第13話 対岸での対話
「憂鬱だなぁ」
2月に入って三度目の休前日。サンタンデル湾を横切る朝一番の定期船にアルトの姿があった。前日の夜から降り始めた雨はもう上がっていたものの気温はとても低かった。
「なんだって、こんな日に…」
少し波の高い海に向かって愚痴を垂れ流す。それだけでは飽き足らず、天気にも文句を言ってやろうかと曇り空を睨みつけたアルトは、暫く「う~う~」と唸ってから、脱力したように手摺りにもたれ掛かった。
この日、アルトはアクニ造船の所長アダン・アクニャと打ち合わせの約束を入れていた。表向きは、造船に向けての親睦を図るためではあるが、本当は、件の月の石を探るためである。検証をすべて終えた日、屋敷に戻ったアルトは、すぐに手紙を認めるとバルドメロに託しておいたのだった。翌朝に返事を受け取ったことにはさすがに驚いたアルトであったが、この際、それは置いておいて、その時に指定したのが今日であった。自分から約束を取り付けたくせに、曇天模様の空も相まって憂鬱極まりないのである。
「…やっと着いた」
サンタンデルの港を出発してから、時間にして30分も経っていないのだが、湾を渡った対岸にあるペドレニャという街に到着した頃には、もう疲れきった表情を浮かべていた。これで賑やかであれば、少しは気も紛れるのだが、朝一番ということもあって、人影も疎らな港は少し寂しく感じて、さらに気が滅入るのであった。
「あそこだなぁ」
キョロキョロと少し視線を彷徨わせるだけで、すぐに見つけることができる。このペドレニャの街の湾沿いにも、サンタンデルと同じように造船所が犇めき合っている。そして、その中にある一際目立つ大きな倉庫を併設しているのがアクニ造船であった。
「場所は確認したから、腹拵えかな」
再びキョロキョロとしていると、船着場とは違い、朝早い時間だというのに人だかりが見える。おそらく市場ではないかと目星をつけたあるとは、少し遠くに見えるその人だかりを目指して、だらだらと向かうのだった。やがて、喧騒に包まれた活気に溢れている市場へ着くと、さっそく物色を始める。
「…アルトさん?」
アンチョビサンドの店先で100ジリル銅貨を握っていたアルトは、背中から声を掛けられる。振り向いた先には、つい先日まで一緒に実証をした見覚えのある顔があった。
「シーロか」
「はい。お久しぶりです」
ニコッと笑った顔には、まだあどけなさが残っている。挨拶をしてすぐに首を軽く傾げたシーロは、この状況で、すごく在り来りな質問をする。
「こんな朝から、こんなところで何してるんです?」
「アンチョビサンドを買おうとしている」
予想していたアルトが即答する。
「…ははは」
乾いた笑いを返したシーロは、声を掛けなきゃ良かったと思う。
「シーロは何を?」
銅貨4枚とアンチョビサンド2つを交換したアルトが、シーロに向き直り、自分がされた同じ質問を投げ掛ける。
「この時間になると、猟師の皆さんが戻ってくるので、何かあったとき用の船の点検要員です」
シーロが答えている間に、アルトは、もう1つサンドを追加していた。
「朝食どう?」
そういって今、追加したばかりのサンドをシーロへと差し出した。
「少しでよければ、お付き合いさせていただきます」
その言葉とともにサンドを受け取ったシーロは、軽く頭を下げると「場所移動しましょうか」といって、少し人が少ない場所へとアルトを案内する。
「それで、アルトさんは何故ここへ?」
「人だかりに惹かれて?」
転がっている木箱に、先に腰を下ろしたアルトへ再度挑戦したシーロは、見事にはぐらかされた。少し拗ねたような顔をして隣に座ったシーロを面白そうに見てから、アルトが、サンドイッチを一口齧る。「うまっ」と独り言を零すアルトに、はぁっと溜息を零したシーロは、もう一度、軽く頭を下げてアルトに礼を伝えると、同じように齧り付いた。
「…聞いてないのか?」
シーロが食べ始めるのを待っていたアルトは、それを見て頷くと前を向いた。手にしたサンドに視線を向けると、問い掛けをしてからガブリと齧りつく。その言葉に「えっ」と向き直るシーロだったが、前を向いたままサンドを食べているその横顔を少しの間じぃっと見ていた。
「…そういうことですか」
「そういうことだね」
前を向きなおしたシーロが食べる前に零した言葉に、一言返すアルト。そのまま手にしたサンドを食べ終わるまで二人は言葉を交わすことはなく、前を向いてサンドを味わうのだった。
一つを食べ終わったアルトが、もう一つ食べようとしたところで、シーロが立ち上がる。
「そろそろいかないと…ごちそうさまでした」
身体を向けて挨拶をする彼に、アルトは、ただ笑顔を返す。そのまま少しだけ視線を落ち着きなく動かしたシーロが、再びアルトを力強く見つめると勢いよく頭を深く下げた。
「父のこと、お願いしますっ」
頭を上げたシーロは、そう言い残すと踵を返して小走りに去っていく。残されたアルトは、彼が消えた人混みのほうをじぃっと見て何かを考えていたが、まだアンチョビサンドが残っていたことを思い出すと、何事もなかったかのように朝食を再開したのだった。
「このような石を御存知ですか?」
アルトの掌にある赤児の拳くらいの大きさの、輝きを失った暗い黄色の丸い石を見て、アダン・アクニャは目を見開いて固まっていた。
すでに時間はだいぶ過ぎ、朝と昼の間くらいの時間になっている。あれから朝食を終えたアルトは、重い腰を上げて、アクニ造船に向かった。到着するなり、装飾の施された応接室へと案内されたアルトは、その時点でやる気を失くす。それからすぐにアダンが姿を現したのだが、今の今まで世間話もほどほどに、アダンの自慢話を聞かされていたのだった。さすがに嫌気が差してきたアルトは、見せたいものがあるといって黄色の石を取り出したのである。
「な、なぜ、それを…」
やっと動き出したアダンは、無意識に震えた手を伸ばす。
「それ以上は、ちょっと」
石に手が触れそうな位置まで近づいてきたところで、アルトは石を握った。
「っ!これは失礼いたしましたっ」
アルトの手によって石の姿が見えなくなったところで、ハッと我に返ったアダンは、両膝を突いて頭を下げる。
「いやいや、土下座まではいいですから」
両膝は床のまま、頬を引き攣らせているアルトを見上げたアダンは、しかしそのまま平伏する。
「それほど大きい黄月石をお持ちの方に大変失礼をいたしました」
そう言って、頭を床に擦り付けるのだった。
「ファーリス様も月の御使い様を崇めておいでで?」
あれから暫く行われた押し問答の末、今はやっとアルトの対面に座っているアダンが恐る恐る問い掛ける。しかし、アルトが答えることなく視線を向けると慌てて失礼しましたと頭を下げてから、興奮したように語りだした。
「私は月の御使い様こそが神様なのではないかと思っておるんです。月は夜毎に姿を変えて私達の前に現れる。しかし、神様というお方は姿を現してくださらない。月の御使い様を使って、神様は、人が産まれてから死ぬまでを示しているのだと言いますが、否、こうして人々に力を与えてくれる月の御使い様こそが、実は神様なのではないでしょうか」
50を疾うに過ぎた男が、顔を少し赤らめて熱弁している。さて、どうしたものかと悩むアルトが目に入っていない彼の暴走は、まだまだ続く。
「私は、魔術ができませんでした。人より魔力を得る力が小さいと言われました。ところがっ、ところがですよ。御使い様に出会って、与えてくださいました黄月石を身に纏うことで魔術が使えるようになったんです。素晴らしいと思いませんかっ」
前に乗り出して訴えてくるアダンに、敵意とは違った恐怖を感じたアルトは、少しだけ目付きを鋭くさせる。
「これはっ!失礼いたしました。私よりよっぽどお詳しい方に、・・・お恥ずかしい限りです」
さすがに疲れてきたアルトが小さく息を零すだけで、今度は慌てだすアダン。
「やはり、失礼でございましたか?!」
そう言って、床に下りようとするアダンを手で制したアルトは、無理矢理に笑顔を浮かべる。
「ところで伺いたいことがあるのですが―」
「―なんなりと」
被せ気味に答えてくるアダンにイラッとするが、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせて必死に耐える。
「このカンタブリア伯領には、どれくらい会員がいるんでしょう?」
その質問に、アダンは、納得したように頷く。
「そういえば、ファーリス様は最近こちらに来られたと仰っておりましたね…そうですね、私が知っている限りですが、この地ではまだ少なく100人前後くらいになるかと思われます」
「…何気に多いですね」
「いえいえ、まだまだです」
アルトは、作り笑顔の眉や頬がピクピクと攣りそうになるのを必死に抑える。
「その方たちは、全員が石を持っているのでしょうか」
この質問にも、納得したように頷くアダンは、少し困ったような顔をして答えた。
「それがですね、なかなか大きな黄月石をお持ちの位の高い方がこちらにはおりませんので、小さいものでも、あまりないようです。発祥の地がある南の大陸から来てくださった神父様がお持ちになられた石もあったのですが、数年前の陥落事故で損傷されたため、今は復元中と聞いております。ですから、神父様の他には、私のような布教を任されている者が数人しか…」
そこで一旦区切ったアダンは、何かを思いついたかのように手をポンと叩くと、身を乗り出す。
「今度、神父様を御紹介いたしますので、ぜひ、お会いください。ファーリス様も参加されると思いますが、儀式が開かれた際には、いらっしゃいますので、ぜひっ」
そこまで嬉しそうに話していたアダンであるが、急にしょぼんと腰を下ろすと、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「しかし、おそらく集まりはできても、来年の儀式は、間に合わないだろうと神父様がっ―」
突然、恐ろしいほどの殺気を当てられたアダンは、顔を青白くしたまま固まってしまう。少しでも動けばタダじゃ済まないと思えるほど強烈な殺気に足をガクガクと震えさせたアダンは、その殺気が消えると同時にへなへなと腰を抜かして崩れ落ちるアダン。
「申し訳ない。つい…ね」
そういって髪をくしゃくしゃと握るアルトに、立ち上がることができないアダンは、そのまま平伏した。
「お怒りは、ご尤もでございます」
あまりの従順ぶりに、呆れて何も言えなくなってしまう。いい加減、辟易してきたアルトは、帰ろうと立ち上がる。
「ひっ」
いろいろなことを誤解したまま、頭を擦り付けるアダンを見下ろしたアルトは、一瞬苦い顔をしてから、さわやかな笑顔を浮かべる。
「今日は帰りますね」
「はっ、はいっ」
そのまま、アルトが扉から出ようとするまで、顔も上げられずに平伏したままのアダンであったが、
「頂いた木材ですが、お返ししますので週明けにでも取りにおいでください」
振り返ったアルトのその言葉に飛び起きる。
「な、なにか、ありましたでしょうか?」
「いえ、私の頂いたものには何も?」
愕然とするアダンを残し、にっこりとした笑みを返したアルトは、そのまま帰路についた。
昼もだいぶ過ぎた頃、対岸から戻ってきたアルトは、市場に寄ると小鰯を大量に買ってから、拠点としているカンタブリア伯の別邸へと戻った。
「厨房借りてもいいかな」
帰ってきてからすぐに厨房を覗いたアルトは、晩御飯の準備をしているセリノへと声を掛ける。
「どうしたの?」
「いや…今日はプシュケーラだと聞いて…ね」
「お~、よくぞ御存知で」
「街で小耳に挟んだんだけど…借りてもいいかな」
「どうぞ~」
片手を厨房へと差し出して、セリノが笑顔を浮かべる。灰色の髪の毛をくしゃくしゃっと握ったアルトは、「おじゃまします」と照れ臭そうに頭を下げてから、さっそく調理台に購入したての小鰯を並べた。
「おつまみかな?」
「いや、プシュケーラの贈り物?」
「プシュケーラで小鰯?」
セリノの頭の中が疑問で埋まっていく。端整な顔を顰めて難題を紐解いている彼の横では、アルトが大きな樽から、取り出した大きな器へ水を注いでいた。
「カエデは母乳だから…ね」
青い魔方陣に白を溶け込ませながら、アルトがヒントを出す。しばらくウンウンと唸っていたセリノは、無事に答えに辿り着いたのか、急に顔を明るくさせると、凍らせた水を小刀の柄で砕いているアルトへと確認する。
「お酒を使った料理!」
「正解」
氷を砕き終わったアルトは、指を突き出すセリノと同じように、セリノを指差した。少しの間、笑い合ってから、アルトは、鰯の頭に小刀を入れ、そのまま内臓を引き摺りだす作業へと移る。
「そういえば、お昼は食べた?」
「いや…食べ損なった」
「それじゃ、軽く何か作ろうか?」
「そいつは助かる」
ニコリと嬉しそうに笑顔を浮かべたセリノが、準備を始める。アルトは、その間も鰯から内臓を取り出していた。
「ポルムの燻製と胡椒が手に入ったから、パスタにしようか」
鍋を取り出しながらのその提案に、同じように鍋を取りに来たアルトは笑顔を返す。
「シェリー酒はどこにある?」
「シェリー使うんだ」
瓶を探してくれているセリノに、アルトがそういえばと疑問をぶつけた。
「そういえば、なんで、プシュケーラに酒を贈る―」
危うく手に取った瓶を落としそうになるセリノ。思わずジト目を向ける彼に、アルトは髪の毛をくしゃくしゃと握って、申し訳なさそうに言う。
「いや…なんかそういうもんだということしか聞けなかったから」
はぁぁっと盛大な溜息を零すセリノであった。
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