第1話 はじまりの朝


「いやはや、なんとも…」


 春先の朝早く、夜の時間に終わりを告げた東の空が、徐々に明るさを取り戻し始めた頃、白い邸宅が建つ岬の突端で、青年が一人、海を眺めている。

少しくすんだ灰色の髪を風に泳がせ、徐々に眩しくなる朝の光を浴びるその青年の姿は、まるで一枚の絵画を切り取ったかのようであった。


「……寒い」


 まだ冬の匂いが色濃く残る寒空の下、薄手の服に軽く上着を羽織っただけという出で立ちのその青年は、襟元をキュッと引き寄せると、寒さから逃れるように顔を埋める。


「緊急事態ということで…」


 切れ長の涼しげな目を少しだけ覗かせた青年が、誰にとでもなく発した言い訳とともに何やら呟くと、白い魔術陣が一瞬だけ浮かび、すぐに消えていく。


「せめて着替えだけはしてくるんだった」


 彼を避け始めた陸から海へと吹き抜ける風に、ふぅっと一息吐くと、ささっと上着を整える。背後にある白い邸宅を振り返り、何かを案ずるような表情を浮かべた彼は、心の籠もっていない反省の言葉を零して、すぐさま海へと視線を戻す。

 朝日を受けてキラリと光るその黒い瞳には、期待と不安が入り混じっていた。




 大陸暦1030年、大陸の西側では群雄割拠の時代を迎え、大小様々な国が覇権を争っていた。そして、その余波が、ついに海を越えた島国にまで及び始めるのだった。そんな情勢の中、島々を治めている国の一つアルスターの一領主が、調査のため、一人の青年を大陸へと派遣する。その青年の名は、アルト・ファーリスといった。


「あっという間に、一年か」


 感慨深げに海へと言葉を投げ掛けると、青年は遠くへと視線を移す。

 

 大陸の動向を調査するという依頼を請け負うこととなったアルトは、大陸西岸にある各国の街を転々と南下してきたのだが、実のところ調査を名目に、一年に亘る新婚旅行を楽しみ、一応の目的地であるイベラル半島へと辿り着いたのだった。


「荒れる…かな」


 青年が、いつもより少し高く打ち寄せる波に、少しだけ憂いを含んだ眼差しを向けて言葉を添える。

 

 大陸南西部に在りながらも、半島の付け根に聳え立つ山々によって、大陸から切り離されたかのように存在するこの地は、戦乱が続く大陸では珍しく、比較的平和な時を迎えていた。そんな穏やかな時が流れるイベラル半島の北部、西部及び中央部を手中に収める大国レオン。アルトが、そのレオン王国にあるカンタブリア領に足を踏み入れたのは、もう二月も前のことである。


「はてさて…どうなることやら」


 ふぅっと吐き出す息に乗せて呟くと、青年は、すぐ側の木に背を預けた。


 当初の予定では、すでに領都サンタンデルから本国へと海を渡り、依頼の結果報告をしているはずであった。しかし、旅の途中で身篭った妻の出産が間近に迫り、それを心配した周囲が、領都に滞在中の彼を引き留めた。義姉の実家であるカンダブリア伯爵家からの厚意と、妻の体調を考慮した彼は、寒さが厳しくなる前に訪れた風光明媚なこの街にしばらく逗留することにしたのである。




「そろそろ戻るかな」


 風が弱まり、朝凪の時間になっていることに気がついたアルトは、じっと眺めていた海から視線を外し、そっと後ろの白い邸宅を振り返る。


「はぁ」


 カンタブリア伯の別邸であるその建物は、彼らが滞在している間は使えるようにと、領主の厚意により借り受けているものであった。しかし、おそらく今も多くの女性たちが慌しく動き回っていることが容易に想像できてしまったアルトは、溜息を一つ零しただけでどうしても躊躇してしまい、動く気になれないのであった。


「いや、さすがに…そろそろ…」


 今朝早く、産気づいた妻に気づき、一人のメイドに声を掛けた瞬間から、彼は邪魔者になった。出産準備に追われる者たちの周りで右往左往することしかできない彼は、すぐさま寝室を追い出され、用意された別室へ通される。しかし、何もすることがなく待っているだけというのは、どうにも落ち着かず、岬を歩いて気を紛らわせていたのだった。


「もう少しだけ…ここにいるかな」


 未だに誰も呼びに来ないことに少しだけ不安になりつつも、今戻ったところで寝室に行くこともできず、用意された部屋で手持ち無沙汰にただ待つだけだという数分後の自分の姿が目に浮かび、やはり戻るに戻れない彼であった。

 そうして、今も新しく生まれてくる命のために奮闘しているであろう妻を心配しつつも、一歩も動かずに別邸の寝室を眺めていると、不意に光り輝く靄が窓から溢れ出してくるのが目に入った。


「なっ…!!」


 切れ長の眼をこれ以上ないくらいに見開き、思わず驚きの声を漏らすアルト。一般的に熟練した魔術師でなければ、余程の強い魔力でない限り、可視なんてことはできない。魔力保有量が平均を少し上回るくらいの能力でしかない今の彼では、魔力を感知することは多少できても、普通ならば可視なんて到底できるはずもなかった。そんな彼ですら捉えることができているということは、それだけもそこに濃厚な魔力が存在しているということである。その信じられない光景に、彼の纏う涼しげな雰囲気は、見る影もないほどに崩れ去っていった。


「……様、アルト様、すぐにっ―」


 徐々に薄くなっていく光の靄を呆然と見つめていたアルトは、その声に気づくと、ビクッと反応するや否や、別邸へ向かって走り出す。

 立ち尽くしていた彼を見つけ、恐る恐る声を掛けた若い女性は、アルトを邸宅に呼び戻すように言い付けられた邸宅のメイドであったのだが、その鬼気迫る表情に驚くと、その場で動けなくなってしまった。


「あのっ!えとっ…」


 魔力に関する専門的な教育を受けていない者は、どんなに強いものであっても魔力を見ることができない。そもそも感知する方法ですら知らない者がほとんどである。それ故に、彼女もまた、何故彼が立ち尽くしていたのかでさえ分かっていなかったのであるが、普段は温和な表情を浮かべ、どんなことでも飄々と受け流している彼しか知らない彼女は、余りにも掛け離れたその逼迫した様子に、自分では計り知れない何かが起こっているのかもしれないという恐怖に襲われてしまったのだ。しかし、それでも、その走り去ろうとしている後姿に一生懸命声を掛けるのだった。


「汚れを落としてっ!入るようにとっ」


 やっと伝えるべきことを思い出し、出来る限りの大声で叫んではみたものの、きっと聞こえてはいないのだろうと確信したメイドは、あとできっと怒られるんだろうなぁと、朝から憂鬱な気持ちになるのであった。




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