第21話

 宿舎の大浴場で俺は一人で入っていた。


 ガラガラと戸を開ける音が聴こえてくる。

 ああ貸切じゃなくなっちゃったなと益体もない感想を漏らしながら頭を洗い始めた。

「隊長、お背中お流しします」

 背後からエレノアの声が聴こえ、俺はビクッとなる。

 恐る恐る鏡を見ると、バスタオルを巻いただけのエレノアが映っていた。

 俺は珍妙な声を上げタオルで下を隠す。

 ここでふわりとタオルをかけないと隠す意味が無いので注意が必要。

「ここは男湯……だったような」

「掃除中の看板で入口はブロックしてあるので大丈夫です。『掌握戦』第二章〈奇術〉其の一【偽装工作】――字面の通り偽装によって騙すのです!」

「うんその戦術は立派だと思う。けど、俺が訊いているのはそういうのではなくて……」

「では失礼しますっ」

 エレノアは有無を言わさず取り掛かる。

 かがんだ時にバスタオルとの間にできる肌色の渓谷がもろに映り、ドキドキした。

 締め付けられて窮屈そうにしている豊かな胸が瑞々しい色香を放っている。

 俺がおとなしくなると、エレノアが話し始めた。

「隊長、リーダーって……どういうものだと思いますか?」

 何だろう突然。

 真っ先に思い浮かぶのはファルナムだった。

「隊の中で一番強くて、緻密な戦術を立てられて、抜かりない指揮を執れて、人望も厚くて……」

 言っている間に鬱々としてきた。

 俺全然当てはまってないじゃん。

 隊の中で一番強いのはネイダだし。

 緻密な戦術を立てられるのはエレノアだし。

 人望についてはプラムが一番隊員に好かれているし。

 みんな、エレノアのBLを始めとした変わり者ばかりだけど、イイモノを持っている。

 自分のダメさ加減にうなだれてしまった。

「ふふっそれじゃ完璧超人じゃないですか」

「えっ……違うの?」

 俺は思わず顔を上げる。

 鏡越しにエレノアの宝石みたいなオッドアイと綺麗な鎖骨が見えた。

 エレノアは指を立てる。

「隊長、『リーダー論』ってご存知ですか?」

「いや、何で?」

「騎士の国レゴニィの聖騎士オルデンが書いた本では、リーダーとは『何事にも動じぬ冷静な判断力を持つ者』とされています。でもラドクランの大臣イレキスが書いた本では、『褒章と競争により有能な部下を洗い出す者』とされているのです。それから隣の国パースケイルの栄誉軍師エガノンによれば『海と陸に愛されし者』だそうですよ。もっと変わったものではオルトレアの師団長ハルトマンが『目標を掲げるがそれを達成する能力が足りない者』としています」

「何だよそれ、『コレだ!』っていうのが無いじゃないか」


「そうです! 『コレだ!』っていうのは、!」


 エレノアの声が広い浴室に反響する。

 空間に声が溶けていくように俺の反応も遅れた。

「…………何だって?」

「みんなそれぞれ違う理想のリーダー像を持っているんです。絶対の正解なんて、無いんですよ」

「そんな馬鹿な! それじゃあ俺が最初に言ったような能力を持ってなくても良いっていうのか?」

「それもあるに越したことはないかもしれませんが……」

「エレノアには戦術があるしネイダには武力がある、プラムには人望がある。でも俺には……これといった能力が何も無いんだよ!」

 俺は胸の奥に溜めていたものを吐露した。

 風呂場に声がわんわんと響く。

 そうしたらエレノアが優しく抱きしめてきた。

 バスタオル越しに彼女の豊満な乳房が背中に当たる。

 濡れたブロンドの髪も俺の肌に張り付く。

「私は……ハロルド隊長で良かったと思っています。ハロルド隊長は聞き上手で、私達の話をよく聞いてくれるんですよ。そして、ここぞという時にポンと最高のフォローをしてくれるんです。最初の模擬戦だって私の考えた作戦だけでは足りなかったのを隊長が補ってくれた、それを私が聞く耳を持たなかっただけで……私のトラウマも不純で良いんだって言ってくれた。ヘマシュとの仲直りのチャンスもくれた。隊長、私にとっての理想のリーダー像があるんですけど、聞いてもらえますか?」

 エレノアの穏やかな声が優しく胸に染み込んでくる。

 頑固な汚れみたいに俺の心を覆っていた大量の錆を浄化していく。

 俺はエレノアの言葉に導かれているような気がした。

 そして気付いた。

 今俺は、エレノアの話を聞いているんじゃない、

 エレノアは俺のことを聞き上手だと言った、話をよく聞いてくれると言った……これはそのお返しなのだ。

 何かをして、お返しがある。

 これが人との繋がり、だろうか?

 ぼっちという自分で完結した世界に亀裂が入った。

 不安が広がる。

 世界が変わってしまう。

 でも亀裂から入ってくるのは冷たい隙間風じゃない。

 エレノアの温もりが全体を優しく包んでくれている。

 そうしたら不安は軽減され、ただ戸惑いだけが残る。

 俺は導かれるままに問い掛けた。

「どんなもの?」


「部下の能力を、引き出してくれる人です。ハロルド隊長が私の……理想なんです」


 エレノアは俺の背中に額を付け、ゆっくりと言った。

 俺は一瞬呆けた後、全身が熱くなった。

 堅牢だった心の壁が砂になって崩れ去った。

 エレノアが副長で良かった。

 心を覆っていたものがなくなると、見えてくるものがあった。

「俺の不安の実態が分かった……俺はエレノアに戦術を任せネイダに武力を任せ、プラムに纏まりを任せて……自分は何もしてないんじゃないか、不要なんじゃないかって、そんな定まらない自分の存在が、不安だったんだ」

 己が定まっていない。

 何と核心を突く言葉か。

 敵はファルナムじゃない。

 ファルナムによって映し出した『不安を囁く自分』だったんだ……!

 ファルナムの幻影の正体はこれだったんだ!

「隊長は能力が無いと思い込んでいるだけだと思いますよ」

 勝てないという思い込み。

 能力が無いというのも思い込み……?

 絶対神の兄から映し出していた俺とは、単なる思い込みなのだろうか。

 絶対神の兄が、揺らぎ始めた気がした。


 すっかりのぼせ上がった俺は風に当たろうと外を目指す。

 しかし宿舎の受付で呼び止められた。

 手紙だ。

 隊員宛の手紙はまず隊長の俺に纏めて届く。

 これを各小隊長に配り、小隊長が各隊員に渡すという規則。

 仕事の方が先か……と俺は手紙の束を持って引き返した。

 執務室に割り当てた共用部屋に向かうと、途中でプラムに遭遇した。

「プラム、今日届いた手紙があるから渡しておく」

 俺は束からひょいひょいと宛名を基にプラムの小隊宛の物を抜き出す。

 そうしたら一通、気になる手紙が混ざっていた。

「どうしたですかー?」

 プラムが顔を近付けるので、俺は気になる一通を見せた。

「これプラム宛だよ。差出人は……」

 キーラ。

「ヒッ!」

「ヒッておい。ホラー要素どこにもないだろう」

「で、でも! でもでもでもでも……キーラが、キーラが何でボクに?!」

 思い当たるのは一つしかないが。

「用があるからだろう」

「いいい一体どんな罵倒が並べ立てられてるですかー! ボク今の状態で責められたらもう立ち直れないですよー! ハッ……? まさかキーラはボクにとどめを刺すためにこのタイミングで送ってきたですか?!」

 俺の腕にしがみついてプラムが錯乱するので、俺は彼女の頭を手紙の束でペシペシと叩いた。

「落ち着けっつーの。キーラがプラムの今の状態を分かるわけないだろう」

「じゃあ神様が今のタイミングに合わせてキーラの手紙を寄越したですよー!」

「そんな細かい調整は無いって。とりあえず読んでみなよ」

「隊長ー一緒に読んで下さいよぅ……お願いしますよぅ……一人で読めないですー」

 涙目で頼まれてしまった。

 仕方無いので執務用の部屋に入る。

 二つの椅子を向かい合わせにして座った。

 手紙の残りの束をそこら辺に置き、キーラの物を手に取る。

 俺が封を切ることになり、中身を取り出した。

 そこには、俺も予想していなかったことが書かれていた。

 キーラがその中で謝罪を述べていたのだ。


 プラムは兄を巡ってキーラがいなくなれば良いと願っていた。

 だが同時期に、キーラもプラムのことをいなくなれば良いと願ってしまっていたのだった。

 だからおあいこなのだ、と。

 それを隠していてごめんなさい。

 そう綴られていた。

 プラムに『キーラがいなくなれば良いと願ってしまっていた、だから不幸が起こった』と聞かされた時、キーラは別のことを思った。

『互いにいなくなれば良いと願ってしまったから不幸が起きたのではないか』と。

 だがそれを言葉にするのが怖くて。

 そしてキーラはプラムを責めた。

 自分だけでも助かろうと思ってしまった。

 姑息なことをしてしまい後悔している。

 はっきりとそれを口にできない自分の方が姉さんより弱いのかもしれない。

 俺のことにも触れてあり、俺と会って自分と向き合うことができた、スタート地点に立てたという。

 でもプラムと対峙する決心がつかなかった。

 直接会えばまた要らぬことを言ってしまいそう。

 そこで悩んだ末、会わなくても伝えられる方法を思いついた……それがこの手紙だった。

 手紙でやり取りをしておけば、会う決心もハードルが下がるかもしれない、と。


 読み終わると、プラムは目に涙を溜めた。

「キーラの気持ち、聞けて……良かったですよー……」

 少し不器用な、固い感じのキーラの手紙。

 しかしそれが痛いほど響いた。

 キーラなりに一生懸命悩んだのだろう。

 何年も複雑な思いを抱えていて辛かっただろう。

 プラムはぽつりぽつりと語り出す。

「ボクは隊長の話を聞いている内に家族をもう一度一つにしたい、という気持ちが芽生えたですよ。隊長がバラバラだった家族を一つにしたいと言っていたから……それから、エレノア副長とヘマシュさんが食事でケンカしたのを見て、ボクとキーラを重ね合わせてこのままで良いのかと焦ったですよ……」

「そうか、心境の変化、というかその芽はその頃からあったのか」

「でも、でも……! あと少しの! 勇気が出なかったっ……!」

 プラムは震えながら吐露した。

 頑なに守ってきた厳重にロックされた心の部屋を開放していく。

「隊長に相談すれば良いのに、できなかったですよ……でも、キーラが自分と向き合ったのだから……姉である自分もそうしないわけにいかないですよ!」

 それは、外向きのプラムと厳重にロックされた部屋の中で膝を抱えていたプラムの対面だった。

「ボクは怖がりですよ、でも、その本音は……被害者じゃなくなることが……怖いというものだった、ですよ……! 『だから自分はダメなんだ』といつも言い聞かせていれば、何にも向き合わずに済むから……! 向き合う大きな辛さより向き合わない小さな辛さに逃げていた、例え小さな辛さが永遠に続くとしても……」

 プラムはつっかえつっかえ、苦しそうにしながらもちゃんと言った。

 大きな辛さに飛び込んだ。

 それから、しっかりと俺を見据えて、言った。

「もう逃げないです! 王都に帰ったら必ずキーラと会ってちゃんと話すですよ!」

 言葉が風を伴い駆け抜けていくような、そんな力の篭った宣言。


 この娘の枷が外れた。

 そう思った。

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