22話 3年前-エルフside 魔王②
獣人の回収を担っていた兄が持ち場を離れることで、残りのエルフたちは町の防衛を最優先とし、獣人でも町まで攻め寄せてきた魔物は駆逐することにした。
そして、魔王のもとへ向かうのに、他にエルフを同行させることはなかった。兄と同等レベルの実力が無い限り、多人数で向かうのはリスクしかなかったからだ。
こうして俺と兄は、たった2人で魔王の拠点へ向かうことになった。
兄はエルフの族長であり、その証となるアールヴの緑石を身に付けている。
緑石は身の証を立てるだけでなく、エルフの能力を飛躍的に向上させる特殊効果を備えていた。身に付ける者によって効果は変化するが、兄の場合は得意としていた水魔法の更なる強化を得た。
流体操作が可能になった水のシールドは、変幻自在に形を変えて水圧の力でほとんどの攻撃を防いでしまう。また、魔法剣として水の力を宿した剣はどこまでも伸び、どんなに硬いものでも鋭利な水圧の刃物となって切り刻んでしまう。
圧倒的な殲滅力と広い守備範囲に守られ、俺たちは難なく魔王の潜む牙城の入り口まで辿り着いていた。
「まあ、ここまでは手こずるとも思ってなかったし、予定通りだな」
「兄さん、気の緩みは禁物ですよ」
「分かってるよ。ってか、ここから立ち上ってくる瘴気を浴びて、気を抜くバカがいたら教えてもらいたいもんだ」
言いながら兄が見つめる視線の先には、魔王がいる牙城の入り口と思しき洞窟が、その口を大きく広げていた。
牙城の入り口は、ゾーンバイエたち狼人族が住処としていたエリアを、更に奥に進んだアルネー山脈の麓に近い、巨大な岩が乱立する場所にあった。
視界は開けており、周りにいた魔物は既に殲滅していたが、この辺りからそろそろ強力な魔物が出て来てもおかしくはない。そう思っていた矢先に出くわしたのが、サウザンド・ビーストウルフだった。
サウザンド・ビーストウルフは魔物化した野生のオオカミだ。通常、動物は魔物化し難いと言われているが、ゾーンバイエが狼種だったこともあり、瘴気の影響を強く受けたのだと思われた。
素早い動きと強靭な牙が特徴だったが、単体を相手にするならさして脅威とはならない。だが、問題はその数にあった。
その名が示す通り群れの数が膨大で、それぞれが臨機応変に個になり、群れにもなって襲い掛かってくる。
洞窟の入り口から飛び出して来たサウザンド・ビーストウルフを認めた途端、しかし兄は冷静に手に持った剣を真横に薙いだ。
波打ちながら伸びるその軌道は、縦横無尽に飛びかかってくるサウザンド・ビーストウルフたちを、効果的にとらえて斬り刻む。だが、繰り返し振るう剣の隙間を縫って、何匹かは逃してしまう。動きが速い上に、出てくる数があまりに多すぎたからだ。
それを補うべく、兄の剣を逃れたサウザンド・ビーストウルフを、幻惑を交えて俺が仕留めてゆく。だが、そんな俺のやり方では拉致があかない。次第に溢れたサウザンド・ビーストウルフの数は増えてゆき、いつの間にか100匹近い数で周りを取り囲まれていた。
「カリュー、こっちに来い!」
兄の呼びかけに応じ、俺が兄のすぐ傍まで近づいた途端、周りを囲んでいたサウザンド・ビーストウルフが一斉に動いた。
そのまま真っ直ぐ進んで来るもの、態勢を地面すれすれまで低くするもの、大きく跳躍するもの。俺たちを取り囲んだサウザンド・ビーストウルフは、地上と空中のあらゆる方向、あらゆる領域に分かれ、完全に同じタイミングで飛びかかってきた。
これでは、全方位を同時に迎撃しない限り、いずれかの攻撃を食らってしまう。
しかし、兄は顔色一つ変えず、そして俺もその動向を見守っていた。
サウザンド・ビーストウルフは、俺たち2人に触れる数十センチ手前で、何かに弾かれ鳴き声を上げた。攻撃を防いだのは、球体状に展開された兄のウォーターシールドだった。
決まった形を持たない兄のウォーターシールドは、あらゆる形状に変形可能で、球体状に展開させておけば、全方位からの攻撃に同時に対応できた。といっても、広範囲に広げればその分シールドの強度は落ちる。
だが、俺を含めた2人分の周囲を覆いながら、サウザンド・ビーストウルフの牙を防ぐ程度なら、全く問題は無かった。ただ、シールドがクリアだったので、全方位からサウザンド・ビーストウルフの牙攻撃を受けた瞬間の光景は、周りすべてが見渡す限りオオカミの口で、見ていて気分の良いものではなかったが……
そこからは、こちらの一方的な攻撃になった。
サウザンド・ビーストウルフに、兄のシールドを突破する攻撃手段はない。
シールドを纏う俺たちに成す術もないまま、サウザンド・ビーストウルフは徐々に数を減らしていった。ただ、俺の攻撃もシールドを越えることができなかったので、俺もまた傍観するよりできることはなかったのだが……
しかし、この展開は俺の望むものではなかった。兄が力を過信し、踏み込んではいけないエリアまで深入りしてしまう可能性が高くなるからだ。
ダンジョンの深い階層まで潜ってしまうと、引く事自体が難しくなってしまう。
次々にサウザンド・ビーストウルフを斬り伏せてゆく兄の姿を見ながら、俺は何とか早めに切り上げさせる方法はないものかと、1人思案を巡らせていた。
そうこうしているうちに、さすがのサウザンド・ビーストウルフも数を減らしていった。
だが、残りが50匹を切ったあたりで、突如サウザンド・ビーストウルフがおかしな動きを見せた。一斉に俺たちから、飛び退くように距離を取ったのだ。
そして、辺りに僅かな風が舞い上がったと思った途端、それは強烈な竜巻となり、俺たちに襲い掛かってきた。
――
その効果は視界を奪うだけでなく、細かな砂が高速で叩きつけられるため、全身隈なく防具で覆っていても防ぐのが難しい。
サンドストーム自体は攻撃力の高い魔法ではなかったが、だからこそ、ウォーターシールドを纏った俺たちに仕掛けてきた理由は明白だった。砂を吸収したウォーターシールドは、一瞬にして泥の塊と化していたからだ。
視界を奪われた泥の内側で、俺たちは魔法を使役する新たな魔物の出現に気づいたが、既にシールドの役を果たさぬ泥の障壁を取り除くよりも早く、そこを突き破って相手からの攻撃が届いていた。
仕掛けてきたのは3メートルを越す、まるで鎧のような筋肉に覆われた、青い肌を持つ人型の魔物。一目でそれと分かる魔族だった。
魔族は魔王の眷属であり、その上位レベルの存在は魔王と共にしかこの世界に姿を現さない。目の前に現れたのは上位レベルの『ブルースキン』と呼ばれる魔族で、その強烈なショルダータックルは、泥と化した障壁を吹き飛ばし兄にまで及んでいた。
兄は素早く新たなウォーターシールドを展開することで、相手の攻撃を防いだが、体は激しく後方へ吹き飛ばされていた。
兄を吹き飛ばし口元に笑み浮かべる魔族を見た瞬間、俺は内心ゾッとした。
真横に立つブルースキンが、俺など及ぶべくもない潜在能力を秘めているのが分かったからだ。
だが、状況はそれだけにとどまらなかった。
泥と化したウォーターシールドが取り除かれると同時に、俺は視界内にもう1体別の魔族の姿をとらえていた。
コウモリのような翼をはためかせ、上空から俺を睨みつけていたのは、高度な魔法を巧みに使役する魔族。『オッドアイ』と呼ばれる、ブルースキン同様上位レベルの魔族だった。
同時に2体の魔族が現れたその状況は非常にまずいものだったが、それでも兄が本気を出せば何とか切り抜けられる可能性はあった。
しかし、問題はその2体と共に現れたもう1体にあった。
洞窟の入り口に姿を現したその存在は、おそらく魔族と思われた。
だが、その力量はすぐ傍に迫る2体を圧倒的に凌駕しており、どれだけ兄が頑張ったところで、抗うことなどできないものに思えた。
――
俺も直接目にしたのは初めてだったが、魔族の中には別格の強さを備える魔神と呼ばれる存在があり、強力な魔王が誕生した時には、魔神が現れることもあると言われていた。
魔王が魔界とこの世界とを繋ぐ橋渡しになっている関係上、魔王を凌ぐ魔神が現れることはなかったが、それでもその実力は計り知れない。
そんな魔神の出現に、俺は動揺を隠せなかった。
なぜ、魔神ががこんなところに……
一刻も早くこの場を離脱する必要を感じた俺は、魔神が動き出す気配のない今のうちに兄と合流しようと即座に駆け出した。
だが、それを見越したブルースキンが、行く手を塞ぐように俺の前に回り込む。すかさずブルースキンは、俺を捕えようとその手を伸ばして来た。
後方へ飛んで躱すこともできたが、俺は敢えてそれを無視してそのまま進んだ。
ブルースキンに掴まれた俺の体は、しかしミラージュベルトの効果で相手の手をすり抜けていた。
俺を掴みそこねたことに動揺しているそのうちに、一気に兄と合流したいところだったが、もう1体の魔族オッドアイがそれを許す筈もない。滑空しながら追従してくると、走る俺の前に魔法を仕掛けて来た。
意外に小さいその魔法陣を訝しみながら、俺は地面に描かれたそれをジャンプして避ける。だが、着地点周辺には同じような魔法陣が、即座に複数個展開される。
躱すことができずに着地した足元から生えてきたのはマドアーム。泥でできた腕だけの存在マドアームは移動手段を持たなかったが、その手で掴んだ対象をその場に固定するには打ってつけの魔物だった。
どうやら上空にいるオッドアイは、俺と兄を合流させる気がないらしい。俺は足元から生えた複数のマドアームに足を掴まれ、その場を動けなくなっていた。
持っている剣ですぐさまマドアームを仕留めてゆくが、足元の地面からは次々に新たなマドアームが生えてきて拉致があかない。その隙に、先ほどやり過ごしたブルースキンが俺の背後から迫っていた。
その時、強烈な雷鳴が轟いた。魔法陣の展開速度と威力からそれが魔神による攻撃だと分かったが、俺のもとへ駆けつけようとしていた兄は、それを避けるようにして後退を余儀なくされた。
そこに地上からはサウザンド・ビーストウルフ、上空からはオッドアイも加わって連携しながら兄に攻撃を浴びせかける。
その複数からの攻撃にも、上手く凌いで対処する兄はさすがだったが、同時に俺と兄が合流するのは絶望的な状況になっていた。
その間にも、俺の背後からはブルースキンが迫っている。俺は1人でそれに対処しなければならないのを理解し、即座に
それで相手の勢いを殺せるとも思っていなかったが、致命傷は免れるかもしれない。そんな思いでの行動だったが、まるで紙でも切り裂くように、アース・ウォールを突き破って、なお突進を続けるブルースキンを見て、俺は死を覚悟した。
直後に俺の体は、マドアームを引きちぎりながら激しく吹き飛んでいた。
だが、あのショルダータックルをまともに受けたら、俺の体は吹き飛ぶのではなく、バラバラに砕け散っている筈だった。
空中で回転しながら勢いを逃がし、ほとんど無傷で着地した俺を救ったのは、兄のウォーターシールドだった。
俺の危機に気づいた兄は、兄のいた位置からウォーターシールドを放ち、俺とブルースキンの間に幾重にも重ねて展開し、その威力のほとんどを相殺していたのだ。
しかし、俺を気遣うような余裕が兄にあった筈もない。
即座に兄へと視線を移した俺は、その光景を見て絶句する。
俺が案じた通り、兄はオッドアイのサンドストームをまともに喰らっていたのだ。
サンドストームの砂嵐は、閉じた瞼の隙間からも侵入してくる。砂で視界を奪われた兄に、即座にサウザンド・ビーストウルフが食らいつく。腕や足、肩口に噛みついて兄にぶらさがる姿がそこにはあった。
更に兄の頭上には、魔神が展開した魔法陣が広がっていた。
その大きさと模様から考えて、一目でかなり殺傷能力の高い攻撃魔法だと分かった。魔神は、ここで一気に兄を仕留めるつもりなのだ。
それに気づいた途端、俺は兄に向かって走り出していた。
強力な魔法は、他の魔法よりも発動までに時間がかかる。普段の兄なら、あんな発動時間の遅い魔法を食らうことなどあり得なかったが、サウザンド・ビーストウルフに喰らいつかれ、力無く剣を振るう兄は、次第にその動きも緩慢になり、自分が魔法の標的になっていることにも気づいていなかった。
だから、俺が兄を救う以外にその窮地を脱する方法は無かったのだ。
しかし、兄に向かう俺の足元からは、またしてもマドアームが伸びてくる。俺の邪魔が入らないようオッドアイが魔法を仕掛けてきたのだ。
必死でマドアームを斬り裂きながらも、俺は激しい後悔の念を抱いていた。
兄1人がここへ来て、この状況に巻き込まれたなら、おそらく兄は逃げ延びていただろう。あの魔族3体の強さには兄も当然気づいた筈だし、無茶が効くようなレベルではなかったからだ。
だが、俺という足手まといがいたせいで、その選択肢はなくなった。魔物をなめていたのは兄ではなく、むしろ俺の方だったのだ。
しかし、今更そんなことに気づいても遅い。
もし、ここで兄が命を落とせば、俺もそれほど時を待たずして死ぬことになるだろう。だが、それはどうでも良かった。
俺が死ぬのは当然の報いだからだ。無知で無思慮で無謀が生んだ、必然の結果だからだ。
だが、兄は違う! 兄の死は、俺が招いた完全なる無駄死にだ!
だから俺は絶対に兄を助けなくてはならない!
たとえ、自分の命に代えても……
だから、待て!
待ってくれ!
「……待てと、言ってるだろうがっ!」
俺は悪鬼の形相を浮かべ、俺を掴むマドアームの指を斬り落としながら、そう叫んでいた。
しかし、その時、兄のいる周辺の空気が変化したことに俺は気づいた。
「まさか!?」
見上げた兄の頭上から、魔法陣は消えていた。既に魔法は発動していたのだ。
そして、兄の周りの空間が円状に、外部から遮断されていることに気づく。
これは……
同じく隔離されたフィールド内に取り残された、サウザンド・ビーストウルフが、異変に気づいて激しく吠え、暴れまわる。
「兄さん……兄さんっ!」
俺は声を張り上げながら兄に呼びかける。そして、兄を救うためのあらゆる方法を想起したが、そこに答えはみつからなかった。
だが、俺は諦めたくなかった。
いや、諦めるわけにはいかなかった。
だから俺は、今この瞬間に何かが起きることを期待した。それがどんな突拍子もないことだろうと、冗談のような、有りえないことが起ころうとも構わなかった。
それで兄の命が救われるのなら……
でも、そんな奇跡が起きる筈もない。藁にもすがる思いの俺にできたことといえば、ただ必死に兄の名を呼び続けることだけだった。
そんな俺の呼びかけが兄に届いたのか、茫然と立ち尽くしていた兄が一瞬、俺に笑いかけたように見えた。
だが、次の瞬間。
ギュンッ
嫌な音が俺の耳に届いた。
それと共に目の前にあった兄の姿は、周りにいたサウザンド・ビーストウルフと共に消失した。いや、1センチほどの点に集約されていた。
そこにあったものすべてを圧縮して作られたその結晶は、ドスッという音を立てながらその場に落ちて地面にめり込んだ。
その鈍い音が俺の胸に突き刺さる。
それに合わせて、俺もまたその場に膝から崩れ落ちた。
そのまま倒れ込みそうになる体を両手で支え、俺はただ力無く言葉を漏らした。
「兄さん……ごめん、兄さん……」
俺は涙を流しながら、なお懺悔を続けた。
「俺はバカだ……何にも分かっていなかった。これじゃあ、兄さんを見殺しにするために、わざわざついて来たようなもんじゃないか?……なんて……なんて俺は無能で、そして無力なんだ。……しかも自分の力の無さを棚に上げ、何かが起こることに期待して。……ハハッ、奇跡だって? 笑わせるなよ。そんなもの……そんなものあるわけないだろうっ!」
叫びながら地面を殴りつけた俺は、この結果を招いたのが、自分の力の無さだと痛いほど自覚していた。
だがそれでも、この残酷な結末を俺1人で背負うには、それはあまりにも重く苦し過ぎた。だから俺は、自分の罪を少しでも軽くするために、責任の一端を奇跡の不在になすりつけたのだ。
背後からは性懲りもなく、鎧のような筋肉に身を包んだブルースキンが突進して来るのが、激しい足音から分かっていた。
だが、俺は既に戦う気力も逃げる気力も失っていた。そして、ブルースキンの接近は俺にとっておあつらえ向きでもあった。
俺の死が何の償いにもならないことは分かっていたが、せめて兄1人で行かせないことが、俺にできる罪滅ぼしのような気がしていた。
おもむろに立ち上がった俺は、無防備に相手に身体をさらし心の中で呟いた。
俺を守ろうとした、兄さんの思いに反しているのは分かっています。
でも、このまま生き続けることなんて俺にはできない。
ごめん、兄さん。でも、すぐにあなたの傍に行きますから……
すべてを覚悟し瞳を閉じたその瞬間、しかし辺りは静寂に包まれた。
そして、俺の耳に誰かの言葉が届いていた。
「奇跡は……あります」
その声はとても優しく、俺の心に染み渡るように響いた。
そして、その言葉は、俺の心の絶望を直ちに希望に塗り替えるほど、非常に説得力のある響きを持っていた。
俺の背後には、いつの間にか立つ者があったのだ。
直ぐ目の前に迫っていた筈のブルースキンは、見えない壁に接近を阻まれ俺に近づくことができなかった。
いや、そんな生易しいものじゃない。その壁に激突した魔族は、タックルの威力がそのまま自分に反射したように、激しく後方へ吹き飛んでいた。
だが、俺は魔族が何に弾かれ吹き飛んだのかに気づいていた。
魔法も含むあらゆる攻撃を一切受けつけない、絶対不可侵の防御フィールド。そんなものを纏う存在を知っていたからだ。
そして、俺は背後に立つのが誰なのかを理解した。
いや、俺はその語りかけられた言葉を聞いた瞬間に、それが誰なのか分かっていたし、言葉をかけてきた存在が人であるなどとは最初から思っていなかった。
振り返るまでもなく確信していた存在の姿を見て、俺はただ納得した。
俺の背後に立っていたのは、透けるように白い肌を薄絹に包み、錫杖を片手に優しい笑みを湛えた、あらゆるものの頂点に立つ存在……女神だったのだ。
女神は音もなく俺のもとを離れ、ゆっくりと歩き出す。
その時女神の脇を抜け、逃げ出そうとしたサウザンド・ビーストウルフに面白い現象が起きた。
瞬時に体から瘴気が抜け、普通のオオカミに戻ってしまったのだ。
しかし、それは女神が近くにいた間だけのことで、女神から離れた途端、また瘴気の影響でオオカミはサウザンド・ビーストウルフに変わってしまった。
女神の出現を受け、2体の魔族は魔神の元へ戻り、揃って洞窟の奥に姿を消した。残っていたサウザンド・ビーストウルフたちも、同じく逃げるようにして洞窟内へと帰っていった。
女神は目的の場所へ辿り着くと、魔神の魔法で作られた結晶を拾い上げた。そして、滑るように歩きながら、俺のもとへ戻ってきた。
女神に拾い上げられた結晶は、拾い上げた場所で空間に浮くようにして固定されていた。
そしてまた、全身に染み渡るような優しい響きが俺の耳に届いた。
「奇跡はあります。あなたが神を信じ続ける限り。だから、最後まで諦めてはなりません」
女神はそのまま振り返ると、錫杖を空高く掲げた。すると、空中に固定された結晶の上空に魔法陣が現れ、そして魔法が発動した。
それを見た俺は驚愕する。
こ、この時空魔法は、まさか……
時間を……時間を巻き戻しているのか!?
高位の時空魔法の中には、時間を逆行させる魔法があるのは知っていたが、その魔法を実際に目にするのは初めてのことだった。
空中に固定された結晶が僅かに震えたあと、急激にその体積を増やしてゆく。
そして、俺の脳裏に焼きついていた、兄を圧縮したあの忌まわしい光景が時を逆さに再現される。
俺は女神の持つ圧倒的な力に、ただ見とれていた。
すべてが終わった時、そこには失われた兄の立つ姿があった。そして、その姿をとらえると同時に俺は走り出していた。
「兄さん!」
兄のもとへたどり着いた途端、すぐに兄は倒れ込んでしまった。
それをなんとか受け止めた俺は、兄の体が傷だらけなのに気づき激しく動揺する。サウザンド・ビーストウルフの牙が無数に刺さった兄の体は満身創痍で、今にも力尽きそうだったからだ。
「奇跡が常に共にあるわけではありません。あまり無茶をしてはなりませんよ」
いつの間にか背後に立っていた女神は、告げると同時に兄に左手をかざす。
するとそこから、えも言われぬ優しい光が広がった。
――
正に神の御業としか言いようのないその癒し効果は、傍にいる俺にまで伝わり、俺が受けていた傷を完全に癒やしただけでなく、漲る生命力に、まるで生まれ変わったような気分を生じさせた。
当然、兄の傷も完治しており、即座に兄は目を覚ました。
「カリュー、無事かっ!?」
叫びながら目を覚ました兄は、剣を手にその場で立ち上がると、周りを鋭く睨みつけた。
だが、魔物は既にどこにもいない。兄と一緒に助かったサウザンド・ビーストウルフたちも、すぐに洞窟内へ逃げ帰ったからだ。
状況に気づいて振り返った兄は、背後にいる俺と女神を目にし、俺に言葉を掛けようとして、激しく女神を二度見していた。
「め、め、女神!? な、なぜ、あなた様が、こ、このような場所に――」
思わずそれ以後の言葉を飲み込んで、剣の柄に手をかける自分に気づいた兄は、すぐさま直立不動の姿勢をとった。
そして、事情が分からず、助けを求めるようにチラチラ俺の顔を見るが、神を前にして不用意に口を利くのをためらったのか、言葉にはせず苦笑いのむさ苦しい顔を女神に向けた。
そんな兄の態度に、女神からは笑みがこぼれた。
「魔王が現れた世界に神の降臨は必定です。何ら不思議なことはありません」
「兄さん、女神は兄さんの危機にかけつけてくれたのです」
「ハハ……アハーハハ、ハハ…………は?」
完全に、事態を把握できていないリアクション。どうやら女神がいる限り、兄の動揺はなくならないらしい。あとで詳細を伝える必要がありそうだった。
そのことを女神も悟ったのか、ここへ姿を現した本当の理由を語り始めた。
「魔王討伐は勇者が担う役目です。あなたがたエルフは、それに幾度も貢献してきた由緒ある種族ですが、単独でそれを行うには少し荷が重すぎるだけでなく、そもそも勇者の力なくして魔王討伐は叶いません」
俺と兄がここへ来た理由は討伐ではなかったが、力に見合わぬ強行だった事実と命を救われた恩義もあり、申し開きをしようとは思わなかった。
まだ現状を理解できない兄もまた、女神に言葉を返すわけもなく、片膝をつき頭を垂れている俺に習い、同様の姿勢をとった。
「但し、アグア。あなたにはやはり、魔王を討伐してもらわなければなりません」
女神の言葉に、俺は即座にその意味を悟り驚いた。
「エルフ族の長アグア。あなたを勇者に任命します。他の勇者と力を合わせ、魔王を退けこの国に平和と秩序を取り戻してください」
あ……兄が勇者に!?
女神の言葉を歓喜を持って聞いていた俺の耳に、更に驚きの声が届いた。
「このアグア、身命を賭して任務を遂行することをお誓い申し上げます」
えっ!?
さきほどまでテンパっていた筈の兄は、いつの間に状況を理解したのか、真剣な顔つきで女神にそう言葉を返していた。
その後、満足そうな笑みを浮かべながら、女神はこの場を去った。
俺たち2人も早々にワリトイに引き上げ、町長や主要なエルフたちを集めて、事の顛末を説明した。
皆から勇者になった祝辞を受けたのち、以後の指揮を俺に託して、兄は単身残りの勇者たちと合流するため旅立つことになった。
女神は立ち去る前に、転移石という変わった形状の希少石を兄に授けてくれた。その石には転移魔法が込められていて、それを使えば勇者たちの集う場所に一瞬で移動できるのだという。
「じゃあ、行って来る。あとのことは頼んだぜ、カリュー」
「兄さん、どうかご無事で」
「フフッ、お前の子守はもうコリゴリだが、今度連れ立って行くのはそれぞれが勇者だ。まあ、俺以上の奴なんていねぇだろうが、足を引っ張られるなんてことはあり得ないだろう。心配には及ばねぇよ」
言いながら俺の頭をひと撫でした兄は、そのまま転移石を使って旅立っていった。
兄がいなくなったとはいえ、ワリトイの守備を固めるエルフたちは、それぞれに優秀だった。陣を敷き、複数で対応に当たっていたこともあり、ワリトイが魔物の侵攻を許すことはなかった。
そんな日々が数日続き、その頃になって俺の心にある変化が起きた。
あれほど兄の身を案じ、無事帰って来ることだけを考えていた心に余裕が生まれたのだ。
そこから生じた思いは『何とかゾーンバイエを救う手立てはないものか』というものだった。
勇者の力がどれくらいのものかは分からなかったが、あの強かった兄が今以上に強くなるのは間違いなかったし、俺という足手まといを気にかける必要もなく、逆に周りには頼れる他の勇者が連れ立っている。
ならば、ゾーンバイエを説き伏せ、救うことができるのではないか?
俺はそう考えてしまったのだ。
過去、勇者が魔王に敗れたことが無いわけではなかったが、歴史上の勇者の敗北は、この世界に暮らす者への戒めのような形で、神が意図的に魔王に及ばない者を勇者に選定したとも伝えられている。
なぜなら、勇者を倒した過去の魔王は、その後任の勇者にたちどころに葬り去られているからだ。
神への信仰の薄い国では、女神の降臨自体が大幅に遅れることもあると聞くし、その采配には何か見透かすようなものを感じないでもなかったが、この際それは一旦度外視する。肝心なのは、今回の勇者がどのような位置づけなのかだからだ。
そう考えた時、俺の前で兄を生き返らせた女神の行動は、勇者たちが確実に魔王に勝利し、無事帰還できる保証に思えてならなかった。
加えて、ここエタリナ王国は神の使いと呼ばれる竜人族や、度々勇者を排出する俺たちエルフが暮らす希少な国でもある。そんな背景が、俺から疑念を差し挟む余地を取り払ってしまった。
そして俺は、魔王討伐に伴う危険性を顧みず、魔王になったゾーンバイエを何とか救いたいと考えてしまったのだ……
もしかすると、兄も俺と同じことを考えている可能性もあったが、できれば直接会って俺の思いを伝えたい。
俺はカサエルの森長アズールの協力を仰ぎ、ズレハの森を覆うように新たな陣を敷いた。魔王のもとに向かう勇者たちを、事前に見つけるためだった。
勇者の中に転移魔法を使える者がいて、直接向かわれたらどうしようもなかったが、それでも俺はエルフたちの目撃情報を待った。
兄と別れてから半月ほどが経った時、北東の方角から勇者たちと思しき存在の接近があるとの報告を受け、急いで俺はその場に駆けつけた。
そして、森に入る直前、これから魔王の牙城へ向かわんとする勇者たち一行と、無事落ち合うことに成功したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます