21話 3年前-エルフside 魔王①


 エタリナ王国には、3つの大きな森がある。

 最も北にあるフォーレストという町の、更に北側に位置するシンラの森。

 エタリナ最西端にあり、アルネー山脈から竜尾山脈に、跨るように広がっているカサエルの森。

 そしてここワリトイの北にあり、エタリナの南西端にあるズレハの森だ。


 この3つの森には、俺たちエルフ以外にも様々な獣人が暮らしているが、森はエルフの統治下にあって、シンラの森をアンダンテ、カサエルの森をアズール、そしてズレハの森を兄アグアが森長として治めていた。

 同時に兄は他の森のエルフすべてを統べる、エタリナに暮らすエルフの族長でもあった。


 なぜ、獣人たちが俺たちエルフの統治下にあるかは、歴史的背景から知っていると思うが、そうしなければ人間から迫害を受けるからだ。

 エタリナはエルフを有する数少ない国の1つだが、人間との橋渡しを担う俺たちのような存在の無い国では、獣人は虐げられ駆逐される国も少なくない。その原因は、知っての通り瘴気と魔物化にある。

 主に光の届かない場所に発生する瘴気は魔物の温床だが、大量に体内に取り込めば、そうでないモノたちも魔物に変わってしまう。

 

 人間やエルフには耐性があり、滅多なことで魔物化することはないが、獣人は違う。

 耐性の弱い獣人たちは、特別な種を除いて、そのほとんどが簡単に魔物化してしまう。そこが人間たちに忌み嫌われる所以であり、魔物と同一視され駆逐対象になる要因でもある。

 だが、だからといって獣人たちは意思疎通も可能な知恵ある存在だ。瘴気がそこらじゅうに溢れているわけもなく、普段は温厚な者も多い。

 そこで、ここエタリナでは、瘴気を抑える術を心得るエルフが監督責任を負う形で、獣人の生存が許されている。だが、人間たちの暮らす社会に進出を果たすことはなく、活動域は森の中だけに制限されている。


 しかし、森で暮らすことを信条としているエルフとは違い、獣人の中には人間社会に興味を抱く者もいる。外見も人間やエルフとそれほど変わらない獣人たちは、瘴気の問題さえクリアできれば魔物のように嫌悪される存在じゃない。人間たちの中にも獣人の保護に努める者たち、理解を示してくれる者たちもいて、受け入れ環境はあるように思える。

 だが、国がそれを認めることはない。

 街中は瘴気が発生する場所も少なく、その点に十分留意しておけば問題は起きない筈なんだが、この世界にはそれを許さない存在があるからだ。

 言うまでもなく、その存在とは魔王のことだ。


 魔王はいつ現れるとも知れない存在であり、魔王が出現するや否や、瞬時にしてその地は瘴気に覆われてしまう。もちろん世界全土が瘴気で包まれるわけじゃないが、エタリナに魔王が現れれば、エタリナ一国を軽く呑み込んでしまうほど、魔王の瘴気は広範囲で、また強く濃い瘴気でもある。

 この魔王の存在がある限り、瘴気の影響を受けやすい獣人は、永遠に人間たちに受け入れられることはない。

 また、俺たちエルフが人間に対して強い発言力を持ち、敬われる理由も魔王にある。

 過去、エルフ族の者たちは、勇者として幾度も魔王討伐の役を担ってきた。そんな歴史的背景があるからこそ、この国でエルフはそんな立場を築くことができた。


 魔王を打ち滅ぼすには必ず女神の力が必要であり、また魔王出現後には必ず天界より女神が降臨する。

 女神は魔王の力に応じて1人或いは複数の勇者を選定し、その者に勇者の力と神器と呼ばれる神の力の宿った武具を与える。そして、その勇者に魔王は滅ぼされるんだが、前回その犠牲となったのが、俺と兄の幼馴染であるゾーンバイエという狼人族の長だったんだ……


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 行動派の兄は、頭を使うのがあまり得意ではない……というか好きじゃない。

 そこで、兄に代わってその役割を担ってきたのが俺だった。


 その依存度はかなり高く、兄から離れて別行動を取るたびに、俺は呼び戻され兄のもとへと駆けつけねばならなかった。

 そして、話を聞いてみると別段たいした要件でもない。

 そのたびに俺はため息をつく。

 だが、もしものことを考えると無下にするわけにもいかない。

 あの時もどうせたいした要件ではないのだろうと、俺はタカを括りながら兄のもとへ駆けつけた所だった……


「――またですか兄さん。いったい今度は何が起こったと言うんです?」

「おお、カリューか。実はやべぇことになりそうなんだ」

「そうそう、やべぇことは起こらないと思いますが……」

「いや、今回のはマジだ。実は獣人が人間を殺したらしい」


 あまりにも軽く話す兄の口調に、俺は思わずその話を聞き流しそうになった。

 だが、兄は冗談でこういうことを言うタイプではない。そう思い直し、即座に気持ちを切り替えた俺は、詳細を聞き出すために兄に問い返した。


「……らしい、というのは確証のある話じゃないということですか?」

「いや、概ね確実だ。殺しの手口からいって、ほぼ間違いないとはアズールの見解だ」

「アズールのって、殺しはカサエルの森であったんですか?」

「いや、シンラの神木の警備兵3人が殺られたらしい。そして、殺ったのは俺たちズレハの森に暮らす……狼人族だ」


 俺は驚愕の思いで兄の言葉を受け止めていた。


 この国最北にあるシンラの森には、サラの神木と呼ばれる遥か太古より生息する神の木がある。人間たちにそう呼ばれているのではない。それを神木と呼ぶのは獣人を含む俺たち亜人だけだ。その理由はその木に成る実にあった。

 神木がいつ実をつけるかは分かっていない。数千年実をつけないこともあれば、100年の間に2度実をつけることもある。但し、1度実をつければそれは災厄となり、その国、或いは世界に災いを振り撒く種となる。

 それが故に、その実は『禁断の実』と呼ばれ、実が成ると言われるサラの神木は、人間により堅く警戒、警備されてもいた。


 ただそれは、魔王が滅ぼされて数十年。長くても100年保てばいい話だった。

 いつ実をつけるとも知れないという事実は、人の警戒を薄れさせるに十分な要素になる。前回エタリナに魔王が現れたのが600年以上前だったという事実も手伝い、殺された警備兵3人というのは、現在配置されている人員のすべてだった。

 

 魔王を生む元凶、禁断の実が成るサラの神木。そんな木が神木と呼ばれる理由は、獣人たちにとってある1つの希望を含んでいるからだった。

 その説明は後に譲るとして、シンラの警備兵が殺害されるという今回の事件は、俺にとって事実以上の驚きをもたらした。なぜなら俺には、警備兵を殺害したと思われる狼人族に、心当たりがあったからだ。

 

 それはつい昨日のことだった。

 俺が見かけたその狼人族は、若い狐人族の娘を連れて、ここズレハからシンラへ向かおうとしていた。その時、偶然にも森の警備をかって出ていた俺は、2人を呼び止め会話まで交わしていた。

 狼人族の縄張りはここズレハの森であり、狐人族の縄張りはシンラの森だ。この2人の繋がりは定かでなかったが、この森に狐人族がいたことも、そして狐人族の様子がおかしかったことも、訝しむべき点だったにもかかわらず、俺は今となってはくだらない理由でその場を離れてしまった。


 だが、兄から警備兵を殺害した狼人族の名を聞かされた時、その2つが繋がった。

 そして、2人を止めることもできた立場にありながら、熟慮もせずに見過ごしてしまったあの時の自分に、俺は激しい自責の念を抱いていた。


「シンラのアンダンテは当てにならねぇ。アズールにはシンラで何かあったら、こっちに情報を伝えるよう頼んであった。現場はフォーレストから派遣された兵でごった返してたらしいが、状況の確認には視力上昇魔法イーグル・スコープを使ってる。おそらく間違いはないだろう」

「そのことをゾーンバイエには――」

「伝えてあるから、もうそろそろ……来たようだな」


 兄の言葉を受けるように、狼人族の長ゾーンバイエの姿が見えた。屈強な肢体に精悍な顔つき。ゾーンバイエは、正に族長に相応しい偉丈夫であり、俺たち兄弟の幼馴染でもあった。


「火急の要件と聞きつけ参上した」


 神妙な面持ちでそう話すゾーンバイエ。

 ゾーンバイエとは気心の知れた仲だったが、族長という立場もあり、兄も度々呼び出したりはしない。その気遣いに、できる限り礼節を心がけ報いようとゾーンバイエは思っているようで、挨拶の言葉は少し堅苦しい。

 だが、それも形式的なもので、話し出せばすぐに砕けた口調になる。

 その理由は兄がそんな言葉遣いを嫌うためで、カサエルの森長アズールを始め、兄と対等に言葉を交わす相手は他にもたくさんいる。

 だが、逆に俺は兄に族長としての自覚を促す目的で、意図的に丁寧な言葉を使うようにしている。もっとも、その効果はあまりないような気もしているが……


「おお、悪いな。火急も火急、人間たちも既に動いてるからあんまし時間がねえ。まあ、お前相手に気づかいもいらないだろうから単刀直入に聞くが……お前、禁断の実に興味あんのか?」

「……禁断の実? あのサラの神木に成ると言われている伝説の実のことか? まさか、その実が手に入ったから、俺に分けてくれるという話ではあるまいな?」


 ゾーンバイエがそう応じるのを聞いて、兄は苦笑した。


「フッ、だと思ったがな。じゃあ、後は報告だ。お前んとこの若い者がシンラの警備兵3人を殺った」


 表情を改め真剣な口調で伝えた兄の言葉に、ゾーンバイエは顔色を変える。


「さっきの返答から、お前も事情は知らねぇんだろう。軍の奴らが聴取に来るのは間違いないが、お前はお前の知る限りのことを伝えるだけでいい。あとの処理はこっちでやる。以上だ」

「ち、ちょっと待ってくれ、アグア! その話は事実なのか!?」


 ゾーンバイエの質問に、兄は何も答えない。

 だが、その表情を見るだけで、ゾーンバイエにはすべてが伝わっていた。

 そして、こめかみを抑えながら考え込むゾーンバイエの姿がそこにはあった。


「今回の件には狐人族も絡んでるようだが、こっちも事情を完全に把握してるわけじゃない。詳細が分かれば追って知らせる」


 兄の言葉に、俺は胸に重いものが圧し掛かかってくるのを感じていた。


「禁断の実が成ってたのかどうかも分からねぇが、まあ、おそらくそれはないだろう。めったやたらと拝めるもんでもないし、計って何とかなるもんでもない。もしかすると、警備兵の死とは直接関連ねぇのかもしれねぇしな。……まあ、いずれにしても、事後処理は全部こっちで引き受ける。うちには優秀な弁護人もいるし、お前らの立場が悪くなるようなことはないから安心しな」


 言いながら、兄は俺にいやらしい笑みを向けてくる。

 偉そうなことを言いながら、こっちに振ってくるのは分かっていたが、今回ばかりは俺にも負い目がある。是が非でも、狼人族の立場が悪くならないよう交渉する必要性を、俺自身感じていた。

 ゾーンバイエは首謀者とされる狼人族の名を聞いても、やはりその行動に心当たりがなかったようで、肩を落としながら自分の住処に帰っていった。

 そして、俺は即座にフォーレストに向かい、領主との交渉の席についた。


 これまでも、森で起こったことについては、エルフが人間との仲介役を務めていた。エルフは一部の人間から信仰を受けるほど敬われており、そのせいか応対もスムーズ、丁寧であり、今回の一件についても、交渉までに問題が生じるようなことはなかった。

 それだけでなく、おかげで俺は国が握っている情報を知ることもできた。

 そこで得た話によると、首謀者2人のうち狼人族は既に死んでおり、一緒にいた狐人族の行方が分からなくなっているということだった。

 更に、その行方不明の狐人族が主犯であると、国はほぼ断定しているようで、狼人族を弁護するのにそれほど苦労はかからなかった。

 

 但し、その責は狐人族が負うことになる。

 狐人族はアンダンテの治めるシンラの森の住人であり、俺自身、擁護を引き受けても構わなかったが、狐人族とはあまり面識がなかったし、アンダンテとはそりが合わなかった。

 なぜなら、アンダンテは族長の兄をあまり敬わない、不敬の輩だったからだ。

 

 しかし、人間との交渉は俺が一番慣れており、狐人族の罪を軽くするには俺が交渉に当たるのが適任だと思えた。手続きを終えたあと、俺は渋々シンラの森を経由して、アンダンテにそう申し出ようと決めていた。

 森の移動は、設置されたゲート(魔術回路を使った転移装置。古来よりある物で、新設や修繕には、エルフの聖地であるアルフヘイムから、知識と技量を持った者を連れてくる必要がある)を活用したので、それほど時間はかからなかった。

 だが、森からフォーレストまでは馬で移動するしかなく、結局交渉を終えるまでに数日を擁してしまった。

 そして、ようやくすべての処理を終え、フォーレストからシンラの森に向かっている時に、突如としてそれは起こった。

 

 一瞬にして、辺りが黒く塗りつぶされるような、そんな不穏で禍々しい気配が辺りを支配した。

 周囲に濃い『瘴気』が立ち込めたその状況に、俺はその元凶を即座に理解した。

 つまりこの国に『魔王』が現れたのだ。

 人間を除くほとんどの種族は、瘴気を敏感に察知できる。更にエルフにはそれを跳ね除ける耐性もあったが、それでも瘴気に含まれる負の思念は、気をしっかり持たねばそれに流されてしまいそうなほど、強い破壊と悪意に満ちた激しい衝動だった。

 俺はその思念を跳ね返すことをイメージしながら、精神が乱れて翻弄されないよう努めた。

 

 瘴気の発生に合わせ、目の前には当然のように魔物たちが溢れ始めていた。

 瘴気と共に最初に現れるのは低レベルの魔物であり、強力な実体を持っていない。基本的には光属性の魔法さえ使えれば、簡単に駆逐できた。

 俺はコボルト(邪な精霊)や、モントークモンスター(動物の死骸に悪意が憑依したもの)、バッドラキー(蝙蝠の魔物)、などを剣に光属性を付与した光の魔法剣でなぎ倒しながら森へ急いだ。

 因みに、動物も瘴気の影響を受け難いが、俺が乗っていた馬は魔物が現れた途端、興奮しながら俺を振り落とし、そのままどこかへ駆けていってしまった。

 仕方なく俺は、高速移動魔法スプリンターなどを駆使して、自力で森に向かうことになった。


 事態が急変したため、俺はアンダンテのもとへは向かわず、ズレハの森に帰るつもりだった。

 ただ、それでもシンラの森に向かうのが一番の近道になる。シンラの森にあるゲートを使えば瞬時にズレハへ移動できるからだ。

 俺はシンラに着いた途端、真っ先にゲートを目指した。


 ゲートへ向かっていた俺は、途中で魔物による思わぬ急襲を受けてしまう。

 相手はギガント・ラビット。兎人族が魔物化したモンスターだった。

 瘴気の影響で2メートルを超す巨体になっており、その体当たり攻撃は強烈で、鎧や盾で防いでも、すり抜けた衝撃が骨を砕き内臓を破裂させる。

 俺は無防備な背中から突然の攻撃を食らってしまい、死んでいてもおかしくない状態だった。

 しかし、ミラージュベルトを装備していたおかげで、相手の攻撃は無効化されていたのだ。


 ミラージュベルトは、あらゆる物理攻撃を無効化(1度効果が発現すると一定時間効果はなくなる)する特殊な装備品であり、その有用性からことのほか気に入った装備だった。

 普段からそれを身に付けていたおかげで、命拾いできたことに安堵すると共に、その時俺の中に抑えきれないある感情が湧き起こった。


 ――ミラージュベルト大好き――


 俺はその時抱いた高揚感に、違和感を覚えていた。

 確かにミラージュベルトが俺にもたらした恩恵は、高揚感を抱くに値する、すばらしいものだった。

 しかし、『大好き』なんていうおかしなテンションで、俺がそこに思いを馳せることはない。いや、ない筈なんだが……


 何かの影響も考えられたが、戦闘中だったことから、そんな思いもすぐに掻き消して、俺は魔法を唱えた。


分身作成魔法セパレート・ビジョン!」


 魔法発動と共に、俺の体が3体に分離する。

 3人の俺に囲まれたギガント・ラビットは、戸惑いながらも、そのうちの1人に向かって体当たり攻撃を仕掛けてきた。

 だが、ギガント・ラビットの攻撃が俺に及ぶことはない。なぜならその3体は、いずれも俺の幻影だったからだ。

 

 セパレート・ビジョンの発動に会わせて姿を消していた俺は、既にその場から離れていた。あとは効果が切れるまで、ギガント・ラビットは俺の分身相手に延々イタチごっこを繰り返すだけだ。

 獣人は魔物化した時、総じて知力が落ちる。いや、知力が落ちるというよりも、瘴気に含まれる負の思念が強すぎて、正常な思考ができなくなる者が多いのだ。

 もともと、それほどお利口さんとは言えない兎人族は、それが顕著でもあった。

 そこを利用した幻惑が数分間続いている間に、俺はそのままゲートへと急いだ。


 できれば獣人は殺したくない。魔王さえ倒すことができれば、獣人たちは元の姿に戻るのだから……


 そう思いながらも、俺はアンダンテに対する激しい怒りも感じていた。

 獣人たちを瘴気から守るのはエルフの勤めであり、族長である兄の指示で、それぞれの森には突然瘴気に覆われた時のマニュアルもあり、結界装置などが完備されていた。

 従って、獣人たちへの日々の指導、訓練がちゃんと行われていたら、森の獣人が魔物化するケースはそれほど多くない筈だった。

 だが、ゲートにつくまでに俺は、兎人族、鼬人族、猫人族などの、十数体にも及ぶ魔物化を目撃した。これは由々しき事態であり、適切な避難誘導を怠っている証明でもあった。

 今回の騒ぎが落ち着いたあと、アンダンテには然るべき処置が必要だと兄に進言しよう。俺はそう考えていた。


 ようやくゲートに辿り着いた俺は、そこを通ってズレハの森へ移動した。だが、ズレハに辿り着いた途端、俺はアンダンテへの怒りが吹き飛ぶほどの衝撃を受けた。その原因は、ズレハの森を包む瘴気の濃さにあった。

 瘴気の濃さは、魔王との距離に比例する。あり得ないくらい強い瘴気に包まれた森の状況は、ズレハに魔王が居る事実を明確に示していた。そして、そこから導かれた答えに俺は戦慄する。


 まさか……魔王の母体になったのはゾーンバイエなのか!?


 兄と3人で話していた時のゾーンバイエは、明らかに何も知らない様子だった。しかし、このズレハの森を包む濃い瘴気の中心地は、狼人族が根城とするテリトリーであり、また魔王の母体となるには、それなりの素養を備えた者でなければならない。

 この森にも数種類の獣人が生息していたが、その条件を満たす対象として、真っ先に思い浮かんだのがゾーンバイエだった。その考えが、瞬時に俺の心を不安と絶望へと向かわせる。


 そんな……バカな!?


 その疑念を消すことはできなかったが、とにかく俺は気持ちを切り替え、先ずは兄と合流すべきと考えた。

 ズレハの森の瘴気濃度は、既に警戒レベルを遥かに超えていて、結界装置も役に立たない。俺はエルフの拠点を目指すのではなく、ワリトイへ向かうことにした。

 森を放棄した時に向かうのは人間の住むエリアであり、ここズレハの場合はワリトイと決まっていた。ワリトイには国から派遣されている駐屯兵などもなく、警護の面を考えての取り決めだった。

 森に隣接したワリトイの町は、危険域から脱しているわけではなかったが、瘴気の増幅作用を持つ森から出ている分、格段にその濃度は抑えられた。

 それに、ワリトイは森と近いこともあって、ズレハに暮らすエルフとは古くから親交があり、街中に結界装置も備えられている。そこにエルフたちが合流していれば、ほぼ完全に瘴気を抑え込むレベルに強化できている筈だった。

 ただ、これほど強い瘴気を受け、どの程度の獣人を連れて移動できたかは分からない。もしかすると既に、この森の獣人はすべて魔物化してしまっているかもしれなかったが……


 幻術攻撃主体の俺が、高レベルの魔物複数を相手にするのは少し無理がある。1人でズレハを抜けるのを断念した俺は、やむなく一旦カサエルの森へ向かい、アズールに馬車を借りて森を迂回しながらワリトイへ向かうルートをとることにした。

 魔物が溢れる中、普通の馬では怯えて進めない。だが、アズールの持つ馬車は獣化した馬人族が馬車を引く特別仕様になっていて、魔物に臆さないだけでなく、かなりの重量を積載しても楽々運べる馬力も備えていた。

 護衛数名のエルフと共に馬車に乗り込んだ俺は、一路ワリトイを目指す。当然、馬人族の魔物化を防ぐため、馬車にも結界装置が積み込まれたのは言うまでもない。


 急げば3、4日と踏んでいた行程は、日を追うごとに強力な魔物も現れるようになり、途中にある村や小さな町の救援活動などにも時間を費やしたせいで、辿り着くのに3倍の日数を要した。

 ワリトイは既に300名以上から成る、統率のとれたズレハのエルフ戦士による防衛陣が敷かれており、別段大きな被害が出ている様子はなかった。町自体の結界も強化されており、街中に瘴気の影響はなかったが、獣人の姿はほとんど見ることができなかった。

 ある程度町の様子を観察し、防衛箇所の最前線へ赴いた俺は、そこで見知った顔が指揮をとるのを見つけた。


「遅くなりました、兄さん!」

「おおカリュー、無事だったか」

「兄さんこそよくご無事で。まあ、あまり心配はしていませんでしたが……」


 その言葉に軽い笑みを浮かべた兄に、俺は続けた。


「町の様子は問題無さそうですが、獣人たちの避難はうまくいかなかったようですね」

「……まあな。気づいたら、いきなりモンスターハウスに叩き込まれてた。みてぇな最悪の始まりだったからな。取り敢えずエルフの動きに問題は無かったが、即座に強力な魔物と化した獣人たちを、連れ出す余裕はほとんどなかった。隊を組んでの救出は続けてるが、魔物化してる獣人だけをおびき寄せるのが難しい。日を追うごとに、他の強力な魔物が混じってきてやがるからな。森以外の場所でも、ちらほら強者が出始めてるみたいだから、一部の仲間は他の町の応援に向かわせた。ここでの獣人の救出活動も、あと数日が限界だろう」


 獣人に関する状況は予想通りだったが、兄が無謀な行動を起こさないか気がかりだっただけに、どこにも怪我を負っている様子のないことに、俺はほっと安堵の息を漏らしたのだが……


「まあ、これ以上待って動くのが難しくなる前に、お前が来てくれて助かったぜ」

「……それはどういう意味ですか?」

「いや、万に一つもお前が死んでりゃ、俺も無茶するわけにはいかなかったからな。だが、あとを託す者さえいりゃあ、そんなことを心配する必要もない――」

「って、もしかして!?」

「魔王に会ってくる」

「会って来るって、何のために!? 兄さんは魔王が何者か知ってるんですか!?」


 本心を隠しながらそう問いかけた俺に、兄は冷ややかな視線を返してきた。


「お前、舐めてんのか? この森の瘴気と状況から考えて、ゾーンバイエが魔王になったに決まってんだろうが?」


 兄は俺が一番聞きたくなかった答えを、臆することなく口にした。やはり兄も俺と同じ結論に達していたのだ。

 だが、それを認めたくない俺は、わざと疑問を口にする。


「……そう言い切れる根拠は何ですか?」


 その問いかけを、兄は鼻で笑い飛ばした。


「フンッ、カリュー。お前、禁断の実が何か知ってんのか?」

「…………」

「ありゃ、毒なんだぜ? ほとんどの奴が死に絶える中、生き残るのは魔王の媒体としての素養を持ったほんの一握りだけだ。そんな奴が、この森にあいつを除いて他にいたか?」


 そう告げてくる兄に、俺は返す言葉を持たなかった。

 その素養を持ち得ることが、良いことだとは思わなかったが、この森どころか、この国中を駆けずり回っても、ゾーンバイエ以上に優れた者など、そう簡単には見つからない。だからこそ、まっ先に連想したのがゾーンバイエだったのだ。

 ここまで日数が経過したことにより、今回現れた魔王には、ある1つの特徴があるのが分かっていた。そのことから考えても、今回魔王になったのはゾーンバイエで間違いない。その結論は揺るぎようもなかった。


「奴ならその上も狙えてたかもしれねぇが、そんなことを望むような動機が奴にあったとは思えない。絶対に何かの……誰かの陰謀に巻き込まれたに決まってる! 俺はそれを直接会って確かめる。そして、俺はそいつを許さない。ゾーンバイエをこんなことに巻き込んだ奴を、絶対に暴き出して、見つけ出して……生き地獄を味わわせてやる!」


 まるで瘴気を取り込んだ者のように、陰惨な殺気を放つ兄を見ながら、俺は魔王になったであろうゾーンバイエのことを考えていた。

 

 魔王には大きく分けて2つのレベルがあった。

 自分に流れ込む、強大な魔の力を制御しきれず、ただ破壊と瘴気を振り撒くだけの存在。

 この下位レベルの魔王は、別名『成りそこない』とも呼ばれ、その行動から容易に判別することができた。

 あてもなく彷徨い続ける成りそこないは、破壊を伴いながらひとつ所に留まることがない。しかし、被害範囲が拡大するかに思えるこの行動は、その姿が目視で確認できるため、起点となった場所以外に、それほど大きな被害はもたらさなかった。

 侵攻速度もたいしたものではなく、居場所とルートが特定されたあとは、その対処も容易であり、人的被害に関してはそれを大幅に抑えることが可能だった。

 女神が降臨するまで討伐こそ不可能だったが、成りそこない自体はそれほど強大な力を持っておらず、ある程度足止めすることが可能で、比較的短期間で収束するケースも多い。

 成りそこないとは、魔王の真価を発揮できない、高レベルの魔物に毛が生えたような、そんな存在でもあった。


 だが、ゾーンバイエはおそらくそうじゃない。媒体の差と思われる魔王の能力差は、優れた母体を得るほどに広がり、まったく別の存在へ変貌を遂げる。

 殺傷能力の高い広範囲の攻撃魔法や、様々な特殊能力を備えた『真の魔王』は、俺たちや人間たちにとっての本当の災厄であり、畏怖の対象でもある。

 過去、魔王だったモノ達の知識や知恵を引き継ぐと言われる真の魔王は、瘴気が備える破壊衝動に翻弄される、成りそこないのような低レベルな動きはしない。

 その行動は戦略的であり、不用意にその身をさらすことなく、先ずは拠点となる場所に強力な防波堤となる地下複数階層からなる牙城を築く。地中深くへ掘り進むのは瘴気濃度の上昇に直結する。そこからは必然的に強力な魔物が生み出される。

 そうやって頑健な地盤を築き上げ、地力を蓄えたあと、ようやく本格的な侵攻が開始される。


 魔王が現れてから既に半月近く経つが、未だ侵攻を開始する素振りのないことからも、今回の魔王がこの森を拠点に定めた真の魔王であることに疑いはなかった。

 そして、だからこそ、知性を持つ魔王はゾーンバイエの記憶を持っている可能性もあった。

 そこが、兄が魔王のもとへと向かうのを決めた理由であり、兄は魔王から今回の経緯を直接聞き出そうと考えているようだった。

 しかし、魔王がどの程度の理性を持ち、どの程度ゾーンバイエの意識が支配的なのかは分からない。更に、魔王周辺に配置されているであろう、高レベルの魔物を排除しながらそこまで進めるかも定かでない。

 だが、今回の事情を考えると、言い出した兄を説得するのは難しいように思えた。

 だから俺は、敢えて兄の言葉に同意を示すことにした。


「分かりました。では、俺も同行しましょう」

「はあ~? お前、何言ってんだ? お前の無事を確認できたから行くことしたっていう、さっきの俺の話を聞いてたのか?」

「もちろん聞いていましたが、そこは俺も譲れない。それに今回の一件はもしかすると、俺にもその責任の一端があるのかもしれい……まあ、その場合は兄さんも連帯責任ですけど」

「なんで、俺に責任があるんだよ!」

「それを確かめるために、行かなくちゃならないんです!」


 俺の気迫に兄は少し気圧されていたが、すぐにも俺の申し出を切って捨てた。


「……ダメだ! お前がいると足手まといだ!」


 だが、俺も引き下がらない。


「兄さん、敵は強大です。魔王の側近ともなれば、俺など到底太刀打ちできないでしょう。だから当然、俺は兄さんに守ってもらうつもりでいます」

「そうだろうが! それが足手まといだと――」

「お言葉を返すようですが、兄さん? 兄さんの強さは、自分以外に誰一人守ることもできない、そんなチープなものでしたっけ?」

「なんだと!?」

「俺は族長である兄さんの弟です。それなりに身を守る術だって身に付けています。別に赤子を守れと言ってるわけじゃないんですよ? 兄さんの戦い方は熟知してますし、邪魔になるような動きはしないつもりです。攻防一体の兄さんの水魔法なら、それほど俺を気にかける必要もないですし、逆に俺の幻術を加えて戦力がUPするくらいです」

「いや、確かにそうかも知れねぇが――」

「それに兄さん1人で仮に魔王のもとに辿り着けたとしても、その拙い話術で魔王になったゾーンバイエから、必要な情報を引き出せるつもりですか? 魔王は過去魔王だった者たちの知恵や記憶も引き継いでいると聞きます。もともと頭も悪くなかったのに、歴戦の魔王の智謀や知略が加わったゾーンバイエに、兄さんが口で太刀打ちできるとはとても思えません」

「うっ……むぐぐ……」

「それに、もし俺たちに何かあったとしても、エルフにはまだ、アズールもカノンもいます」

「何かあるって、お前――」

「あるかないかは兄さん次第です。大丈夫。俺は兄さんを信用していますから」


 兄はまだ何か言おうとしていたが、言葉では俺に勝てないと諦めたのか、その口をへの字に曲げ俺に背を向けた。


「……勝手にしろっ! バカが!」


 そう捨てゼリフを残して兄は行ってしまったが、肩を回しながらのその後ろ姿は、漲るやる気を現していた。おそらく俺を連れて行くことで腹を決め、気合を入れ直しているといったところだろう。

 実際兄の強さは群を抜いたものであり、その辺の魔物が束になったところで、相手になることはない。そこに俺がいようがいまいが、そんなものは全く関係なかった。但し、その理屈はある程度の相手までにしか通用しない。

 兄1人なら、かなり上位の魔物とも互角以上に渡り合うことができるだろう。しかし、即死系の強力な攻撃を交えてくる相手に対し、いくら兄でも俺を気にかけながら戦うのは難しい。

 だから俺は敢えて兄をけしかけ、共に連れてゆくことを了承させた。俺を連れてゆくことでハードルは上がり、必然的に兄1人なら無理をしても進む段階で、諦めさせるのが目的だった。


 実際、どの程度まで進めるかは分からないが、そのたずなを俺が握ることで俺の判断のもと決断したい。予測でしかないが、ゾーンバイエの力量を考えると、魔王のもとまで辿り着くなど到底不可能だし、命を落とす危険が高いと思えた。

 兄は死を覚悟しているのかもしれないが、そうなってしまえばただの無駄死にだ。

 ゾーンバイエは幼馴染であり、なぜこうなったのかは気がかりだったが、今このやり方でその真相に迫るのが最良だとは思えない。機会は絶対に巡って来る筈だし、それまでは俺も兄も生きながらえる必要がある。

 兄の無茶な性格には困ったものだが、だからこそ俺やアズールみたいな存在が周りにいて、上手くバランスを取っているとも思える。そう考えた俺は、兄に置いて行かれぬよう急いで支度に取り掛かった。

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