【夢幻の闇】


 静寂があった。


 一瞬のうちに世界からすべての音が消え去り、虚無の闇に僕はいた。暗黒の中にふわふわと浮かんでいる感じがした。


 すでに死んでいるんだろうか。

 本当はもう実体なんかないんじゃないんだろうか。

 とっくに渓谷の底にぶつかって体ぜんたいが粉々に砕け散ったあとなんじゃないんだろうか。


 この軽やかな感じは肉体から解放されたそれなんだろうか。

 空気と一体になって浮遊しているようなこの感覚。やっぱり僕は魂だけになって地獄に来ているんだろうか。まわりが闇に包まれているのだから天国じゃないだろう。


 それはそうとめぐみと未弥はどうしたんだろうか。


 あいつらはどこに行ったんだ。ふたりともとっくに亡き者になってしまってるんだろうか。


 いやいやこの僕じしんが生きてるのか死んでるのか自分でもまだよくわかってないのに、ふたりのことをそんなふうに軽々しく考えるのはよくない。僕がもし死んでいてここが地獄であったとしても、ふたりには生きのびていてほしい。


 特に未弥のことが僕には気になってしかたがなかった。

 あの子はまだ体の中にクヴァブイの卵という爆弾を抱えているからだ。それがいつ破裂してもちっともおかしくない。まだどこかで生きているなら一刻も早く何とかしないと大変なことになる。


 めぐみのことも心配だ。ふだんはケンカばっかりしていたのに、いざとなるとお互いがそれぞれ必死になって相手のことを助けようとした。これが幼なじみの絆ってやつなんだろうか。何だかんだいってもあいつとは切ろうにも切れない同志なのかもしれない。


 そういえば確か僕は、電車から飛び出た時にほとんど反射的にめぐみの腕を掴んだ気がする。

 めぐみだけじゃない。僕の体にしがみついていた未弥の腕も掴んだ気がする。互いに離れないように、バラバラにならないように、みんなで一緒に助かりたいという願いが無意識にそんな行動を取らせたような気がする。

 何しろとっさのことだったのでそのへんの記憶があいまいだ。


 要するに僕はしばらくのあいだ記憶を失っていた。

 で、目をさますと闇の中にいる。ここはどこなんだ。僕は、めぐみは、未弥は、そして紗織さんはどうなってしまったんだ。


「ニコゴリ」


 声がする。

 僕の名前を呼ぶ声だ。


 誰だ。

 誰が僕を呼ぶ。

 女の声だ。

 若い女の声だ。


「ニコゴリさん」


 また声がした。

 今度は違う声だ。

 両方とも下のほうから聞こえてきた。


 今、気がついたが、さっきからずっと腕が重い。

 何かに引っ張られているみたいな感じだ。


 いや、これはそうじゃない。

 僕のダラリと下げた両腕を掴んで、誰かがぶら下がっているんだ。


 どうやら僕は、体をふたつ折りにする感じで暗闇を漂っているようだった。

 そのことに気がつくと、よりいっそう両腕がおもりのように重くなってきた。


(誰だよ、いったい誰が僕の腕に吊り下がっているんだ)


 でも本当はもうわかっていた。声の主もわかっていた。ほかに誰がいるっていうんだ。気を失っていたせいでちょっとボーッとしただけだ。


 見下ろすと、めぐみと未弥が僕の手首を掴み、谷底に落ちていかないように必死になっている。ふたりとも僕を見上げている。


「ニコゴリ!」めぐみが声をかけてきた。


 ようやく僕は、まだ死んでない自分を完全に自覚したのだった。


 僕は宙づりになっていた。

 ここはまだ断崖の途中だったのだ。僕の体は途中で何かに引っかかり、それ以上の落下を免れたのだ。


 周囲を見回してみると、なぜかほの明るい。

 僕のすぐ上に巨大な鉄橋があった。そいつのでっぱりか何かに僕の上着の背中部分が引っかかっていたのだった。少し明るいのは、線路をぼんやり照らす明かりがあたりに光を拡散していたからだ。


 しかしどうしてだ、僕たちはその当の鉄橋からずっと墜落してきたんじゃなかったのか。


 違う、これはきっと別の鉄橋だ。

 この深い崖にはいくつもの鉄橋が闇の中を橋渡ししてるんだ。

 墜落した電車が途中でぶつかったのはその中のひとつだったんだ。そう考えるとすべて納得がいく。


「ニコゴリ!」まためぐみが声をかけてきた。


 ずいぶんせっぱ詰まった声だ。

 僕の手首を掴み続けるのはもう限界なのかもしれない。でもいったん離せば即人生の放棄だ。さっきの電車みたいに暗闇の底に消えていってしまう。僕はあわててめぐみと未弥の腕を自分から掴みかえした。とりあえず助かったとはいっても、やっぱり今でも僕たちは谷底に落ちる寸前の状態なのだ。危機はさっきから一向に去っていなかったのだ。


 かといってこれからどうすればいいんだ。両手の自由がきかないので動きようがない。ヘタに動くと背中を引っかけている柱が折れるかもしれないし服が破れるかもしれない。要するに何もできない。


「ニコゴリ!」めぐみが叫ぶ。


「うるさいな、わかってるよ!」僕は下に向かって怒鳴った。「どうすればいいか考えてるところなんだから、少し黙っててくれ」


「ニコゴリ! ニコゴリ!」


「何だよしつこいな。わかったっていってるだろ」


「ニコゴリ! 違う!」


 え? 何が違うんだ。


「ニコゴリさん!」未弥まで同調する。


 どうやらふたりして僕に何かを懸命に訴えたがっている様子なのだ。


 何だ、何を伝えたいんだ。


「おまえら、さっきから何を必死になってるんだ。こんな時こそ落ち着け。冷静になれよ」


「ニコゴリ、ニコゴリ、違う! 違う! 前! 前!」めぐみが叫ぶ。


 前? 前って何だ。深い闇が広がっているだけじゃないのか。


 僕は顔を上げると、今ここではじめて前方を見やった。


(……!)


 眼の前に紗織さんがいた。



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