夜明けの記録

梁井 祝詞

第1章 はじまりの予感

プロローグ


「私は君に出会ったことを後悔しているよ。つい最近まで学生であった前途有望な若い君に―」

「先生っ!」


 俯いて言葉を紡ぐ年嵩の男は、少女の呼び掛けに顔をゆっくり上げる。種族の特徴である長く尖った耳を力なく垂らし、今にも泣き出しそうな顔をする男に、少女は困ったように苦笑すると、優しく声を掛けた。


「早く行ってください」

「……」


 年嵩の男は、あまりにも不甲斐無いと唇を噛み締める。もう自分たちにできることは何も残されていない。最後の役目は目の前の少女にしかできないことである。頭では理解していても、老い先短い自分ではなく、将来のある若い少女に最も危険なことを任せなくてはいけないということが、どうにも遣る瀬無い。項垂れる男に、しかし少女は、まるで慈しむような笑顔を浮かべて優しく声を掛ける。


「もう時間が残ってないですよ」

「…申し訳ない」


 震える声でやっとそれだけ伝えたその初老は、悔しそうに顔を顰めて、深く頭を下げる。後ろに控える集団の中から背中に翼を生やした精悍な顔立ちの男が一歩前に出る。


「礼っ!」


 涙混じりの号令が静かな森に響き渡る。その声に、年齢も性別も種族でさえもバラバラの一団が、一斉に深く頭を下げる。まるで軍隊のようなその様子に一瞬だけ驚いた顔を見せる少女であったが、すぐに優しく微笑むと彼女もまた一礼を返す。

 そして、ゆっくりと顔を上げた少女は、まだ頭を下げたままのその集団を見渡すと、困ったように少し寂しそうな表情を浮かべる。しかし、誰かに見られる前に、優しい笑顔を取り戻すと、号令を掛けた青年に歩み寄った。


「皆さんをお願いしますね」

「…お、任せ、くださ、い」


 必死に歯を食いしばり声を搾り出した青年の顔は、涙で濡れていた。睨みつけるように毅然と前を向く彼に優しく微笑んだ少女は、再度一礼を返すと、皆に背を向けて歩き出す。その動き出した足音に、顔を上げることができず、そのまま崩れ落ちてしまう者もいるなかで、せめて見えなくなるまでは見送ろうと年嵩の男を含めた数人が顔をあげる。


「わしは…、わしらはなぜもっと早く―」


 少女の後姿に己の無力さを痛感し、つい零した年嵩の男の呟きは、そっと横に並んだ青年の声に掻き消された。


「移動、しましょう。彼女のため、にも…」


 小さくなっていくその姿を名残惜しそうに見送りながらも、青年の言葉に頷いた年嵩の男は、もしも再会が叶うのならば、その時には、出会えたことに後悔などしていないのだと、自分たちの不甲斐無さを悔いていたのだと、しっかり謝ることを心の中で誓う。だからこそ、今は、今だけは彼女に全てを託し、彼女の気持ちを無駄にしないために、いち早くこの場を離れようと己を奮い立たせ、皆に声を掛けようと彼女から目を離し、背を向けた。


「私はっ、皆さんに出会えたことに感謝していますよぉっ」


 背後から響き渡る透き通る声に慌てて振り返ると、もう小さくなってしまった少女が、可憐な笑顔を浮かべてこちらに向かい軽く手を振っていた。


「わしもじゃっ!…わしもなんじゃ……すまんかった」


 弾ける様に返した声が、みるみると萎んでいき、年嵩の男はその場で泣き崩れる。


「わたしもですっ」

「俺も…「俺たちもですっ!」」


 皆が涙を流しながら嗚咽交じりに、少女へと必死に言葉を返す。


「また会おうぞっ!!」


 くっと顔を上げた年嵩の男は、無理やり貼り付けたような笑顔で、怒鳴るように声を張り上げる。少女はそれに頷くと一度だけ頭を下げて、未だ仄暗い森の中へと消えていった。





 空が白みを帯び始めた頃、獣道のような細い道を抜けた少女の目の前に、突然、木々が薙ぎ払われた空間が現れる。酷く争った後が残っているその広場の中央には、12個の綺麗に丸く削られた、大人の男性の掌ほどの大きさはある黄色く輝いている石が均等に置かれ、円を描いており、それらの石全てが、まるで一部を零すかのように、黄色い細い線を真っ直ぐに上空へと立ち昇らせていた。


「……ここね」


 既に太陽が昇り始め、明るさを増す空に一度視線を向けた少女は、目を瞑り深呼吸をする。


「やりましょう」


 再び目を開けると、先程までとはまるで違うぴりぴりとした雰囲気を纏った少女は、左の腕巻きつけた赤い鎖状のブレスレットに右手を重ねた。彼女が目を閉じたその刹那、ゆらゆらと逆立ち始めた綺麗な茶色い髪の毛に呼応するかのように、ブレスレットに埋め込まれた赤い石が光を纏う。暫くの間、そうしていた彼女は、小さく息を吐き、右手をそっとブレスレットから離す。紅い光を纏ったままのブレスレットを確認した少女は、ホッと安堵の表情を浮かべたると、空に視線を送った。


「このままでは間に合わないかも…」


 不安な表情を浮かべ空を見つめる少女。


「何を辛気臭い顔をしてるんだか」


 突然、背後から聞こえてきた声に、ハッと息を呑む。ゆっくりと振り返った先にある黒い瞳と目が合った彼女は、一瞬だけ嬉しそうに顔を綻ばせる。しかし、笑顔はそのままに、視線を睨みつけるような鋭いものに変えた少女は、一音一音はっきりとした低い声で問うのだった。


「どうして、あなたが、ここに、いるのかしら?」


 見るからに怒りの表情を浮かべる少女に、灰色の髪をくしゃくしゃっと握った少年は、眉尻を下げて困ったように笑った。


「あれ?喜んでもらえると思ったんだけど…」

「っ!!こんな危険な状況で喜べるわけがないでしょっ」


 笑顔すらも取り払った彼女が、押さえつけたものを吐き出すかのように、大きな声をあげる。


「素直じゃないわねぇ」


 別の方角から聞こえてきた鈴の音のような声に、慌ててそちらを振り向けば、黒い髪の少女が口に手をあててクスクスと笑っている。


「どうして…、あなたまで……」


 驚愕して固まる少女に、どこまでも軽い調子の少年が言う。


「まぁ、今から戻っても十分な距離まで離れられんだろ」


 ケラケラと笑う少年を睨みつける少女は、確かにその通りだと思うと同時に、それならば尚更、何故ここにいるのだと、さらに怒りを募らせる。


「せっかく、私が残って…」

「まぁ、だからさ、自己犠牲なんかよりも三人で生き残ろう」


 にっこりと笑う少年の言葉に、漸く笑顔を浮かべた少女。その頬には一筋の涙が零れ落ちたのだった。




 太陽が天頂近くまで昇った時点で、まだ輝きを失わずに黄色く光っている石は、残り二つとなっていた。


「……そろそろか」


 欠け始めた太陽をチラッと見た少年の呟きに、二人の少女が渋い表情を浮かべるが―


「まぁ、やるだけやってみよう」


 そういって二人に笑顔を向ける少年に、彼女たちは力強く頷いた。




 正午を迎えた時刻だというのに、辺りを明るく照らすはずの太陽は、二つの月に完全に隠されてしまい、一帯が暗いままであった。そんな闇の中、月から垂れ下がる何本かの黄色い靄が、まるで誘導されるように大地へと一直線に伸びてくる。


「…まずいな」


 黒い髪を額に張り付かせた少女が、汗を拭うこともせず、両手を地面に付けて一心不乱に魔力を注いでいる様子に、少年が小さく呟く。黒髪の少女は、とうに限界を迎えている。おそらく、もう一人の少女も限界が近いだろう。


「人の心配してる場合じゃないか」


 軽い調子で呟いてみたものの、足に力が入らずに、つい膝をついてしまう少年。辛そうに顔を顰める彼は、それでも空を睨みつける。惹きつけられるように近づいてくる大きな石の塊を魔術を行使して破壊すると、いよいよ自分に残された魔力も限界を迎えつつあることを自覚した少年は、自虐的な笑顔を浮かべた。何かを覚悟したように両手を見つめ、グッと握り締める。


「終わったぁぁぁ」


 残っていたありったけの魔力を両腕へと集めた少年が空を見上げるのと、ほぼ同時に少女が声を上げる。先程まで黄色く輝いていた最後の石は既に光を失っている。少女は、その石を短剣の柄で思いっきり叩き割った。

 最後まで淡く空へ立ち昇っていた黄色く光る靄が完全に消える。石を叩き割った少女はそれを確認すると、そのままバタンと達成感に満ちた顔で大の字に倒れこむ。同じようにして、空へと警戒の視線を向けていた少年と黒髪の少女もまた、太陽が光を取り戻し始めたのを見て、力が抜けたように地面に崩れ落ちるのだった。


「…ふふふ」

「いやぁ…、なんとかなっ―」


 皆、同じように両手を広げて地面に寝転がり、笑い声をあげる。そのまま放心状態で空を眺めていた三人であったが、あとほんの僅かで太陽が元の姿を取り戻そうかというその時に、空から一本の紅い線が降ってきた。極度の緊張感から開放され、気を抜いていた三人は反応できるわけもなく―。


―ズドンッ



 三人のいた広場に一つの紅い石が落ちた。


「パウラぁぁぁっ!!」



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