第16話 一人称の「僕」とはどんな人物か?

「僕は……誰だ?」鏡に映った顔を見て、僕は一言呟いた。

 そこに映っていたのは美青年とまではいかずとも、整った顔だった。眉毛は不恰好ではなく、鼻もそこそこ高かった。そして不精髭が生えていた。それで僕は、しばらくの間、自分が髭を剃っていないということに、この場所に閉じこもっていたのだということに気付いた。僕はおぼろげな記憶の糸を辿ろうとしたが、その糸は非情にもぷつりと途切れていた。



 さて、僕とは、俺とは、私とは、一体どんな人物なのでしょう? いきなり自己紹介させるのもアリといえばアリですが、「僕はC男。いたって普通の高校生だ」という書き出しに、即ブラウザバックを決める読者は多いでしょう。

 一人称の制約(主人公の見ていないもの、感じていないものは書けない)によって、主人公が既に知っている「常識」や「外見」を読者に説明するのは困難になります。一人称では、いわゆる「自分語り」が難しいのです。


 はっきり言うと、自分自身を、話の主役を描写するには、創意工夫が、何らかのアイデアが必要です。たとえば、別の無知な人物の一人称を経由して描写するとか、異世界に飛ばされて案内役の誰かに出会うとか、冒頭に死体を転がして内省させるとか。

 拙作「白の魔王ウォレスの憂鬱」では、ロビンという冒険者の一人称を経由して、ウォレス・ザ・ウィルレスという魔法使いを描いています。

 同じく拙作「ヘルファイア 対天使9mm純銀爆裂弾」では、三人称で、天使との遭遇戦というイベントや、クラスへの転校の様子を描くことで、主人公を主人公らしくしています。


 小説家になろうで多いと言われているのは、トラックに轢かれて死んだ主人公が、神様に転生させられるという異世界トリップモノですが、この「転生とトリップ」の途中で自分の体格や能力を確認し、自然な形で読者に「僕」を説明している作品が多いという印象を受けます。


 ここで重要なのは「自然に読者に(主人公への)興味を持ってもらう方法」であって、転生やトリップ自体にはあまり意味がないという場合もありえます。

 二歳児に転生したとか、不遇職に転生したとか、そういう背景自体は、作者からしてみると読者の食いつきが違ってくるだけだというわけです。


 その最初の「釣り針」が大量の魚を釣り上げれば、読者はある程度までは読んでくれます。その釣り針としての


「僕とはどういう人物か?」


 という部分の描写の仕方で、たくさんの作者が切磋琢磨せっさたくまし、アイデア勝負を繰り広げているわけです。


 なので、一人称での描写は、これが正解というものは特にはありません。ブラウザバック覚悟で「僕はC男。いたって普通の高校生だ」という書き出しにするのもいいでしょうし、カミュの『異邦人』のように「きょう、ママンが死んだ」という風に冒頭から飛ばしていくのもいいでしょう。

 この話の最初のように、自分が一体誰だか分からなくなって、恐る恐る鏡を覗き込むというのも典型的な例です。


 「僕」あるいは「俺」や「私」をどのようにプロデュースするかで、あなたの発想力が問われます。

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