リア充の定義~あなたの長所はなんですか~

@sima-mu

ーあなたの長所はなんですかー

 『リア充』とは

 簡潔に言えばリアル(ネットではない現実世界)が充実している人間のこと。

 より具体的に言うならば家族、恋人、友人関係に恵まれネットを用いずとも豊かな日々を送っている人間たち。

 とはいえ一般的に定義はあいまい。


 

僕には彼女がいる。友人もいる。現在は一人暮らしだが故郷には家族もいる。

 客観的にリア充というやつに当てはまる条件は十分に満たしていると思う。

でも楽しい人生を送ってはいない。正確には本来楽しいはずなのに、楽しめない。豊かな日々を送っているはずなのにその豊かさを享受できない。

なぜなのか? 

理由は簡単だった。僕自身がダメな人間だからだ。

誰しも短所はあるだろうし、そもそも悪いところがない完璧な人間などこの世に存在しない。それはわかっている。だが僕はその誰もが持ち合わせる短所というやつがあまりにも多すぎて、その一つ一つがとても深刻な度合なのである。そしてその深刻さにさらなる追い打ちをかけたのが、それらの短所に気付いたのが高校三年の秋、十八歳の時であったということ。十八歳までの僕は、自分が完璧な人間とまでは言わないまでも、それなりにまともな人間のつもりで生きていた。なんとも悔やまれることに。僕は自分を十八年間もの長い間、まともな人間だと過大評価して人生を送っていたのだ。

僕は人生をやりなおしたくなった。でもそれは叶わないことだ。時は巻き戻らないのだから。それでもやり直したい、僕自身が生まれた日、人生最初の誕生日に戻って、赤ん坊の頃からもう一度自分という人間を再構築したい。ダメな人間のままこれ以上日々を積み重ねれば僕だけでなく、ダメな僕と関わった大切な人たちまでも不幸な目に合わせてしまうかもしれない。ダメな人間は人と関わればその人に多大な迷惑をかけやすい。人間は他の人間と関わることなしに生きていくことはできない。どう足掻いても。


そこで僕は考えた。そうだ、人生を終わらせてしまおう。僕が死ぬことで家族には多大な負担がかかるかもしれないが、僕が天寿を全うしようとするよりははるかにその程度は軽いはずだ。この際許してもらおう。恨まれたってかまわない。両親には本当に申し訳なく思う。十八年もの長きにわたり僕を養ってくれたにも関わらず、僕という人間はこんなにもダメな人間に育ってしまったのだから。僕は今まで僕のことを少しでも褒めてくれた人、期待してくれた人、応援してくれた人、そんなたくさんの人たちに対して短所をごまかし、上っ面だけの長所を振りかざして騙してきたのだ。これらのことをふと思うたび、自分の足で立っていることが困難になるくらいのショックに打ちひしがれる。そうして僕は、着の身着のまま、遮断機の下りた踏切の真ん中に立った。


しかし僕は色々あって死ねなかった。たまたま通りがかった同い年の女の子に腕を引っ張られ助けられたのだ。

それから色々な過程を経て、本日まで死なずにダメな人間のまま生き残っている。

 

        ◆


氏名:土御門勇人 

年齢:十九歳 

身分:大学生 

出身:東京都  

職歴:なし 

資格:なし

志望動機:将来に生かしたい


「それでは、あなたの長所と短所を教えてください」

「はい。私の長所は健康なことです。短所は基本元気のないところ、とにかく仕事ができないこと、頭が悪いこと、悲観的なとこ、意志が弱いこと、それから……」


        ◆


 今回もダメだった。

 これでもう十回目くらいかな。バイトの面接で落ちるのは。

 大学へ向かう途中、不採用の連絡を受けたスマートフォンを鞄のポッケに押し込み、小さくため息をつく。大学生になって八か月。そろそろバイトでもしてみようかと思ったのだが、なかなかどうしてうまくいかない。

 『学生ニート』という言葉が胸に突き刺さるようになってもう久しい。サークルやボランティアなど、これといって大学生らしい活動をしていない僕にとっては心が痛む言葉なのだ。


「またダメだったの!?」

 友人の冬原はあきれた調子で言う。

 僕は黙ってうなずく。

「土御門、もしかしてお前長所と短所を訊かれてさ、いつも言ってるみたいに『長所はありません。短所は不特定多数です』とか言ってないか?」

「そんなバカなことはしないよ。ちゃんと長所は健康で短所は思いつく限り一つ一つていねいに言ってるよ。でもどこ行っても短所を五個くらいあげたところで止められるけど」

 冬原は自分の顔を手のひらで覆った。

「お前はアホか! そんなやつがどこで採用されるんだ!」

「んなこと言っても、嘘なんかついたってどうせいつかはボロが出るんだし。だったら採用される段階で僕がいかにダメな人間かわかってもらっている方がお互いやりやすいと思うんだ」

 アホと冬原はもう一度僕に言った。

 僕は反論しようとしたが先生が教室に入ってきたのでやめておく。



 僕と冬原は同じマンションに住んでいる。たまたま部屋が隣同士で仲良くなった。彼は僕と同じ大学の同じ学部の同じ学科に所属している。友人を作るのが苦手な僕にとっては幸運なことであった。


「知ってるか土御門」

「なにを?」

「この街に伝わる精霊の話」

「知らない」

 冬原はよく、情報源がよくわからない怪奇現象の話をしてくる。まあまあおもしろい話も時々してくれるから退屈しのぎにはちょうどいい。

「この街に住む不幸な人間の前に現れてその人を幸せにするための手助けをしてくれるらしい」

「ふーん。とするとこの街には不幸な人間はいなくなるということか」

「そうなるよな。速い話、その精霊現れてくれればリア充になれるってことだもんな。すばらしい伝承だ。俺の前に現れてくれないかな」

 今回の話はハズレだな。なんの感動もない。あくびが出た。

「あ、土御門があくびしてる。講義中に寝るなよ」

 そう言っている冬原こそ講義でよく寝る。時々いびきをかき始めるから周りの目を気にするなら起こさなければならないわけだが、あまり気分のいい役目ではない。そしてテスト前になるとノートを求め僕に泣きついてくる。僕は仕方なく貸してやり、冬原はそうして前期の必修科目の単位は落とさずにすんでいる。必修外の科目は訊いていないが。それでも僕は冬原という人間をうっとおしく思うことはない。話していて退屈しないし憎めない性格なのだ。

「今日の授業は起きてるぞぉ」

「がんばれ」

 最近僕らの間ではこんなやりとりが日課になってきた。

「しかし土御門、お前はべつに長所がない人間ってわけではないと思うぞ? ノートめっちゃきれいだし。講義はサボらないし」

「そんなの長所には入らないよ。俺は高校時代に自分という人間に絶望したんだ。正直今はいいけど少し先の未来はすごく暗いと確信してる」

「おいおい」

 教壇に立った先生がマイクを持ち講義が始まった。僕はルーズリーフを一枚だし、シャーペンを手に持って講義を聞く姿勢に入る。

……五分もしたころ、隣からすやすやと寝息が聞こえてきた。



「あー終わった」

 冬原が大きく両手を上にあげ体をのばす。

「今日もよく寝てたね」

 僕は嫌味っぽく言ってみる。

「まあね」

 講義前は寝ないと宣言したくせにすっかり開き直っている。おそらく冬原はずっとこのまま四年間過ごすんだろうなと僕は思った。

「土御門はこれで終わり?」

「うん」

「また帰ったらパソコンを開いて動画鑑賞か?」

「だろうね」

「他人事みたいな物言いだな」

「まっとうに生きていくことなんてあきらめているさ」

「お前はまたそんなことを……」

 僕は荷物を整え歩き出す。

「あ、おいてくなよ」

「いや、冬原は次の時間も講義だろう?」

「あ、そうだった」

 この男は自分の時間割も忘れている。

「じゃあ、お先」

 僕は一人帰路につく。


       ◆


 パソコンの画面を見ながら、なんとなく陰鬱とした暗い気分になっていた。バイトはまた不採用。正直覚悟はしていたが、心のどこかで希望も抱いてはいた。限りない自己への絶望感が心を満たす。

「逃避のためのパソコンが今日は役に立たないな」

 呟き、目を伏せる。長所なんてなにもない。何をやってもダメな自分に救いはあるのか。考えれば考えるほどに気持ちは深く沈んでいく。僕の人生に先はない。

「くそったれ」

 僕がパソコンをシャットダウンし、昼寝でもしようと思ってマウスを動かしたときだった。

「ちょ、ちょっと待ってー」

 聞き慣れない女の子の声が部屋に響く。

 僕は驚き、あたりを見渡す。僕の暮らすマンションは六畳の部屋が一つと狭いキッチン、トイレ、風呂場がある決して広いとは言えないスペース。部屋に僕以外の人間がいないことを確認してもう一度パソコンの画面に視線を戻す。

 そして僕は目を疑った。なんと、目の前のパソコンの画面から小さな小さな手が出てきている。それはおおよそ人間の手の大きさではない。手の次は頭、長い髪を一つに右側にまとめたサイドテールのビー玉くらいの頭だ。そこから一気に体全体が出てきて、キーボードの上にその小さな体の女の子は降り立った。鮮やかな赤い着物のようなものを身に着けている。が、下半身の方はその着物は途中で途切れており、膝の少し上からシミ一つない小さくてきれいな足があらわになっている。そして、人間でいうところのお尻のところにはとても細長く、黒っぽい尻尾が生えていた。

「な、なにこれ、夢?」

「やっとこれたおー。いやー、シャットダウンされたらどうしようかとひやひやしたお。私の名前はシム。よろしくだお」

 目の前の小さな少女はぺこりと頭を下げる。僕はこの場でなんと言葉を発するべきなのかわからず、目の前の少女を凝視するしかできなかった。

「ありゃ、なんていうか、狐に包まれたって感じの様子だね。しょうがないか。えっとそうだな、あたしは、うん、勇人君、いや、マスター。君を救いに電子世界からやって来た天使とでも言っておこうかな」

 キーボードの上でシムと名乗る少女は自分一人が納得したように頷く。

 夢だよな。そうだきっとそうに違いない。僕はパソコンをやりながら知らぬ間に眠りに落ちているんだ。そうだそうだ。そうじゃなきゃおかしい。

「ちなみにマスター、君は今自分には長所が何もないと思って悩んでいるよね?」

 夢だ夢だ。これは夢なんだ。

「ふん!」

 少女は掛け声とともにジャンプした。それを見届けた僕は次の瞬間頬に回し蹴りを食らう。かなり痛い。一瞬のことであったが黒と白のしましまパンツが僕の目に焼き付いた。

「しっ・かり・しお! 今のあたしの存在は夢でもなんでもなくて現実なんだお! さっさと認めるだお!」

「いてて。んなこと言ったって、信じられるか! 普通パソコンの中からボールペンくらいの小さな女の子は出てこないだろ」

 僕がそう言うと、少女も思うところがあったようで少し考える様子を見せた。

「それもそうか。うーん」

 僕はひりひりと痛む頬をさすりながら痛いということはやはり現実なのかと一層困惑していた。

「よし、寝るんだ! 今すぐに、もう一時だお。明日大学だろ? 寝ろー、寝るんだ!」

 キーボードの上で少女は騒ぎ出した。

「寝ればいいのか?」

 元々そのつもりだったし、夢の中で寝るというのもおかしな話だと思ったけど。僕は少女に促されるまま電気を消し、ベットに入る。夢ならばこれで覚めるだろう。

「おやすみ。マイマスター」

 マスター? 僕のことか? 僕はあっという間に眠りに落ちていった。


        ◆


 朝七時。スマートフォンのアラームで目が覚めた。窓から差し込む朝日から、今日の天気は清々しい冬晴れの模様。

「おはお、マスター」

「はん?」

 ふいに机の上から声がした。振り向くと、ボールペンくらいの身長の、髪をサイドテールにまとめ、お尻から尻尾の生えた小さな少女が出しっぱなしのノートパソコンの上にちょこんとのっていた。

「えっと……」

 こういう時ってどんな反応をすればいいんだろう。まだ夢の中なのかな。僕は沈黙する。

「夢じゃなかったでしょ?」

 夢? そうか思い出した。たしか昨晩、僕がパソコンを閉じようとしたら突然画面から少女が出てきて、回し蹴りされて、これは夢なんだと思って。そして今目の前にその少女がいるということは……

「ああー、もう! いいかげん認めなおー、これは夢でも幻でもなくて現実なのー、現実!」

 言って、少女はまたジャンプし、回し蹴りを浴びせようとしてきた。しかし今回、僕はその足を手の平でガードする。

 少女は軽く舌打ちした。

「ま、いつか認めるでしょ。今のところは勘弁したげる。マスター」

「その、さ、マスターってなんだ?」

 僕の問いに少女はにやりと笑う。

「よくぞ訊いてくれた。あたし、電子世界の天使シムはかわいそうな人生を送っている人間たちの前に現れては勝手に主従関係を結び、幸せになる手助けをしているのだお。そして昨晩より、あたしは土御門勇人君、君を救うため、電子世界からやって来たのだ!」

 少女は嬉々として語る。聞いているこっちは頭が痛い。

「そういえばマスター、今日は大学だろ? 準備しなくていいのかい?」

 心境としては大学どころではないのだけど。とはいえ、十二月という時期はテストにも大いに影響してくるため安易に授業はサボれないし。僕は朝食のパンを用意した。


「おはよう土御門」

 パンをかじっていると冬原が部屋に入ってきた。

「おはよ」

「あいかわらず覇気がないっていうか、元気ないな」

「まあな」

 土御門勇人の短所:基本元気がない

「土御門、今日は週に二回のお楽しみの日だろ?」

 冬原がにやにやしながら言ってくる。

「お楽しみ? なんだっけ?」

「お前本気で言ってんのか?」

 本気でなんのことだかわからない。

「白波さんだよ、白波さん!」

「あ、ああ! はいはい」

「お前あんなかわいい子と付き合えて幸せじゃないの?」

「正直あんまり……」

「はぁ! 彼女のどこに不満があるんだよ!?」

 冬原は今にもかみついてきそうな形相でこちらに迫ってくる。

「不満ね……」

 僕は現在、白波ソラという同じ学部の女の子と付き合い始めて一か月が経過する。自分で言うのも変な話だがけっこうかわいい子だと思う。性格もちょっと天然入るけど取り立てて問題はないし。僕が今まで付き合ってきた女の子の中ではトップスラスルックスも性格もトップだろう。

 しかし、決定的に何かが足りないのだ。彼女と一緒にいる瞬間が充実するための何かが。


 冬原は僕の買った食パンを一枚食べて部屋を出ていった。

 僕はパソコンの中から出てきた女の子、シムがいないことに気付いた。やっぱりあれは夢、幻だったのかと安堵し始めた矢先。

「マスター、ここ、ここ」

 なんと、机の上のスマートフォンの中から声がした。

「おいおい……」

僕はあまりの状況の変化についていけなくなっていた。

「えへへ。あたしは電子世界の天使だからね。スマートフォンの中に入ることなんておちゃのこさいさいだお」

 声とともにスマートフォンはわずかに振動している。

「それで、その、なんだ」

「はい? マスター」

「スマホの中に入るってことはもしかして大学についてくる気か?」

「モチだお。マスター。あたしはマスターを幸せにするために来たんだから」

「えぇ……」

「問題ないおマスター。あたしはスマートフォンからは一歩も出ないから。不用意にしゃべったりもしないし。一応常識あるつもりだお」

 僕の不安は消えなかったが拒んでも無駄だろうと思いそれ以上なにも言わなかった。スマホなしだと授業の空き時間になにもすることがないし。

「それじゃあ、出かけるよ」

「はーい」

 シムの入ったスマートフォンをコートのポケットに入れ、部屋を後にする。


 僕の住んでいるマンションから大学まではバスで二十分程。僕が利用する停留所からならたいてい座れるから登下校は割かし快適だ。

 しかし、今日に限ってはバスがいつもより混んでいた。

 座れる場所はないかと探してみると、一番後ろの一つ前、二人掛けの座席がまるまる空いている。僕は迷わず座った。この路線のバスを使い始めてから座れないことはなかったので僕は安心する。

 バスが動き始めてからほどなくして、僕は目を閉じる。なんとなく眠かった。昨晩から今朝にかけて非現実的なことに直面したせいかなんだか頭が痛い。

 心地よいバスの揺れとゆったりとしたまどろみに身を任せていると、とんとんと背中を叩かれた。僕の意識は瞬時に覚醒し、後ろを振り向く。  

「おはよ、勇人君」

 茶色く長い、毛の先のほうでふわふわと波打った髪と淡いブルーの瞳が目についた。

「ソラか。おはよ」

「反応薄いなー。朝から会えるなんて付き合ってから初のことだよ。もっと喜んでよ」

「んなこと言われてもな」

 声をかけられた際の反応の薄さには定評がある。

 土御門勇人の短所:何があろうと反応が薄い

「ていうかさ、気づかなかったの? あたしがいること」

「ごめん。気づかなかった」

「ひどーい。人の目を引くことに関しては自信があるのに」

 土御門勇人の短所:視野が狭い

 ソラは頬を膨らませて怒っている。

 たしかに、今目の前にいる僕の彼女、白波ソラはけっこう目立つ容姿をしていると思う。

 先の方で波打った茶髪のロングヘアーはもちろん、なにより人目を引くのが、その瞳だ。彼女の瞳は左が青、右がグレーに近い黒という先天的なオッドアイなのである。元々の目が大きいのも手伝って彼女のオッドアイは外部に向けて常に強調されている。

「今日はどうしたの? ソラって一限から授業だったっけ?」

 ソラは首を左右に振って否定する。

「なんか早く起きれたから。家にいてもすることないし、大学の図書館にでもいようかなと」

「勉強熱心なんだな」

「勉強なんかしないよ。おもしろい本探したいだけ」

「本好きだよね」

「うん。楽しいもん」

 読書なんて久しくしていない。中学時代の読書感想文の宿題のために嫌々夏目漱石を読んだのが最後かな。

「そうだ! 今日の昼休みはどこで待ち合わせる?」

 ソラは嬉々とした表情で尋ねてくる。

「んー、どこでも」

「こういうのは男の子の方が決めてくれるとありがたいんだけどな」

「そうは言っても……」

 土御門勇人の短所:優柔不断

「じゃあ、私が三限の授業受ける教室でいい?」

 ソラが提案してくれたので僕は頷く。

「よし決まり!」

 ソラが言うと同時、バスがきついカーブを曲がる。ソラの上半身がバランスを崩し、窓に頭を打ち付ける。ゴンという音がした。耳にしたこちらまで頭を押さえたくなる。それほどまでに痛いだろうというのが容易に想像できた。

「いたーい」

 窓にぶつけた頭の右側を抑えながら、ソラのオッドアイの瞳に涙がにじむ。

「帰りの時もこのカーブで頭ぶつけるけど、まさか行きでもぶつけるとは」

 僕は言う。ソラは毎日のように使うこのバスの、毎日のように通過するこのカーブでしょっちゅう窓に頭をぶつける。毎日僕と一緒の時間帯にバスに乗るわけではないからその頻度はわからないけども、かなりの高確率なんだろうと思える。いいかげんいたわりの言葉もかけつくした。

「うーん」

 ソラは悲痛な声で唸っている。

 バス車内に僕らの通う大学名の停留所がアナウンスされる。

 僕は財布の中からICカードを出して降りる準備をした。


 バスから降り、ソラと二人で歩いていると、突然ソラがこつんと何かにつまずいた。

「あう」

 彼女の足元にはなんでもない石ころ。

「大丈夫か? 気を付けないと」

「えへへ」

 ソラは少し恥ずかしそうに笑う。

 先に図書館前に到着したのでソラとはいったん別れた。

僕も講義の行われる教室に着き、適当な座席に座ると、ポケットのスマートフォンが短く振動した。

「マスター、マスター」

 画面にシムの顔が映る。

「なに? スマホに向かってしゃべってる俺って傍から見ればかなりの異常者なんだけど」

「マスターって彼女持ちだったんだね! すごいじゃん!」

「べつにすごくなんか……」

「それにしてもマスターの反応はちょっと酷くないかい? あれじゃ彼女さんがかわいそうだお」

「ほっとけ」

 講義の開始時間を知らせるチャイムが鳴ったのでスマートフォンを鞄にしまう。



 昼休みになった。

 約束の教室でソラと合流する。

「ちーす」

 僕がソラを見つけると同時、彼女は無邪気な笑みを浮かべて寄ってきた。

「どうする? 食堂行く?」

 僕が言うと、ソラはえへへと笑みを浮かべる。

「どうしたの?」

 僕が問うと、彼女は自分の鞄をがさごそとあさり、四角い箱を取り出した。

「じゃーん!」

 僕はしばし戸惑う。

「これって」

「お弁当! 作ってみました!」

「おおー、すごいな」

 素直に驚いた。そもそもバスがカーブで曲がるたびに頭をぶつけ、何もないところでつまずく天然キャラのソラに料理ができたということが僕にとっては衝撃的だった。

「ささ、食べよ」

 僕はソラに腕を引かれて、教室内の奥の席に座る。昼休みの始めの方ということもあり人もまばら。人の多いところが嫌いな僕には心地よかった。

 弁当箱のふたが開かれる。中身は白米の上に海苔がのせられていたようだが極端に端によっている。おかずはもっと悲惨で、サラダの上にあらかじめドレッシングをかけていたのか、野菜だけでなくミートボールや卵焼きの上にも肌色の液体がのっている。

「あ、ははは……」

 ソラは苦笑いを浮かべる。弁当を鞄に入れるときにミスをしたのか、それとも彼女の性格からして、弁当のことをまったく気にかけずに動き回ったか。いずれにしてもソラらしいといえばソラらしかった。

「コンビニ行こうか」

「いや、食べるよ」

 ソラの提案を僕は遮り、ひっちゃかめっちゃかの弁当のミートボールに箸をのばした。

「どう?」

「おいしいよ」

 ソラは不安げな表情を浮かべていたが、十分に食べられた。ちょっとドレッシングがミートボール本来の味に対して幅をきかせすぎていてしょっぱさがあるものの、それを差し引けばまったく問題ない。

「……次はがんばるね」

 ソラはぽつりと言った。

「んっと……」

「勇人君がもっとこう泣いて喜ぶくらいのものすごいの作ったげる」

「いや今でも十分おいしいよ」

「ちっちっち」

 ソラは首を振った。

「嘘だね。勇人君の反応を見ていればわかる。あたしの今の腕では勇人君を満足させることはできないと痛感させられたよ」

 どうしたものか。僕の反応が薄いという短所のせいでソラが自分を過小評価してしまっている。

「きっとリベンジするからね!」

 なにか返答したかったが適当な言葉が出てこなかった。


 その後僕は二つの講義に出てマンションの自室に帰った。

「ソラちゃんかー、なかなかいい子そうじゃない? マスター」

 シムがスマートフォンの画面から出てくるなり言ってきた。

「俺にはもったいないくらいよくできた彼女だよ」

「どっちから告白したの?」

「向こうから」

「ヒュー、マスターもてるんだね」

 陽気に冷やかすシム。

「それにしてもマスター、なんかソラちゃんに冷たくなかった?」

 シムは心配そうに尋ねてきた。

「俺としてはそんなつもりはないだけど、なんていうか、サプライズとか苦手なんだよね。それで変に誤解されて余計な気を遣わせちゃうんだ」

「よくないね、それは……」

シムはしばし考え込む様子でスマートフォンの上に腰掛けた。

「さぁて」

「なにするの? マスター」

「レポートだよ。あと一週間で締め切りだし、やらないと」

「なるほど」

 シムは納得した様子で頷く。

 僕はなんとなくぼーっとする頭をフルに働かせ、ノートパソコンのキーボードをたたく。


         ◆


 朝目が覚めると、体が非常にダルかった。

「マスター、おはおー」

「おはよう」

「どうしたの? 顔赤いお?」

 シムは僕の顔を見るなり首を傾げる。

「なんか体が重い」

 言いながら、僕は机の引き出しを開け、がさごそと体温計を探す。

「風邪?」

「そうみたいだ」

 僕は体温計を見つけ、わきの下に挟む。

「マスター今日は大学だよね? 行くの?」

「行かないかも。今日はさして重要な講義もないし。今のところ皆勤だから単位を落とす心配もないし」

少しして体温計がピピピッと音をたてた。

数値を見ると三十八・三度。思った以上に本格的な風邪だ。

「今日は休む。一日中布団にくるまってるわ」

「ありゃま、マスター、けっこうひどいの?」

「ああ。自分でもびっくりするくらいひどい」

 僕は暖房のスイッチを入れベットに横になる。

 そんな僕を見たシムはぴょんぴょん飛び跳ねてテレビのスイッチを入れる。

「ちょっと、何勝手に電源入れてるの?」

「だって退屈なんだもん。夜ならあたしも寝れるけど、昼間から寝れないおー。今日一日ぼーっとしてろとか、いくらあたしが電子世界の天使だからってそれは拷問だお」

 シムは今にも泣きそうな表情で訴えた。

「まぁ、ダメとは言わないけどさ」

 僕だって昼間から熟睡はできないだろうし。

 しばらくの間ニュースの音声が部屋の中に流れる。

 僕の耳にはそれらの音声は入ってきても脳内を通過するだけで頭には残らない。

「マスター、気分はどう?」

 気づくとシムは枕の横にいた。

「その小さな体でどうやって移動したんだ?」

「へ? 飛んだんだお」

「シムって飛べたんだ」

「電子世界の天使だかんね。羽だって生えるお」

「そんなもんか」

 少しずつだが、シムの不思議度合についていけなくなっていた。

「マスターってさ、なんでそんなに自分に自信がないの?」

 僕は口をつぐむ。

「ねえなんで?」

「去年痛感したからだよ。自分がいかにダメな人間かってことを。本気で人生をやりなおしたいって思ったし、死のうかとも思った。本当、自分が生まれたその瞬間に戻れたらな……」

シムはじっと僕の方を見つめている。

「そうなんだ……。ごめんねマスター、あたしは天使であって魔法使いではないから時間を操るとかそんなファンタジックなことはできないんだお」

 言い終えてシムはまたごめんねと繰り返す。

「いや、時間を巻き戻してくれなんてこと要求しないよ」

 そもそもそんな非現実的なことができないからといって謝られても反応に困る。

「でもさー」

 シムはまた話だす。

「自分に自信……持てば?」

 枕の横で体育座りをするシム。

 僕はぼーっとする頭で言葉をつむぐ。

「俺は世間からずれた存在なんだ。去年の十八の秋までなんとなく周りの人間も自分自身もごまかして生きてきたけど、もう限界なんだ。俺は幸せにはなれないしなる資格もない。俺の人生は失敗なんだ」

 僕は少し強い口調で言い切った。

「おう……」

 シムは悲しそうに肩をすぼめる。

 僕はシムのその姿をちらっと見てしばし目を閉じた。


       ◆


 目を覚まし、時計を見る。

 二時間程眠っていたようだ。

「おはお、マスター」

 眠りにつく前同様、枕の横にはシムがいる。

 しかし、大きく違う点が二つ。一つはテレビの電源が消えていること。もう一つはシムが自分の背丈くらいある緑色のマーカーを抱きかかえるようにして持っていた。

「マスターに立ち直ってもらうんだお!」

「おいおい、なにするつもり?」

 シムは僕の問いかけを無視して僕が横になっているベットの中にもぐりこむ。なにやら足元でもぞもぞと動いているようだ。

 ―なにをしているんだ?

「お尻に刺すのらー」

 くぐもった声だが確かに聞こえた。

 ―ちょっと待て

 僕はがばっと音を立て体の上の掛布団をはねのけると、ベットから転げ落ちるように脱出した。

「あーん、どうしたの? あと少しだったのにー」

 シムはぺたんと尻餅をついて残念そうに小指をくわえている。その横、さっきまで僕の尻があったあたりには緑のマーカーペンが無造作に転がされているから冷や冷やさせられた。

「あと少しだったのにじゃない! なんてことをするんだ!」

「だって緑って人間を元気にするんでしょう?」

「そういうのはよく知らないけども。それでもお尻にマーカーペンを刺そうというのはどう考えても間違っているだろう!」

 あさっての方向を向くシム。

「およ? 誰か来る……」

 そう言ってシムは僕の文句を無視してスマートフォンの中に入っていった。そしてほぼ同じタイミングで部屋の扉が開く。

「おーす、土御門、遊びに来たぞ~。ってあれ? どうした、パジャマなんか着て?」

 冬原だった。

「あれれ、あの真面目な土御門君がまさかのサボり?」

「風邪ひいた」

 にやにやと怪しげな笑みを浮かべる冬原に僕は告げ、再びベットで横になる。

「おいおい風邪かよ……。まあそんなことだろうとは思ったけど。なんか欲しいものあるか?」

「特にない」

 僕がそっけなく言うと冬原はそっかと言って短く頷き、部屋のテレビを勝手につけた。

「だからなんでみんなして俺の断りなくテレビの電源を入れるんだ……」

「しょうがないだろ、俺の部屋にはテレビないし。てかみんなって俺以外にこのマンション内で知り合いいたのか?」

 冬原が不思議そうに首を傾げる。

「ああ、こっちの話だ。気にするな」

「そうか」


         ◆


 冬原は夜まで僕の部屋にいた。

 部屋の主である僕の体調が悪いというのにも関わらず、バラエティー番組を見て、ひとり笑って夜二十一時頃、飯だと言ってようやく部屋から出ていってくれた。彼は部屋の扉を閉める直前で思い出したようにお大事にと言っていった。

「マスター、マスター」

 ふと声がした。

 机の上のスマートフォンの横にシムが座っている。冬原がいるうちはずっと隠れていたのだろうか。

「今こそ甘えちゃいなお!」

 活き活きと提案するシム。

「誰に?」

「決まってんじゃん! ソラちゃんにだお」

「は?」

「マスター、本日はソラちゃんにメールしたのかお?」

「してないよ」

「やっぱり。今こそメールしなお! ソラちゃんは今マスターが風邪で苦しんでいることを知らないんでしょ? 助けを求めなお、あの娘ならきっと喜ぶから」

 ちょっと困った。正直面倒くさい。現在つきあっている彼女とはいえ、大して好きでもない女の子に看病してもらうより、冬原が僕の部屋のテレビを使ってゲームをしたりエッチなDVDを見ていてくれる方がよほど気が楽というものだ。

「もー、マスターがメールしないなら、あたしが勝手に打っちゃうよ?」

「それはやめてくれ」

 シムの感覚でメールを打たせると僕がソラにとても好意を抱いているように思われかねないし、なんかそれ以外にも色々こわい。僕は仕方なくスマートフォンを手に取り、ソラにメールを打つ。

「なんて送るんだお?」

「『うーんと、風邪で療養中。けっこう熱高いから月曜休むかも』だな」

 言って僕は送信する。

「えー、いっそのこと『風邪ひいた、つらいよー、今すぐ会いたいよー』くらい送れないの?」

「送れない」

 シムがブーブー文句を言っていたが気にしない。

 枕の横にスマートフォンを置いたところで返信はすぐにきた。

『大丈夫? 食欲はある? 明日勇人君の部屋に行くね。看病する。午前はバイトがあってちょっと無理だけど、夕方くらいから。お大事にね』

 僕は返信メールを打つ。

『大丈夫。お構いなく。考えてみれば土・日二日間も安静にしていれば風邪なんて治るだろうし心配しないで。』

 部屋に来られてもどうしていいかわからない。話題もなく重たい空気が形成されるのはできれば避けたい。

 スマートフォンが振動する。

『行くからね』

 さて、面倒なことになった。


        ◆


 翌日の夕方、ソラは部屋に来るなり、自分で持ってきた体温計を僕の口にくわえさせて部屋の片づけを始める。髪を後ろで一つにまとめ暖かさそうなセーターにジーパンという本当にバイト帰りらしくラフな格好だった。

「勇人君の部屋って片付いてるよね。うちのお兄ちゃんとは大違い。でも、教科書とか、作り途中のレポートとかを机の上に適当に積むのはよしなよ、無くしたりしたら大変だし。あと、洗濯した服はたんすにしまわないと、ほこりとかが積もったら洗った意味ないし」

 ソラは小言を言いながら二十分ほどぱたぱたと部屋の中を歩き回る。僕はその間適当な相槌を打ちながらずっとベットで横になっていた。

「掃除機は時間的にかけない方がいいかな。まあでもこまめに掃除はしているみたいだし物の整理だけでもいいか」

 どうやらひと段落ついたようだ。

「あ、そうだ」

 ソラはなにか思い出したように持ってきた買い物袋をがさがさとあさり始める。

「ヨーグルト買ってきたよ! 食べよ食べよ」

 ソラの手にはヨーグルトのカップと小さなプラスチックのスプーン。

 僕はありがとうと言って体を起こす。昨日よりも頭がぼーっとしていて調子が悪い。冬原のせいに違いないと心の中で悪態をつく。

「勇人君なんか顔赤いね。ていうか体温計は?」

「あれ、ああ、落っこちてた。ぼーっとしてて気づかなかった」

「もー」

 ソラは口をとがらせる。

「ヨーグルト食べさせてあげるね」

 言ってソラはカップのふたを開ける。

「やめてくれ」

 いくら人目が無いとはいえ、恥ずかしい。

「いいからいいから」

 ソラはスプーンでヨーグルトをすくうと、ベットの上に足をついて体を僕に近づけてくる。

「あーん」

 ソラはやさしい声で僕に口を開けることを強要する。僕は恥ずかしさを押しつぶし、されるがままにスプーンを口の中にいれてもらった。

「おいしい?」

「うん」

 顔が紅潮しているのが自分でもわかった。もしかしたら熱が上がったかもしれない。

「えへへへ。どんどんいくよ」

 ソラはもう一度スプーンでヨーグルトをすくう。

 僕はまた口を開けようとしたがタイミングがずれて口の中に入りきらず、唇の周りにヨーグルトがこびりついてしまった。

「もういっちょ」

「え、ちょ、待って」

 今度は布団の上にも落ちた。

「ストップストップ」

 ソラは止まらない。何かに憑りつかれているかのようだ。


       ◆


「ごめんなさい」

 シュンと目を伏せて謝るソラ。

「もういいよ」

 そんな姿を見せられては怒るに怒れない。

 ベットはこぼれたヨーグルトで汚れてしまった。ソラは本当に視野が狭いというか、夢中になると周りが見えない女の子だ。

しばしお互い何もしゃべらない気まずい空気が流れる。僕もソラもじっとベットについた汚れを見つめていた。

『あー、もうイライラするお!』

 スマートフォンの中から甲高いシムの声がした。そして僕がスマートフォンに目を移した時にはもう彼女は外の世界に出てきていた。

「おい、お前……」

「え、なにこれ!?」

 シムはソラの存在を意に反さない様子でベットの上に降り立つ。

「マスターのあほ! 布団くらいいいじゃないか、また洗えば! 笑って許してやれお。それよりも今日はソラちゃんに思いっきり甘えるんだって、メール打ちながら意気込んでたじゃないかお!」

「え、そうなの?」

 ソラの目が輝く。僕としてはこの場面のソラはシムの存在にもう少しパニックを起こすとか、怖がるといったもっと強烈な反応をしてほしい。常識人として。

「マスターは今すごく汗をかいているお。ふいてもらうお」

「お前は勝手に……」

 土御門勇人の短所:汗っかき

「任せて!」

 僕が否定しようとした矢先、ソラは元気を取りもどし洗面所に向かった。そしてすぐに戻ってきた。僕の部屋に上がるのは初めてでタオルのありかなど知らないはずなのに。彼女には物を探す才能があるのかもしれない。

「さ、拭くよ」

「自分でやるって」

「いいからいいから」

 ソラは強引に僕のパジャマに手を伸ばしてきた。

 僕は女の子相手に本気で抵抗するわけにもいかず、ほとんどされるがままに上着を脱がされた。

「本当、なんか湿っぽいね。洗濯しなきゃ。早く言ってくれればいいのに」

 脱がせたパジャマを洗濯かごに入れ、ソラは僕の背中にタオルをあて、ほどよい力加減で滑らせる。

 恥ずかしい。先程ヨーグルトを食べさせてもらった時よりもさらに恥ずかしい。顔から火が出そうとはまさにこのことだ。

「寒くない?」

「う、ん」

 こんなところを冬原にでも見られたら面倒だろうな。シムはにやにやと笑っている。僕はなんとか平静をとりもどそうと試みる。

「じゃあ、今度は前ね」

 言うとソラは僕の真正面に今までにないくらい接近してきた。ソラの顔を見ると顔が一段と火照る。

「やっぱり自分で」

「いいの、好きでやってるんだから」

 拒否権なしか。僕の体なのに。ソラがさらに接近してくる。僕の短所である汗っかきが、まさかこんな状況を作り出すとは。彼女のサラサラとした髪とそこから漂うほのかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。ソラは女の子で、男の僕とは違う性別だということを改めて実感させられる。

 タオルが胸板にそっとこすりつけられる。

「あのソラ、くすぐったい」

「あ、ごめん。もう少し強い方がいいかな」

 腹筋のあたりにタオルが降りてくる。

「ん……」

 心地よすぎて意識が飛んでしまいそうだ。

「こんなもんかな。どう、まだ拭いてほしいところある?」

 ソラは顔を上げる。当然かなりの至近距離だ。

「あ、いえ、大丈夫」

 ソラのオッドアイの瞳が心なし潤んでいるように見えた。

「えへへ。嬉しいな。勇人君があたしを頼ってくれるなんて」

 ついさっきまで僕の体の上を気ままに滑っていたタオルも丁寧に畳まれて洗濯かごの中に入れられる。

「あ、そっか、着替え探さなきゃね。タンスあけるよ」

 タンスの引き出しが次々開けられる。

「うわー、きれいに畳まれてるね。やっぱりうちのお兄ちゃんとは違うわ」

 言いながらソラは、がさごそときれいに整えられた衣服を無造作にあさる。

「あ、これかわいいー。勇人君ってこんなのも着るんだ」

ソラの手には黄色いTシャツ。祖母が家を出るときに頼んでもないのに買ってきて、置いていくのも忍びないので持ってきたはいいがその後一回も着ていないものだ。

「普段会うときは黒とか茶色とかおとなしい色の服しか着てこないから明るめの服は持ってないのかと思ってた。ねえ、ちょっと着てみてよ」

「え……」

 黄色なんて目立つ色、人前で着るには抵抗がある。

「マスター嫌な顔しない。黙って着せてもらいなお」

「そうだそうだ」

 ソラはシムの援護をに心をよくしたようだ。ていうかシムの存在には未だツッコミはなしなのか。

 黄色い服を持ったソラがまた接近してきて僕の頭に強引に服をかぶせてくる。

 よいしょという掛け声とともに頭が外に出る。腕を通してないから今僕は雪だるまみたいな状態なんだろうな。

「あはは、かわいい」

「マスター似あっているお」

 二人して笑う。やはりおかしいんだろう。僕は腕を通す。タンスの奥にずっとしまわれていたためにひんやりする。

「勇人くん」

「うん?」

「他にしてほしいことある?」

「いや、ないよ」

「もう、もう少し考えてほしいな。そんなに即答されると遠ざけられてるみたいで寂しい」

「もう十分だ」

 というか遠ざけたいんだ。

「そっか……じゃあ、今日は帰るね。本当ならもう少し話でもしていきたかったけど明日もバイトで忙しいし」

「うん。今日はありがとう」

 僕は立ち上がろうとした。

「あ、いいよそのままで。じゃ、お邪魔しました。お大事に」

「お、おう」

 玄関のドアが開いて、すぐに閉じる音がした。

「マスターはダメな男だね」

 唐突にシムは言った。

「知ってるよ。俺はダメな人間だ」

「いや、たぶんマスターが思うダメとあたしが思うダメは違っていると思うお」

「え?」

「マスターはヘタレすぎるお。他に何かしてほしいことあるって聞かれたらキスしてほしいとか言えないのかお」

「言えない」

 シムはさらにほおを膨らませ、罵詈雑言を浴びせながら小さい体でぴょんぴょん飛び跳ねている。

「本当、ソラはいい子だよ。でも俺じゃダメなんだよな」

「何がだめなの?」

 僕は軽くため息をつく。

「何で俺なんだろうなって。こんな一人じゃなにもできない、どうしようもなくダメな人間にはかなりもったいない彼女だと思う。ちょっとドジで、子供っぽくて、ほっとけないところはあるけど、根はすごくいい女の子だし」

 シムは僕の言葉にきょとんとしていた。

「じゃあソラちゃんにマスターのどこを好きになったのか聞いてみれば?」

「やだよ恥ずかしい」

 夜は更けていった。


        ◆


 朝目が覚めてみると体のだるさがとれており、熱も下がっていた。

「おはお。マスター」

「おはよう。シム」

「もうよくなったのかお?」

「うん。なんかだいぶ楽になったな」

「それはよかった」

 ちょっとお腹が減った。今冷蔵庫のなかに食べるものは何も入っていないから買い出しに行かなければ。

「シム、買い物行くけど、なにか欲しいものはある?」

 そもそもこの自称電子世界の天使というやつは食べるということを必要とするのか?

「甘栗が食べたいお、マスター」

 シムは即答した。

「お、おう……わかった。買ってくる」

「ていうかあたしも行くお、マスター」

 シムはスマートフォンの画面に入っていく。遠出をするわけではないから持っていく気はなかったのだが。こうなっては仕方がない。コートのポケットに押し込む。

 僕の住むマンションの近くにはコンビニもあることはあるが、もう少し歩くと百円ショップがあり、よく利用している。買うものにもよるが、カップ麺などが百五円で買えてしまうからスーパーやコンビニよりも安く済むこともあるのだ。

 僕は手早く、本日の食事であるカップ麺とシムのための甘栗を購入して帰路に就く。今日はコートを着ていてもなかなか寒い。僕はスマートフォンを出して小声で語りかける。

「シム、買ったよ」

 すると画面に文字が表示される。

『うん。ありがとう。マスター』

 その文字を読み終えると同時、背後でガシャンと嫌な音がした。

 振り向いてみると苦々しい表情で電柱を睨みつける白いエプロンをつけた女の子。よく知った顔だと思ったらソラだった。

「あり? 勇人君じゃん! 熱はもう下がったの?」

「うん。おかげさまで。昨日はありがとう」

 するとソラは安心した表情になりよかったよかったと頷く。

「明日は大学行けそう?」

「うん。たぶんね。ソラは今バイト中? てか大丈夫か? 電柱に自転車ぶつけてたみたいだけど」

 ソラはバツが悪そうに苦笑する。

「あはは……そんなにスピード出してないからどこも壊れてないし大丈夫」

 またぼーっとしていたんだろうな。あいかわらずドジな子だ。

「勇人君は買い物?」

「ああ。冷蔵庫の中からっぽだし、お腹も空いてたしね」

「そっかー。そういえば昨日のあの小さな女の子は? またスマホから出てきたりはしないの?」

「さすがに外じゃね。でも……」

 僕はスマートフォンを取り出す。

「一応中には入っているんだ」

 画面に『こんにちは』と表示される。

「おー」

 目を輝かせて画面に見入るソラ。

「ソラはさ……」

「なに?」

「その、シムのこと不思議には思わないの?」

 僕の言葉にソラは少し考えるそぶりを見せる。

「んーと、シムってあの子の名前? そりゃ驚きはしたけど、状況的に勇人君の体調が悪かったわけだし、それにあたしはサンタクロースとか信じてるから妖精とかがいてもいいと思ってるの。だからシムちゃんのこと特別こわがったりとかはしないかな。むしろ会えて超ハッピーみたいな」

 無邪気に笑うソラ。目の前の僕の彼女である女の子は大学生にしては幼いというか、なんだかまた頭痛がしてきた。

「ねえねえ今夜も勇人君の家に行っていい?」

「え、ああ。ダメとは言わないけど」

「よしよし。それじゃあ、夕飯作っていくからね。カップ麺じゃ体に悪いし」

「そんな気を遣わなくてもいいのに」

「大丈夫大丈夫。シムちゃんともいっぱいお話ししたいし。

 スマートフォンには『イエ―』という文字が表示される。

「それじゃあ、あたしはバイトだから、これで」

「うんがんばって」

 ソラはゆっくりと自転車をこぎ始める。


        ◆


 夜七時頃、ソラはやってきた。左手にはお弁当屋さんのビニール袋がぶら下がっている。

「いらっしゃい、ソラ」

 シムは笑顔で出迎える。

「あ、シムちゃん、こんばんは。おじゃまします」

 ソラは机の上のシムとあいさつを交わすと、ベットにこしかけビニール袋の中に手を伸ばす。

「じゃじゃーん! あたしがバイト先で作った唐揚げ弁当だよー」

 発泡スチロールの容器が二つ姿をあらわした。

「ソラのバイト先って弁当屋さんだったんだ。でもバイト先の商品を持ってきちゃったの?」

「やだなー、ちゃんとお金は払ってきたよ。四百三十円、あとでもらうからね」

 言いながら、僕に一つわたしてくれる。

「今日は注文されたお弁当を届ける途中でかっこ悪いところ見せちゃったけど、働き始めて一週間、着々と料理の腕は上がっているはずだよ! シムちゃんもこっちおいで」

「はーい」

 シムはソラの膝の上に飛んでくる。

 僕もベットのソラのすぐ隣に座った。一人で食べるときは勉強机の上にお皿を載せて食べるが今回はソラもいるし、僕一人その形だとちょっと失礼だろう。

 ソラはシムを膝の上に載せて、どうやってスマートフォンの中に入るだとか、生まれたのはいつだとかさまざまな質問をしている。

 僕はあえて彼女たちの会話に口をはさむようなことはせず唐揚げ弁当のふたを開ける。

「勇人君、今日は一人で食べれる?」

「食べれるよ」

 答えると同時、ソラはちょっと残念そうな顔をした。

「マスターのあほー。ここは彼女に甘えるシーンだお」

「うるさい。余計なお世話だ」

 僕は唐揚げを一つほおばる。

「そういえば勇人君、今度はどこのバイトの面接受けるの?」

「えっと本屋かな」

「受かりそう?」

「わからない」

 大学入試なんかと違って偏差値が足りてればある程度は計算できる単純なものでもないし。

「ふーん」

「なんとなく。今回もダメなんじゃないかな」

 僕はつぶやく。

「どうして?」

 ソラは小首をかしげる。

「いやさ、なんていうか……毎日どこか一つ、自分の悪いところ、短所ってやつを発見するんだよね。そのたびに自分のことが嫌いになって、何をしても失敗する気しかしてこなくて、やる気もなくなって、時間を浪費して、そんな自分がまた嫌いになってさ」

 神妙な表情で聞き入るソラ。

「マスター、だからそういうことを……」

「大丈夫だよ!」

 シムの言葉はソラの力強い一言でかき消される。

「勇人君は自分が思っているほどひどい人間じゃないよ。だってこのあたしが好きになった世界でただ一人の男の子なんだから! 自信持って」

 かなりおかしな励ましだ。でもちょっとおもしろい。

「勇人君のいいところはねー、優しいところ、大学の講義をほとんど休まない真面目なところ、困っている人がいれば手を差し伸べてくれるとこ。そして、人の長所を見つけられるところだよ」

 楽しそうに話すソラ。僕はそんな彼女の言葉が僕を励ますためだけの上辺だけのものとしか受け取ることができなかった。

「もー、そんな暗い顔しないでよ。短所が多いのも個性だって割り切っちゃいなよ! 思い切って」

「そんな簡単に……」

「自分の短所を開き直っちゃうのも勇気!」

 言って拳を握りしめるソラ。

「勇気!」

 シムもつられたのか拳を握りしめ小さな腕を頭上に伸ばす。

「シムちゃんも唐揚げ食べる?」

「あ、ごめん。あたしは甘栗しか口にしないんだお」

「甘栗?」

「うん」

「なんでも電子世界の天使は甘栗しか食べられないんだと」

「へー、そうなんだー。今度買ってきてあげるね」

 僕はお弁当の最後の一口である白米を口に入れる。

「もう食べたの? 速いねー」

「そうかな?」

「ちゃんと噛んで食べないと太っちゃうよ」

 ソラはいたずらっぽく笑うが、あいにく僕の家系は代々太りづらい体質だからその心配はない。

「勇人君、明日は一緒にお昼食べれるんだよね?」

「ああ」

 ソラは嬉しそうに微笑む。

「またお弁当作るからね」

「ん……楽しみにしてる」

 彼女は弁当の中身を三分の一ほど残してふたを閉じる。それを見たシムが膝から降りる。

「じゃあ、そろそろ帰るね」

「そっか、お弁当ありがとう」

「うん」

 僕は玄関までソラを見送る。

「マスターマスター、ねえマスター」

「なに?」

 そんなに連呼しなくてもしっかり聞こえる。

「ちょっとソラちゃんに冷たいんじゃないかお? お弁当食べたらさっさと帰しちゃうとかさ」

「だって向こうから帰るって言ったんじゃないか」

「そこを引き留めるのが男でしょう! だいだいソラちゃんが帰るにしてもなんで送ってあげないんだお? 暗い夜道を彼女一人に歩かせる彼氏なんていませんお普通」

「んなこと言われても、よくわかんないんだよ、そういうの」

 あきれた表情のシム。

 土御門勇人の短所:常識の欠落


       ◆


「おい見ろよ土御門、今、あの女の子アンダースローでボール投げたぞ。しかもかなり速かった」

「ん?」

 冬原が指差すグラウンドに視線を移す。たしかにそこにはジャージ姿のさっぱりしたショートヘアーの女の子が、左手にグローブをはめ、下からすくい上げるような独特のモーションでボールを投げていた。本当にけっこうスピードが出ている。野球に詳しいわけではないからわからないが。キャッチャーのミットに収まる瞬間、バシーンという鋭い音が周りにこだましている。僕は女の子が野球でピッチャーをやっているという珍しさから少しの間その投球に見入ってしまった。

「おい、土御門、早く行こうぜ。ソラちゃん待ってるかもだし」

「ああ、うん」

 今日はソラと一緒にお昼を食べる日だ。しかし、特殊なことに、今日に限って冬原も呼ばれた。なんでもソラが所属している野球サークルのことで相談したいことがあるので少しでも人数を多くして、一つでも多くいい案がほしいのだそうだ。ソラは選手ではなくマネージャーとして所属している。普段のドジな様子からいささか働きぶりには少し不安を感じるが、何にでも一生懸命でいい子だし、チームメートからも一目置かれているのではないかと想像している。

「勇人君、冬原君―」

 ソラの声が聞こえてきた。

「食堂の席はとってあるよ。早く早く」

「おう」

 楽しそうに返事をする冬原。本人いわく普段女の子に縁がないから今日という日を楽しみにしていたのだそうだ。

「ソラちゃんの友達って女の子かな?」

「サークル関係だから男じゃないか? ソラのサークルには他にマネージャーはいないらしいし」

「なんだ。男か」

 残念そうに肩を落とす冬原。かなりあからさまな態度だ。僕らはソラに導かれるまま席に座る。

「ちょっと待ってね。相談にのってほしい子はさっきまで自主練してたから、あと少しで来ると思う」

 僕ら三人はそれまで他愛のない話をしていた。主に冬原がソラを笑わせて、僕はそれに適当な相槌を打つという形で。

 そんな中、ふいにスマートフォンが振動した。画面には『甘栗のにおいだお』と表示される。そして次の瞬間、シムはスマートフォンの画面から外に出てしまった。

「え、ちょっと……」

 地面に降り立ち、次の瞬間には背中から白い羽を生やし飛んでいた。僕は慌てて追いかける。

「おいどうしたんだ、土御門?」

「ちょっとトイレ」

 走ってトイレに向かうなんてかなりみっともないがシムを野放しにするわけにもいかず、気にしないことにする。

 シムは学生で賑わう食堂をするすると低空飛行で飛んでいく。人目に触れないのが救いだが、今にもぶつかりそうで冷や冷やさせられる。

「おい、シム」

 僕の声が届かないのかいっこうに止まる気配がない。そしてついに、コツンと音を立てて人の足にあたった。床の上に倒れるシム。

「なんだこれ?」

 シムがぶつかった相手は先ほど冬原と一緒に見たアンダースローでボールを投げていた女の子だった。しゃがみこんでシムのことをじっと見ている。

「ごめんなさい。僕のです」

「あんたこんなところでラジコン飛ばすとか何考えてんの?」

 少々ご立腹のようだ。人の集まる食堂の中だけに周りの視線が痛い。

「しかも女の子のフィギィアとか、こんなものよく大学に持ってこれるね。恥ずかしくないの?」

「はいごめんなさい。もうしません。それじゃ」

 面倒なことになりそうなので逃げることにする。僕はシムを拾い上げ、人の間をぬって小走り気味にその場をあとにした。後ろからちょっと待てよという声が聞こえた気がしたがかまわず進む。


「お、ちょっと遅かったね。大丈夫か?」

 そう言う冬原の目は笑っている。たしかに友人の前ならいざ知れず彼女の前で走ってトイレに駆け込むというのはあまりかっこいい構図ではないのだろうな。

「大丈夫だ」

「お腹痛いの?」

 ソラにも心配されている。

「大丈夫」

 本来こういう場面で彼氏というものは恥ずかしがって焦ってもいいのだろうが僕はまったくなにも感じない。ソラという女性を自分の恋人として見れていないということなんだろうか。

「あ、来た来た。おーい」

ソラが大きな声を上げ、手を振る。ソラの行動の方が一緒にいて恥ずかしい。そして、見覚えのあるショートヘアーの女性が僕らの座る席にやってきた。

僕は驚く。

「あんたは……」

 シムがぶつかったアンダースローの女の子だった。

「なに? 勇人君と清和って知り合いだったの?」

 重たい沈黙の時間。

「俺、冬原樹理。土御門の友達やってます。よろしく」

 冬原はノリが軽い。おおかた男だと思っていた四人目が女の子でテンションが上がっているのだろう。

「知り合いなら話は早いかな? えっとね、あたしが言った悩んでる子っていうのがこの初嶋清和さん。あたしが所属する野球サークルのエースピッチャーなの。そのことは知ってる?」

 嫌な偶然もあったものだ。野球サークルならこの大学にはけっこうあるのに。どうしたものか。初嶋という女性は僕に軽蔑の視線を浴びせて完全に僕を敵視しているように見えるし。なにか理由をつけて立ち去らなければ。

「清和、一応言っておくと、この目の前の土御門勇人君があたしの彼氏だよ」

 僕は焦る。ソラの無邪気で、残酷な一言により初嶋さんの視線が一層敵意をもったものになった気がした。いよいよ逃げなければ。

「それで、清和ちゃんの悩みってなに? 俺とこの土御門にできることがあればなんでも惜しみなく協力するよ」

 冬原がさらに余計なことを言う。

「あなた方に相談にのってもらわなくても結構だ。それと、気安く名前を呼ぶな。私の名前が劣化する」

笑顔をひきつらせ、たじろぐ冬原。名前が劣化するとはおもしろい表現だ。

「清和、そういうこと言わない! 話すだけでも話してみなさい。こうして来てくれたんだから」

「いやだ」

「清和!」

 ソラの口調は子供を叱りつける母親のようだった。

「わかったよ。お前たちにも話してやろう。私の夢を」

 ソラに言われ、渋々という感じで話し始める初嶋さん。彼女はソラに頭が上がらないのかもしれない。僕たちに対して清々しいまでの上から目線だというのに。

「私は将来、プロ野球選手になりたいんだ」

 堂々と何気ない表情で言い切る初嶋さん。僕と冬原は凍りつく。初嶋さんの瞳はギラギラと輝いており冗談や悪ふざけでないことはすぐに察することができた。

「へ、へ~」

 彼女の言葉に話し上手の冬原でさえどう反応してよいかわからないといった雰囲気である。

「ソフトボールじゃなくて野球なんだよね?」

「何度も言わせるな。野球だ野球。日本初の女性プロ野球選手になって沢村賞のタイトルをとって歴史に名を刻んでやるんだ」

 冬原は笑顔だがその表情にはいよいよどうしてよいかわからないといった苦しさをはらんでいるようにも見えた。

「清和の投げるボールはすごいんだよ! 同じサークルの男子なんかじゃかすりもしないし、あたってもそうそうヒットにはならないもん」

「お、おう」

 ソラは一生懸命に初嶋さんのすごさを説明するが僕らはいよいよ困惑してしまう。

「それでその、相談したい悩みというのは……?」

「えっとね、今までに何回か、プロ球団の入団テストを受けようとしてきたんだけど、どこも清和が女だからって実力を披露する前に書類で落とされちゃうの。だからどうすれば入団テストを受けさせてもらえるかなってこと」

 おおかた予想はしていたがかなりの難題だ。そもそも女子大学生の将来の夢がプロ野球選手って、小学生じゃあるまいし非現実的すぎる。

「ここの大学の野球部の監督に相談してみるとか……?」

「一年の初めに野球部に選手として入ろうとしたがそこの監督に笑って突き返された。もう一度言ったら『俺は暇じゃないんだ』ってめちゃくちゃキレられた。だからあんなオヤジのところにはもう行かない。女だからってバカにしてる」

「お、おう」

 冬原は地雷を踏んだようだ。初嶋さんは怒りをあらわにしていた。

「勇人君はなんかない? いい案」

 ソラに話を振られた。僕に意見なんてあるわけがないのに。それでも少し考えてみた。三人の視線が僕に集まる。僕は頭をフル回転させて考える。

「無理なんじゃないかな」

 結局出た言葉はそれだった。

「なんだと」

 敏感に反応する初嶋さん。

「無理なものは無理だよ。プロ野球の仕組みはよく知らないけど、多くの選手はみんな野球の強い高校や大学で中心選手だったりしてようやくドラフト会議ってやつで指名されて初めてプロ選手としてチームとして契約してもらえるんじゃない? そりゃ入団テストってものがあるくらいだからドラフト以外でプロ野球選手になれなくはないんだろうけど。でもそういうのってどんなに身体能力が高いとしても男だって厳しいんじゃない? テストを受ける資格の基準値とかも並大抵のものではないはずだし。そんな中で……」

「黙れ黙れ黙れ黙れ!」

 初嶋さんは立ち上がり、僕の胸ぐらを掴んできた。静まり返る食堂。今日何度目か浴びる周りの人間からの注目。

「お前も私が女だからってバカにするやつの一人か、女がプロを目指して何が悪い。少なくとも女の子のフィギィア持ち歩いている気持ちの悪いオタクなんかに私の夢を否定される筋合いはない!」

「ちょっと清和」

 初嶋さんを落ち着かせようとするソラ。僕はしばし冷めた感情のまま初嶋さんを見つめる。彼女は自分というものを知らないんだ。自分はなんでもできると信じて疑わず、自分の力量すらも知らずに大学生になる年まで生きてしまったんだ。哀れに思う。

「なんなんだよお前のそのにごった目は! お前、なにかに一生懸命になったことがないやつだろ? いつも無理だと思って妥協してあきらめて、そうやって負け続けの人生を歩んできたんだろうこの根暗!」

 ソラがようやく、初嶋さんの手を僕の胸ぐらから離してくれた。同時に初嶋さんは僕と冬原に背を向ける。

「ちょっと清和、どこに行くの?」

「投げ込んでくる。人生で一番不愉快な気分だ。おい、根暗オタク」

 どうやら僕のことのようだ。おかしなあだ名をつけられてしまった。

「お前なんか大嫌いだ! 私は絶対に夢をあきらめない。勝ち続けの人生を歩んでやる」

 そして彼女は立ち去った。待ってよと言ってソラも続く。ソラはちらっと一瞬僕の方を見た。その表情は申し訳なさそうなとても悲しそうな顔をだった。

 残された冬原と僕はしばし着席したまま何もしないでいた。ひそひそと周りの学生が僕らのことを見て話しているようだったがまったく気にならない。

「驚いたぜ」

 前触れもなく冬原は言う。

「まさかあそこまではっきり言うとは正直感心した。初嶋って言ったけ? この年になって将来の夢がプロ野球選手って、世間知らずというか、頭の中ラリッてるんじゃねぇのって思ったもん。いやー、なんかすっきりしたな。うん。」

 僕は何も答えなかった。

「どうしたんだよ? あの子の言ったことなんか気にすんな。土御門は間違っちゃいないよ」

「うん」 

 僕らは空の食器を返却して食堂をあとにした。


        ◆


 夜。僕は部屋のベットで横になっていた。今夜はどうしたことかシムがスマートフォンから出てこない。いればうっとおしいと思うこともあるが、いざいないとちょっと寂しい。僕は横になりながらじっと画面を見つめる。つくづく自分は暇な人間だなと思いながら不意にそのスマートフォンが鳴った。ソラからのメールだった。

 『明日デートしよう』もしや今日の昼休みのことでなにか話したいことがあるのだろうか。

僕は少し嫌だなとも思ったが仮に今日の食堂のことでソラと喧嘩して別れることになっても失うものは少ないと判断し、十秒後には『いいよ』と返信していた。僕は返信後、再び画面に見入る。すると、画面から突如、細いもの……尻尾? が飛び出してきた。

「うにゃあー」

 甲高い声とともにせまる小さなお尻。僕の鼻先にあたり、僕は激痛で悶えた。

「あ、おはおマスター」

 いつものあいさつをするシム。鼻を押さえる僕を不思議そうに見つめる。

「どうしたのマスター? あ、そうだ、マスターお昼の初嶋さんへの言葉はちょっとひどいと思うお? もう少しオブラートに包んであげるのもやさしさだお。まして初対面の女の子なんだから」

「他に何も浮かばなかったんだもん」

説教でもされるような気配だったのでシムに背中を向ける。するとシムはため息をついてダメだなーとこぼした。

「マスター、マスターもなにか無理そうなことがんばってみなお。たとえうまくいかなくてもその経験がもう少しプラスの方向に思考回路を変えてくれるかもしれないお」

「だといいね」

 僕は歯でも磨こうと思いベットから立ち上がる。

「ふー、なんか眠いなー。さっきまで寝てたんだけど」

 大きなあくびをするシム。

「シムも寝るんだね」

「そりゃあたしも睡眠は必要だお。あたしだって起きてれば疲労はたまるし」

「へー」

 電子世界の天使と自称しているから機械みたいな感じで睡眠はいらないのかと思っていた。

「俺も寝るから。寝ちゃえば? 起きててもすることないだろう」

「そうするお」

 シムはまたスマートフォンの中に入っていった。


       ◆


「ここのステーキおいしいね」

「それはよかった」

 と言っても全国展開しているファミレスだから店によって味に差はでないと思う。僕は食欲があまりなかったのでサラダとコーヒーのみを注文した。


 僕とソラは昨夜のメールでの約束通り、大学で講義を受けた後二人でデートをしていた。とはいえ、言いだしたソラにどこか行きたいところがあるというわけではなく、あてもなくバスで駅に行って電車に乗り、聞いたことのない名前の駅で降りて、ファミレスを見つけ現在にいたる。

 お昼をだいぶ過ぎた時間だけあって店内は空いている。人ごみの嫌いな僕からするとありがたいことだった。ソラはステーキをおいしそうにほおばっているが、かちゃかちゃと食器を鳴らしてかなりマナーが悪い。しかしこういうことを指摘するのはお互いあまり気分のいいことではないし、言ったところで彼女は直さないだろう。人目がないのは本当に救いだった。

「そういえば、シムちゃんはいる?」

 彼女はフォークとナイフを置いて、僕に問いかけてきた。

「いるよ」

 言いながら鞄の中からスマートフォンを取り出す。画面には『やっほー』という文字が映し出される。どうやら今は起きているようだ。

 ソラは画面の文字を見ると嬉しそうに「元気?」などとしきりに話しかける。

「シムちゃんは行きたいところない?」

 ソラの問いかけにシムは考えたのかスマートフォンの画面にはやや遅れて『甘栗食べたい』と表示された。

「甘栗か。なるほど。でもここのメニューにはないし」

 言いながらぱらぱらとメニューをめくるソラ。

「帰りにでも買っていこうか」

 僕が言うと画面には『今すぐ食べたい』と表示された。

「えらく積極的なアプローチが返ってきたよ?」

 ソラは画面を見ながら苦笑している。

「うーん。じゃあ適当にコンビニ探して買おうか」

「そうだね」


 僕らはファミレスで会計をすますと、一度駅前に戻ってコンビニに入った。しかし、各駅停車しか止まらない小さな駅のためか、コンビニも規模が小さく、甘栗は売っていなかった。

「どうしようか……」

 僕は半ばあきらめていたが、ソラはスマホでこのあたりの地図を出していた。

「あ、駅の反対側にデパートがある。行ってみよう!」

 意気揚々と小走り気味に進むソラ。

「あ、うん。待ってよ」

 まさかシムのための甘栗でここまで一生懸命になるとは。赤いコートを着ているソラはどんどん遠ざかる。僕は彼女に続いて駅の反対側の出口へと進む。

「なんだ、最初からこっちの出口に行けばよかったね」

 ソラは言う。たしかに僕たちが今降り立った出口には駅前広場があり、最初に行った出口よりは栄えていた。僕たちはまっすぐデパートに向かい、各フロアの案内板を見る。売り場が二階までしかない小さなデパートだった。

「えっと、食品は一階だね」

「いや、二階に百円ショップがある。そっちのほうがたぶん安い」

 僕は案内板を指差す。ソラは首を傾げた。

「百円ショップって日用雑貨なんかが主体じゃなかったっけ?」

「ううん。お菓子とか、飲み物とか、カップ麺とかもけっこう売ってるよ」

「そうなんだー。普段行かないから知らなかった」

 僕らはエスカレーターで二階に上がる。広いとは言えない店内に人もまばら。やたらと楽しげなBGMが店内のさびしさを引き立たせるように響いていた。

「あ、あったー」

 ソラはレジの横に設置された食品の棚から十五個入りのむき甘栗の袋を持ってくる。

「よし。じゃあ買ってくる」

 僕はソラから甘栗を受け取って、レジ台に置く。店員は男性でのろのろと甘栗のバーコードをスキャンする。いらっしゃいませも言わない。

「百五円頂戴いたします」

機械音声のように覇気のない声だった。僕は財布を開いて気付く。お札ばかりで百円玉が一枚はあったが五円や十円玉が無いことに。

 僕は後ろに他のお客さんが並んでないことを確認してソラの方を向く。

「ソラ、五円ない?」

 ソラは鞄から財布を出して確認する。

「十円ならあるよ」

 言いながら、彼女は十円玉をレジ台に置いたので僕も百円玉を置く。

「百十円お預かりいたします」

 つまらなそうな手つきでレジを操作し、五円玉を取り出す店員。

「五円のお返しでございます。どうもありがとうございました」

 わたされた五円玉をソラにわたす。

「残り五円はあとで返すね」

「いいよ。気にしないで。それより見て見て、この五円玉すごくきれい」

 ソラは僕の顔の前に五円玉を持ってくる。それは今年鋳造されたもののようで、少しのにごりもなく光り輝いていた。

「ああ、きれいだな」

「でしょー」

 ソラはしばしの間、歩きながら角度をくるくる変えたりして五円玉の輝きを楽しんでいた。

 僕はそんな彼女の横でスマートフォンを取出し、人もまばらだったのでシムに話しかける。

「シム買ったよ」

 画面からの応答はない。寝ているのだろうか? 僕はじっと画面を見つめる。

「どうしたの?」

 ソラは五円玉を赤いコートのポケットにしまって一緒になって画面を除く。顔がかなり近い。

「シムからの反応がないんだ」

 僕はちょっと距離をとる。さすがに外だし恥ずかしい。

「たぶん寝てるんだよ。きっと」

「へー、スマホの中って寝心地いいのかな?」

「どうだかね」

 外に出て少し駅の方へ歩くと街の地図が設置された看板を見つけた。僕らは見に行く。

「近くに公園があるよ」

 ソラは指差し言う。

「行ってみようか」

「うん」

 楽しそうにうなずくソラ。

 十五分ほど歩くと、公園は見えてきた。駅の広場を出ると周りは住宅街ばかりで、この街があまりデートに適した場所でないということを警告されているようだ。僕にはどうでもよいことだが。ここで電車を降りたいと言ったのはソラだし。


 公園に遊具などはなく、真ん中に噴水が設置されている。子供が遊ぶための公園というよりは、街の人たちの憩いの場といった感じだろうか。

「あそこのベンチに座ろ」

 ソラは無邪気に走り出す。僕はゆっくり歩いて後を追う。

「人いないね。なんでだろう?」

「平日の昼間だからかな? そろそろ学校なんかは終わってもいい頃合いなんだろうけど」

 街の中に強引に隙間を作って広げたような小さな公園、噴水から水が流れる音があたりによく響きわたり、寂しさを際立たせていた。僕はスマートフォンを出して、シムを呼ぶ。

「シム、起きて、甘栗買ったよ。食べなよ」

 反応はない。

「シムちゃーん」

 ソラもスマートフォンに向かって呼びかける。すると、ようやくといった感じでサイドテールの頭が出てきたかと思うと、ふらふらと足元がおぼつかない様子でシムはベンチの上に降り立った。

「大丈夫か、シム?」

「シムちゃん、具合悪いの?」

 僕は今まで見たことのないシムの様子に戸惑い、少し不安になった。

「んー眠いおー」

「寝不足なの?」

 ソラが問いかける。

「う、んー」

 シムはその場にぺたんとしゃがみこむ。調子が悪そうだ。

「甘栗食べるか?」

「食べる!」

 垂れ下がっていたシムの尻尾がぴんと立って、左右に振れる。シムの意識は甘栗という言葉で覚醒したようだ。

「あ、元気になった」

 ソラも安心したように笑顔になる。

 僕は甘栗の袋を開け、一つシムに与える。

「ありがとうマスター」

 シムは甘栗を両腕で抱え、かじりつく。

「ん~甘栗おいしー」

「よかったよかった」

 ソラが言った。僕もシムの幸せそうな表情を見ると、安心した。僕とソラはそのままなにをするわけでもなくシムが甘栗をほおばっている様子を見守る。

 シムは一分ほどで甘栗一つをたいらげると、そのままごろんと、僕の膝に体重をあずけ、眠りに落ちてしまった。

「寝ちゃったね」

「昨日今日とどうしたんだろう? 眠い眠いってずっと言ってるんだよね」

「疲れてるんじゃない? 勇人君が不甲斐ないから」

 いたずらっぽく言うソラに対し、僕は無言になる。

「あ、もちろん冗談だよ!」

 ソラは慌てた様子で取り繕ってくれるが、やはり僕は何も言うことができなかった。

「んー、私も眠くなってきちゃったな」

 ソラはのびをしたかと思うと、僕の肩に頭をのせ、寄りかかってきた。

「けっこう重いな」

「もー、勇人君失礼」

 言ってくすっと笑うソラ。しばらくそのままの体勢でお互いなにもしゃべることなく冬の昼下がりの空気を楽しむ。

「勇人君……」

 ソラが静かな口調で僕の名を呼んだ。

「ん?」

「あたしは幸せ者だよ」

「突然どうしたの?」

 僕はちょっと戸惑う。

「あたしはとっても運がいい人間なんだよ」

「どうして?」

 横目でソラの頬が少し紅潮したように見えた。

「こうして勇人君と再会できたから」

 言うとソラは僕の体にいっそう体重をあずける。コート越しでも彼女の体温が伝わってきた。

「あたしが勇人君を好きになったのはそう、中学一年の頃。勇人君は中学時代のあたしのこと憶えてる?」

 僕は答えに窮した。

「ん、ごめん、あんまし」

 左右で瞳の色が違うソラは中学の頃は校内規模で有名だった。僕も当時、彼女の存在こそはさすがに知っていたが直接的なかかわりはほとんどなかったと思う。あまり記憶力のいい方ではないから絶対の自信はないが。しかしそんな僕でも唯一憶えてることがあった。

「どこかで話したことあったよね? 内容までは憶えてないけど」

 ソラは静かにうなずく。

「ちょっと予想はしていたけど、その時あたしに何を言ったかは憶えてない?」

「うん」

 本当に思い出せなかった。

「この瞳は選ばれた者の証だ」

「あ……」

 僕は硬直した。

「勇人君は言ってくれたんだよね。瞳の色がみんなと違うことで周りから気持ち悪がられて、小学校の頃からいじめられ気味だったあたしに」

「恥ずかしいな」

「うん。他にも、この瞳には悪魔が宿っているだとか、今にエスパーに目覚めるだとか」

「もうやめようや」

 ソラは楽しそうだった。

「中二病というやつですな」

 返す言葉もない。

「でもね、そんな中二全開な言葉があたしの心には響いてしまったわけですよ」

 公園の中には犬を散歩するおじいさんが入ってきていた。

「あたしはその頃、自分以外の人間が本当に大嫌いだった。あたしの瞳を不思議そうに、おかしなものでも見るような奇異の目で見てくるから。子供ってさ、外見だったり性格だったりで自分と明らかに違う人を受け入れられなかったりするじゃん? それの典型でさ、遠足の班決めとかはあたし一人余るし、運動会で負けた時とか変な目のやつがいたから負けたんだってあたし一人のせいにされたりで散々だった」

 つらい記憶のはずなのにソラは遠い記憶を懐かしむように目を細め、微笑む。

「ずいぶんと重たい過去を持っているんだね。知らなかった」

 僕の言葉にソラはこくんと頷く。

「まあね。でももう気にしてない。だって、勇人君の言葉があたしを救ってくれたから。今思うと恥ずかしい、とっても単純でばかばかしい言葉かもしれないけど、その言葉をもらってから、あたしはこのオッドアイに対する考え方を変えたんだ。自分に自信持てるようになったし、何か言ってくる人間を強い姿勢で返り討ちにやれるようになった。あたしの人生は勇人君の言葉から始まったと言ってもいいくらいだよ」

 僕の頭の中で徐々に中学時代の記憶が鮮明になっていった。

「とても恥ずかしい」

「どうして? いいじゃない。君の言葉があたしを救ったんだよ」

 遠くから子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。そろそろ夕方だ。

「それからあたしは勇人君のことを好きになって、もっと仲良くなりたいって思うようになった。けど、中二、中三と同じクラスにはなれなかったし、告白しようにも、勇人君って中学の頃彼女いたでしょ? だから機会もなく高校も別々でほとんどあきらめてた。けど、まさか大学で再開できるとはね。幸せだよ。一生分の運を使い果たしちゃったんじゃないかってくらい」

「大げさな。それだとソラはこれからの人生、運がなくてつまらない人生を送ることになるじゃないか」

 僕の言葉を聞いてソラはくすっと笑う。

「大丈夫だよ。勇人君が一緒にいてくれるなら、あたしに運がなくても不幸な人生にはならないもん。一生幸せ者でいられるもん」

 今僕はとても照れくさい言葉を言われた気がする。こんなダメなところのかたまりみたいな人間にはもったいないくらいのくすぐったい言葉を。

 ―これがリア充というやつなのか。

「甘栗おいし。むにゃ」

 シムの寝言が膝の上から聞こえてきた。悪くない心地だ。コートを着ていればさほど苦でもない冬の冷気と穏やかな冬晴れの日の光に包まれながら僕も目を閉じる。


        ◆


 夕方四時を知らせる夕焼け小焼けの軽やかなメロディーで僕は目を覚ました。目を覚ますと同時、視界に移ったのは目の前の噴水が小刻みに大きな音を立てて水を射出する光景だった。ザバンザバンという音が公園内に響く。

「うわ! なになに?」

 ソラも目をさまし、僕の肩から離れる。かなり驚いている様子だ。

「噴水の音だよ。四時になった合図か何かなのかな? よくわからないけど」

「へー、すごいすごい」

 ソラは目を輝かせ、噴水に見入っている。僕もしばしその噴水を観賞する。

「勇人君」

 ふいに名前を呼ばれ、ソラの方に顔を向ける。

「今日はありがとう。デートできてよかった。だってこんなにいいものが見れたんだもん」

「またまた、噴水くらいで大げさな」

「ううん。勇人君がそばにいてくれたから見れたんだよ。そうにちがいない。勇人君といるときのあたしは幸せ者なんだもの」

 僕の心はまたくすぐられる。

「でもごめんね。あたしの勝手な気分で知らない街を無計画に歩かせちゃって」

 ソラは申し訳なさそうな顔をする。

「どうってことないよそんなの。俺も楽しかったし」

 僕の言葉にソラの表情はぱっと明るくなった。

「シムちゃん起きないね」

 シムはあたりに噴水が水を落とす大きな音が響いているにもかかわらず起きる気配がまったくない。まだ夢の中なのか時おり『甘栗』と寝言を漏らしている。

 僕が視線を膝の上のシムからソラの方に戻すと、ソラは顔を近づけてきていた。

「ちょ、ちょっと」

「えい」

 ソラの掛け声が聞こえた次の瞬間、僕の口はなにかやわらかいものでふさがれていた。視界にはソラの小さくて形のいい耳が映る。ちょっと息苦しい。

「ん……」

「ぷはー」

 ソラの体が離れた。ここで初めて僕は気付いた。自分がキスされたということに。

「キスって難しいね。息苦しいし。なんかドキドキするし」

 ソラの顔は紅潮している。僕の心臓の鼓動は速くなっていた。噴水は水の射出を止め。本来の流れに戻っていた。

「帰ろうか」

 言ってソラは立ち上がる。夕焼けに照らされているためか彼女の顔はかなり赤い。

「うん。シム起きろ、帰るぞ」

「うあ」

 思いのほかあっさり起きてくれた。

「まったく、甘栗を買わせるだけ買わせておいて、結局一つしか食べなかったな。ソラ、あとで五円はちゃんと返すからね」

「だからいいよ五円くらい。シムちゃん見て、きらきらの五円玉」

 ソラが赤いコートのポケットから百円ショップでおつりとしてもらった五円玉をシムの目の前に持ってくる。

「きれい」

シムは五円玉を抱え、頬ずりし始めた。

「こらこら、お金っていろんな人の手に渡っているものだからきれいに見えて実は汚いんだよ」

 シムは頬ずりをやめない。

「この五円玉があたしにゆかりの品なのだおぉ」

 まだ寝ぼけているようだ。


      ◆


「ねえねえマスター」

 マンションに帰るとすぐ、シムに呼ばれた。

「ちょっとは自分に自信持てた?」

「……」

 僕は考える。

「マスターってば!」

「別れる」

 シムの強い口調をさえぎり、極力冷めた調子でそれだけ言った。

「なんで……?」

 シムは絶句する。

「俺にはもったいない彼女だよ、ソラは。それはもちろん、俺のことを好きと言ってくれたのはすごくうれしかったけど、こんな俺と付き合ったって、俺は幸せになれるかもしれないけど、俺がソラを幸せにしてやることはできない」

「でもソラちゃんはマスターといられるだけで幸せって言ったお?」

「いまに気付くさ。ソラは俺のことを過大評価しすぎなんだ。中学時代の俺なんて世間知らずで、自分のダメさをまったく知らずにマイペースに生きて、ポジティブシンキングを振りかざしたバカだったんだ。それに、ソラは俺の言葉に救われたって言ってたけど、それだって別に俺じゃなくてもソラはきっとだれかに救ってもらえたよ、あんなにかわいいんだし。もしくは自分自身で周りと戦ったか。結局ソラの隣にいるのが俺である必要はないんだよ」

 言い終えるとシムは悲しそうに俯き、マスターのバカと一言言ってスマートフォンの中に入っていった。


       ◆


 翌朝起きても、シムは姿をあらわすどころか、スマートフォンに語りかけても反応がなかった。別に呼んだところで何か用事があるというわけでもないからそのままスマートフォンを鞄に入れ、大学に向かう。でも最近習慣になっていた『おはおマスター』という声が聞けないことで、なんだかもやもやとして言いようのない気持ち悪さがあった。



 昼休み、僕はソラと教室でお昼を食べていた。今日もソラはお弁当を作ってきてくれている。味はなかなか。つくるたび彼女の料理の腕も着実に上がっているようだ。

「勇人君元気? 今日はいつも以上に元気がないように見えるよ?」

「そうかな」

 ソラは力強くうなずく。

「あたしのお弁当おいしくない?」

「いや、おいしい」

 ソラはどこか不安そうだ。

「本当においしいよ」

「ごめんね。無理に食べなくてもいいんだよ。コンビニでなにか買うならおごるし」

 満足な味のお弁当を無償で食べさせてもらっている中、俯き加減でそんなこと言われるとかなり焦る。

「そんなんじゃないって、ただなんか物足りないんだよ。それできっと顔に出ちゃうんだ」

 土御門勇人の短所:感情が顔に出やすい

「物足りない? 味が?」

 一層不安そうな表情になるソラ。

「違う違う、今日はまだシムに会ってないからなんだ、きっと」

 僕はソラを安心させようと必死になっていた。こんなかわいい子が僕なんかのために悲しそうな顔をしちゃいけない。その一心だった。しかし、ソラの表情は晴れるどころか眉間にしわを寄せ、曇っていた。

「えっと、シム……?」

 予想外の反応に僕は戸惑う。

「シムだよ、シム。今日は朝から一度もスマホから外に出てこないんだ。まだ寝てるんだろうけど」

 言って僕はスマートフォンの画面に呼びかける。ソラはそんな僕をより一層困惑の表情で見始めた。

「え、何してるの? 勇人君……」

「何って、シムを呼ぶときは画面に向かって名前を呼んでたじゃないか、昨日も見てたでしょ?」

「えっと、ちょっと待って……」

 しばしの沈黙、ソラは何か考えているようだ。

「ごめん……シムって誰だっけ?」

「本気で言ってるのか?」

 申し訳なさげに小さく頷くソラ。彼女は冗談を言う人間ではないことくらい僕にもわかっている。でも、昨日まであんなにも仲良くしていた友人を次の日突然忘れるような人間でないことも知っている。だから今のソラの言動や表情がリアルのものとして受け入れがたかった。

「こんな、シャーペンくらい小さい女の子で、自分のこと電子世界の天使だとか言っていて、甘栗が好きで、『お・お』うるさくて……」

 ソラは難しい表情のままだ。

「うそだろ……」

「勇人君と最近ゲームとかしたっけ?」

「ゲームじゃない」

 僕は即否定する。

「だよねぇ。えっと、てことはさ、勇人君の夢じゃない? そのシムって女の子。現実世界にそんな小さな女の子いるわけないじゃん」

 頭の中で何かがはじけた。

「夢なんかじゃない!」

 僕は無意識のうちに声を張り上げ、立ち上がっていた。

 騒然とする教室内。中にいた見ず知らずの学生たちの視線が僕とソラに集まる。ソラは目を大きくして驚き、固まっていた。

「ごめん」

 一言そう言って、僕は鞄を持ち、静まり返った教室をあとにする。なぜ、怒鳴ってしまったのか自分でもわからない。シムのことを否定されたのが許せなかったという気持ちは確かにある。でも、普通に考えてソラはちょっとふざけていただけだろう。いつもは冗談を言わないけど、たまにはそんな日もあるかもしれない。それをなんでか感情的になって、彼女を傷つけてしまった。でもこれでいいのかもしれない。もともとシムに話した通り別れようと考えていたし。このまま何も言わず、連絡を取り合うのもやめてしまおう。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


         ◆


 夕方、僕は最終五限目の講義を終え、帰路についていた。空はすっかり暗くなっており空気も冷たい。結局のところ、空き時間に何度かスマートフォンに向かってシムを呼んでみたがいっこうに反応はなし。両手をコートのポケットにつっこみ、もやもやした心持のままバス停に向かう。

 何がどうなっているんだ。寝ているわけでないとしたらふてくされているのか? 僕が自分に自信が持てないから。

電灯の下を歩いている時、足元になにか丸いものが転がってきた。

「おーい、とってくれ!」

 直後に聞こえてきた聞き覚えのある声。とってくれと自分から頼んだにもかかわらず軽快な駆け足でこちらに近づいてくる。

「やっぱり根暗オタクか」

 先日ソラに相談にのってほしいと言われ紹介された初嶋さんだった。薄汚れた白いユニホームに黒いグローブをはめている。

「今帰りか?」

「うん」

 またなにかひどい暴言を言われるのでは心の中で身構える。

「ちょっと待っててくれ。十分、いや八分だ」

 言うやいなやボールを拾って猛然とダッシュし、どこかに行ってしまった。

 待たされることきっかり八分。

「待たせたな」

 黒のウィンドブレーカーを身にまとい、白地に洸鏡バファローズと赤い字でプリントされたエナメルバックを肩にかけている。まさか僕は面と向かって嫌いと言われた女の子に一緒に帰ろうとか言われるのだろうか。

「根暗オタク、私と付き合ってくれ」

 彼女が発した言葉は予想をおおいに裏切るものだった。僕は頭が真っ白になる。

 初嶋さんはそんな僕の様子に気づくと不思議そうにきょとんとしていたが、やがて事に気付いたようで目を細めながら口を開く。

「なにか勘違いしてないか? 私がお前に言ったのは恋人になれということではなく、今からちょっとの間私と行動を共にしろという意味だ」

 軽く舌打ちをされる。イラつかれるのは心外だ。誰だってあんな言い方されたら勘違いする。

「ちなみに答えは聞いていない。行くぞ、そろそろバスが来る」

 言って初嶋さんはポケットつっこまれていた僕の右腕を強引に引っ張り、走り出す。

「ちょ、ちょっと」

 僕は転びそうになりながら、必死に足を動かした。彼女の力はかなり強い。

 バス停に到着するとすでにバスが来ており、僕は半ば放り込まれるようにバスに乗る。息絶え絶えでICカードをタッチし、二人掛けの座席がちょうど空いていたので僕はそこに座る。直後、初嶋さんが僕の隣の空いたスペースに座ってきた。

「どうした? 難しい顔をして」

「あのさ、初嶋さんは俺のこと嫌いなんじゃないの?」

 僕は思い切って訊いてみた。

「ああ。大嫌いだ」

 清々しいまでの即答だった。

「じゃあ、これは何? 新手のいじめ?」

 初嶋さんは苦笑する。

「違う違う。私は飯が食べたいんだ」

「それで何で俺が一緒に行く必要があるんだ」

「私は非常に親子丼が食べたい気分なんだが一人で店に入りづらいんだ。カウンター席とかないし。知らない人と相席になるのは嫌だし」

 なんて身勝手な理由だ。この女は僕をなんだと思っているのか。

「根暗オタク、お前はなにか勘違いしているようだが、私はお前のこと嫌いだが関わりたくないとまでは思わないぞ。むしろもっと話したいと思っている」

「は?」

「それはまあ、お前の後ろ向きな発言の度合いによってはこの前みたく感情が高ぶることもあるだろうが、それでも私は夢を追いかける。否定されればされるだけ私のモチベーションは高まるんだ。この前お前にあきらめろと言われた時はかなり頭に血が上っていたが、よけいにプロになってやるぞという決意を固くできた」

「そりゃどうも」

 凹凸のない調子でそれだけ言っておく。

 ほとんど満席のバス車内。初嶋さんが膝に乗せているエナメルバックのせいで僕が座るスペースはちょっと窮屈だ。

「どうでもいいけど、こんな真っ暗な時間帯に練習してボール見えるの? 俺の足元にボールが転がってくるということは外でやってるんでしょ?」

 僕は気になっていたので訊いてみる。

「ああ。私は目がいいからな。どんなに暗くてもボールくらいなら見える」

 誇らしげに答える初嶋さん。

「根暗オタクは野球好きか?」

「いや、とくには」

「そうか、かわいそうに」

 初嶋さんはそれ以後バスの中で延々野球の話を始めた。僕は電灯に照らされた外の景色を見ながら時おり適当な相槌をうっておく。


 十五分ほどでバスは到着した。住んでいるマンションからも離れていないから見知らぬ街ということではないが、ここにきて逃げようにも逃げられないだろうからおとなしく初嶋さんについていくことにする。

「ここだここ」

 案内されてきたのは駅から少し離れた位置にあるファミレスだった。たしかに一人ファミレスはきつい。初嶋さんの言葉もうなずける。僕らは店員に案内されて席につく。すると、初嶋さんは座るやいなやすぐさま「親子丼大盛り」と注文していた。店員も少々戸惑ったようで、慌てて注文をとる機械を取り出している。

「ほら、お前も頼め、私は食べるのが速いぞ。お願いだから待たせるのだけはやめてくれ。

おもしろくないからな」

 急かされるまま、僕は目についたハンバーグ定食を注文する。

 どこまでも僕はこの女になめられているようだ。

「なあ根暗オタク」

「ん?」

 初嶋さんは思案顔で僕を呼んだ。

「なんでお前、根暗オタクなんだ?」

 目の前の女はなにを言っているんだろう。からかっているのか。

「初嶋さんが勝手にそう呼んでいるから」

 僕の許可も取らずに。まともな人間ならもっと怒ってもおかしくないだろう。

「いや、そうなんだけどさ。なんで私はお前にそんなあだ名つけたんだっけって思って。ほら、根暗はわかるじゃん? お前根暗だし。でもオタクって、お前オタクなのか?」

「違う」

「だよな。んー、なんでだろ?」

 僕は激しく動揺していた。僕が初嶋さんにオタクと呼ばれている理由、それはシムが勝手に飛び回って初嶋さんにぶつかったことから始まっているんじゃないか。どういうことだろう。昼のソラといい、まるでシムに関する記憶がすっぽり抜け落ちてるみたいだ。シムは今日未だ一度も姿を見せていない。


        ◆


 夜八時ごろ、僕はマンションの自室に帰宅した。初嶋さんに別れ際言われた言葉が頭の中で繰り返し再生される。「もう少し元気出さないと人生面白くなんないぞ。せっかくこの世に生まれてきたんだから。自分に自信がないなら、なんか難しそうなこと最後までやりきることに挑戦してみたら? 物事の見方も変わるかもよ?」僕は余計な御世話だと思いながらあいまいに笑うだけだった。

 こんなつまらないことを言われるのなら彼女に会いたくはなかったとも感じたが、気がかりなことが、初嶋さんもまたソラ同様シムに関することを何一つ覚えてないことだ。僕は何度か宙を飛ぶ小さな女の子のフィギィアという言葉を使って彼女と僕の初対面の出来事を聞かせてみたが初嶋さんは「そんなことあったけ」と言うばかりで忘れているという風には見えなかった。

 そして僕は一つの結論に達した。シムは消えてしまったのだ。僕以外の人間の記憶も消して、僕以外の人間たちからすればはじめから存在しなかったということになって。

 僕は鞄を降ろすと何をするわけでもなく布団にくるまった。部屋の空気はかなり冷たい。しかし暖房のスイッチを入れる気力もない。ソラからなにか連絡はきてるのだろうか。昼は少し悪いことをしてしまったかな。でも謝ろうとは思わない。シムの存在がまるごとソラの中から消えてしまったというのであればソラには何の罪もないのだけれど。鞄の中からスマートフォンを出すのも億劫でそのままにしておいた。

 僕はシムがいなくなったことで起こり得る影響について頭を巡らせてみたが、すぐにこれといって生活に支障をきたすことはないという結論に行き着いた。小うるさくて小さな話相手がいなくなった寂しさは多少なりともあるけども、もともと僕は一人でいるほうが好きなのだ。むしろ清々すると言ってもいいかもしれない。

 気が付くと僕は眠りの中に落ちていた。


         ◆


 シムがいなくなって一週間が経過した。部屋にはしょっちゅう冬原がようもないのにやってきて、大学に行けば何の感動もない講義を聞いて、たまにタウンワークのページをめくっては手頃なアルバイトを探す日々。僕の生活はすっかり平穏を取り戻していた。

 ただ、シムが現れる前と違うのは、初嶋さんが僕の講義が夕方まである日は図ったように僕と合流し、僕の腕を引っ張って男っぽい夕食にがっつくことと、ソラとすっかり会わなくなったことだ。あの日の昼休みから着信もメールもなし。大学ですれ違うこともない。一緒にとっている講義にも姿を現さなかった。彼女が応援してくれた本屋のバイトの面接には行かなかった。そんな気分にはとてもなれなかったのだ。

 僕らの恋人としての関係は完全に終わったようだ。告白された時、どうしてOKしたのか今ではもう思い出せない。僕のこの薄汚れた日常を変えてくれることを期待していたような気がする。そして彼女はシムの力も合い重なって十分にその働きかけをしてくれた。ただ僕自身が変わることを拒否してしまったんだ。本当に申し訳なく思う。僕は悪い人間だ。ソラというあんなにも健気でいい子の頑張りを踏み潰し、最後は怒鳴り散らしてさよならした。僕は充実した人生を送りたい。けど送れない。誰かに助けてほしい。ずぶずぶと暗い穴の中に沈んでいく僕を引っ張りあげてほしい。僕が失ったものはあまりにも大きかった。


「そういやさ、この前の話おぼえてるか?」

 僕の部屋で漫画を読んでいた冬原が言った。

「どの話のこと?」

 冬原が僕にする話は一日にいくつもあるため、大雑把にこの前の話と言われてもどの話か見当もつかない。

「えっと、あれだ、この街に伝わる不幸な人のところに現れる精霊の話」

「精霊、ね……」

 興味をそそらない話題だが別段その話をさえぎることはせず、僕は明日の講義の予習のため教科書を開く。

「その精霊、変わったことに栗が好きらしい」

 栗? 僕は冬原のほうに向きなおり、真剣に耳を傾ける姿勢をとる。

「お、おう……どうした?」

 冬原は僕の様子に驚いていたようだが、僕は「気にするな」と言って続きを促す。

「でさ、その精霊、不幸な人の前に現れるって言ったけど、その精霊、不幸な人を幸福にしてくれるよう手助けはするものの、結果に関係なく一週間くらいでいきなりいなくなってしまうらしい。場合によっては精霊が目の前に現れた不幸なその人以外の記憶を消して」

 シムとまったく一緒だ。

「なんで不幸なその人の記憶は残すと思う? その人に選ばせるためさ。もう一度その精霊に来てもらって、無期限でそばにいてもらい、幸せになる方法を見つけるのか? それとも人並みの幸せをあきらめて真っ暗な生き方をするのか」

「それで、もう一度その精霊に来てもらうには?」

「夜のちょうど十二時に頂上に到達するようにこの近所にある紙紙山に登るんだ。制限時間は三十分、走んなきゃ無理だろうな。しかも挑戦できるのは一回だけらしい。」

 紙紙山― 僕は思考をめぐらし、思い出す。たしかこのあたりで最も高い山だ。変な名前の山だなと思って憶えていた。

「紙紙山って標高どれくらいだったっけ?」

 僕は冬原に訊いてみる。

「三百メートルちょいだったと思う。一応道路が整備されているから登れなくはない」

「ほう」

「登るのか?」

「いや、そういうわけでは」

 自分でも悩んでいた。もともと信憑性の怪しい情報ではあるし。

「今日の土御門はおもしろいな」

 冬原に言われると心外だ。


       ◆


 その夜、二十三時二十分。僕は紙紙山の入り口にいた。服装は薄手の長袖にパジャマとして使ってる高校のジャージのズボン。ダサい恰好だし、なにより寒い。靴は大学の帰りにランニングシューズを購入しておいた。僕は登ることにした。もうシムがいないぽっかり穴が開いたような生活に嫌気がさしていた。僕は寂しいのだ。とてつもなく。幸せになれる望みがあるなら、失敗した人生をもう一度巻き返せるなら、なんにでもすがりたい。

 二十三時三十分にセットした腕時計のアラームがピピッとか弱い音を立てる。僕は意を決して走り出した。今から三十分間。絶対に登り切ってみせる。


 どれくらい登ったのだろう。自分は本当に登っているのか。もしかしていつのまにかUターンして降っているのではないだろうか。走っているという感覚は薄く。呼吸だけがひたすらに苦しかった。

 真っ暗闇の静寂の中、弱々しく頼りない光を放つ電灯の下で、僕は今にも止まりそうな足取りになっていた。

 脇腹が痛い。足がパンパンだ。一歩踏み出すたび悲鳴を上げているようだ。まさかここまできついとは。内心で戸惑い、ひどく後悔していた。まったく鍛えもせずに走って山に登ろうとは無謀すぎたのだ。ふらふらと体が右往左往しているような気さえする。

「あれ、根暗オタク!」

 前方から力強い声が聞こえた。まっすぐこちらに向かってくる人影。

「どうしたんだこんなところで?」

 初嶋さんだ。ジョギングだろうか、動きやすそうなジャージを身にまとい、呼吸が少し乱れている。

「もしかしてお前もジョギングか? 関心関心」

 初嶋さんは言ってニコッと笑う。

 僕は立ち止まると口の中いっぱいに血みたいなまずい味を感じ、気持ちが悪かった。

「なんだ、今にも倒れそうじゃないか。これくらいの山で情けない。私なんか日に三往復はするぞ。暗いところでも目が利くから夜中でも余裕だ」

 大きく息を吸ってなんとか呼吸を落ち着け、あとどれくらいで頂上かと訊いてみた。

「あん? そうだな一キロくらいかな? 正確な距離はわかんないけど」

「そっか。じゃあ」

 僕は足を前に進める。

「ああ。あんまし無理すんなよ。帰ったら足のマッサージも忘れずにな。筋肉痛になるぞ」

 初嶋さんの言葉には特に返答せず、もう一度ふらつく足に鞭をうつ。もう少しなんだ。



 僕は崩れ落ちた。くねくねとした急カーブが連続した、コンクリートのひび割れた道路を走り抜け標高三百十五メートルと書かれた看板が目の前にあった。冷たい道路に両手をついてしばらくそのまま動けずにいた。息苦しい。どうせ人なんか通らないからと、思い切って道路に仰向けになった。ひんやりとした感触が背中に伝わってくる。高校までの体育の授業でもここまでへとへとになったことはない。夜風が気持ちよかった。

 ふと思い出して左腕を目の前に上げて腕時計が示す現在の時間を確認する。

―零時十七分

ダメだった。当たり前か。まともに足動いてなかったし。でも不思議だ。走っている途中に時計を見るってことを忘れてた。零時を過ぎた時点でチャレンジは失敗なのに。無意識の内に途中で投げ出したくないって思っていたのかな。

「くそ……」

 自分でもなんとか聞き取れるくらいのかすかな声でそれだけ言う。

 やっぱりシムは戻ってこない。冬原から端を発した信憑性のない情報ではあったが僕は今この瞬間そのかすかな希望をも失ったのだ。

 感覚のない足で立ち上がり、下山する。もう何も考えられなかった。



 山を下りている時のことははっきりとは憶えていない。唯一憶えているのは、とても寒かったのと、弱々しい電灯の明かりに照らされた路面をスローペースでしか歩けなかったこと。僕はぼろぼろの足でとりあえず下山することはできた。

 僕の記憶が鮮明になるのは山を下りたところにある、ひときわ明るい光を放つ電灯の下からだった。電灯の下には赤いコートに白いマフラーをつけたソラが立っていた。

「ソラ……?」

 僕はすぐに彼女だと認識できた。きらきらと輝く左右で色の違う美しい瞳が電灯の下で一層鮮やかに輝いていたからだ。

「どうして……?」

 僕はおぼつかない足取りで彼女の元に向かう。

「おつかれさま」

 突如僕は抱きしめられた。ふわふわとしたコートの感触が薄着の肌に伝わる。僕の頬に触れた彼女の頬はとても冷たかった。何十分もこの場所で待っていたのだろうか。

「ごめんね。あたしバカだから。どうしてこの前勇人君があんなに怒ってたのかわかんなくて。ここ一週間くらいずっと考えたんだけどわかんなくて。それでも仲直りしたくて。あたし勇人君がいなきゃだめなの。無理。生きていけないんだよ」

 ソラの声は震えていた。寒さからではない。彼女は泣いているんだ。暖かな涙が僕の頬にも伝わってくる。彼女はこんなにも僕を必要としてくれている。それに気付いた時、目頭がかっと熱くなった。

 僕は無言で彼女を強く抱きしめた。

「ごめん。俺を許してくれ。俺が勝手だったんだ」

 もう一人で一方的に別れようなんて考えるのはよそう。シムがいなくても、僕は終わってしまった人生を、ソラとともにもう一度巻き返そう。

「ソラ」

「え?」

「ありがとう。これからもよろしく」

「うん!」

 僕らは抱き合ったまま口づけをした。お互いの冷えた唇を温めあうようにゆっくりと長い口づけを。


      ◆


 僕はシャワーを浴びるとベットに横になり、ソラに足腰をマッサージしてもらっていた。部屋にはぬくぬくと暖房が利き始めており、心地いい。

「気持ちいい?」

「うん」

 ソラは満足そうにうなずく。野球サークルのマネージャーだけあってけっこう上手い。

「どうやって俺が紙紙山を登っているって知ったの?」

 気になったので訊いてみた。

「清和がメールで教えてくれた。『お前の彼氏がおもしろいことしてるぞ』って」

 『おもしろいこと』ね。僕は苦笑する。

「でもどうしてこんな真夜中に紙紙山になんて登ったの? 体力づくり?」

「いや、もうなんでもないんだ。本当に」

 僕はシムには二度と会えないんだ。

「ふーん。あ、勇人君のスマホに着信とかメールいっぱい入ってるから驚かないでね」

 ソラは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。

「さすがにジョギングするのにスマホは持ってかないよ。ガラケーとちがってかさばるし」

「だって勇人君が夜中に走って紙紙山を登ってるなんて最初は信じられなかったんだもん」

 それで確認したくて何度も連絡してみたが応答がないのでとりあえず行ってみたということか。

「どれくらい待ってたの?」

「三十分くらいかな」

「そんなにか!」

 僕は言葉を失った。

「うん。なんか本当に直感だけど勇人君がいる気がしたんだよね」

 言い終えるとソラは大きく息を吐いた。

「ちょっと休憩。手が疲れちゃった」

「ああ。もういいよ。ありがとう」

「勇人君、走る前にストレッチとかした?」

「いや、してない」

「しなきゃだめだよ。怪我するよ」

 もう登ることはないだろうが僕はうなずいておく。

「ちょっとお水もらうね。喉乾いちゃった」

「どうぞ」

 ちょっと暑いのかな。僕は立ち上がり、暖房の設定温度を二℃下げる。ついでにスマートフォンの電源も入れてソラからの連絡も確認してみた。

 着信三回にメール四件。たしかに着ていた。僕はくるくると画面をスクロールする。すると、視界の片隅で何かが光っていることに気付いた。画面から目を離し顔を上げてみる。

 ハンガーにかかっていたソラの赤いコートの近くできらきら光る五円玉が宙に浮いていた。あれはたしか、シムのために甘栗を百円ショップで買った時にもらったおつり。

 五円玉は僕の方に向かってくるとスマートフォンの画面に吸い込まれていった。

 ―なんだこれ

 僕は今目の前で起こった光景に困惑した。しばし画面に見入る。

 すると、画面の中から小さな手が出てきた。その手は画面の端にあるカバーをつかみ、次の瞬間にはサイドテールの頭が出てきていた。

「おはおマスター」

「シム、何で……」

「マスターがちょっとは前向きになってくれたからだお。がんばったねマスター。少しは自信付いたでしょ?」

 僕の目には涙がたまっていた。

「ああ。そうだな」


       ◆


 場所は住んでいるマンションにほど近いコンビニ。店の商品の在庫なんかが置いてある狭いバックルームの中で、僕はお腹のふくらみが目立つ丸刈りでメガネの店長の質問に極力ていねいに回答していった。

「ふむふむ。OK。それじゃ次に、君の長所と短所を教えてよ」

 僕はちょっと考えてから口を開く。

「短所が不特定多数で長所はよくわかりません。なんにもないかもしれないし、自分でも気づかないだけでたくさんあるかもしれません。だから僕は、不特定多数の短所を何年かかってでも全部克服して、自分がまだ知らない長所を見つけながら、胸を張って生きれるようになりたいです」

 僕が言い終えると店長は笑い出した。

「君、おもしろいね。採用! 明日から頼むよ」

 僕の人生の巻き返し、リア充への道のりが一歩前に進んだ。


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リア充の定義~あなたの長所はなんですか~ @sima-mu

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