底に向けた僕は一個の弾丸となって、未弥と紗織さんを追いかけていく。片手の刀で空気砲を発射、もう一方の手でめぐみの手を掴みながら。
「ニ……ゴ……ちょ……待っ……」めぐみが大声で何か叫んでいるがまったく聞こえてこない。それ以前にまともに口なんか聞けていないだろう。何しろ今僕たちは体感時速千キロ的な勢いの速さで奈落の底に向かっているのだから。めぐみは突風に煽られる旗状態のはずだ。
やがて、闇の中からすぐに紗織さんの姿が見えてきた。
こっちを向きながら落下しているので僕と視線が合った。こんな暗黒でも刀のパワーのおかげではっきりと見える。
「紗織さん! 先に行って待ってるからあとで何とか僕の体を掴んでくれ!」
紗織さんを追い越しざま、僕は大声で伝え、そうして先に進んだ。進んだ、というより先に落ちていった。
一瞬彼女と横に並んだ時、紗織さんの顔はやっぱり表情に乏しかった。こんな危機一髪の場面だというのに、やけに冷静だった。僕の言葉はうまく通じただろうか。いってることの意味はわかっただろうか。かすかにうなずいたように見えたが、錯覚だろうか。まあいい、今は未弥を助けることが先決だ。
「いた!」
じきに未弥の姿も見えてきた。
それにしてもこの暗闇、どこまで深いんだ。何百メートルの騒ぎじゃないぞこりゃ。
未弥は落下しながらくるくる回転している。それが苦悶の表れのように見え、心が痛んだ。もうクヴァブイの赤ん坊どもがワラワラと彼女の体から這い出してきてもおかしくない。彼女はヘタするともう死んでいるかも……。
「何考えてんだ僕は!」
首を激しく振り即座に否定した。
「まだ大丈夫さ、きっと助かる、間違いない!」
根拠は? 根拠なんか関係ない! 助からなくても助けるんだ!
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