第2話 誕生
「ごめんっ!」
別邸まで一気に走りきったアルトは、そのままの勢いで扉を開け放ち中に飛び込んでいく。
「何事だっ!」
「なっ!お待ちをっ!!」
その音に驚き、慌てて飛び出してきた執事たちの制止する声も聞かず、勢いよく階段を駆け上がったアルトは、今更ながらさすがに走るのはまずいかと早歩きに切り替え、妻がいるはずの右奥にある寝室を目指す。本来であれば、誰かが声を掛けなくてはいけないこの状況ではあったが、見たことがないほどの必死なアルトの様子に、その場にいた者たちは誰も声を掛けられず、廊下の脇に避けて彼を見送るのみだった。
「落ち着いている…な」
ところが、寝室が近づくにつれ、アルトの心境に変化が訪れる。寝室の扉の向こうから聞こえてくる赤児の泣き声に少しだけ冷静になった彼は、すれ違った者たちがあまり慌てていなかったことに気づいたのだ。彼の姿を見たときのほうがよっぽど慌てていたと―
「…何もなかったなんてことは…ないよな」
扉の前まで辿り着いた頃には、幾分落ち着きも取り戻していた彼は、一度部屋の前で立ち止まり、呼吸を整えるのだった。早とちりだったらどうしようかと悩み始めたアルトであったが、しかしそれは、後姿しか見えていない執事やメイドたちからすると、何かと戦う決意を固めているようにしか見えておらず、これから何がはじまるのかと戦々恐々とその背中を静かに見守るのだった。
時間は少し遡り、一人のメイドがアルトを呼びに行った頃、件の室内では無事に出産が終わり、既に張り詰めていた空気は霧散していた。
「カエデ様、おめでとうございます」
「皆様、ありがとうございました」
当事者であるカエデ・ファーリスが、祝福の声に感謝の言葉を返す。室内では、彼女を含む出産に携わった者全員が、労いの言葉を掛け合いながら、安堵の表情で笑顔を浮かべ、達成感を伴う心地よい疲れを味わっていた。
―バダンッ
しかし、そんな穏やかに流れていた時間が突如終わりを告げる。階下から大きな音がすると、邸宅内が急に騒がしくなったのだ。声を荒げている者もいることから、何者かが別邸に侵入したらしいと察した室内の全員が臨戦態勢を取る。出産に携わることができる者というのは当たり前のように魔力の教育を受けている。しかも、魔力を行使した魔術まで嗜んでいることもある。当然ながら、この場にいる全員、ある程度の魔術を扱えたのだった。
「まったく…、穏やかじゃないねぇ」
産まれたばかりの赤児を抱いた年嵩の治癒師がボソリと零した一言で先程までの空気は一転し、妙な緊張感に包まれていく。そんな中、カエデだけが何故か楽しそうに笑っていた。
「さすがに…まずいかな、これは」
扉の前で呼吸を整え、落ち着きを取り戻したアルトは、ここまでの間、魔力を纏ったままの状態であったことに気づき、慌てて解こうとする。原則、必要以上の魔術を行使するということは、敵対する意志を示しているのと同義であり、寒さを凌ぐためとはいえ風の魔術を使用したうえに、魔力を使った身体強化までしているこの状況は、どうにもよろしくない。ところが、やってしまったと彼が自省を始めたところで、室内から魔力が膨れ上がる。
「やっぱり、何かあるっ!」
ここで、冷静さを完全に取り戻していたのであれば、自身の魔力に対して警戒された可能性を十分考慮して行動したのであろうが、あまりにも岬で見た光景が印象的だった彼が起こした行動は、臨戦態勢を取るというものだった。早く中の様子を知りたいという衝動に駆られたアルトであったが、冷静にと自分に言い聞かせ、逸る気持ちを抑える。
「何にせよ、確かめてから…だな」
ゆっくりと扉の取っ手を握り、長い息を吐く。その体勢のまま、今度は静かに目を瞑ると、覚悟を決めるのだった。背後では、その様子を執事やメイドといった使用人たちが、汗の滲む手をぎゅっと握り締めて見守っており、邸宅は異様な空気に包まれていく。
ノックもなくゆっくりと開かれていく扉に、室内の緊張感も最高潮に達していた。先程までの騒がしさが嘘だったかのように、不自然なほどの静けさに包まれた邸宅に赤児の泣き声だけが響いている。張り詰めた空気の中、ただ一人、緊張の欠片も感じていない様子のカエデが、ニヤリと悪そうに笑う。ベッドに横になったまま、彼女はゆっくりと床に向かって手を翳した。
「…そういうことかい」
その様子に気づいた年嵩の治癒師が、扉の前にいる人物が誰かを察する。いつの間にか寝てしまった赤児を抱いて渋い表情を浮かべている治癒師の零した言葉に、ニコリと笑顔で頷いたカエデは、床に向けて翳した右手に魔力を籠めていく。出産時にかなりの魔力を消費しており、今は守るべき対象であるはずのカエデが、魔力を放出していることに周囲の者たちが気づき慌て始める。
「お止めくださいっ!」
すぐに淡い青の魔術陣が浮かび、床に氷の道ができ始めると、彼女がすでに魔術を行使していることに気づいた一部の者が潜めた声で止めようとする。しかし、それでも視線の先にいる彼女がとても楽しそうに笑っているその様子に、室内の全員が扉から入ってくるであろう人物が誰であるかに気づくと、気が抜けた呆れ交じりの苦笑を浮かべるのだった。
しかし、そんな室内にいる者たちは、彼女の悪戯の意図を正確に理解すると、今度は笑みを浮かべて頷き合い、気合を入れ直して、開き始めた扉を中から押し戻しに掛かるのだった。
「―ぐっ」
ゆっくりゆっくりと慎重に押し開いていた扉が急に重くなり、動かせなくなる。しかも、その力は徐々に強くなっていき、ついには押し戻され始めると、焦り始めたアルトは混乱し、ただ力任せに押し開くことだけに懸命になっていく。すぐに全力で押し戻されなかったことに疑問を感じるくらいの余裕すらなくしてしまった彼は、取っ手から手を離すと、少し扉から距離をとる。
「今行くからな」
邸宅の使用人たちが、期待と混乱が入り混じったなんとも複雑な表情で見守るなか、助走をつけたアルトが扉に向かって飛び込んでいく。しかし、次の瞬間、今まさに彼が押し開こうとしていた扉が一気に開け放たれる。
「っ!?」
何が起こったか分からなかった彼であるが、条件反射で体勢を整えようと床に手をつく。ところが、そこには氷の道が敷かれており、彼は部屋に飛び込んだ時の勢いそのままに、まるで跪いたような姿勢のまま、氷の道の終点にあるカエデが横たわるベッドに頭から突っ込んでいった。
「ぷっ、ふふふ」
困惑した黒い瞳と、楽しそうな紫の輝く瞳が交わると、静寂に包まれていた室内に、堪え切れなかったようなかわいらしい笑い声が零れだす。釣られるようにして次々と湧きあがる笑い声は、室内だけでは止まらず、廊下で行く末を見守っていた使用人たちからも溢れていくのであった。
「騒がしい登場だねぇ」
一人、呆れた顔で苦笑している年嵩の治癒師の声がアルトの頭上から聞こえてくる。何が起こったかを未だに把握できていなかったアルトが顔を上げ、笑い声に包まれたまま、キョロキョロと辺りを見回していた。そのうち、再び藍色の瞳と目が合うと、その瞳の持ち主が悪戯っぽい笑みを浮かべ、かわいく舌を少しだけ出す姿に、ようやく現状を理解したのだった。
「…まぁ、無事でよかったよ」
緊迫した空気が霧散した部屋では、極度の緊張感から開放された治癒師たちがへなへなと床に座り込み、代わって部屋を出入りする使用人たちがきびきびと働いていた。
「ほらっ、もう少し右じゃ、右」
そんな中、アルトも年嵩の治癒師に指示されながら、産まれたばかりの赤児が寝るためのベッドを設置している。迷惑を掛けたから休んでいて欲しいというアルトに、この場の責任者である年嵩の治癒師が同意したことで、床に寛ぐ治癒師たちという構図ができあがっていた。
「そんなんじゃ、ここの使用人になれませんよ」
さらに、母親がしんどい思いをして産んだのだから、我が子が寝るベッドの用意くらいは父親の手でしたいと頭を下げるアルトに、赤児のベッドを運んできた使用人が仕事を譲ったことで、客人とはいえ領主から屋敷の全権限を譲り受けている主とも言うべき者が、本来使用人がするような仕事をしており、その姿を笑いながら野次を飛ばして寛いでいる治癒師たちという、あってはならない光景が展開されている。
「なんじゃ、楽しそうじゃのぉ」
しかし、そんな和やかな空気は、部屋の入り口から掛けられた一声で、一瞬にして凍りついた。使用人たちが出入りのために開けたままにしておいた扉から、暖色系の明るい衣装を着こなした貴族然とした白髪の老人が、声に続いて、ゆっくりと笑みを浮かべて姿を現す。その姿に、顔色を青白くした治癒師たちは立ち上がったまま硬直し、床を拭いていた使用人たちも動きを止める。
「「…」」
好々爺然とした温和な表情で静まり返った部屋を見回した老人の視線が、完成したばかりの小さなベッドに満足そうに頷くアルトへと向けられる。すると、それを追うように、部屋中の視線がアルトへと集まるのだった。
「これはこれは、ファビラ様」
さも今気づいたかのような素振りで頭を下げるアルトに、老人は目を細めると、茶色の瞳を剣呑に光らせた。
経世済民の領主として他国にまで名を馳せた先代の領主ファビラ・デ・カンタブリア伯爵。貴族には珍しく、身分や種族、出自に関係なく公明正大であるうえに、滅多に笑顔を絶やすことがない温厚な人物として、息子に領主の座を譲った今でも領民から慕われている元領主である。
「バルドメロが慌てていたんじゃが…、はて?」
別邸の執事長を任されている初老の名前を耳にした途端、ここに乗り込んだときのことを思い出したアルトは、顔を上げると、そっと視線を逸らす。
レオン王国が誇る海軍の中核を担い、その重要な港であるサンタンデルに領都を置くカンタブリア伯爵領は、北は海に、反対側の南側は、高い山々が聳え立つ領地の名を冠したカンタブリア山脈に囲まれた要衝である。しかも、その山脈を南西方向に越えると、そこはもう王国直轄地というおまけ付きである。長きに渡り他国の脅威から王国を守り抜いてきた、そんな重要な拠点を治めてきた者が、温厚なだけであるはずもなく、近しい者たちは、当然、その併せ持つ厳しさを身に染みて知っていた。
「ハハハ…どうしてでしょ―」
できるだけ平静を装ったアルトが、乾いた笑いとともにファビラへ顔を向けるが、射るような視線に眼を泳がせる。
「あんまり若い者を苛めるんじゃないよ」
綺麗なおくるみに赤児を包み、小さいベッドへ寝かせた年嵩の治癒師が仕方なさそうに声を掛ける。その声に、威圧的な雰囲気を解くと、鋭く突き刺さるような視線を柔和なものに変えたファビラは、ちょっとした冗談じゃと言ってカラカラと笑い出す。硬直したまま様子を伺っていた者たちは、ホッと息を吐くと、それぞれの仕事に戻るべく動き始めるのだった。
「冷徹と呼ばれるほどのお主でも、自分の子供が産まれるとなったら、ここまで取り乱すということが分かって良かったわい」
「……お騒がせして、申し訳ありませんでした」
機嫌良さそうに笑うファビラに、アルトは改めて謝罪をする。頭を下げたまま、取り乱した理由をどう伝えるか悩んでいた彼であったが、態々聞かれてもいないことを伝えて問題を増やすのもどうかと思い直す。そもそも今のこの状況で伝えれば、言い訳になりそうだと結論付けた彼は、この場は謝罪だけで済ませることにした。
一方、なかなか頭を上げないアルトの様子を伺っていたファビラが少しだけ口角をあげたことに気づいたカエデは、後で確実に面倒事に巻き込まれるであろう夫に、気の毒そうな視線を送っていた。
「それにしても、随分と酷い恰好だのぉ」
漸く頭を上げようとしたアルトの姿に、ファビラがふと言葉を零す。それを拾った使用人の一人が思わず噴き出すと、穏やかな静けさに包まれていた空間が再び笑い声で染められていく。ピタリと止まったアルトは、今までの状況を思い浮かべると、自分の姿を確認する。
岬で風に煽られ、魔術によって強化された体で全力疾走し、緊張で噴き出した汗に塗れ、氷の道を滑って――。そうして一つ一つ振り返ったアルトが、気恥ずかしそうな表情を浮かべて顔を上げる姿は、皆の和やかな笑いを誘うのだった。
「まぁいいから、顔くらい見ておやりよ」
今まで赤児の世話をしていた治癒師は苦笑を浮かべると、髪の毛をくしゃくしゃと握る青年に声を掛ける。その言葉に、我が子の顔をまだまともに見ていなかったことに気づいたアルトは、途端にかつてないほどの緊張に襲われる。乱れてしまっている服を慌てて払い、裾を引っ張って皺を伸ばすと、今度は髪を手櫛で整え、大きく息を吸い深呼吸をする。
チラッと視線を送ったカエデに笑顔で促され、スヤスヤと気持ちよさそうに寝ている我が子の許へと歩を進める。恐る恐る小さなベッドを覗き込んだ彼の黒い眼に、おくるみに包まれ、幸せそうに眠っている産まれたばかりの我が子が映る。ガチガチだったのが嘘のように力が抜けた彼から、自然と笑顔が零れる。そのまま、少しだけ屈み顔を近づけたアルトは、そっと声を掛けるのだった。
「元気に生まれてきてくれてありがとう」
大陸暦1031年1月21日の寒さが厳しい朝に誕生したひとつの小さな命に、未だ平和なレオン王国カンタブリア領の領主別邸は、喜びに沸いていた。
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